Sauchelli, Andrea (2013). Functional Beauty, Perception, and Aesthetic Judgements. British Journal of Aesthetics, 53(1):41-53.
「機能美[functional beauty]」についての論文*1。意外と紹介されていないトピックですが、デザインや日用品の美学まわりは気になっている人多そう。
図らずもウォルトンのカテゴリー論や認知的侵入について気になっていたことにも関わる話題でお得でした。
レジュメ
伝統的には、機能について実用的観点から考えることが、無関心的な美的経験と折り合いがつかないことから、機能美は扱いにくいトピックだった。しかし最近だと、Glenn Parsons & Allen Carlsonによるまとまった著作が出たこともあり、徐々に注目されつつある*2。
Sauchelliによれば、機能美に関しては大きく外在主義的説明と内在主義的説明があるとのこと。
外在主義によれば、機能は美的判断の外部にある。
- 見た目だけとれば美しい車でも、機能的にダメ、例えば壊れていて走れない場合は、「車として美しい」とは言い難くなる。すなわち、機能的対象に対する「美しい」といった判断は、その機能をどれだけ果たしているかによって制約を受ける。
- 一方で、機能に関する考慮は、肯定的な美的判断に直接入り込むようなものではない。すなわち、機能的に優れているゆえに美しい、みたいな関係はない。
- カントおよびGuyer (2002)によれば、機能的対象を美しいと判断する(美的喜びを得る)上で、その対象が機能によく適合している、という事実が必要条件となる。
こういう仕方で、機能に関する考慮が美的判断に対し、間接的・否定的に関わるというのが外在主義。
もうちょっと穏健な外在主義として、「事物が実際に機能を果たすこと(実際に速く走れる車であること)」ではなく、「機能を果たしそうに見える[appear]こと(速く走れそうな見た目の車であること)」を必要条件とみなすものもある*3。おそらくこっちのほうが、美的判断の話とは親和的である(美的判断はふつう見た目だけに基づいてなされるので)。
一方、内在主義によれば、機能に関する考慮にはもっと積極的な役割がある。
- ある対象は、その機能を果たすように見えるおかげで美しい、と言えたりする。すなわち、機能に関する知識が、肯定的・否定的美的判断に直接入り込む。
- 逆に、機能的対象の美的判断において、機能を果たしそうに見えることが必要条件だ、みたいな主張にはコミットしない。
もうちょっとひねった内在主義として、「美しさのおかげで機能を果たす場合には、機能的に美しい」というコミットだけする立場もある。これは文字通り、美が機能となっているケース。Davies (2006)はこれ。しかし、美と機能の内的関係はこれだけとは思われない。
本稿では、「ある対象が持つ非美的要素の認識+機能に関する知識⇒機能美を感じる」といった内在主義に焦点を当てる。
たたき台となるのはやはりParsons & Carlson (2008)の説明だ。
彼らはWalton (1970)のカテゴリー論を援用して機能美を説明している*4。ざっくりまとめると、以下のようなことを言っている。
- 一般的に、美的性質の知覚は、非美的性質だけでなく、それのカテゴリー相対的な位置づけ(踏まえているカテゴリーにとって標準的か可変的か反標準的か)にも依存する。(Walton 1970)*5
- 機能的対象における美的性質の知覚は、非美的性質だけでなく、その機能に関する知識にも依存する。
- フィットしているように見える[looking fit]⇐ある事物のうち、ある非美的性質が、機能的カテゴリーにとって反標準的ではなく、そのカテゴリーの機能に沿っているように見える。
- エレガントで優美でシンプルに見える⇐ある事物のうち、機能的カテゴリーにとっての反標準的特徴や可変的特徴がなく、標準的特徴しかないように見える。
- 視覚的緊張[visual tension]を感じる⇐ある事物のうち、機能的カテゴリーにとっての反標準的特徴がありつつも、依然として機能を果たしそうには見える。
例えば刀は、「人を切る」という刀の機能に適した標準的特徴から成るならばフィットしているように見えるし、プラスチック性であったり(反標準的特徴)せず、余計な装飾(可変的特徴)などがなければエレガントに見える。
Viktor Schreckengostによる庭椅子は、後ろ足がついていないデザインが「安定して快適に座らせる」という椅子の機能にとって反標準的であり、ぞくぞくする[vibrant]、驚くべき[surprising]ものとしての視覚的緊張を与える。
Parsons & Carlsonの説明はよさげだが、Shiner (2011)からの反論がある。それによれば、椅子やナイフやフォークみたいな、単純でどれも似通った姿をしている機能的カテゴリーならともかく、美術館のようなカテゴリーだと、標準的特徴となるような形式[form]がどれなのか定かではない。
例えば、ビルバオ・グッゲンハイム美術館とウフィツィ美術館は、どちらも美術館としての機能をちゃんと果たしている限り、どっちが美術館としてより標準的な形とも言い難い。*6
Sauchelliによる代替案は、機能的カテゴリーと結びついた特徴に訴えるかわりに、期待[expectation]に訴えるものだ。Sauchelliはそう書いてないが、ウォルトンのカテゴリー論を、より一般的な「期待」概念でバックパッシングしたものと言えよう。
ここで期待とは、
- ある機能がどのようにしてある形で実現されるべきか、あるいは実現されるだろうかということに関する信念[belief]であり、
- 同様の機能を持つように見える事物に対する、これまでの経験の結果として形成され、
- 機能的カテゴリーにとっての標準的特徴などとは違い、固定されたものではない、とされる。
例えば、サッカーシューズの適切な機能とは「ピッチ上を走り、ボールをうまくコントロールさせること」だと知っていれば、過去の経験に基づいて、サッカーシューズとはだいたいこういう形だろうという期待が生じる。そして、期待通りのものに出会えば「フィットしているように見える」という美的性質が立ち上がるわけだ。
このアイデアは、ある種の認知的侵入可能性[cognitive penetrability]を前提としている。つまり、機能とデザインにまつわる期待が、美的性質の知覚に影響する、という主張にコミットしている。
もっとも、知覚に対する認知的侵入は不可能だ、という立場もあるので予防線として以下のような説明をしている。
- たとえ、(1)見るものの知覚[perception]、すなわち感覚を通して性質を識別するレベルに期待が入り込めないとしても、(2)対象の現象学的性格、すなわち経験[experience]における感じ方に期待が入り込むと言えそう。例えば、音楽の専門家が、アマチュアよりも多くの美的性質を知覚できるわけではないにせよ、より豊かでより良い美的経験をしていることは明らかだろう。他にも、感情や気分が身の回りのものの経験に影響することは、ひろく観察されている。すなわち、知覚よりももう少し後ろのレベルなら、入り込む余地がありそうだ。
- あるいは、(2)に入り込むのすら難しいとしても、機能的対象に対する(3)適切な美的判断[judgement]においては、その対象のタイプを考慮すべきだ、みたいな主張はできそう。これは経験よりさらに後ろのレベルとして想定されている。
最終的に、期待に基づいて、以下のように説明できる。
- フィットしているように見えるのは、期待に沿った見た目をしているとき。
- エレガントで優美でシンプルに見えるのは、期待に沿わない部分がないように見えるとき。
- 視覚的緊張を感じるのは期待に反する見た目を含むが、まだ機能は果たせそうに見えるとき。
もちろん、機能にまつわる期待とそれに適した見た目だけで、ただちに美的関心が引き起こされ、美的判断がなされるとは限らない。美的関心を引き起こすには、部分の構成が巧妙で独創的であると感じられる必要がありそう。
自説の説明力として、
- Parsons & Carlsonが訴えていた機能的カテゴリーの標準的/可変的/反標準的特徴は、成文化された期待とみなされる。例えば、専門家によるコード化を通して、これこれの機能を果たすものはこういう見た目のはずだ、といった期待がひろく形成されていく。
- Shinerの反論も回避できる。ある機能は、いろんなデザインを通して実現できるが、われわれの期待次第で、見てとられる美的性質が左右される。前述の美術館のうち、ビルバオ・グッゲンハイム美術館のほうに視覚的緊張を感じるのは、われわれの期待における美術館とは、ウフィツィ美術館のようにより古典的な見た目をしたものだから。これを述べるのに、「ビルバオ・グッゲンハイム美術館には美術館にとっての反標準的特徴がある」みたいなことは言わなくていい。
最後に想定反論に答えている。
期待は人それぞれなのだから、感覚的な不一致(一方はエレガントだと感じ、他方はそうでないと感じる、など)に対して議論ができなくなる、という懸念がある。応答として、
- 第一に、知覚システムには、美的判断の客観性を正当化するような特徴がありうる。すなわち、後天的な知識などによって影響されるとはいえ、その幅が一定範囲内に収まるならば、合理的な論争は依然として可能になる。*7
- 第二に、適切な美的判断をするには、判断される対象が置かれていた条件を踏まえなければならない。例えば、今日的な視点で見てはならず、それが作られた時代地域での知覚的条件をできるだけ再現する必要がある。であれば、論争はできる。
✂ コメント
「標準的特徴」みたいなのが問題含みなので「期待」で済ませるのは妥当なアプローチだが、もう少し詰めてもよかったように思う。最後の、「期待は人それぞれなので美的論争ができなくなる問題」には十分に応答出来ていない気がするし、もし第二の応答を突き詰めていくなら、見る側の期待というよりモノ側の本来の目的でいいじゃんという話にもなりそう。そうなると、前にまとめたキャロル的な芸術鑑賞観にも近づくだろうなと思った(キャロルはむしろ、芸術への価値判断を実用品へのそれに近づけている、とも言えるだろう)。
ところで、視覚的緊張のなかにはよい緊張とわるい緊張があるのは明らかだが、Parsons & Carlsonの枠組みでもSauchelliのそれでも、どう説明されているのかよく分からなかった。シンプルな「期待はずれ」と「いい意味での期待はずれ」の違いだ。機能を果たしそうにない見た目と、思いもよらぬ仕方で機能を果たしているという事実が組み合わされば、「いい意味での期待はずれ」になりそうな気がする。Viktor Schreckengostの椅子が、人間工学のなんちゃらに基づいていて実はめちゃめちゃ安定している、ということが事実としてあれば(知らんけど)、「いい意味での期待はずれ」と言えそうだが、こうなってくると、見た目だけでなく事実としての機能性が絡んできて、話はもっと後ろレベル(知覚ではなく判断)の方へ向かいそうなところだ。
またしてもWalton (1970)がよく分からんくなってきたので、〈「芸術のカテゴリー」のよく分からんところをしっかり潰す会〉をちゃん読でやってもいいな、という気持ちになった。
*1:著者アンドレア・ソーチェリ[Andrea Sauchelli]は香港嶺南大学哲学科のAssociate Professorで、同学科の学科長をされている。もともと形而上学の人っぽいが、虚構的対象、芸術と倫理、ホラーの論文なんかも書いている。嶺南大学は分析美学の拠点としてはけっこうすごくて、Paisley LivingstonとRafael De Clercqがいるし、ちょっと前はMikael Petterssonがいた。
*2:『分析美学基本論文集』に載っているビアズリー『美学』の画像表象章でも、最後の方でデザインと機能の関係が語られているので、関心としてはつねにうっすらあったと思われる。私もそちらから入った。
*3:ビアズリーはさらに、「速く走れそうな車である」を、①機能に関する推論「このエンジンを積んでいるからには速く走れそうだ」と、②デザインに対する記述「この流線型のボディは速く走れそうなデザインだ」に分けている。基本的には②の話に向かうべきだろう。
*4:ところで、機能的カテゴリーの結構な部分は、Walton (1970)のうち、Leatz (2010)が強調していた「知覚的に見分けられるカテゴリー」という制限からもれるような気もする(外から見てもなんの機能を果たすのかよくわからない建造物はいっぱいあるだろう)。またしてもウォルトン解釈のどろぬまにはまりそうな予感。
*5:ここでも、標準的特徴とは「そのカテゴリーに属するのに不可欠[essential]な特徴」だと説明されており、ウォルトンそんな強いことゆうてたかな、と頭をひねっている。
*6:前者は攻め攻めのポストモダン建築で、後者は古典的でコンサバな建築。美術館という機能的カテゴリーにとって標準的なのはどっちとも言い難い、という話。
しかしここでも、「標準的特徴」がブレブレなせいでしんどい。美術館としての標準的特徴は、これはもう〈立体の建造物である〉〈なかに美術品をおける〉ぐらいのトリヴィアルな特徴ぐらいしかなく、見た目はそもそも可変的特徴だろう。ここで言われている「標準的」は、せいぜい傾向的にありがちかつそう期待される見た目、というぐらいのことだろう。なのではじめから標準的特徴には訴えず、「期待」でいいじゃん、というのはそりゃそうである。
*7:これと同じような話を源河さんの論文で読んだことがあるが、基本的には知覚システムだけを使う色知覚ならまだしも、趣味が絡んでくる美的知覚にまで、この種の応答ができるのかは定かでない、という話だった(93)。