美的なこだわりを持つことの利点?

美的にオープンマインドであること

芸術鑑賞を含む美的実践においては、オープンマインドであることが大事だと言われがちだ。偏見を持ってより好みするのではなく、どんなものでも受け入れて楽しむだけの余裕と寛容さを持つこと。それが、美的生活を豊かに営む秘訣、というわけだ。*1

ラノベを馬鹿にして純文学しか読まない人、マーベル映画を下に見てスローシネマしか見ない人、GReeeeNなんかよりもQueenを聞けと言ってくる人は、うざいし、間違っているし、損しているような気がする。そんな「偏った」人にはなりたくないし、なるべきではないと思われる。

美的生活においては、こだわりを持たず、自由な心であちこちを漂い、なるべくさまざまなものに出会うのが最善の戦略だ。もちろん、〈最大限オープンマインドであれ〉というのは、〈決してなにかをけなしたりせず、全てを愛せ〉というのとイコールではない。出会った上で気に入らないのは結構である。食わず嫌いをしない、順位を付けないという態度が肝心なのだ。

 

美的コミットメントを行うこと

ということで、美的にオープンマインドであることは、よいことだとされている。逆に、美的に閉じこもっていくこと、こだわりを持つこと、なにかを頑固に拒否することは、よくないことだとされる。しかし本当だろうか。よりオープンマインドであることは常に美的生活をより良くするのか。オープンマインドであるがゆえの損、オープンマインドでないがゆえの得というのは、一切ないのか。

考えてみるまでもなく、現実の美的生活を営む私たちは、決して完璧にオープンマインドではないラノベを馬鹿にして純文学しか読まない人、マーベル映画を下に見てスローシネマしか見ない人、GreeeeNなんかよりもQueenを聞けと言ってくる人は実際にいる。

こだわりというのは、「あの大衆向けで安易なジャンル/作者/作品なんかよりも、こっちの洗練された高尚なジャンル/作者/作品の方を見るぞ」という方向(ロー下げハイ上げ)ばかりではない。批評家連中がもてはやしているゴダールなんかより、私は新海誠を見るぞ、というのは立派なこだわりだ。

また、直接的になにかを下げる必要もない。村上春樹の小説を愛し、自分のアイデンティティにとってすごく重要なものとみなし、今後も新作は必ずチェックするし、どんなに忙しくても必ず年に1回は『ノルウェイの森』を読むぞ、と決心するのは立派なこだわりである。ある種のものを毛嫌いして拒否するのも、ある種のものを愛して身を捧げるのも、そうでなければ無限の可能性に満ちていた美的生活の未来を、ある方向に閉じていく点では一緒である。年に1回は『ノルウェイの森』を読む、なんてこだわりがなければ、その時間を使ってさらに別のなにかと出会えるかもしれないからだ。

オープンマインドであることと反対のベクトルとして、美的に閉じこもっていくこと、こだわりを持つこと、より好みすることを美的コミットメントと呼ぼう。大小はともかく、私たちはみななんらかの美的コミットメントをしているというのは、おそらくそんなに誇張された観察ではない。趣味において個性があるというのは、それぞれの美的コミットメントがあるというのとほぼ同義だ。私たちにはどうしたって好き嫌いがある。美的コミットメントが美的生活を一方的に閉ざし、悪化させるなら、なぜ私たちはこんなにも頻繁に美的コミットメントを行うのか?

この問いに答えるには、美的にオープンマインドであること、美的コミットメントを行うことの、利点欠点をそれぞれ整理する必要がある。そもそもなぜ、美的にオープンマインドであるべきだなどと思われているのか。実は、美的コミットメントをしたほうが美的生活が豊かになるという側面もあるのではないか*2

 

美的コミットメントの利点:Cross (2021)

テキサス州立大学のアンソニー・クロス[Anthony Cross]は、2021年の論文「美的コミットメントと美的義務」にて、コミットメントを行うことの利点を次のように説明している。

クロスによれば、一般的にコミットメントとは、①「ある目標を追求するぞ」という意図と、②「①の意図を持ち続けるぞ」という二階の意図がセットになったものである。それは、将来的に欲求や状況が変化し、継続がいまより困難になったとしても、目標に向けて従事し続け、どうにか達成しようとすることである。

とりわけ、美的コミットメントは、能動的に自分自身に誓うタイプのコミットメントである。ちょっとテクニカルな話だが、コミットメントは、した後の行動に適合した態度を定める。芸術的野心から家族を捨ててタヒチに移住したゴーギャンは、もしそうしていなかったら自分自身への怒りや罪悪感を感じていただろう。美的コミットメントをしているならば、自らが違反したときに、怒りや罪悪感といった感情的態度でもって反応することが適切であり、そう反応するだけの合理的理由があるのだ。*3

さて、クロスの考えでは、アイデンティティを未来に向けて固定し、将来的な変化から身を守る術となることこそ、美的コミットメントの利点である。今はあるジャンル/作者/作品が好きでも、誘惑や気まぐれによって、将来はそれと引き裂かれてしまうかもしれない。そうならないために美的コミットメントを行うのだ。

しかし、こう述べるだけではたいした前進ではない。あるものを現在だけでなく将来も選び続けるようにすることのなにがうれしいのかが明らかではないからだ。クロスが挙げている三つのうれしさを要約しよう。

  1. よい関係性の維持:当たり前だが、その対象との現在の関係がそれ自体良いものだとすれば、その関係を将来的にも維持できるし、その関係が自らのアイデンティティにとってどれだけ重要なのかが確認できる。
  2. より深い理解:コミットメントを行ったほうが、その対象をより良く鑑賞できる。長く時間をかければかけるほど、より深くそのジャンル/作者/作品の本質に迫れる。別の誘惑に負けて離れてしまうと、そこまで深く理解できないまま終わってしまう。
  3. 時間の飼いならし:自らの未来をある方向へとコントロールし、飼いならし、予測可能にすることには快がある。Scheffler (2010)が述べるように、ルーティンを持って暮らすことには、そうでなければ未知で不安を抱かせる時間というものを飼いならしているという快適さがある。

もちろん、これらは〈あらゆる美的コミットメントは良いものだ〉と言っているわけではないし、〈誰もがなんらかの美的コミットメントをすべきだ〉と言っているわけでもない。美的コミットメントには、こういった暫定的利点がありうる(こういった利点を伴った美的コミットメントがありうる)と述べているだけだ。予測できなさや新しさを好む人は決してコミットメントを行わない、というのはそれはそれで別の話である。*4

 

クロスが正しければ、美的コミットメントには確かに利点がありうる。頑固にこだわりを持つことは、①価値ある経験を将来にも継続させ、②より深く鑑賞するきっかけを与え、③時間を飼いならす快適さを与えてくれる。

ニコラス・ケイジの出てるしょうもないB級映画なんて見ないぞ」といった拒絶のコミットメントに関しても似たような利点が指摘できる。すなわち、熟慮の上でのコミットメントであれば、しょうもないものに時間を無駄にするリスクを取り除いてくれるのだ。もちろん、ある種のものが将来から取り除かれれば、ここにも時間を飼いならす快適さがある。

 

✂ コメント

クロスの議論は少なくとも、〈美的にオープンマインドであれ〉というフォークな規範に反し、美的コミットメントを行うことにも利点がありうるんですよ、というのを示している。美的に閉じこもっていくことは、そのイメージに反し、全面的に悪いことではない。そこは、私も同意できる点だ。

しかし、挙げられている「利点」については、ちょっと苦しい部分があるように思う。とりわけ、利点①②③が合わさっても、なるべくオープンマインドであることを手放して、美的コミットメントを行うことの動機づけ理由としては弱いだろうと思う。

まず①の利点があることは、せいぜい結果的に言えるだけなのではないか。オープンマインドを徹底した結果別のなにかに誘惑され、現在の価値ある関係を断ってしまった、といった失敗は確かにある。美的コミットメントのおかげで関係を維持できた、という場面も確かにある。しかし同様に、美的コミットメントのせいで、より価値のある関係を構築する機会が失われることにもなりかねない。それこそ、美的コミットメントに対する最大の懸念だったはずだ。現在のその関係は、維持するに値するほど価値あるものだなんて、分かりようがないではないか。

クロスは、よろしくない結果をもたらす「悪いコミットメント」については、私たちがコミットメントをすべきかどうか/し続けるべきかどうか、思慮深く、反省的な態度で合理的評価ができる限り、大きな問題ではないと考えている。しかし、コミットメントがもたらす美的利得の合理的評価は、やっぱり難しいんじゃないか、というのが私の懸念だ。平たく言えば、未来は予測できないというごく単純な事実から、私たちは個別の場面において、①に照らして美的コミットメントをすべきともオープンマインドであるべきとも判断できないのだ。よりよい美的生活を送るという課題に関して、未来に向けて選べる合理的戦略などないのだ。私たちはトライアルアンドエラーで、出会えた分だけ楽しみ、出会えなかった分だけ損していくしかない。

利点②に関して。集中して時間をかければより深く理解できるというのは確かだろうが、少数のものを深く理解する美的生活が、複数のものを浅く理解する美的生活よりも豊かだとは限らない*5。なので、利点①と同じく、未来に向けた合理的判断はそもそもできないかもしれない。また、利点②は目下のアイテムに時間をかけるだけの深みがあることをある程度前提しなければならない。「諦めずに『ユリシーズ』を読むぞ」という美的コミットメントには利点②があるが、もっと大衆向けでちょけた作品には「深い理解」の余地がそもそもないのかもしれない。そういった作品にも私たちはコミットするのだが、少なくとも「深い理解」がその動機とは思われない。

すると、言えるのはせいぜい、未来を飼いならしているほうが快適と感じる類の人は、そうしてくれるという利点③から美的コミットメントを行いがち、ということぐらいだ。この気質を備えた人がどれだけ多いのか、私には定かではない。もしかすると、私たちは進化論的に多かれ少なかれこの気質を抱えているのかもしれない。だとしても、その場合私たちは美的コミットメントをしてしまうのであり、熟慮の上で判断してコミットしているわけではないことになる。それが美的生活を豊かにするのかどうか分からないが、とにかく未来が未知なのは不安なのでなにかにコミットしてしまう。そのような描像は、もっともらしいかもしれないがちょっと残念だろう。*6

 

結局、私たちはふんわりなんとなくあれこれより好みしてしまうのだろう。美的コミットメントが得なのか損なのかは結果論でしかない。とはいえ、美的コミットメントに大きな利点がないからといって、オープンマインドでいたほうが得だ、美的に閉じこもっていくことは損だ、とも言えない。オープンマインドを心がけたところで、得なのか損なのかは結果論でしかない。〈美的にオープンマインドであるべきとも、美的コミットメントを行うべきとも言えない〉というのがひとまず本稿の結論となる。

はじめに戻ると、私たちには依然として〈美的にオープンマインドであれ〉という規範があるように思われる。なぜなのか。ひとまずクロスが美的コミットメントの利点をいくつか示したからには、説明責任はオープンマインド派に投げかけられるはずだ。私のように前者の利点がたいした利点でないと示すだけでなく、後者には後者ならではの利点があるのだと示さなければならない。私はそもそも〈美的にオープンマインドであれ〉というフォークな規範をあまり共有していないので、この仕事はもっと強くオープンマインド派の人にまかせよう。

*1:美的にオープンマインドであることには、少なくとも二通りの解釈ができる。

  • 選択におけるオープンマインド:特定のジャンル/作者/作品を、それであるがゆえに拒否せず、どんなものでも選択し鑑賞しようとする心構え。
  • 鑑賞におけるオープンマインド:なにかを選択した上で、特定のジャンル/作者/作品なのだ、といった分類上の先入観を捨てて、無垢の目で見ようとする心構え。

オープンマインドに選択できる人でも、オープンマインドに鑑賞するとは限らないし、逆も然りである。鑑賞におけるオープンマインドさ、鑑賞と知識の問題は美学においては古典的問題だが、ここでは扱わず、もっぱら選択におけるオープンマインドだけを問題とする。

*2:倫理的な規範を美的な規範としてスライドさせてしまうことには注意しなければならない(cf. 「たとえ論法」)。人種、ジェンダー、個人の趣味などに対して差別せず、偏見を持たず、オープンマインドであることは道徳的な美徳である。しかじかの理由からそのことが十分に認められるとしても、「だから」美的生活における選択もオープンマインドであるべきだ、とは言えない。倫理的にオープンマインドでなければならない理由や、そうすることのベネフィットは、美的にオープンマインドであるべき理由やベネフィットとは一致しないかもしれないからだ。一言で言えば、〈リベラルであれ〉というのはあらゆる分野において妥当な規範とは限らないので、アナロジーには気をつけなければならない。(もちろん、美的にオープンマインドを心がけることには、倫理的なオープンマインドにつながるという道具的価値がある、という線で前者の利点を論じることはできる。)

*3:Xなんか見ないとコミットしておいて、ついつい見てしまう/楽しんでしまうというのが、いわゆるやましい楽しみ(ギルティー・プレジャー)だ。

*4:ちなみに、クロス論文の後半では、このような美的コミットメントを使って、美的義務を説明しようとしている。芸術や美しいものを巡っては、誰がどこでなにをしようが全くの自由であり、「すべき[ought]」「しなければならない[must]」と言えるような義務などない、という見解は根強い。他方で、然るべき状況においては、美的に「すべき」「しなければならない」ことがある、という直観もなくはない。ある意味で(美的に見て)、ゴーギャンタヒチに行くべきだったのだ。クロスは、美的コミットメントをしているからにはしかじかのことをしなければならない、という仕方で美的義務が確かに存在することを示そうとしている。少なくとも、そう誓った自分は自分に対してそれらの「すべき」「しなければならない」を引き受けることになるのだ。こちらはこちらで面白い話だが、ここでは割愛しよう。

*5:「限らない」と言いつつ、私個人は少数のものを深く理解する美的生活のほうが豊かだという直観を持っている。いまのところ説明は手元にない。

*6:思うに、美的コミットメントにまつわるこれらの事情は、恋愛のそれとかなり似ている。言うまでもなく、交際という選択はひとつのコミットメントであり、おそらく美的コミットメントと同様、不合理な部分を少なからず伴っている。まぁ、スペックや条件を比較して合理的に恋愛できるような人も世の中にはいるのかもしれない。