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インターネットと美学研究

Maarten Steenhagen「画像のSenseとReference」(2020)

Steenhagen, Maarten (2020). Sense and Reference of Pictures. British Journal of Aesthetics:1-5.

 

つい先日BJAがオープンアクセスで公開した「描写の哲学」論文。

著者はスウェーデン、ウプサラ大学所属の哲学研究者みたいです。メガネがおしゃれ。短い論考ですが、大筋としては描写に関してフレーゲ「意味(reference)」「意義(sense)」を援用するJohn Hymanを攻撃する模様。

毎度ながらフレーゲの区別は定訳だと意味不明なので、以下では単に「reference」「sense」と表記します。

 

レジュメ

Hymanの見解

Hyman (2012)は、「〜〜を描写する(depict)」の用法には関係的なものと関係的でないものがあると論じた。「この絵は女王を描写している」は、特定の女王(例えばエリザベス2世)の肖像画であるという意味のときもあるし、単に王冠をかぶった女性を描いた絵であるという意味のときもある。前者は画像が画像外のなにかと取り結ぶ関係を述べており、後者は画像自体に関してそのジャンルを述べている。Hymanは当の区別が描写の哲学において重要だと考えているが、Steenhagenは異論を唱えたいらしい。

Goodmanもまた、「〜〜を表象する/描写する」は曖昧だと述べている*1画像がどの個別者の画像なのかを述べている場合もあれば、画像自体がいかなるクラスに属するのかを述べている場合もある。Goodmanの用語で言えば、前者の意味だと「特定の女王の絵(picture of the queen)」ということになり、後者の意味だと「王冠を-かぶった-女性-絵(a woman-with-a-crown-picture)」ということになる。Goodmanのモチベーションとしては、この区別によって、同一の個別者を異なる仕方で描くケースや、いかなる特定の個別者も描かない(不特定のなにかとしてのみ描く)ケースを説明したい。

HymanとGoodmanは、いずれの用法での「depict」が中心的かつ標準的なものかに関して対立点がある(後述)。また、HymanはGoodmanのような唯名論的なアプローチをとるかわりに、当の区別をフレーゲ「reference(原語ではbedeutung)」「sense(原語ではsinn)」と対応づける。Hymanの説明によれば、ある表現が表したり指定する(stands for or designates)対象が前者、当の表現が当の事物を提示する仕方、提示のモード(mode of presentation)にあたるのが後者。

フレーゲはこの区別によって、言語哲学上のパズルを解こうとしていた。例えば、「宵の明星は宵の明星である」という文と、「宵の明星は明けの明星である」という文は重要な意味において明らかに異なっている(後者には、前者にない認知的な価値があるように思われる)。reference水準の指示対象に関しては「宵の明星」と言おうが「明けの明星」と言おうが金星を指し示すことになるが、referenceとは別にsenseを設けることで、ふたつの表現は提示のモードにおいて異なるというふうに言える。よって、「〜〜を意味する」も曖昧であり、referenceについて述べているときもあれば、senseについて述べているときもある。

Hymanは、senseにおいて異なるふたつの言語表現が同じreferenceを持ちうるように、画像も同一の事物を異なる仕方で描くことができるとする。Hymanの挙げている例によれば、イワン・クラムスコイによる1873年トルストイ肖像画は、彼を黒髪で黒のスモックを着て座っている姿で描いているが、イリヤ・レーピンによる1901年の肖像画トルストイは白髭で白のスモックを着て立っている姿で描いている。どちらもトルストイという同一のreferenceを持つが、senseが異なる。

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以上の区別を踏まえた上で、Hymanは描写の理論は画像のsenseに関するものであるべきだと主張する*2。「depict」を説明することは、プロパーな意味において、その提示のモードであるところのsenseを説明することにほかならず、画像のreferenceは描写の本性とは無関係に説明される外的な事柄だとする。Goodmanは真逆に画像のreferenceこそが肝心だと考えているが、当の対立点はともかく、両者とも描写における上述の区別をしており、senseないしreferenceの片方が肝心だと考えている。

Hymanによれば、描写の哲学において当の区別を踏まえないのは、言語哲学においてreferenceとsenseの区別を踏まえず金星のパズルを扱うぐらいナイーヴであり、この点からWollheimを攻撃している*3

筆者の見解

著者SteenhagenはHymanの見解に反対する。画像におけるreferenceとsenseの区別は、たしかに有益であり、同一の事物を異なる仕方で描く画像たちのケースをうまく説明しうる。しかし、当のケースを説明するためには「表象する/描写する」の異なるふたつの用法を踏まえなければならない、というHymanの見解は間違っており、別の仕方でも説明できるとSteenhagenは考える。

言語哲学において、ラッセフレーゲの区別を受け入れていないわけだが、だからといってラッセルの理論がナイーヴなわけでも間違っているわけでもない。単にフレーゲとは異なる理論だと捉えるべき。

ラッセルは、固有名の記述説をとることで、金星のパズルをフレーゲとは別の仕方で解く*4ラッセルによれば、「宵の明星」と「明けの明星」はそもそも意味において異なるので、文に対する意味論的貢献も異なる。

フレーゲラッセル、いずれのアプローチを支持するかは論者に委ねられている。描写に関してラッセル的なアプローチをとる場合、「表象する/描写する」が多義的であることを踏まえずとも、同一の事物を異なる仕方で描く画像たちのケースを説明できるはず。

上述のクラムスコイとレーピンの事例に関しても、同じ事物を表象しているかどうかは、表象内容の部分的なオーバーラップから説明される。クラムスコイの絵は、トルストイを表象しており、また、黒いスモックを着た男性を表象している。レーピンの絵は、トルストイを表象しており、また、白いスモックを着た男性を表象している。両者は同じものを表象しているが、また、異なるものを表象している。そもそも、「この絵はトルストイを表象する」と述べることで表象内容について言い尽くしたことになるわけではなく、一連の表象内容(この場合は一連の記述)から表象されている事物を引き出しているだけなので、これは矛盾ではない。*5

描写における表象内容はしばしば言葉によって単純化されてしまう。「この絵はトルストイを表象している」と述べることで、別の「トルストイを表象している」絵との比較が可能になるが、トルストイという語によってそれぞれの表象内容が言い尽くされているわけではない。すると、描写の理論に先立って「表象する/描写する」のふたつの用法を踏まえる必要はない。

Hymanによるフレーゲ贔屓は理論的にニュートラルではない。また、referenceとsenseの区別を援用したのは彼自身の客観的類似説のためでもあり、こちらの是非も個別に検討が必要である。*6

「この絵はトルストイを描いている」と述べるとき、たしかに画像に加えてトルストイが指示されているが、これを「描写する」の特別な用法としてカウントする必要はない。「トルストイ」という固有名は一連の記述を介して実質的に当の人物を指示していることになる。これに対し、「黒いスモックを着て座っているある人物」というような不確定記述については、指示を前提としない(Wollheim, 1967)。

Hymanのように、上述の区別に準じた区別をとる論者は少なくない(Peacocke, 1987, p.383; Le Poidevin, 1997, p.182; Abell, 2013)が、いずれも厳密に言えば、なにが描写対象としてカウントされるかについて不当に制限を設けている。

結論として、referenceとsenseを区別しないからといって、その理論が論理的にナイーヴであったり間違っているとは言えない

 

✂ コメント

主に槍玉に挙げられているのはハイマンだが、全体としてはグッドマン以降、描写の哲学においてわりと定番である区別に対する攻撃になっている。僕も、先日の哲学若手研究者フォーラムでの発表で、描写内容の階層性として一連の区別を扱ったし、ここで紹介されているハイマンと同じく、「referenceじゃなくてsenseが肝心だよね」という方針なので、実質的に自説への攻撃になっている。

しかしながら、代替案として提示されている描写のラッセル的なアプローチがどういうものなのかいまいちピンとこないせいで、対立点がどこにあるのかよくわかっていないのが正直なところ。固有名に関する記述説をベースにした立場ということであれば、「描写の機能とは、一連の性質のセット(Aである&Bである&Cである……)を提示することで、これを一意的に満たす個別者を(実質的に?)選び出している」という仕方での適用が自然だろうが、筆者が考えている立場もこれでいいんだろうか。

おそらく、「この画像はトルストイを表象する」という言明と「この画像は黒いスモックを着た男性を表象する」という言明は、前者が内実として「この画像は黒髪である&黒いスモックを着ている&男性である&……を表象する」という意味になる限りで、フラットに成り立つ(referenceとsenseみたいに別々ではない)という整理かな。すると、同一の事物を異なる仕方で描く画像たちのケースも、「referenceの水準においては同じ内容を持つが、senseの水準においては異なる内容を持つ」のではなく、「表象内容(内実として、一連の記述の束)において、一部は同じだが一部は異なる」という説明になりそう。しかし後者だと、ほとんど任意の二枚の画像に関して、「(たいていなにかしら記述がかぶっているので)同じ内容を持つ」と言えてしまうが、それはそれでいいんだろうか。

また、ハイマンの立場についても、フレーゲ的な説明にどこまでこだわっているのかわからない(Hyman 2006を読んでいない)。「与えられ方」みたいなフレーゲの謎ニュアンスは置いといて、指示対象の水準(reference)と述定性質の水準(sense)を区別した上で、最終的に後者のほうが肝心だよね、という立場なのであれば、記述の束的なアプローチとぶつかるところはないんじゃないかと思われる。というのも、出発点にこそ「reference」「sense」の区別はあったが、プロパーな意味においては後者のみに焦点を与える限りで、著者の考えているラッセル的なアプローチと同じく述定性質ベースで考えていくことになるはずだからだ。ハイマンはともかく、僕はそう考えているので、自説のどこがSteenhagenのラッセル的アプローチと噛み合わないのか分からんかった。おそらく、筆者が当のアプローチについてもう少しページを割いて定式化してくれるだけで色々クリアになるはずなので、続報に期待といったところ。

 

そういえば、半年ぐらい前に「描写の哲学関連の文献を読む会(depi読)」で扱ったNovitz (1975)は、「表象する/描写する」はグッドマン的な意味で多義的ではない、という立場だった。肝心なのは指示じゃなくて述定だけなので、「picture of X」と「X-picture」の区別は不要だという立場だったが、Steenhagenは矛先が違うだけで、まさにこれと同じことを言っているのかもしれない。するとますます、僕やハイマンとの対立点はないんじゃないかと思われてくる(し、それほど目新しい立場でもないことになる)。

それにしても、描写の哲学は美学者が携わるより、言語哲学者が携わったほうが活性化するなぁ、というのを再確認した(あるいは、もちろん、認知科学の人も)。70年代の文献を見るとわりとそういうムードだったように感じるんだが、美学的な関心を持ち込んだのはやっぱりウォルハイムなんかなぁ。僕もちゃんと大全から読み直すので、「ちょっくら描写の哲学書いてみっか」という科哲の方お待ちしております。

 

*1:現代の標準的な用法で言えば、「表象する」はより一般的な関係で、「描写する」はそのうち画像に特有の仕方で取り結ばれる関係を指す。グッドマンは後者の意味でもrepresentを使っているし、本論文でもほとんど交換可能なものとして使われている。

*2:Lopes (1996)も「senseが大事」と言っているが、あれは描写に関して、文脈センシティヴなmeaningではなく、一定の不変であるsenseが大事という話なので、「reference」「sense」の区別とはまた別の話。地獄みがある。

*3:一応Wollheim (1980)も特定の事物の肖像と、不特定の事物を描く画像の違いを踏まえてはいる(『芸術とその対象』邦訳, p.212)。が、うちに見る経験の説明に関してはまとめて論じている感があるし、意図ベースの正しさの基準がともに当てはまるという立場をとっている。

*4:トルストイ」という名前が当の人物を直接指示しているのではなく、実は固有名も「『戦争と平和』の作者である&男性である&ロシア人である&……」といった一連の記述であり、それらを当の人物が一意的に満たしている、という整理。金星のパズルで言えば、「宵の明星」と「明けの明星」はそれぞれ&で繋がれている一連の記述が異なるので、そもそも意味が異なる、という話になる。

*5:こう、一見すると矛盾したことをあえて書こうとしているせいで煩雑になっているが、要は「部分的には同じだが別の部分においては異なる」というぐらいの話だろう。

*6:ハイマンは、現代の描写の哲学ではめずらしく真正の類似(genuine)説をとっている。すなわち、Hopkinsのように視覚経験上のみに類似関係を認めるわけではなく、画像と描写対象は重要な点において客観的に類似している、と主張している。重要な類似ポイントというのはずばりocclusion shapeであり、画像ないし描写対象が特定の観察点に向って発する光を平面で遮ったときの輪郭みたいなものらしいが、僕はよく分かっていない。

「イメージを切り貼りするとなにがどうなるのか」|投稿論文あとがき|参照ミーム一覧

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論文が発表されました。最新号の『フィルカル』5(2)に載っています。

「イメージを切り貼りするとなにがどうなるのか:インターネットのミーム文化における画像使用を中心に」と題して、画像表象・描写の哲学を論じた論文です。年始に開催された「描写の哲学研究会」での発表がベースになっています。*1

以下、簡単な論文紹介と、論文中に添付できなかったミーム作品の一覧を載せました*2。実際に作品を見てみないことにはいまいち味気ないと思いますので、合わせてお楽しみください。

 

*1:発表資料はresearchmapからどうぞ。

*2:著作権的にグレーな作品たちをこの場で引用することもグレーなわけですが、インターネットは多かれ少なかれそういったグレーを許容していくしかないというのが私見です。もちろん、然るべき権利者から然るべき仕方で怒られた場合は、然るべき対応をいたします。

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「ビアズリーの美学」|スタンフォード哲学百科事典

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 本記事は、「スタンフォード哲学百科事典 Stanford Encyclopedia of Philosophy」収録「ビアズリーの美学 Beardsley's Aesthetics」の意訳&抄訳である。

モンロー・ビアズリー〈1915-1985〉は20世紀英語圏を代表する美学者のひとりであり、分析美学においてはフランク・シブリー(Frank Sibley)と並ぶ巨人とみなされている。シブリーが美的なもの(the aesthetic)という美学=感性学の根幹に切り込んだのに対し、ビアズリーは「芸術批評を扱うメタ哲学」としての美学を明確に打ち出していた。シブリーが、分析的伝統を汲みつつカント以降のオーセンティックな美学を展開していたのに対し、ビアズリーは言語論的展開を一層シリアスに(ことによると偏狭な仕方で)捉えた美学者であり、良くも悪くも「THE 分析美学」な美学を試みていた。

2005年のJAAC 63(2)号では「美学におけるビアズリーの遺産」としてシンポジウム特集が組まれているが、名だたる寄稿者たちが次のように紹介している。

「もしビアズリーの『美学』が出版されていなければ、美学がなんであるのか私が理解することは決してなかっただろうと思う。出版に先立ち、私はすでに二年間も美学教員をしていたにもかかわらず、である」「ビアズリーの本の出版は、20世紀の分析美学において、最重要な出来事のひとつであった」ジョージ・ディッキー(George Dickie)

ビアズリーの『美学』は、現代の分析芸術哲学にとって、根本的な貢献を果たした」ステファン・デイヴィス(Stephen Davies)

ビアズリーは、その後の20世紀において花開く分析芸術哲学の草分けとなった栄誉に浴している」ニコラス・ウォルターシュトルフ(Nicholas Wolterstorff)

ビアズリーの主著である『美学』は、いまでも英語圏の美学教科書として使われるような大著である。分析美学という分野の紹介としては最優先の一冊だが、残念ながら和訳はまだない(いかんせん、原著600ページ超という大作だ)。*1

また、本文中でも言及されるが、ビアズリーの名がもっともよく知られているのは、文学批評の「ニュー・クリティシズム」を牽引した論文「意図の誤謬」である*2。『美学』には「意図の誤謬」を発展させた議論も含まれており、文学研究・批評理論研究にとっても重要な文献だ。*3

ということで是非訳してほしいand/or訳したいので、本記事にはささやかなプロモーションとしての意図もある。ご検討いただけると幸いです。

 

  • 0.概要
  • 1.背景
  • 2.美学の本性
  • 3.芸術の存在論
  • 4.芸術の定義
  • 5.芸術家の意図
  • 6.内的なものと外的なもの
  • 参考文献

*1:絵画の表象に関わる第6章「視覚芸術における再現」だけは、『分析美学基本論文集』に収録されている。こちらも面白い。

*2:こちらは青の『フィルカル』2(1)号に訳があり、本稿の訳文もそちらからお借りした。

【追記】

当初〈ロラン・バルトの「作者の死」より20年も早く、批評における作者の意図を攻撃する体系的な議論があったことは、分析美学者以外にはあまり知られていないのかもしれない。〉という一文がありましたが、結局知られているのか知られていないのか謎な感じになっていたので削除。「作者の死」ほどではないけどふつうによく知られているよなと思いました。

*3:余談だが、数年前に大学院の講義で読んだ思弁的実在論×批評理論の文献では、結論として「最も思弁的実在論的な批評とは、ニュー・クリティシズムだ」と言われていた。評価の是非はともかく、今日においても再考する価値のある運動だと言えよう。

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