レジュメ|ノエル・キャロル「メディウム・スペシフィシティ」(2019)

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Carroll, Noël (2019). Medium Specificity. In Noël Carroll, Laura T. Di Summa & Shawn Loht (eds.), The Palgrave Handbook of the Philosophy of Film and Motion Pictures. Springer. 29-47.

 

ノエル・キャロルの有名な仕事を挙げるなら、そのひとつはメディウム・スペシフィシティ[Medium specificity]の批判だろう。「絵画とは/写真とは/映画とは/etc. こういう性質をそれ独自の本質とするものであり、これを活かした作品こそが当のメディアの作品としてよいものだ」といった主張は芸術史上なんどもなされてきた。キャロルはこれらを攻撃する。

わりと最近書かれた本論文でも、新旧のメディスペ論者が叩かれ、メディスペなし批評が推されている。以下、かんたんなレジュメ。

 

 0.イントロダクション

映画においては、メディウム・スペシフィシティ(以下MS)が盛んに論じられてきた。バラージュ・ベーラ、ルドルフ・アルンハイム、フセヴォロド・プドフキン、アンドレ・バザンジークフリート・クラカウアーほか。MSとしての「映画的なもの[the cinematic]」は、これを活かしていれば良い映画であり、活かせてなければダメな映画である、というふうに、評価の基準としても考えられてきた。また、アカデミックなフィルム・スタディーズを確立する、という目的においても推し進められてきた側面がある。

20世紀おわりごろになってくると、MSは人気がなくなってくるが、最近Berys Gaut、Dominic Lopes、Ted Nannicelliらが、改めてMSについて論じている。かれらは、物質的な要素だけでなく、実践的な要素も組み込む仕方で、「メディウム」を語ろうとしている。

 

1.メディウム・スペシフィシティとはなんだったのか?

映画におけるMSは、映画という新たな技術をちゃんとした芸術形式として認めるために論じられはじめた。初期映画理論家たちのチャレンジはおおきくふたつ。

  1. 写真と同じく、映画は現実を機械的に捉えるだけであり創造性の余地がない、という批判に対し、映画の芸術性を擁護する。
  2. つまるところ、映画は演劇を記録したものでしかない、という批判に対し、映画が自律した芸術形式であることを擁護する。CDは音楽を入れてるだけ、みたいに、映画は演劇を入れてるだけ、ということになっては困る。

とりわけ、ほかの芸術形式にはできなくて、映画にはできることがなければならないと考えられてきた。

映画が持つユニークな特徴を探るうえでは、①材料そのものという意味での物理的な媒体(絵画における絵の具のようなもの)と、②これら材料を操作する道具的な媒体(カメラや編集)の二種類が考えられる。物質[material]と言うときには、物理的メディアと道具的メディアの両方が含まれる。

また、映画にしか出来ず、映画に得意なことがあるとすれば、映画を作るアーティストは、これを積極的に取り入れることが推奨される。ゆえに、MSは制作上の指針をも与えるものであった。

さらに、映画にしか出来ず、映画に得意なことがあるとすれば、映画を見る批評家や鑑賞者は、これを評価軸とするようになる。映画的な手段を活用せず、演劇的な効果を引きずっている作品はダメだ、みたいな。もっとも、この評価軸でいくと『ドッグヴィル』なんかはダメな作品だということになる*1

このような基準は一般的である。すなわち、あらゆる映画は映画のMSを活かすことを目指し、つねにそれによって良し悪しが語られるとされる。

MSは、「仕事には適切な道具を使おう」という実践的直観に支えられている。しかし、一般的主張としてのMSには反論がたくさんある。

まず、MSの評価基準は、映画史において実際になされている評価とかみあわない。『黄金狂時代』(1925)で、チャップリンがフォークを突き立てたパンを使って、ダンスのパントマイムをする場面がある。 これは純粋なパントマイムなので、チャップリンが舞台でやっても同じ効果が得られる。ゆえに、MS的には「映画的でない」ダメな場面ということになる。

一方、『The Lizzies of the Field』(1924)ではベッドが滑走したり瞬間移動したり、演劇では表現しづらい出来事を表現している限りで、MSのもとでは、少なくとも前述した『黄金狂時代』のシーンよりも映画として良いものになる。

  • しかし、実際にこんな評価をする批評家はいない。『The Lizzies of the Field』はしょうもないお約束だらけのスラップスティックコメディであるのに対し、『黄金狂時代』のパントマイムは、人物の詩的な感性と繊細さを補強するという物語上の機能を絶妙な仕方で達成している。
  • MSは、あるメディアに忠実であることと作品の良さをただちに結びつける点に問題がある。そもそもメディアは手段だという話だったはず。MSの支持者は、メディア的な純粋さを神格化するあまり、このことを忘れている。
  • ほかのメディアよりも得意なことをやっていればただちに良い、という話にもならない。CG映画は、実写映画よりもヒーローと巨人のバトルを描くのが得意だが、そういうシーンはたいていしょうもない(マーベル映画のラスト20分でやってるやつ)。
  • 加えて、MS理論家同士の間でも、コンセンサスがない。リアリズムが大事という理論家(バザンとか)もいれば、モンタージュが大事という理論家(ソ連の人たち)もいる。

 

ということで、MSベースの評価はしんどい。キャロルによれば、批評的評価にとって最重要なのは、芸術的な卓越[artistic excellence]である。そして、この卓越性はMSを活用した結果である必要はない。『黄金狂時代』のシーンは、「演劇には出来ないことをしている」わけではないにせよ、(後述する意味で)芸術的に卓越している。スローガンとしては「純粋さよりも卓越[Excellence above purity]」なのだと言える*2

「仕事には適切な道具を使おう」という直観を、そのまま映画に当てはめるのは疑わしい。映画はハンマーみたいなものではなく、芸術形式としての映画に単一の目的はないし、肝心なのは作業効率ではなく結果である。「芸術形式は分業すべし」という直観も疑わしい。初期コメディの題材はしばしばヴォードヴィルの舞台からとったものだが、だからといって「映画的じゃないからやめろ」という話にはぜんぜんならない。

 

2.メディウム・スペシフィシティへの回帰

最近、Berys Gaut、Dominic McIver Lopes、Ted NannicelliらがMS概念を擁護している。三人とも、メディアの本性を構成するものを拡張する方針をとる。具体的には、映画のMSは、その素材や道具といった物質的な要素だけでなく実践を含めて構成されているとのことだが、これは伝統的なMSではなく行動科学的[praxeological]なMS概念である。この点において、彼らがほんとうMSと呼ぶに値するものを擁護しているのか、話題をすり替えているだけなのか定かでない。「物質こそが重要だ」という一般的主張は強いものだったが、「物質と実践が重要だ」という主張はありふれた常識でしかない。

 

Gaut (2010)は三つの論点を擁護している。

  1. 作品に関する正しい芸術的評価のなかには、メディアに固有の性質に言及したものがある。
  2. 作品の芸術的性質に関する正しい説明のなかには、メディアに固有の性質に言及したものがある。
  3. あるメディアが芸術形式を構成するには、ほかのメディアが例化するものとは異なる芸術的性質を例化していなければならない。

最初のふたつは、MSの射程を修正している。すなわち、一般性を諦め、一部の評価や説明のみがMSに触れるとしている。しかし、これは伝統的なMSの擁護者に比べれば、はるかに野心的でない。アルンハイムらの強い主張に比べると、GautはMSテーゼを擁護しているというより、ただ話題を変えただけと批判されるべきだろう*3

Gautによれば、メディアに伴う困難の克服は芸術的達成になる。これを評価する際にはメディアに言及することになる。しかし、この主張も維持しがたい。メディアに触れる評価がすべからく困難の克服をもって評価しているわけではない。

メディアに固有の性質に言及した批評があるからといって、それが正しいとは限らないし、そうすべきという話にもならない。つまるところ、Gautは「正しい評価のなかには、メディアに触れるものがある」という程度の主張しかできておらず、これがMSへのコミットになるかははなはだ疑問である。

 

Gautの主張は、伝統的なMSの主張と範囲が異なるだけではない。アルンハイムはもっぱら物質をメディアとしていたが、GautはWollheimにならい、リソースの加工・使用を含む、芸術実践までをも「メディア」のうちに含めようとする。このことは、同じ道具を使った非芸術形式と区別するという点でも動機づけられている(芸術写真と鑑識写真など)。

アルンハイムらは、MSとは別に、芸術と非芸術を区別する方法(合ってるとは限らんが)を持っていたので、各芸術形式を区別する方法だけ探せばよかった。Gautには伝統的なMS擁護者にはないプレッシャーがあったわけだが、それはともかく、メディアに実践まで含めてしまうと、もはやMS擁護者を名乗り続けることはしんどくなる。

実践は、物質をまたいで共有されている。映画と演劇は奥行きのある空間構成や、演技の仕方といった実践を共有するし、映画、ビデオ、テレビなんかは多くの実践を共有する。また、シュルレアリスムの画家がシュルレアリスムの詩人の実践を取り入れたり、ミニマリズムの映画家がミニマリズムの画家や彫刻家の実践を取り入れたりするように、芸術形式を超えて実践の模倣がなされる。実践をメディアに組み込むと、メディアごとの独立性を擁護することが一層無理になってくる。共通点を認めるかぎりで、「映画に演劇的なものがあってはならない」みたいな主張はできなくなる。

 

ほかにも、NannicelliとLopesの主張を検討しているが、こちらは割愛。

 

3.評価の問題

かつて、MSには映画やらビデオやらに独立した芸術形式としての身分を与える役割があった。今日では、あるとすれば評価基準としての役割だけがあるだろう。ルノワール映画の不規則なパンはリアリズムを強めているからヒッチコックのクレーンショットよりも良い、などなど。

しかし、不規則なパンが良いと言うためには、それが「リアルに描くというルノワールの目的にかなっている」と言えば十分であり、「リアルに描くという映画のMSにかなっている」と言う必要がない。映画における芸術的選択を評価する上では、それによって芸術家の目的が果たされているかどうかが肝心なのであり、その手段がメディアに固有かどうかは問題ではない

ということで、キャロルはMSベースではなく、作品ごとの目的ベースの評価基準を推す。これはそのまま先日まとめた話なので割愛。 

基本的には、作品の意図された目的を特定して、そのもとでどれだけ目的を達成できているか手段を評価しよう、という枠組み。また、目的ベースの評価は、「写真的リアリズムを活かす」みたいな目的を考えれば、MS的な評価もカバーできる。

 

✂ コメント

メディウム・スペシフィシティに対するキャロルの見解は辛辣だがはっきりしている。古典的な論者は、媒体を神格化していて無茶なことを言っているのでしんどい。現代の論者はヒヨっていて、知らず識らずのうちにMSから別の話題にすり替えている。そもそも評価軸として使うなら、MSでなくてもこっちでいいじゃないですか、というわけだ。

なるほどなぁ、と思わされたのは、権威付けとしての役割と評価軸としての役割を整理している点。出てきたばかりの技術(写真、映画、etc.)を芸術形式としてエスタブリッシュするためのMSは、現代ではもう役割を終えているのだろう。ということで、歴史的に大きな役割を担った概念だが、今日MSの名の下で気の利いた議論はしようがない、と言われれば私は納得するかもしれない。

芸術としての権威はともかく、現代においてよく分からんメディアが与えられているときに、その特徴がなんなのかはやはり気になるので、「独自の」とまではいかなくても「ならではの」特徴を記述しようとする作業自体は意義があると思うし、個人的に読むのも好きだ。

 

ところで、実践までMSに組み込むというGautらのアプローチは知らなかったが、ほぼそのままクラウスやカヴェルのメディウム論じゃんと思った。どうも、実践や慣習を組み込んでMSを延命するのが定石らしい。その方針のいびつさは私も感じていたので、そんなんで手に入るMSゾンビはほんとうにMSか、というキャロルの疑念はもっともだと思った。ちょっと前にdepi読で扱ったカヴェルの映画論で、慣習や伝統まで「自動性」に含められててほんとうに引いた。

 

*1:

ラース・フォン・トリアーによる2003年の映画。キャロルによれば、「アメリカ社会が暗黙の抑圧的な役割に支配されており、その象徴として演劇が機能している姿を描く」という目的のもとで、演劇的なセットデザインと演技を中心に据えた作品。ここでは、後述される目的ベースな評価基準が暗に推奨されている。私も最近見た

*2:もちろん、批評家がやっていることは卓越さの評価だけではない、との留保をつけている。

*3:先日書いた論考ともつながるトピック。分析美学、慎重すぎ?問題。