美的なものと芸術的なもの

1 美学は芸術の哲学なのか?

博士論文(80,000 words)をあらかた仕上げて予備審査に出したので、ゴキゲンのブログ更新。

博論でも取り上げている話だが、私の専門である美学/芸術哲学への入門的な話題としてよさそうだったので、一部ネタを抜粋して再構成してみた。なにかというと、美学と芸術哲学の関係性についての話だ。*1

美学[aesthetics]は、なんの専門家でもない人にとっては「男の美学」「仕事の美学」とか言われるときの流儀やこだわりを指す日常語であり、もうちょっと詳しい人にとっては、芸術哲学[philosophy of art]の同義語だ。英語でも事情は同じらしく、aestheticsが専門だと言えば、artについてなんか研究している人だと思われがちらしい。

日本美学会の大会プログラムなんかを覗けば、美学というラベルのもとで個別の芸術作品や芸術家や芸術運動について研究している方がたくさん見つかるだろう。ややこしいことに、日本の「美学」は芸術哲学ですらなく、芸術学(science of artとかart studies)というディシプリンに近いのだが、なぜこんなことになっているのか私には分からないので、日本の事情は脇に置く。*2

とにかく、美的[aesthetic]というラベルは、芸術的[artistic]というラベルと、かなり密接なものとして理解されてきたし、理解されているわけだ。カジュアルには、芸術の持つなんか特別な価値のことを、美的価値と言ったりする人もいるだろう。あるいは、美しい風景の美しさを褒めるのに「芸術的だ」と言うことも多い。

しかし、専門家にとって美学とは、襟を正して「感性的認識の学」と紹介されるアレのことであり、18世紀に二十歳そこそこのバウムガルテンというドイツ人が創始し、カントが『判断力批判』で盛り上げた特定の学問分野を指す。おそらくあまりミスリーディングでない訳語としてaestheticsとは感性学であり、感性という特定の知覚・認知モードを主題とした学問のことである。標準的には、頭を使って考え結論することとは対照的に、ぱっと見たり聞いたりすることで即時的になにかを把握するという点から、感性的認識は特徴づけられる。「考えるな、感じろ」というわけだ。こういった性格から、現代ではベンス・ナナイ[Bence Nanay]源河亨さんのように、知覚の哲学と密接に結びつけて美学を論じる人たちもいる。

ややこしいことに、伝統的に美学者たちは、感性的認識のパラダイムケースとして美しいもの、とりわけ美しい芸術作品を熱心に取り上げてきたのだ。優美な絵画を見て、考えるよりも先にグッと来る経験こそがプロパーな美的経験だとされ、作品経験の外にある実生活まで忘れて没入してしまうのが美的態度であり、そういった経験を与える作品には美的価値=芸術的価値がある、などなど。このようにして①感性、②美、③芸術の三位一体からなる学問分野として、美学は発展してきた。*3

実際には、芸術作品以外にも、感性的認識の対象となりうるアイテムはいろいろある(e.g., 壮大な風景、きれいな人)のだが、なぜか芸術作品ばかりフォーカスされてきた。ヘーゲルは自然美より芸術美ほうがえらいと考えていたようだし、ウォルハイムやサヴィルに至ってはまず芸術への美的経験があって、それが派生することではじめて自然物への美的経験があるとされる。歴史的にいろいろと事情はあるようなのだが、正直あれこれ読んでも私にはそこを結びつける必然性がほとんど理解できていない。美的なもの(美的経験、美的態度、美的価値、美的性質などなど)の概念と、芸術の概念は、どちらも他方に依存しているようには思われない。

ということで、私は切り離し派だ。美学と芸術哲学は、もちろん無縁ではないのだが、どちらも他方を含意したり要請するものではない。美的なものの領域と芸術的なものの領域は、部分的にオーバーラップするだけなのだ。この見解は、博論のなかで擁護するつもりだが、本エントリーでは関連する議論の背景だけまとめておこう。

2 芸術抜きの美学?

もうちょっと話を絞ろう。私が専門にしている、現代、つまりざっと20世紀後半〜現在の英語圏の美学(日本では「分析美学」として紹介されている)においても、これを芸術哲学とセットで理解するのが標準的である。いかんせん、分野ではトップジャーナルのひとつであるアメリ美学会発行の学会誌が、『Journal of Aesthetics and Art Criticism』と題されている。JAACでも、感性学っぽい論文はそんなに多いわけではなく、芸術関連の哲学的論文が多く収録されている。イギリス美学会の方はもうちょっとストイックに『British Journal of Aesthetics』と題されているが、こちらでもart関連の論文は少なくない。

ほんのつい最近になって、美学者たちは自分たちが芸術(とくにモダンアート以降の難解でエリート主義的なあれこれ)を気にかけなくてもよいことに気がついたようだ。2000年代には、斉藤百合子[Yuriko Saito]の活躍を中心にいわゆる日常美学が台頭し、芸術に限られない、いろんなアイテムへの美的関与が注目されるようになった。つい最近も、美的価値というのが必ずしも芸術的価値と抱き合わせではないことに気がついた人たちが、この主題を大きく発展させている。ロペス、ナナイ、リグルによる『なぜ美を気にかけるのか』はその最新の成果であり、イントロダクションで早々に「アートだけが肝心じゃないんですよー」的な強調がなされている。*4

美的経験や美的価値をどのように特徴づけようとも、芸術であるアイテムかつそれらのみがその種の経験を与え、その種の価値を持つ、というのはありえそうにない。美学は、芸術に限らずいろんなアイテムの持つ美的側面、私たちのとる美的観点を扱う、独自の主題を持った独自の分野なのだ。なので、少なくとも今日、美学の専門家であることから芸術についてなんかやっていることを推論するのはあまり適切ではないだろう。

ということで、美学側からの「芸術いらんわ」が近年徐々に進展しているわけだが、面白いことに、遡れば先に「美学いらんわ」と言い出したのは芸術哲学サイドなのだ。

3 美学抜きの芸術?

もう一度時代を遡ろう。最初に触れたように、美学はその最初期(つまり18世紀のヨーロッパ)において、すでに芸術と仲良しこよしだった。カントは、『判断力批判』を前半で切り上げればよかったものの、途中から美的判断よりも芸術への判断や芸術家の天才性について書きたくなったらしく、おかげでひどく誤解される本にしてしまった*5

ところが、この蜜月はやがて芸術の側がこじれにこじれて破綻へと向かう。とはいえ、そのタイミングはいわゆるモダンアートの台頭(21世紀初頭)とは必ずしも揃っていない。例えば、セザンヌによる遠近感のぐちゃぐちゃな絵画に対し、クライブ・ベルが向けていたのは明らかに美的関心であり、考えるよりも先に胸にグッと来る形式と、その美的価値への関心であった。こういった経験や性質や価値はごく適切な意味での「美的なもの」の範疇に収まっている。戦後、ポロックの絵画を礼賛したクレメント・グリーンバーグに至るまで、芸術への美的形式主義は有力な見解であり続けた。1950年代ぐらいまでは、まだまだ美学と芸術は仲良しだったのだ。*6

仲違いさせた人物としてしばしば引き合いに出されるのはマルセル・デュシャンである。デュシャンによるレディメイド作品は、その辺のありふれた日用品を買ったり拾ってきて設置しただけの「芸術」であり、逆立ちしてもそこには適切な意味で美的な価値が含まれていそうにはなかった。デュシャンは、芸術がより認知的な領域であること、すなわち「考えるな、感じろ」どころか、しっかり考えるべき領域であることを、その作品を通して強調してきたのだが、これは18世紀から連なる美学のコアに真っ向から挑戦するものであった。感性的認識の学とは、要は「考えるな、感じろ」の学であったからだ。鑑賞においてあれこれ考えなければならないのだとすれば、芸術はもはや美的なものの範疇には収まっていないことになる。*7

デュシャンの仕事は長らく無視されていたのだが、1960年ごろにもなってようやくアメリカにて再発見される。同時代には、グリーンバーグ好みの抽象表現主義への反発として、かっぱらってきたジャンク品をキャンバスに貼り付け、"絵画らしい"絵画をスポイルすることが流行っていたのだ(アッサンブラージュとかコンバインと呼ばれる)。1960年代、多くの分野がそうであったのと同じように、芸術もどこか変な方向へと猛ダッシュで突き進み始めたらしい。それからというもの、アンディ・ウォーホルの《エンパイア》やらアブラモヴィッチの《リズム0》やら、もはや美学の道具立てではその意義を語れそうにない芸術作品が次々と台頭していった。

芸術哲学者も、芸術実践におけるこれらの変動に反応した。アーサー・C・ダントー[Arthur C. Danto]は、もはや視覚的にグッと来るかどうかという観点から、芸術とそうでないものを見分けるのも、それらの価値を見分けるのも不可能だという点を強調した。アンディ・ウォーホルの《ブリロ・ボックス》は、店売り商品のブリロの箱と、視覚的にはなんら違いがない。そしてこのことは、多くの芸術哲学者にとって、美的な違いがないことを意味する。あれこれ考えてグッと来るようじゃダメで、見て直ちにグッと来るのでなければ美的な価値があるとは言えないのだ。しかし、《ブリロ・ボックス》には商品のブリロの箱にはない芸術的価値があることは、否定しがたい。であるとすれば、芸術的価値とは美的価値に限られないし、芸術の経験は美的経験に限られないのだ。トレンディな現代アートたちを扱うのに、美学はますます無力なものとなっていく。*8

実際、今日につながる「芸術哲学」が明確に輪郭づけられたのも、この時代にあたる。ちょっと前の1950年代までは、後期ウィトゲンシュタインを雑に読んだ哲学者たちが、芸術は定義不可能だと主張し、この分野の発展を抑圧していた。それからマンデルバウムが現れ、ダントーとディッキーが現れ、レヴィンソンとキャロルが現れる「定義論バックラッシュ」については、別のエントリーを参照してもらいたい。

ともかく、この時代にはっきりしたのは、芸術を芸術たらしめるコアはなんにせよ美的なものではない、という点だ。芸術の制度的定義も歴史的定義も、美的な機能や価値をまったく持たないアイテムですら芸術になれるという点にポイントがあった。

4 ビアズリー、ディッキー、シブリー

こうして、1960年代から1970年代にかけて芸術哲学の側から「美学いらんわ」が叫ばれるようになったのだが、哲学者たちも一枚岩ではなかった。とりわけ、この時代にほとんど孤軍奮闘で芸術的なものと美的なものをがっちり結びつけていた論者として、モンロー・ビアズリー[Monroe Beardsley]がいる。

ビアズリーにおいて、芸術とは美的経験を与えるよう意図して作られた道具にほかならず、芸術的価値はアフォードされる美的経験の価値に対応している。私はビアズリーの翻訳もしているのだが、いまだになぜここまで強情に美的なものと芸術の結びつきを手放そうとしなかったのかは分かっていない。ビアズリーにおいては、デュシャンの《》のような美的機能のない作品は、実のところ芸術作品ではなく、芸術実践についてなにかをコメントする哲学書と同じ身分を持ったアイテムに過ぎないのだ。この見解については、私の見たところ誰一人賛同していない。

ともかく、圧倒的に影響力を持ち(ビアズリーは1967~68年にはアメリ美学会会長を務めている)、圧倒的にぶっ叩きやすい立場に固執していたビアズリーという人物がいたからこそ、芸術哲学は急速に発展を遂げていったのだというのが、私なりの分析美学史観だ。例えば、芸術についての制度説の提唱者であり、「美学いらんわ」陣営を代表するジョージ・ディッキー[George Dickie]は、ビアズリーへの熱心な批判者であり、ほとんど全ての哲学的見解をビアズリーに対する反発のなかで形成していった論者であるように私には思われる。

とはいえ、芸術に振られたことは、美学にとって必ずしも不幸なことではなかった。ビアズリーと同時代には、オックスフォード大を出てアメリカに渡ってきたフランク・シブリー[Frank Sibley]がおり、美的なものの概念セットとして今日まで引き継がれるさまざまな見解を洗練させることとなる。シブリーも、美的なものの概念は芸術の概念に先行したものであると考えており、「芸術いらんわ」を推し進めていた先駆者であると言えそうだ。シブリーは芸術にならではの話題についてはほとんど関心を向けておらず、だからこそ、美学という学問をそのコアに立ち返りつつ発展させることに、大きく貢献できたのだろう。

5 美的なものと芸術的なもの、その後

1980年前後にイリノイ大学のディッキーのもとで学んだのがノエル・キャロル[Noël Carroll]である。映画研究とのダブルディグリーをやっていたのと、師であるディッキーの影響からか、キャロルは「美学いらんわ」陣営の新世代代表となり、その名も『Beyond Aesthetics』(2001)という論文集を刊行している。第一論文として収録されている「Art and Interaction」(1986)では、芸術との典型的な相互作用として、美的な反応とは区別される解釈的反応があり、歴史的にも重視されてきたことを強調している。考察する楽しみというのは、見て直ちにグッと来るタイプの楽しみとは別タイプであり、どちらも芸術作品へのふさわしい反応とみなすべきなのだ。

キャロルと同い年のロバート・ステッカー[Robert Stecker]も、美的でない芸術的価値があるという見解の熱心な擁護者として知られている。同世代にはデイヴィッド・デイヴィス[David Davies]ピーター・ラマルク[Peter Lamarque]ジェロルド・レヴィンソン[Jerrold Levinson]グレゴリー・カリー[Gregory Currie]ティーブン・デイヴィス[Stephen Davies]がおり、芸術哲学はいよいよ全盛期を迎えたといってよいだろう。

もちろん、同世代にはマルコム・バッド[Malcolm Budd]アラン・ゴールドマン[Alan Goldman]アレン・カールソン[Allen Carlson]など、美学寄りの関心が強い論者も含まれているし、キャロルは美学の論文もたくさん書いている。イメージとしては、芸術哲学と美学が別個の領域であることが認識されつつ、みんなキャパがあるので結局両方やっているという感じだ。レヴィンソンなんかは、芸術哲学研究としては芸術の定義、音楽の存在論、意図と解釈の問題について独創的なアイデアを次々と発表し、美学研究としては美的快楽主義を洗練・擁護するなど、超人的というほかない仕事ぶりを見せている。(論集はもう5冊出している。)*9

とにかく、キャロルら分析美学第2世代(と私はみなしている)の活躍を通して、芸術作品に絞って美学をやる論者も、美的な観点に絞って芸術哲学をやる論者も、ほとんど見られなくなった。「見た目に美しく、心にグッと来るからこそ芸術的価値がある」、はたまた「芸術作品こそが美的価値の主要な担い手である」みたいな主張は、かなり古臭く前時代的な主張となったのだ。芸術哲学と美学は手を切って、必要なときにのみ互いを参照する関係性になったように思われる。(ただし、ジャーナル上での棲み分けはとくに進まなかったことから、今日においてもJAACやBJAには芸術哲学と美学が混在している。)

前述の通り、2000年代以降は、芸術抜きの美学が模索されていたような雰囲気が伺われる。とりわけ、ドミニク・マカイヴァー・ロペス[Dominic McIver Lopes]のキャリアはその模索を反映しているような気がする。画像や写真についての割にテクニカルな哲学からキャリアを始めたロペスは、『Beyond Art』(2014)によって芸術の諸問題をあらかた切り分け(この書名も、キャロル『Beyond Aesthetics』へのオマージュだろう)、『Being for Beauty』(2018)で芸術抜きの美的価値論へと向かっていく。今後もロペスを磁場として、この動向は進展していくだろう。(ざっと世代分けするなら、ロペスあたりから第3世代といった感じだろうか。だいたいこの世代がいまトップ研究者として分野をリードしている。)

しかし!実は21世紀に至って再び美的なものと芸術的なものを結びつけようとする野心的な一派が現れている。2000年代に先陣を切ったのはジェームズ・シェリー[James Shelley]であり、近年はケレン・ゴロデイスキー[Keren Gorodeisky]が後に続いている。ふたりともオーバーン大学の教授であり、美的価値の議論ではまとめてオーバーン・ビューと呼ばれることもある。美的価値論としては実在論寄りの見解であることが特徴だが、私にとってより興味深いのは、どちらも芸術と美的反応を深く結びつけている点だ。ただし、彼らはビアズリーともまた異なる仕方で、このふたつを結びつけている。シェリーは「The Problem of Non-Perceptual Art」(2003)において、デュシャンの《泉》もまた、プロパーな意味での美的反応の対象なのだという見解を擁護している。そのために「美的なもの」のスコープ自体を再考し、美的じゃなさそうな現代アートたちをもそのもとに収めようとするのだ。同様の見解はゴロデイスキー「The Authority of Pleasure」(2021)にも現れる。ただし、これらは単なる規定ではない。二人とも、近代美学のクラシックを読み込んでいる論者であり、そのルーツに立ち返れば、美的なものは必ずしも現代アートのあれこれをカバーし損ねるものではない、と主張するのだ。*10

ワイドスコープな美的なもの概念というのは、美学にとっても芸術哲学にとっても検討に値するアイデアである。論証の具体的な中身や、切り離し派として私がどう応答するかは、博論に乞うご期待といったところで、話を切り上げよう。

 

参考文献

Beardsley, Monroe C. 1958. Aesthetics: Problems in the Philosophy of Criticism. Harcourt, Brace.
———. 1982. The Aesthetic Point of View: Selected Essays. Cornell University Press.
Carroll, Noël. 1986. “Art and Interaction.” Journal of Aesthetics and Art Criticism 45 (1): 57–68.
———. 2001. Beyond Aesthetics: Philosophical Essays. Cambridge University Press.
———. 2022. “Forget Taste.” Journal of Aesthetic Education 56 (1): 1–27.
Danto, Arthur. 1964. “The Artworld.” The Journal of Philosophy 61 (19): 571–84.
Dickie, George. 1965. “Beardsley’s Phantom Aesthetic Experience.” The Journal of Philosophy 62 (5): 129–36.
———. 1974. Art and the Aesthetic: An Institutional Analysis. Cornell University Press.
———. 1988. Evaluating Art. Temple University Press.
Gorodeisky, Keren. 2021. “The Authority of Pleasure.” Noûs 55 (1): 199–220.
Levinson, Jerrold. 1996. The Pleasures of Aesthetics: Philosophical Essays. Vol. 57. Cornell University Press.
Lopes, Dominic Mciver. 2011. “The Myth of (Non‐Aesthetic) Artistic Value.” The Philosophical Quarterly 61 (244): 518–36.
———. 2014. Beyond Art. Oxford University Press.
———. 2018. Being for Beauty: Aesthetic Agency and Value. Oxford University Press.
Shelley, James. 2003. “The Problem of Non-Perceptual Art.” British Journal of Aesthetics 43 (4): 363–78.
———. 2022a. “Intelligible Beauty.” Aristotelian Society Supplementary Volume 96 (1): 147–64.
———. 2022b. “The Concept of the Aesthetic.” In The Stanford Encyclopedia of Philosophy, edited by Edward N. Zalta, Spring 2022. Metaphysics Research Lab, Stanford University. https://plato.stanford.edu/archives/spr2022/entries/aesthetic-concept/.
Sibley, Frank. 2001. Approach to Aesthetics: Collected Papers on Philosophical Aesthetics. Clarendon Press.
Stecker, Robert. 2012. “Artistic Value Defended.” Journal of Aesthetics and Art Criticism 70 (4): 355–62.
———. 2019. Intersections of Value: Art, Nature, and the Everyday. Oxford University Press.

 

 

*1:タイトルはシブリーの「美的なものと非美的なもの」のパロディを意図していたが、調べてみたらDavid Bestなる人が1982年にその名も「The Aesthetic and the Artistic」という論文を書いていた。読んでみたいが、図書館の購読対象外なので手に入らない……。

*2:ちょっとだけこの話をすると、日本における「美学」は、経緯はともかくガラパゴス化していると言うべきだろう。まず、文学部という訳わからんdepartmentの下に哲学科がある時点で結構きびしいと思うのだが、たいていの場合、美学研究者は哲学科ではなく美術史や芸術学とセットの別の科に振り分けられている。美学がまずもって哲学であることが、そもそもほとんど認識されていないように思う。学振の区分でも、美学は哲学ではなく芸術学の下位にある。

それは別にいいとして、部分的に「美学」を冠した学科に入っても、プロパーな意味での(つまり、バウムガルテンやカントと同じタイプの仕事をしているという意味での)美学者がいるとは限らない。しばしば、構成員は美学研究者か、なんなら美術史研究者であり、JAACやBJAに載るようなタイプの論文を読み書きしているわけではない。例えば、現在の慶應美美には(ひとつ目のビに反して)専門に美学を掲げる教員が一人もいない。

ある意味では、「美学」のラベルで私の認識する美学の仕事とはかなり異なる仕事をしている人たちにこそ、本エントリーへの意見を伺ってみたいところだ。歴史に関しては、私なんかよりもはるかに詳しいはずなので。(『なぜ美』WSで美学会に登壇したときにこの話を振ってみてもよかったかもしれない。)

*3:私は美学の専門家ではないので、この辺りの話は手癖でざっと書いている。詳しくは『美学』『西洋美学史』『美学辞典』を読むべし。

*4:高田さんによる『なぜ美』書評👇

私のコメントは、前に邦訳刊行記念ワークショップに出たときにまとめた👇

*5:つまり、美的判断の特徴としてカントが挙げている無関心性やら合目的性が、芸術に対するプロパーな判断の特徴として誤解されたり、後者の話が前者の話として誤解されたり、云々。

*6:もちろん、これは美学の議論と芸術関連の哲学的議論が親和的であったという意味での「仲良し」であって、芸術家と美学者が仲良しだったわけではない。すでに1952年にはアメリ美学会の場でバーネット・ニューマンが「芸術家にとっての美学は、鳥にとっての鳥類学のようなものだ」といって揶揄したことがよく知られているし、今日でも、JAACやBJAを読もうとする芸術家はほとんどいないだろう。それはそれでどうなんだ、というのはまた別の問題だ。

*7:デュシャンレディメイドを解説する短いスピーチについては、この前、私訳をホームページに載せた。

*8:芸術的価値については以下のエントリーも参照。

*9:レヴィンソンという哲学者の中心的なアイデアについては以下のエントリーを参照。

*10:シェリーの「Intelligible Beauty」(2022)は、美的なものと芸術的なものの関係史を記述した論文として抜群に面白かった。

また、ゴロデイスキーの立場は先日の哲学若手研究者フォーラムで紹介した。資料は以下を参照。