美は形式に根ざしている|Paris (2025)

ここ数年追っている美学研究者のひとりにパノス・パリス[Panos Paris]がいる*1美的価値という現代的なトピックアメリ美学会を中心に盛り上がっているなか、「美」という伝統的な主題についてかなり熱心に書いているイギリスの方だ。最近の『British Journal of Aesthetics』にまとまった論文「美と形式的なよろしさについて」が出ていたので、紹介する。

Paris, Panos. 2025. On Beauty and Wellformedness. British Journal of Aesthetics 65 (2): 257-282.

1 三つの形式のよろしさと三つの美

美の哲学には数千年に渡る歴史があるが、長らく支配的であった見解とは、美を形式[form]と結びつけるというものだ。なにかがシンメトリーで配置されているとか、組み合わせにハーモニーがあるとか、そういった形式のよろしさ[wellformedness]に美が宿るというわけだ*2。この見解は(少なくとも西洋哲学の伝統においては)二千年近くものあいだ支持されてきたが、近代になって別の見解に取って代わられていく。すなわち、美を快楽[pleasure]と結びつけるというものだ。こちらも伝統的な考えのひとつであったが、近代という時代全体の傾向として人間の経験や感覚が重視されるなかで、形式という客観的なものよりも快楽という主観的なものの観点から美に迫るアプローチが優勢になってきたわけだ。

しかし、パリスの主張によれば、形式のよろしさは美の必要条件であるという仕方で、やはり美と本質的に結びついている。美しいものは必ずなんらかの仕方で形式がよろしく、形式がよろしくないものは美しくない。本論文は、このなんらかの「形式のよろしさ」を三種類に区別し、それに対応して美もまた三種類に区別するという方向へと進む。「wellformedではないが美しいものもある」という反論に備えてwellformednessのほうを広めに取る、という戦略のようだ。

ところでいわゆる形式主義者[formalist](Clive BellとかNick Zangwill)は、美と形式を結びつける点ではパリスと同じだが、「形式」に関してかなり狭い理解を持っていることで知られている。彼らが「美は対象の形式に根ざしている」というとき、意味されているのは〈美は対象の知覚可能な側面にのみ根ざしており、見て取ったり聞いて取ることのできないもの(作者の意図や対象を取り囲む文脈)とは無関係である〉ということだ。この立場の問題点は、数学的証明の美や道徳的に徳があることの美、はたまた文学の美を認められない点にある。代わってパリスは「ある対象の経験可能な諸要素およびそれらの相互作用からなる集合体」として形式を定義し、これを踏まえて形式のよろしさを論じていく。(形式の細かい定義はParis 2024でやっている。)

2 機能的な美とカテゴリー的な美

さて、伝統的に注目されてきたのは、ごく抽象的な形式のよろしさとそれに基づく抽象的な美[abstract beauty]である。多くの場合、花はその色や形がなんとも説明しにくい仕方で「なんかいい感じになっている」からこそ美しい*3イマヌエル・カントが言うところの自由美がこれに相当する。「考えるな、感じろ」の無関心的な態度で見るからこそ捉えられる抽象的な美、というのは西洋美学の中心線をなすアイデアだが、パリスは大胆にもこの種の美を一旦脇に置く。代わりに、もうちょいマイナーだが、やはり伝統的に認められてきた別の種類の美に焦点を当てるのだ。

そのひとつが機能的な美[functional beauty]である*4。なにか独特な機能を備えた対象が、それを首尾よく果たすようなデザインを持つこと(すなわち、機能的な形式のよろしさを持つこと)から、この種の美が生じる。スポーツカーや刀のような人工物、チーターやイルカのような動植物に、「よくできてんなぁ」と感嘆を覚えるとき、多くの場合、私たちが経験しているのはこのような機能美だ*5。抽象的な美とは異なり、機能的な美は無関心的な態度で捉えられるものではない。そこには対象の機能に関する理解があり、これを踏まえて形式の査定がなされているわけだ。

カントが自由美との対比で「対象の種についての理解に基づく」とした依存美は、このような機能美を部分集合として含みつつも、もっと広いものである*6。パリスはこれをカテゴリー的な美[categorial beauty]と呼んでいる。例えば、美しい黒曜石は、なんらかの機能をうまく果たすデザインを持っているからこそ美しいわけではない。黒曜石自体に機能などないからだ。しかし、その美しさは、黒曜石であることとは独立に単に魅力的な色と形を持っていることに由来するわけでもない。それは、黒曜石という種=カテゴリーに範例的な特徴(鋭さや光沢など)をうまいこと備えているという意味において、黒曜石として美しいのだ。ここでは機能の代わりに、あるカテゴリーのメンバーとしての正常さや理想的・範例的なあり方が理解され、これを念頭に美が判断されている。人の顔や身体も、統計的に平均的である(=プロトタイプに近い)ほうが美しいと言われがちらしいが、こういった美もカテゴリー的な美である。このような「いい感じの事例である」ことを指してパリスはカテゴリー的な形式のよろしさと呼び、これをカテゴリー的な美の必要条件とする。

さて、ここまではそんなに驚くべき発見ではない。機能的な美に機能的な形式のよろしさが必要であり、カテゴリー的な美にカテゴリー的な形式のよろしさが必要だというのは、おおよそ概念的に真である(つまり、そういうものとして定義されているだけだ)。トガッた主張が展開されるのはここからである。

3 抽象的な美

抽象的な形式のよろしさとそれに基づく抽象的な美については、なんだかふわっとしたものとして残されていたのであった。伝統的には、このような美は対象(の機能や属するカテゴリー)についての理解とは無関係だとされてきたことを思い出そう。抽象的な美こそが純粋な美であり、その他の美は美であるにせよ不純な美に過ぎない、と言われることも多い。

しかし、パリスはこの伝統をひっくり返そうとしている。範例的なのはむしろ機能的・カテゴリー的な美であり、抽象的な美こそ特例でありおまけなのだ。なぜなら、抽象的な美が根ざすところの抽象的な形式のよろしさは、機能的またはカテゴリー的な形式のよろしさを投影することで経験されているかもしれないからだ。要は、純粋に色や形の組み合わせに満足を覚えているときにも、主体はなんらかの機能やカテゴリー的な正常さを対象に押しつけ、そのもとで査定している可能性があるのだ。

パリスは抽象的な形式のよろしさを、最終的に次のように定義している。

抽象的な形式のよろしさ*=Oの経験可能な諸要素およびそれらの相互作用〔つまり形式〕が、適切に指定された条件のもとで、そのカテゴリーや機能についての考慮なしにかつまたはそれを抽象した上で、カテゴリー的な形式のよろしさかつまたは機能的な機能的な形式のよろしさの経験を引き出す限りで魅力的ならば、それゆえにOは形式がよろしい。

Abstract Wellformedness* (AWF*) = An object O is well-formed to the extent that O’s  experienceable elements and their interrelations are appealing insofar as they elicit  experiences of either CWF and/or FWF in the absence of, and/or in abstraction from, considerations about the object’s category or function, under suitably specified conditions.

細部はともかく、ポイントは、機能的・カテゴリー的な形式のよろしさを使って、これらに寄生的な概念として抽象的な形式のよろしさを定義している点だ*7。「それ自体で魅力的な形式」というふわっとした考えの代わりに、「機能的・カテゴリー的な形式のよろしさを連想させる限りで魅力的な形式」という、内在的な評価基準を持った概念へとabstract wellformednessを置き換えたわけだ。

なぜそんなことが言えるのか。心理学的な根拠としては、人間が一般的に持っている「連想によって、なにもないところにパターンを見出す」傾向性が指摘されている。ただの岩に人の顔を見て取るなどがその例だ。私たちには進化的なバイアスや認知的な傾向があり、そこにハマる限りで形式がよろしいと言われるものは、実のところあれこれの連想を経てよろしいと判断されているわけだ。もっと遡れば、動物の進化一般に見られるパターン学習とその転用(感覚便乗仮説)がどうのこうの、という話が紹介されている。

パリスによれば、カントが自由美に関して指摘する「目的なき合目的性」というふわっとした特徴も、上の定義を踏まえて理解することができる。カントによれば、花や鳥の自由美は、対象の目的を踏まえて機能的によろしいと判断されるようなものではないが、それにもかかわらず、なんらかの目的にかなっているかのように感じられる限りで満足を与えるのである。このなんともアンビバレントな判断は、パリスによれば、機能的・カテゴリー的な形式のよろしさを投影した限りでの抽象的な形式のよろしさを見出し、これに基づく限りでの抽象的な美を見出しているケースにほかならない。連想に過ぎないので本当の合目的性を認めているわけではないが、連想上では仮の合目的性を認めているわけだ。

三種類の形式のよろしさと、それぞれに基づく三種類の美があるという自身の理論を、パリスは三部構成理論[Tripartite Theory]と呼んでいる。この理論のなにがうれしいのか。パリスはそれが直観に沿っているとか、より説明力がある点を推しているが、個人的にはあまりピンときていないので割愛。なるほどなと思ったのは、「美の理論に統一性をもたらす」という利点だ。三部構成理論は、美を三つに区別しつつも、いずれも形式のよろしさに基づくものとして描いており、それぞれの結びつき(抽象的な美はその他の美に寄生している、機能的な美はカテゴリー的な美の部分集合)も指摘している点で、全体として美というひとつのものを統一的に捉えている。

✂ コメント

パリスのプロジェクトを一言で要約するならば、「形式という広い概念を用いてさまざまな美を認める」といったところだろう。数学的証明の美や、道徳的に優れた人格の美といった知覚的ではない美、伝統的には認められてきたのに現代では軽視されているような美を、比喩ではない真正の美として包括するような理論を作ろうとしている。私個人としては、道徳美が真正な美なのかいまいち直観が働かないのだが、それはともかく、知覚的でない美もあるというのはよく分かる。

自由美重視の伝統に反対し依存美を推すというのは、私が取り組んでいるプロジェクトでもあるし、美を形式のよろしさから分析する線にもかなり賛同できる。いろんな点でパリスは仲間なのだが、自由美は依存美の投影であるというトガッた主張については、まだ咀嚼しきれていない。私的には「自由美なんてものはない」ぐらいまでトガろうとしていたところだったので、一応ものとしては認めるパリスの方針もありかなという感じ。引き続き考えてみる。

別の話だが、パリスの取り上げるwellformednessはおおよそ卓越性[excellence/aretḗ]のことじゃないかなと思っている。卓越性も、範例的にはなにかがある種の事例として卓越しているのであり、端的に卓越しているというのはなかなか考えにくい(つまり、本質的にトシテ[qua]を含んでいる)。機能をうまく果たすというのも、卓越性の一種として認められそうだ。美は卓越性に根ざしている、というのは私の感覚的にはかなりしっくりくるし、徳倫理学の方面と接続するにはこっちのほうがよいのかもしれない。とはいえ、excellenceだとあまり記述的な感じがしない、というのはパリス的にうれしくないポイントかも。とにかく、古代ギリシアにおけるeidosとarete周辺の話はもっとちゃんと勉強したいと思っている。

ほかに読んだことのある論文もまとめて紹介。パリスはかなり真っ直ぐな分析美学の書き手なので、そういう文体に慣れている人にはかなり読みやすいはずだ(本稿で紹介した論文がいちばん読みにくい)。

  • Paris, Panos. 2025. Which Beauty? What Taste? Reflections on The Importance of the Philosophy of Beauty and Taste. Debates in Aesthetics 19 (2): 9–32. 美的価値論もいいけど、狭義の美の理論を復活させましょうよと提案する論文。いろいろ考えさせられる。
  • Paris, Panos. 2024. “Delineating Beauty: On Form and the Boundaries of the Aesthetic.” Ratio 37 (1): 76–87. 「形式」の定義を丁寧にやっている論文。知覚可能な諸要素ではなく経験可能な諸要素として定義する。形式の話をするときに引用しやすい。
  • Paris, Panos. 2022. “On the Importance of Beauty and Taste.” Royal Institute of Philosophy Supplement 92 (October): 229–52. 美の理論が持つ社会的意義についての論文。個人的にはそんなに面白くなかった。
  • Paris, Panos. 2020. “Functional Beauty, Pleasure, and Experience.” Australasian Journal of Philosophy 98 (3): 516–30. 機能美についての論文。優等生な感じの議論。
  • Paris, Panos. 2018. “On Form, and the Possibility of Moral Beauty.” Metaphilosophy 49 (5): 711–29. 道徳美についての論文。前に勉強会で読んだ。まだあまりピンときていないが、最近ちょっと盛り上がっているトピック。
  • Paris, Panos. 2017. “The Deformity-Related Conception of Ugliness.” The British Journal of Aesthetics 57 (2): 139–60. 醜さについての論文。美しさが形式のよろしさに由来するのとは対照的に、醜さは形式の歪み[deformity]に由来する。

*1:

現在はイギリスのカーディフ大学で講師をされている。CV見て知ったが、大学院ではBerys Gautに教わっていたらしい。

*2:wellformednessの訳には悩んだが、「形式のよろしさ」で行くことにする。formという語はかなりニュアンスに満ちている。それは、視覚的なかたち[shape]だけでなく、音楽や数学的証明を含む「構成される」「設えられる」「練り上げられる」もの全般のあり方を指している。もちろん、formにはカオスな素材に秩序を与えるという他動詞用法もある。formする主体は、古代ギリシアでは基本的に神であり、近代以降はもっぱら人間であるが、パリスはこれをまたいだwellformednessを構想しようとしているようだ。

*3:「多くの場合」と言っているのは、花にカテゴリー的な美を認める場合もあるからだ。基本的に、自由美と依存美は二者択一ではなく、同居することもある(例:ある種の花として美しいし、種を度外視しても端的に美しい)。

*4:この種の美について、分析美学の伝統では、グレン・パーソンズとアレン・カールソンによる『Functional Beauty』(2008)が有名である。

*5:パリス自身は、超音波を飛ばしやすい顔を持ったコウモリを、この種の美の範例として取り上げている。分からないでもないが、ちょっとイマイチな例だろう。コウモリは「機能的にwellformedだが、それゆえに美しいとは言い難い例」として取り上げられることもあるので、コウモリは美しいという前提で進めるのはやや論点先取である。

*6:機能的な美がカテゴリー的な美の部分集合になるのは、ある種の機能をうまく果たすことが、その種のよい事例となる方法のひとつとして理解できるからだ。実際、Parsons & Carlsonも機能美をウォルトンの標準的/可変的/反標準的特徴と関連づけて説明している(ウォルトンのあれは言うまでもなくカテゴリー的な美の話である)。

*7:ひとつ細部の話をするなら、パリスは一貫して形式のよろしさが美の必要条件だと言っているだけで、十分条件だとは言っていない。単に形式がよろしいだけでなく、それゆえに魅力的である必要もあるのだ。この点で、パリスはformに訴えた客観的な美の理論に傾倒しつつも、pleasureに訴えた主観的な美の理論にも目配せをしている。