レジュメ|Brian Laetz「ケンダル・ウォルトンの〈芸術のカテゴリー〉:批評的注釈」(2010)

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Laetz, Brian (2010). Kendall Walton's 'Categories of Art': A Critical Commentary. British Journal of Aesthetics 50 (3):287-306.

 

久々にケンダル・ウォルトン「芸術のカテゴリー」を読み直し、「あれ、こんな立場だっけ」と気になる点があったので、森さんも紹介されていたBrian Laetzのコメンタリー論文をあたった*1。結果、どんぴしゃの解説があり、前評判通りかなりよいコメンタリーだったので、まとめておく。森さんのエントリーは以下。

気になっていたのは、形式主義vs文脈主義から見たウォルトンの位置付け。最近ビアズリーを読んでいたので、彼との対比においてウォルトンはごりごりの文脈主義者かと思っていたが、読み直してみると意外とユニークな立場ではないかと思われた。Laetz論文も、ウォルトンがどうユニークなのかにフォーカスしている。

節名などは私が適時つけたものです。

 「芸術のカテゴリー」概略

伝統的に、芸術鑑賞においては作品だけを見るべきとする形式主義と、作品外の事柄も踏まえるべきとする文脈主義が争ってきた。形式主義の代表はBellとBeardsley、ウォルトンはDantoやLevinsonと並び文脈主義の代表格と紹介されがち。

「芸術のカテゴリー」(1970)に関する確立したコンセンサスはなく、ウォルトンを文脈主義者と呼ぶ人(Levinson、Currie、Zangwill)もいれば、洗練された経験主義者と呼ぶ人(D.Davies)もいる。

Laetzによれば、ウォルトンはたしかに形式主義/経験主義ではないが、典型的な文脈主義とも異なるユニークな立場である。

 

まずはじめに、Laetzは「芸術のカテゴリー」を三つのテーゼからまとめている。これがかなりわかりやすい。

心理学的なカテゴリー依存

芸術作品に関する実際の美的判断は、判断において参照されるカテゴリーに依存する。

序盤で、ウォルトンは考察の対象となるカテゴリーを絞っている。それは、標準的な状況において、知覚的特徴のみから特定されうる(すなわち、見たり聞いたりするだけで分かる)ようなカテゴリーである。具体的には、メディア、ジャンル、様式、形式などを考えている。「誰々の全作品に含まれる」とか「贋作である」といった、歴史的性質に基づいたカテゴリーは排除している。

ウォルトンによればカテゴリーには「標準的特徴:あればそのカテゴリーに属しがち、なければそのカテゴリーから外れがち」、「可変的特徴:あってもなくてもそのカテゴリーに属すかどうかに関係なし」、「反標準的特徴:あればそのカテゴリーから外れがち」が伴っており、これによって、どんなカテゴリーから作品を鑑賞するかは作品がどう知覚されるかに影響することになる。有名なゲルニカスの思考実験をはじめ、カテゴリーをシフトさせると作品のうちに見て取られる性質が変容するような例を、ウォルトンはたくさん挙げている。

存在論的なカテゴリー依存

芸術作品が持つ美的性質は、どのカテゴリーに所属するかに影響される。

存在論的な主張によれば、芸術作品が実際に持つ性質もカテゴリー依存である。ウォルトンPCDをもとにこのOCDを主張しているっぽいが、あまり詳細には根拠を提示していない。

鑑賞者が見て取る性質がカテゴリー依存であることは、必ずしも作品が実際に持つ性質もカテゴリー依存であることを伴わないが、ウォルトンは実際の批評実践を踏まえOCDを主張していると思われる。少なくとも、伝統的な形式主義よりは理論的メリットが大きいとも思ってそう。

正しいカテゴリー依存

作品を鑑賞する上で参照すべき、特権的な、「正しいカテゴリー」が存在する。

作品は、理論的にはあらゆるカテゴリーから判断することが可能。しかし、あらゆる美的判断はカテゴリー相対的だから、「カテゴリーC1からすると〜〜」「カテゴリーC2からすると○○」という以外に端的には述べられないという立場は、自然物には当てはまるかもしれないが、芸術作品に関しては疑わしい。芸術作品に関する判断のうち、ある種の判断は明らかに正しく、ある種の判断は明らかに間違っているように思われる。

ということで、ウォルトンは「正しいカテゴリー」を定めるための規準を五つ挙げている*2

  1. 反標準的特徴を最小化するカテゴリー
  2. 美的価値を最大化するカテゴリー
  3. 社会において確立しているカテゴリー
  4. 作者の意図したカテゴリー
  5. 製作の機械的プロセスが定めるカテゴリー

 

「正しいカテゴリー」とはなにか

ここで、ウォルトンの述べている「正しいカテゴリー」がなんなのかについて、標準的な解釈には誤解が含まれている、とLaetzは言う。「正しいカテゴリー」はしばしば「作品が実際に属するカテゴリー」として解釈されるが、Laetzによれば「作品が属する諸カテゴリーのうち、美的性質を決定するのを実際に助けるような特権的カテゴリー」すなわち「美的に活性[aesthetically active]なカテゴリー」として解釈すべきである。

従来の解釈が間違っている理由は三つ。

  • 第一に、前述の通り、ウォルトンは作品において知覚的に見分けられる[perceptually distinguishable]カテゴリーのみを問題としている。一方で、作品が実際に属する、という意味での“正しいカテゴリー”には、その特定にかんして歴史的なヒントを要するものも含まれている。結局、知覚だけで特定できるのか、来歴を調べるべきなのかわからんということで、従来の解釈は「知覚的に見分けられるカテゴリー」に対するウォルトンのコミットと不整合をきたす。一方、Laetzの解釈でいけば、知覚できる諸カテゴリー(作品が属する諸カテゴリー)のうち、どれが美的に活性なのかは歴史的要因が定めるという仕方で説明でき、整合的である。
  • 第二に、従来の解釈は、自然物に関するウォルトンの記述とも整合的ではない。ウォルトンによれば、風景や動物などの自然物が持つ美的性質もカテゴリー依存である。ただし、自然物に関しては「正しいカテゴリー」が定められないと述べており、芸術作品に関しては退けたカテゴリー相対主義を認めている。ここで、従来の解釈だと、“正しいカテゴリー"がないということで自然はいかなるカテゴリーにも属さない、ということになるがこれは明らかにおかしい。
  • 第三に、従来の解釈は、ウォルトンによる相対主義批判とも整合的ではない。“正しいカテゴリー"が作品の属するカテゴリーでしかないなら、作品はふつう複数のカテゴリーに属するため、結局相対主義に陥ってしまう。ゆえに、美的判断の正誤が問えなくなる。Laetzが推す解釈のように、作品が属するカテゴリーのうち、どれが「正しいカテゴリー(=特権的な、美的に活性なカテゴリー)」なのかを問うことではじめて、相対主義から逃れられる。

では、なぜこのような誤解(「正しいカテゴリー=作品が実際に属するカテゴリー」)が生じてしまったのか。

  • 第一に、「美的性質に影響するカテゴリーであるなら、作品が実際に属するカテゴリーでなければならないはずだ」と解釈者たちが考えたから。しかし、ここから正しいカテゴリーすなわち属するカテゴリーとは言えない*3。また、Laetz解釈による「正しいカテゴリー」は、作品の属するカテゴリーの一部なので、上の前提に立っても矛盾はない。
  • 第二に、ウォルトンゲルニカスの例みたいに、明らかにそれには「属さない」だろうと思わせるカテゴリーに言及している。しかし、奇妙かもしれないが、《ゲルニカ》がゲルニカスに属すること自体に矛盾はない。というのも、属するカテゴリーは作品の持つ知覚可能な性質のみで決まるので、原理的には任意の性質をかき集めてなんらかの(名付けられていない)カテゴリーへの所属が言える。もちろん、作品が潜在的に属するカテゴリーの全てが気にされるわけでも重要なわけでもない。例えば、ゲルニカスに属することはふつう気にされない。再度、あるカテゴリーに属すること自体は、意図とも実践とも関係なく、知覚可能な性質だけで決まる。
  • 第三に、カテゴリー所属は意図によって決まると思われがちであり、意図されていないカテゴリーには属さないと思われがち。しかし、繰り返しになるが、ウォルトンは知覚的に見分けられるカテゴリーのみを問題にしており、見分けられる限りで意図に関わらず属する。

ついでに、Currie (1989)およびCarlson (1981)を検討することで、従来の解釈を正すべき理由を示している。Currieはウォルトンの「正しいカテゴリー」を「作品の属するカテゴリー」と考えた上で、相対主義を免れていないと批判するが、これは誤解に基づいていて不当である。一方、自然物に関してウォルトンを応用するCarlson (1981)は、ウォルトンに反し、自然物に対する判断にも正誤が問える、すなわち自然物にも「正しいカテゴリー」があり、それは科学的なカテゴリーであるとする。しかし、ここでも「正しいカテゴリー=自然物の属するカテゴリー」だとみなされており、カールソン自身が相対主義を逃れていない。というのも、あるチワワ犬は「犬」としてはちっちゃくて可愛らしいかもしれないが、「チワワ」としてはそこそこかもしれないからだ。

 

「芸術のカテゴリー」の位置付け

最後に、形式主義/経験主義vs文脈主義の対立における、ウォルトンの位置付けを再考している。
ウォルトンは、作品の美的性質が知覚されるカテゴリー依存だとする点で形式主義と相違するが、ここでの「カテゴリー」に関する考えは従来の文脈主義とは異なる。根拠は主にふたつ。

第一に、ウォルトンが美的に関与的なカテゴリーとして考えているのは、従来の文脈主義が考えているような多様な文脈よりずっと制限的である

繰り返し強調してきたように、ウォルトンが考えているのは、知覚的に見分けられるようなカテゴリー、すなわち「絵画」として見れるとか、「ソナタ」として聞けるといったときのカテゴリーのみを問題にしている。これに対し、従来の文脈主義が考えているカテゴリーはもっと広い。とりわけ従来の文脈主義を動機づけるのは、例えば「贋作である」「レディメイドである」といった(知覚可能でない)性質であり、これに基づいたカテゴリー「贋作」「レディメイド」である。そしてしばしば、「知覚的に区別不可能にせよ、贋作なので美的価値は低い」みたいなことを言う。しかし、「贋作」や「レディメイド」カテゴリーに含まれることは、歴史的性質によって定められており、知覚だけで分かるものではない。あるいは、文脈主義者は、《ゲルニカ》が「二十世紀の西洋絵画として〜〜」と評価するが、こちらも知覚的に見分けられるカテゴリーではない。

比較として、典型的な文脈主義者であるLevinson (1980)と対比してみる。Levinsonによれば、音楽作品の美的性質は、どう聞こえるかだけでなく、作曲に関する「総合的な音響的-歴史的文脈」にも依存している。そのなかには少なくとも以下が関与的なものとして含まれる。(a)制作時における歴史、(b)制作時における音楽の発展、(c)制作時において既存の音楽様式、(d)制作時に支配的な音楽的影響源、(e)制作時に作者の同時代人がやっていた音楽活動、(f)作者のスタイル、(g)作者の音楽レパートリー、(h)作者の全作品、(i)作者の制作時における影響。

例えば、(h)全作品[oeuvre]のうち、作品Aを作っていない点以外においては作者Sと全く同じ作者Tがいたとしよう。ふたりがその後作品Bを作った場合、SのBと、TのBとでは美的性質が異なる、とLevinsonは考えている。しかし、ウォルトンはこの手の主張はしていない。誰々の全作品に含まれることは、知覚だけでは分からないからだ。このような歴史的性質に基づくカテゴリーを考えていない点で、ウォルトンは従来の文脈主義とは異なる。

 

第二に、ウォルトンが美的に関与的なカテゴリーとして考えていたのはかなりミニマルである

カテゴリーが作品の美的性質に関わる仕方はさまざま考えられる。これを、関わり方のモード[modes]と呼ぶならば、ウォルトンが考えていたのはたったひとつの特定のモードでしかない。

まず、美的性質に直接的に美的に関与する[direct aesthetic relevance]カテゴリー間接的に美的に関与する[indirect aesthetic relevance]カテゴリーに区別できる。前者はそのカテゴリーに属するだけで、作品はなんらかの美的性質を持つことになる。こちらはあまりしょっちゅう指摘されることないが、例えば「贋作」などは直接関与的なカテゴリーだと言われる。一方、そのカテゴリーに属するだけでは、まだ利点でも欠点もなく、特定の美的性質を持つことにもならないカテゴリーは、間接的なカテゴリーである。ウォルトンが考えていたのはこちらである。

続いて、間接的に関与するカテゴリーのうち、比較において美的に関与する[comparative aesthetic relevance]カテゴリーとして、誰々の「全作品」などがある。そのカテゴリーに属することで、比較すべきものが与えられるようなカテゴリーであり、ある作者の全作品に属する事自体は美的になんでもないが、その作品内で比較されることで美的にどうのこうの言われる。比較において関与するカテゴリーはポピュラーなものだが、実はこれもウォルトンの考えていたカテゴリーではない。というのも、こちらのカテゴリーを使う場合には、そのカテゴリーの別のメンバーとの比較がポイントになるが、ウォルトンのカテゴリーはそういうのじゃない。ウォルトンの考えているカテゴリーは、そのカテゴリーにとってどの性質が標準的/可変的/反標準的かが分かっているなら、他のメンバーを持ち出すことなく、そのカテゴリーを使うことができる。これは、いわば理想として美的に関与する[ideal aesthetic relevance]カテゴリーである。

さらに、理想として関与するカテゴリーのうち、目的として美的に関与する[teleological aesthetic relevance]カテゴリーがある。そのカテゴリーの目的をどれだけ達成しているかで美的性質を左右させるようなカテゴリーであり、怖がらせることを目指す「ホラー」や、笑わせることを目指す「コメディ」が含まれる。こちらは、他のメンバーとの比較は関係ない点で、ウォルトンの考えているカテゴリーに近いが、ウォルトンはカテゴリーの目的については述べておらず、標準的/可変的/反標準的の構成と目的がどう関わるのかも定かでない。

まとめると、ウォルトンはカテゴリーが美的性質に関わるモードのうち、「間接>理想>非目的」という特定のモードのみを考えていた。これは、しばしばさまざまなモードに言及する従来の文脈主義たち(多元論)とは異なり、一元論である。

 

最後に、次の点でも、ウォルトンの立場は形式主義寄りである。

形式主義によれば、美的に関与的な性質とは、我々の知覚経験に関与的な性質にほかならならず、ゆえに歴史的性質は排除される。ウォルトンの考えるカテゴリーは、この主張をカバーしている。すなわち、あるカテゴリーにおいて知覚することとは、作品のゲシュタルトを知覚することであり、どのカテゴリーで知覚するかが作品の鑑賞経験に影響することを認めている。

その他のモードにおけるカテゴリー(ウォルトンが取り上げないもの)は、知覚そのものに影響しない。例えば、「贋作である」と知ることは、その査定を変容させるが、知覚を変容させるわけではない。カテゴリーが美的性質に関わる仕方に関して、重要な仕方で知覚と結びついていると考えている(すなわち、形式主義的なコミットメントを含んでいる)点でも、従来の文脈主義とは一線を画している。

ということで、「芸術のカテゴリー」は文脈主義とカテゴリーに関する問いを伴っている。すなわち、「カテゴリーと性質の関わりモードは一種だけ(ウォルトン)なのか、複数ある(従来の文脈主義)なのか」「これらモード間に関係はあるのか、より基礎的なモードというのはあるのか、どれかで還元できたりするのか」など。

 

✂ コメント

1.

「芸術のカテゴリー」を読んで気になっていたのは、形式主義にだいぶ譲歩的だな、という点であり、Laetzの解説を見て腑に落ちた。主に「知覚的に見分けられるカテゴリー」に焦点を合わせている、という点では、たしかに従来の文脈主義に比べユニークな選択だろう。 

*4:ただ私としては、Laetzの議論は「芸術のカテゴリー」第五節の主張を上手くすくえてない気もするんですよね。いつか反論論文書きたいところ。

ウォルトンのCategories of Artを全訳しました。補足と解説。 - 昆虫亀

ところで、森さんの注も気にしつつ読んでいたが、Laetzが「上手くすくえていない」というのは、「カテゴリーを知覚的に見分ける」ことに関してある種の訓練が必要だとするウォルトンの主張だろうか。正確にはわからなかったので、こちらは気になる。

 

2. 【2023/03/03追記あり

Laetzも認めるだろうが、カテゴリーには理論的に言って三つの集合がある。

  1. 鑑賞者が知覚的に見出すカテゴリー群
  2. 作品が実際に属するカテゴリー群
  3. 作品の美的性質にとって関与的な、特権的カテゴリー群

3.において正しさが問われる、というのはみんな認めている。従来の解釈は2.と3.を同一視するが、これはLaetzによれば問題があり、Laetzは1.かつ2.の一部のみが3.であると考えているっぽい。図にすると、たぶん以下。

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ちょっとよく分かっていない点として、ウォルトンが知覚できるカテゴリーのみに話を"絞っている"という前提に立ったとき、従来の解釈は実質、「正しいカテゴリー」のうち領域Aだけに言及することになるので、これに自覚的である限りでLaetzの解釈と対立点はないんじゃないか。例えば、Laetzの挙げる問題点のひとつ目は、従来の解釈に領域Bが含まれている点にあった。しかし、「正しいカテゴリーのなかには、知覚的に見分けられないものもある」ということ自体をウォルトンは否定するのだろうか。私が分かっていないのは、ウォルトンが領域Aに話を絞っているのか、あるいは領域Aしかないと積極的に主張しているのか、だ。私にはどうも前者のように思われるが、Laetzはどことなく後者で読んでいる気がする。

読みやすく、クリアカットな論文だったわりに、だいぶ込み入った話題でずいぶん苦労した。まとめに自信がないので、もうちょっと考えてみたい。どこか不備がありましたら、ご指摘ください。

 

ところで、LaetzがThe Routledge Companion to Philosophy and Filmに書いた「映画ジャンル」の項目については、先日まとめたので合わせてどうぞ。

 

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【2023/03/03追記】

2.の図はウォルトンおよびリーツの整理として間違っていたので、鵜呑みにしないでください。

ちゃんとした検討はいま博論の一部として書いていますので、ここでは手短にポイントだけまとめます。

  • ポイント1:ウォルトンにおいて、「知覚的に判別可能なカテゴリー」は作品が実際に属するカテゴリーの部分集合っぽい。例えば、「ピカソ風」カテゴリーへの所属は、ピカソっぽく見える、ピカソらしく見える時点で確定するので、実際にピカソが手掛けたかどうかとは関係がない。知覚的に判別可能だが、実際には属さない、というのは規定より意味をなさない。
  • ポイント2:リーツによる「正しいカテゴリー」の解釈は、「①作品が実際に属するカテゴリー」の部分集合である「②知覚的に判別可能なカテゴリー」から、四つの考慮事項を通してさらなる部分集合として「③美的に活性なカテゴリー=正しいカテゴリー」が切り出されるというもの。
  • ポイント3:厳密には、ウォルトンは「正しいカテゴリー」という語をほとんど使っておらず、「そのもとで作品を知覚することが正しいと言えるカテゴリー」みたいな変な言い方ばかりしている。「正しい[correct]」は作品のカテゴリーではなく、作品への知覚の仕方に修飾しているのだ。世界側の事実としてカテゴリー所属があり、それを正しく、正確に[accurate]、現実に即した[veridical]仕方でカテゴライズをしているのか、という話ではない(すごくややこしい)。おそらく、よりミスリードでない表現で言えば、ウォルトンは正当化された[justified]知覚の仕方を問題にしようとしているのだ。(「正しいカテゴリー」という表現を好むリーツもこれに気づいた上で、「そのもとで作品を知覚することが正しいと言えるカテゴリー」の省略語として用いているのだろう。)

少なくとも、「芸術のカテゴリー」を何周か読んだあたり、リーツはウォルトンの意図を汲んで正確に再構成しているように思われる。つまり、ウォルトンは「知覚的に判別可能なカテゴリー」の限定を超えて、歴史的カテゴリーやそれに依存した美的判断についてなにかを述べているようにはあまり思われない。それでいいのか、というのはウォルトン解釈とは独立に検討の余地があるだろう。

追記終わり。

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*1:Laetzの読みは「リーツ」だと思うんだが、自信がない。

*2:典型的には、五つ目を除いた四つの規準として説明されるはず。五つ目は、例えば「エッチング」といったカテゴリーであり、しかじかの製作プロセスを経ていることによって定められる(たぶん「写真」もそう)。ウォルトンは、このケースについて本当に軽く触れているだけなのだが、Laetzが規準のひとつとして持ち上げているのは意外。

*3:「美的性質に影響するカテゴリー⇒作品が実際に属するカテゴリー」というのはその通りだが、逆(「作品が実際に属するカテゴリー⇒美的性質に影響するカテゴリー」)は言えない。作品が実際に属するカテゴリーのうち、一部の特権的なカテゴリー(Laetzの解釈が推している「正しいカテゴリー」)のみが、美的性質に影響する。