後期シブリーの美学

フランク・シブリー[Frank Sibley]の名前と結びつけられた仕事として、真っ先に思いつくのは「Aesthetic Concepts」(1959)と、その実質的な続編にあたる「Aesthetic and Nonaesthetic」(1965)だろう。前者は、美学者としてのキャリアの最初期に書かれた論文であり、20世紀美学において最も盛んに検討された論文のひとつとなった。

美的なものの議論においてシブリーの果たした貢献は改めて確認するまでもなく、絶大である。しかし、注目は上のふたつの論文に集中しており、その他の仕事はあまり引用されていない。このふたつは『Philosophical Review』という大手も大手の哲学ジャーナルに掲載されたことからも美学にとどまらない関心を集めたわけだが、その後シブリーは新設されたばかりのコーネル大学哲学科の運営に忙殺されたようで、いくつかのProceedingsや論集への寄稿を除けば、ほとんど論文を書かなくなってしまった*1。未発表のものも含めて、シブリーの書いたものをまとめて読めるのは、論文集『Approach to Aesthetics』が没後に刊行されたおかげである。目次と各章要旨については松永さんのエントリーを参照。

本記事では、シブリーがそのキャリアの最後期において取り組んでいたアイデアを紹介する。論文集で言うと、以下の三部作がこれに該当する。

  • 12章:述定的な形容詞と限定的な形容詞 [Adjectives, Predicative and Attributive]
  • 13章:美的判断:小石、顔、ゴミ捨て場 [Aesthetic Judgements: Pebbles, Faces, and Fields of Litter]
  • 14章:醜に関するいくつかの注記 [Some Notes on Ugliness]

共通して扱っているのは、哲学者ピーター・ギーチ[Peter Geach]が提示した、述定的形容詞と限定的形容詞の区別である。美学そっちのけでこの区別について検証したのが12章、「美しい」という形容詞に関して応用したのが13章、「醜い」という形容詞に関して応用したのが14章である。

どれも生前に出版されることはなく、ひとつ目以外は完成した論文というよりも、ドラフトにとどまっている。査読を通った論文たちではないので、分析哲学者からは引かれにくい、という事情もあるかもしれない。

Approach to Aesthetics』はいまコツコツと翻訳が進んでいるが、私は13章を担当していることもあり、この時期のシブリーのアイデアに興味を持った。結局、シブリーはこの仕事を完遂することができなかったわけだが、そこには検討に値する主張が散らばっている。

 

述定的vs限定的

ギーチが提示した、述定的形容詞/限定的形容詞の区別からはじめよう。

1956年にギーチは、ただでさえ短い哲学論文を掲載することで有名な『Analysis』に「Good and Evil」という論文を寄せ、その冒頭わずか2ページで、形容詞には論理的に述定的[predicative]なものと限定的[attributive]なものがあると主張した。

訳語はちょっとずらしているが、これは英文法における形容詞の叙述用法/限定用法に対応している。「この車は赤い[This car is red.]」における形容詞redは、SVCの補語の位置に来ており、叙述用法で使われている。一方、「これは赤い車である[This is a red car.]」における形容詞redは、名詞carに修飾しており、限定用法で使われている。「asleep」なんかは叙述用法でしか使えず、「elder」なんかは限定用法でしか使えないというのを習ったはずだ。

ギーチによれば、英文法上の用法の区別とは別に、形容詞自体が論理的・本質的に見てpredicativeなものなのかattributiveなものなのかの区別がある。上の例では、「赤い」は叙述用法でも限定用法でも使われていたわけだが、ギーチによれば、redは本質的に述定的な形容詞である。本質的に述定的な形容詞は、「xはFなKである」を「xはKである」+「xはFである」に分割できる。つまり、「赤い」が文法的には限定用法で使われている「これは赤い車である」の場合にも、意味されていることは「これは車である」+「これは赤い」に過ぎない。

一方、本質的に限定的な形容詞は、このような分割を許さない。ギーチによれば、例えば、「大きい[big]」は本質的に限定的な形容詞である。というのも、「これは大きいノミである」は、「これはノミである」+「これは大きい」を意味するものとは言えないからだ。問題となっているそれは、ノミであることと独立に、単に大きいものとは言えない。本質的に限定的な形容詞は、「xはFなKである」を「xはKである」+「xはFである」に分割できないのだ。

ギーチの関心は倫理学であり、「Good and Evil」も後半は「良い[good]」という形容詞が本質的に限定的であるという見解の擁護に費やされる。「これは良い」のような文は「これは良い◯◯だ」にパラフレーズ可能であるはずだし、そうでなければ意味をなさない。というのも、端的に赤いものはあるが、端的に良いものはないのだ。トースターとして良いのか、犬として良いのか、はたまた盲導犬として、番犬として、愛玩犬として良いのかといった観点が、「良い」という形容詞には必ず伴う。*2

 

シブリーはまず、述定的/限定的形容詞の区別が、ギーチの言う通りに成り立つのかに関心を寄せる。ギーチが明確に述べているのは、「xはFなKである」は述定的形容詞の場合には分割可能であり、限定的形容詞の場合には分割可能でない、ということだが、ここでの「分割できる/できない」もそれほど明確ではない。シブリーの読みでは、ギーチは分割可能かどうかをテストする方法を4つ示している。

  1. 「xはFなK1である」+「K1はK2である」が、「xはFなK2である」を含意しないなら、「xはFなK1である」は分割できず、Fは限定的形容詞である。「xは大きいノミである」+「ノミは動物である」は、「xは大きい動物である」を含意しない。
  2. 「xはFなKである」が、「xはKである」を含意しないなら、「xはFなKである」は分割できず、Fは限定的形容詞である。「xは偽物のダイヤモンドである」は、「xはダイヤモンドである」を含意しない。
  3. 「xはF1なKである」+「KはF2である」が、「xはF2である」を含意しないならば、「xはF1なKである」は分割できず、F1は限定的形容詞である。「xは腐った食べ物である」+「食べ物は生命を支える」は、「xは生命を支える」を含意しない。
  4. 「xはFである」の真偽を、なんらかの「xはKである」を踏まえずに確証できないなら、xは限定的形容詞である。

12章はこの4つのテストがそれぞれうまくいくのかの検証に当てられている。ギーチが2ページで導入した話を、22ページかけて検討しているあたりがシブリーらしい。

シブリーは、これら異なる4つのテストが、形容詞の限定性という単一のものを切り出すのに使える、というのを疑っている。入念な(ほとんど執拗な)検討の紹介は省くが、結論としてシブリーは、4つ目のテストだけが、限定性を切り出すものとして有効であると考える。4つ目のテストだけが、「xはFなKである」が論理的に分割可能かどうかではなく、Fが限定的形容詞であるかどうかを直接的にテストするものになっている。

まとめると、限定的形容詞Fとは、その適用に際し、なにを念頭に置いており、なにとしてFなのかが明らかにされない限り、Fなのかどうかも確証できないような形容詞である。「これは大きい」とだけ言われても、なにとして大きいのかが分からなければ意味不明である。ノミとして、成人男性として、惑星として大きいのだという、なんらかの基準が必要である。

ただし、シブリーは形容詞が述定的なものと限定的なものに区別されるというギーチの主張を、その通りには受け入れない。というのも、シブリーによれば、両用の形容詞がいくらでもあるからだ。例えば、「赤い」はギーチにおいて本質的に述定的な形容詞だとされていたが、シブリーは次のような例を挙げる。

  • xは赤い顔である。

ある人の赤面に対してこのように述べるとき、「赤い」は「顔である」ことと独立して赤いことを伝えるものではない。というのも、人の顔はせいぜい濃い目のピンクになるだけであり、決してスカーレットやクリムゾンや#ff0000のような赤にはなりえない。顔のわりに赤いだけであり、端的に赤いのではない。

つまり、シブリーによればまずもって存在するのは、形容詞が述定用法で使われる文脈と、限定用法で使われる文脈の区別である*3。ある車を指して「あれは赤い車だ」と述べる文脈では、端的に赤いものであることを伝えているが、ある人の顔を指して「赤い顔だ」と述べる文脈では、顔としては赤いことを伝えている。

形容詞には述定用法と限定用法がある。すると、形容詞それ自体については、次の区別ができることになる。

  • 本質的に述定的な形容詞:述定用法でしか使えない。厳密にカラーコードなどで指定された「スカーレットである」など。
  • 本質的に限定的な形容詞:限定用法でしか使えない。「大きい」など。
  • 両用の形容詞:述定用法、限定用法どちらでも使われうる。

ギーチは形容詞を2種類に区別していたが、実際には両用の形容詞を含む3種類がある。そして、シブリーの主張によれば「赤い」を含む多くの形容詞は実際には両用である。もうひとつ、両用の形容詞の例を見よう。

  • xは甘いソーテルヌである。

ソーテルヌは、飲み物としてはふつうの人がふつうに甘いと感じる、甘口のワインである。なにか甘い飲み物のおすすめを聞いているときにウェイターがこのように述べれば、「甘い」は述定用法で使われている可能性が高い。つまり、銘柄に関係なく、それは端的に甘いのだ。一方、ソーテルヌたちを品評しているときにワイン評論家がこのように述べれば、「甘い」は限定用法で使われている可能性が高い。つまり、ソーテルヌのなかでもとりわけ甘い方なのであり、ソーテルヌとして甘いのだ。このように、「甘い」という形容詞も両用である。

ギーチから取り出し、以上のように整形したアイデアでもって、13章と14章ではいよいよ美的形容詞の検討へと移っていく。

「美しい」は述定的か限定的か

13章の主題は美的形容詞だが、簡単化のために、基本的には「美しい」という形容詞のみを扱っている。

シブリーの結論から言えば、「美しい」やその他多くの美的形容詞は、両用の形容詞である。つまり、「xは美しいKだ」は、Kであることとは独立に端的に美しいものなのだと意味する文脈もあれば、Kであることとは切り離せず、Kとして美しいものなのだと意味する文脈もある。

わりと当たり前の主張のように思われるかもしれないが、これは美学史に照らすとそれなりに挑発的なものである。というのも、美的判断をめぐる議論では、美的形容詞が本質的に述定的だと想定している論者も、本質的に限定的だと想定している論者もいるからだ。シブリーはその両方に対抗し、両用なのだと主張する。(この、「AかBかで争われているが、文脈次第じゃない?」というスタンスは、シブリーにありがちなムーヴだ。)

議論の余地はあるものの、クローチェやカントは〈美的形容詞は本質的に述定的〉派として挙げられている。趣味判断をするときには、対象についての概念的理解を動員していない、というやつだ。美しいものはただ無関心的な目で見て美しいのであり、機能や本性を踏まえて美しいと考えるようでは、プロパーな美的判断が成り立っていないとされる。このような伝統的な美的判断論をシブリーはわりとさっくり退けている。例えば、

  • xは美しい顔である。

と言われる特定の文脈では、顔であることと独立に美しいと言われているわけではない。パレットで見たときにいくら美しいエメラルド色でも、エメラルド色の顔は「美しい顔」とは言えない。というのも、顔には顔としての理想・標準・規範があり、エメラルド色であることはこの理想に照らして変だからだ。もちろん、この理想は時代や場所に相対的なものだろうが、ともかく、ある種の文脈で上のような判断が提示されるときには、なんらかの理想が踏まえられている。顔の理想を踏まえた「xは美しい顔である」は、顔であることと独立に美しいことを伝えているわけではない。「xは美しい馬である」「xは美しい女性である」についても同様であり、「美しい」には限定用法があるのだ。

一方、スクルートンとサヴィルははっきりと、〈美的形容詞は本質的に限定的〉派をサポートしている。曰く、なにとして美しいのかを問うことなく、端的に美しいとは言えない。顔として美しい、馬の基準から見て美しいと言われることはあるが、なにかがただただ美しいとは言えないのだ。

シブリーはこちらの見解にも噛みつく。曰く、なにかが端的に美しいと判断する文脈はふつうにある。例えば、遠くに見える謎の物体を指して、「あそこのあれ、なにか分からないけど、美しいね」と述べる場面では、なにか分かっていないが「美しい」が適切に使われている。「なにか分かっていないのに、どうして美しいなどと言えるのかね?」と応じるのは的外れである。美しい形や美しい色というのは、その持ち主がなんなのかとは独立に、ただただ美しいのである。

他にも、次のような例を考えよう。

  • xは美しい小石である。

シブリーによれば、小石には小石としての美しさの理想・標準・規範はない。べつにどんな形状や色でもかまわないのだ。したがって、上のように述べる人は、ふつう「xは小石として/小石の基準から見て美しい」と述べているわけではない。そこで伝えられているのは「xは小石である」+「xは美しい」であって、後者には「美しい」の述定用法が含まれている。*4

ある意味では、「美しい」の述定用法では、色や形に関する一般的で形式的な基準が参照されている。しかしシブリーによれば、「色」や「形」といった概念を踏まえて、「色としては美しい」「形の理想から見て美しい」と言うのは、やっぱり変である。顔として、顔の基準に照らして美しいという判断と、色や形がそのまま美しいという判断の間にはやはり境界線があり、シブリーは後者を述定用法とみなしている。*5

 

ということで、「美しい」という形容詞は両用であり、色や形が端的に美しいことを伝える述定用法もあれば、なんらかの理想・標準・規範と相対的に美しいことを伝える限定用法もある。シブリーは多くの美的形容詞が両用であることを示唆しているが、期待に反し、「醜い」という形容詞は両用ではないと主張するのが14章である。

 

「醜い」は述定的か限定的か

醜さは、興味深いにもかかわらず、相対的にあまり注目されてこなかったトピックである。シブリーによれば、醜さのメカニズムを検討すると、端的にただ醜いという判断はできないことが明らかになる。

シブリーによれば、醜さは歪曲している[disformed]ことや変性している[disnatured]ことから構成される。然るべきあり方から捻じ曲げられ、ズレているものだけが、醜いのだ。ここでの「歪曲している」「変性している」は、なにとして歪曲・変性しているかがつねに問われる。然るべきあり方の存在しないものには、捻じ曲げられ・ズレているあり方も存在しないのだ。例えば、小石や雲は、シブリーの見解では然るべきあり方を持たない(別にどんな色や形でもかまわない)。歪曲し変性した小石や雲は存在せず、したがって、この意味においての醜い小石や雲は存在しない。

主張をまとめるとこうなる。(1)醜さには歪曲・変性が必要であり、(2)「歪曲している」「変性している」は本質的に限定的な形容詞である。したがって、(3)「醜い」は本質的に限定的な形容詞である

しかし、「xは醜い雲である」と述べるような場面はたしかにあるように思われる。シブリーはこのケースを次のように説明する。このように述べる人はまず、顔のような別の基準を踏まえており、その基準に照らして醜い顔を想定しており、最後に醜い顔に似た雲であると判断することで、「xは醜い雲である」と判断している。ここには、雲としての醜さの基準は現れておらず、顔なりほかの種の醜さの基準が転用されている。したがって、「醜い」は本質的に限定的な形容詞であるとする反例にはならない。ある雲が、いかなる種の然るべきあり方とも独立に、ただ端的に醜いと言われるケースではないからだ。

似たケースとして、次のようなものがある。「xは醜いカエルである」と述べられる場面でも、xがカエルの基準に照らして醜いと述べられているとは限らない。カエルとはそういう見た目のものなのだから、xはカエルとして醜いわけではない。では、述定用法で「醜い」と述べていることになるのか。ここでもシブリーは同じ代替的説明を適用する。判断者はまず人の顔なり別の基準を念頭に起き、醜い人の顔との類似をカエル一般に見出すことで「カエルは醜い」という総称文的な判断を形成し、最後に「xは醜いカエルである」と判断している。ここでも、カエルのかわりに人の顔という基準が参照されており、いかなる種の然るべきあり方とも独立に、ただ端的に醜いと言われるケースにはなっていない。

最後に補足的な主張として、シブリーは醜いかどうかは嫌悪感とは概念的に無関係であると主張している。というのも、(ある種の)嫌悪感を抱かせるものが直ちに醜いなら、ただ端的に醜いものがありえてしまうからだ。しかし、シブリーによれば嫌悪感を抱かせるものを醜いと判断するとは限らないし、醜いと判断するものが嫌悪感を抱かせるとは限らない。醜いという判断は、私があるものに嫌悪感を抱いたことの表明ではなく、あるものがある然るべきあり方から逸脱していることの記述なのである。

 

✂ コメント

以上、後期シブリーの3本の論文から、コアとなるアイデアだけを引き出してきた。

形容詞や名詞に着目した分析は、日常言語学派から影響されているシブリーらしいスタイルであり、今日からするとむしろ新鮮な文体で読んでいて楽しい。述定的/限定的形容詞というギーチの区別も、シブリーはいろんな遊び方のできるおもちゃとして楽しく取り扱っていたことが伝わってくる。出てくる例はどれも日常的で親しみやすいものなので、翻訳が刊行されたあかつきにはぜひ広く読まれて欲しいと思う。

まだあまり検討されていないが、間違いなくそれに値すると私が考えているのは、これら後期シブリーの主張が、より有名な初期シブリーの主張と一見すると矛盾しているようにも思われるという点だ。「Aesthetic Concepts」のポイントは、私の理解では次のふたつのテーゼにある。

  • 美的判断は、美的でないものの知覚に基づいている。例えば、細い曲線を見て取ったからこそ、優美であると判断する。
  • 美的判断は、機械的にはなされない。細い曲線があると分かったからといって、優美であると結論できるわけではない。細い曲線があるけど優美ではないかもしれない。

非美的性質と美的性質の間には、前者が後者の基盤になるという依存関係が成り立っている。しかし、シブリーは関連する非美的性質群を把握できたからといって、美的性質について頭で考えて結論することはできないと主張する。美的概念に、十分条件はないのだ。この見解は、カントらのより伝統的な美的判断論のエートスを汲んだ主張である。機械的な推論ではないことこそ、美的判断のコアとなる特徴づけなのだ。

しかし、形容詞の限定用法についてのシブリーの議論は、一見するとむしろ、概念を踏まえた機械的な美的判断を認めているようにも読める。「xは美しい馬である」という判断が、実質的に「(1)xは馬である、(2)xは馬としての美しさの基準を満たしている」という判断なのだとすれば、たとえxを実際に目の当たりにせずとも、「(1)xは馬である、(2)xは馬としての美しさの基準を満たしている」が真であると伝えられた人は、「xは美しい馬である」と結論することができてしまうのではないか。これは美的判断の非推論性テーゼと矛盾する。

非推論性テーゼを維持するために、シブリーは、形容詞を限定用法で用いた美的判断について、別の理解を提示しなければならない。例えば、「馬の基準を念頭に置く」というのは、概念的な理解や知識の問題ではなく、経験を通して形成されたknow-howの問題であるかもしれない。これは芸術のカテゴリーが果たす役割について論じつつ、非推論性テーゼを維持するためにケンダル・ウォルトン[Kendall Walton]が採用した説明と同じである。この方針がどこまでうまくいくのかは、私の博論で検討している。

 

関連する二次文献についてもちょっとだけ紹介しよう。美的概念まわりの話が大好きなLingnan Universityのふたり(Andrea SauchelliとRafael De Clercq)は、後期シブリーを参照した論文も書いている。とくに、Sauchelli (2014)は、後期シブリーのアイデアを体系的に扱った、ほとんど唯一の検討論文だろう。ソーチェリは、「美しい」は両用の形容詞であり、「醜い」は本質的に限定的な形容詞であるとするシブリーの主張をそれぞれ興味深いものだとしつつ、両立しえないのではないかと疑問を呈している。というのも、「醜い」が一見述定用法で用いられるケースを排除するための理屈(顔なり別の基準を念頭に置いている)は、そのまま「美しい」の述定用法としてシブリーが認めるケースを排除するのにも使えてしまうし、「美しい」には述定用法があるとするシブリーの議論(なにか分からないが遠くにある物体を「美しい」と言う)は、そのまま「醜い」にも述定用法があるとする議論として使えてしまうのだ。

醜さと嫌悪感が概念的に結びついていない、という最後の主張は、Doran (2022)において取り上げられている。ドランは、嫌悪感を抱かせる傾向性を持ったものが醜いのだという見解を擁護し、シブリーに反論している。アメリ美学会のアーサー・ダントー賞も取った立派な論文だが、立派すぎて59ページもあるので、私は読めていない。

 

参考文献

De Clercq, Rafael. 2008. “Aesthetic Ideals.” In Kathleen Stock & Katherine Thomson-Jones (eds.), New Waves in Aesthetics. Palgrave-Macmillan. 188–202.

Doran, Ryan P. 2022. “Ugliness Is in the Gut of the Beholder.” Ergo an Open Access Journal of Philosophy 9 (5): 88–146.

Geach, Peter T. 1956. “Good and Evil.” Analysis 17 (2): 33–42.

Lyas, Colin. 2001. “The Manifold Logical Complexities of Adjectives.” In Emily Brady & Jerrold Levinson (eds.), Aesthetic Concepts: Essays after Sibley. Clarendon Press. 149–161.

Lyas, Colin. 2013. “Sibley.” In Berys Nigel Gaut & Dominic Lopes (eds.), The Routledge Companion to Aesthetics. Routledge. 131–141.

Sauchelli, Andrea. 2014. “Sibley on ‘Beautiful’ and ‘Ugly.’” Philosophical Papers 43 (3): 377–404.

Sibley, Frank. 2001. Approach to Aesthetics: Collected Papers on Philosophical Aesthetics. Clarendon Press.

Thomson, Judith Jarvis. 2008. Normativity. Open Court Publishing.

 

*1:教え子のColin Lyasが語るところでは、「Aesthetic Concepts」ですらも、完璧主義者のシブリーは出版をためらっており、知人に進められてしぶしぶPhilosophical Reviewに出したらしい。

*2:ちなみに、ギーチのこのアイデアを規範性の話一般へと発展させたのがThomson (2008)であり、めっちゃいい本である。

*3:ややこしいが、英文法の叙述用法/限定用法は、文法的にどのような位置づけにあるのか(isと合わさった述語の一部なのか、修飾語なのか)という問題なので、ここでシブリーが問題としている述定用法/限定用法とは違う。後者は、発話がどういう文脈でなされるのか、という問題である。

*4:ややこしいので本文では割愛したが、シブリーによれば「xは美しい小石である」にも、弱い意味での限定用法はある。例えば、美しい小石を自慢しあっている場面での「これこそ美しい小石だ!」は、比較グループである小石たちのなかでも相対的に美しいほうの小石であることを伝えており、小石であることと独立に美しいと述べているわけではない。「xは甘いソーテルヌである」も、場合によってはこの弱い意味での限定用法になる。シブリーは、その種のもののなかで比較をする弱い限定用法と、その種としての理想・標準・規範を踏まえた強い限定用法を区別しており、もっぱら後者にのみ関心を寄せている。

*5:13章ではほかにも、述定的に美しいと判断していた色や形であっても、豚の背中だと発覚した途端にそれ以上「xは美しい」と言いたくなくなる現象について検討している。こちらについてのシブリーの見解は十分にまとまっていないように思われるので、割愛する。