美しいものに感動する義務?

美的に良いアイテム(優美な絵画、壮大な自然風景、etc.)に、「感動すべきだ!」と言うことはよくあるが、そこには本当に義務と呼べるようなものがあるのだろうか。

サウサンプトン大学のダニエル・ホワイティング[Daniel Whiting]は、美的理由をめぐってよく読まれている論文「Aesthetic Reasons and the Demands They (Do Not) Make」(2021)のなかでこの問題を扱っている。結論として、特定の情動を抱くよう要求するような美的理由、美的義務はない。せいぜい「感動することに無理はない」「感動するのももっともだ」と言えるに過ぎず、「感動すべきだ」とまでは言えない。以下、ホワイティングの議論をさっくりまとめよう。

べき[ought]は標準的には理由[reason]から分析される*1。φする理由が十分にあるときには、φすべきなのだ。しかし、なんにせよ理由がたくさんあればべきになる、というわけではない。ホワイティングはまず、べきに関わる要求理由[demanding reason]と、単にしてもよい[may]に関わる正当化理由[justifying reason]を区別している。ある車が私の所有物であるという事実は、私がそれを運転することを正当化するが、要求するわけではない。私はそれを運転してもよいが、すべきなわけではないのだ。一方、私の車が隣人の通行の邪魔になっているという事実は、私がそれを運転してどかすことを正当化するだけでなく要求している。私はそれを運転してどかすべきなのだ。

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問題は、美的なアイテムに対してある情動を抱く要求理由がありうるかどうか、言い換えれば、情動の美的義務があるかどうかである。ホワイティングの出している例ではないが、ミケランジェロの《最後の審判》を考えよう。《最後の審判》の壮大さには、なるほど感動する理由がある。しかし、それは単に感動の正当化理由なのか、それを超えて感動を要求する理由なのか。感動している人がなぜ感動しているのかと聞かれて、「壮大だからさ」と自分の感動を正当化するのはもっともらしい。しかし、当人は感動すべくして感動しているのか。「壮大なので感動するべきだ!感動しないなんておかしい!」は意味をなすのか。

情動の美的義務はないと考えるホワイティングがはじめに指摘するのは、趣味の違いである。私は《最後の審判》のような仰々しい古典絵画が特に好きではないので、それが間違いなく壮大なのだとしても、私がそれに感動「すべき」だというのはおかしい。とはいえ、この論点は、「関連する趣味の持ち主でさえあれば、感動すべきだ」という主張には無力である。

ホワイティングがとりわけ強調している第二の論点は、べき多すぎ問題である。一般的に、美的性質にはそれぞれにマッチした情動的反応がある。優美さは、優美さの感覚にふさわしいし、けばけばしさは、けばけばしさの感覚にふさわしい。しかし、そうだとすると、あるアイテムに直面した主体には膨大な数の「これを感じるべき」「あれを感じるべき」があることになる。主体はそれら全部を感じる「べき」なのだ。こんなのは無理である。

いくらか論争的とはいえ、よくある見解として、べき[ought]はできる[can]を含意する。そもそもできないことに関して、にもかかわらずすべきだ、というのはおかしい。したがって、とても無理な数の美的"義務"があるというのは間違いであり、実際には、美的反応の要求理由なんてない。それらはせいぜい正当化理由に過ぎない、とホワイティングは主張する。

続いて、想定反論&応答のパート。「情動を要求する美的理由はたしかにある!」と言いたい人は、次のように応答しうる。

  1. 情動は要求されているが、それを抱く心理的コストが上回りがちなだけ。したがって、情動を要求する美的理由を認めても、べき多すぎ問題には陥らないで済む。
  2. 要求理由のうち、認識フィルターを通ったものだけが義務を構成する。例えば、主体が知りうる理由や、経験しうる理由だけが、主体にとっての義務になる。したがって、やはり、情動を要求する美的理由を認めても、べき多すぎ問題には陥らないで済む。
  3. あるいは、美的理由すべてでないにせよ、一部は確かに要求理由である。主体が注意を向けている特徴だけが美的な要求理由になるので、要求理由多すぎにはならず、したがってべき多すぎにもならないで済む。
  4. 道筋はともかく、「感動すべきだ!」と言うことはよくあるので、美的義務などないという結論はおかしい。

ホワイティングはそれぞれ次のように応答している。

  1. 心理的コストは対象由来の理由ではなく、状況由来の理由であり、後者が真正な理由と言えるのかは論争的。いわゆる反応制約(それに反応してφできるときに限り、ある事柄はφする理由になる)に違反しているから。
  2. 想定しうる認識フィルターはどれもゆるすぎる。主体は、アイテムの美的特徴についてもれなく知りうる立場だし、きめ細やかな経験をしているので、結局べき多すぎ問題に陥る。
  3. そこにあるのは「感動するために注意を向けるべき」という行為の義務に過ぎない。見頃なのでマグノリアを見に行く要求理由はあっても、感動する要求理由があるわけではない。
  4. 「髪を伸ばすべきだ!」と同様、ルーズな言い回しに過ぎない。せいぜい、「感動するために注意を向けるべきだ!」の省略だろう。

よって、感動をはじめとする情動的反応には、それを要求する美的理由などない、と結論される。どんなに素晴らしい芸術作品や自然風景であっても、「この情動を抱くべきだ!」などということはないのだ。

しかし、これに付け加えて、ホワイティングは行為には要求理由と美的義務があると主張している。これは、美的特徴が価値を成し、価値を保持するために行為する義務があるという単純な事実に由来する。《最後の審判》が壮大さという美的価値を持つならば、人にはそれを保持するよう、適時修復などを行う美的義務がある。

一般的に、真正な義務には、すべきなのにしなかった場合の非難が適切であるし、主体本人が振り返って後悔することが適切であるし、第三者からの「すべきだ」というアドバイスが適切である。情動の美的理由に関してはこれらはいずれも当てはまらないが、行為の美的理由については当てはまる。結論として、美的なものはいかなる情動も要求しないが、行為を要求することはある。

✂ コメント

情動を要求する美的理由はない、というホワイティングの主張の面白みは、これがカント由来の美的判断の普遍妥当性と対立している点にあるだろう。カントによれば、美しいという判断は、個人的な関心を脇に置き、万人が共通して持っている感官を通して生じた快楽(≒感動)だけに基づいて下されるので、自ずと「私が美しいと判断するこれは誰であろうと美しいと判断してしかるべきだ」というニュアンスを含む。「あくまで私にとって美しい」と判断しているうちは、プロパーな美的判断になっていない。

私が快楽を覚えて美しさを見出す対象は、誰であろうと同様に快楽を覚え、美しさを見出して然るべきである。このカント的見解に従えば、美しさの理由(絵画のシンメトリーなど)は、単に美的判断を正当化しているだけでなく、要求していると言えそうだ。そして、美的快楽が美的判断の基盤である限りで、そこには美的快楽の要求理由もある。したがって、美しいものには感動する義務があるのだ。

ホワイティングの反論は、趣味の違いとべき多すぎ問題に訴えたものだが、両方ともカントに対する反論は構成できていないように思う。ホワイティングにおける趣味の違いは、個人的関心の違いと言い換えられるが、カントにおける美的判断はそもそも個人的関心を脇に置いた判断として特徴づけられている。また、カントは美しさという性質一個の話しかしていないので、美的性質の遍在を前提としたべき多すぎ問題とは無縁である。

ということで、ホワイティングとは反対に、情動にも要求理由があると考えているのがいわゆる適合態度分析の支持者たちになるのだろう。

上のエントリーを書いたときは、なんとなくKriegel的な多元論(どんな情動を要求するかはdeterminateな美的価値次第)のほうが、Gorodeisky的な一元論(美的に良いものは一様に美的快楽を要求する)よりも良さそうだと考えていたが、ホワイティングのべき多すぎ問題を考えると後者のほうがいくらか有望な気がしてきた。

ところで、行為を要求する美的理由はあるという主張も、さっくり出しているわりに結構面白い。価値があるなら価値の保持を要求する理由もある、というシンプルすぎる論証は、美的価値の理由付与性について超込み入った理論体系を組み立てたLopes (2018)と対照的だ。この比較については、またちょっと考えてみたい。

*1:メタ倫理学者全員がこれを受け入れているわけではない。reasonこそoughtから分析されると考える人もいる。前回のエントリーを参照。