レジュメ|ノエル・キャロル「芸術鑑賞」(2016)

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Carroll, Noël (2016). Art Appreciation. Journal of Aesthetic Education, 50(4):1-14.

 

美学者ノエル・キャロル[Noel Carroll]による、その名も「芸術鑑賞」という論文。キャロルの鑑賞・批評観が「芸術鑑賞ヒューリスティック」という概念のもとにミニマルにまとめられている。『批評について』の予習復習としておすすめな一本です。同書からちょっと修正した議論もあります。

節題はこちらでつけたもの。

1.ふたつの「鑑賞」

キャロルによれば、鑑賞[appreciation]という語には、大きくふたつの使われ方がある。

  • 好むこととしての鑑賞[appreciation-as-liking]:鑑賞とは主観的な趣味による好き嫌いの判断であり、鑑賞はここでは称賛[approbation]とニアリーイコールになる。ヒュームが述べたように、こういった趣味判断は主観的だが、理想的鑑賞者による共同評決がある限りで、間主観的になりうる。
  • 測ることとしての鑑賞[appreciation-as-sizing-up]:作品の価値を評価し、測定すること。appreciationの語源にあたるラテン語appretiareの意味合いに近い。この意味での鑑賞は非人間的であり、個人的に惹かれるかどうか、好きかどうかとは独立になされうる。大学の講義なんかで教えられるのは基本こっちであり、生徒は好き嫌いはともかく、作品を客観的に評価するよう求められる。

 

2.芸術鑑賞ヒューリスティック

キャロルは二つ目の意味合いで「鑑賞」を考えるよう推奨している。そこで、「測ることとしての鑑賞」=作品評価のための具体的な手法・手続きとして、芸術鑑賞ヒューリスティック[art-appreciative heuristic]という概念を提案する*1

 

鑑賞ヒューリスティックは、ヘーゲルダントー的な芸術の定義を出発点にしている。ダントーによれば、芸術作品であるとは、(1)なにかについてのもの[being about something]であり、(2)そのための十分ないし適切な形式[form]を持つ。しかし、芸術の定義としての不備はいろいろある*2。キャロルのアイデアは、これを芸術の定義ではなく、鑑賞のためのヒントとして組み替えるもの。

曰く、芸術鑑賞=評価においては、次のような手続きが踏める。

【芸術鑑賞ヒューリスティック

  1. 作品の意図された目的(群)を特定し、
  2. その実現のために選ばれた手段が適切・十分であるかどうかを判断する。

 

例として、ダミアン・ハースト 《神の愛のために》は、「メメント・モリというメッセージを伝える」という目的を持ち、そのための手段として実物のドクロにダイヤモンドを散りばめている。ジョナサン・スウィフトガリバー旅行記』は、「現実におけるリリパット島をめぐる争いがしょうもないことを風刺する」という目的を持ち、そのための手段としてリリパットを小人の国として描いている。

すなわち、意図された目的を特定し、それを達成するために適切な手段が選ばれているかどうかで、芸術作品を鑑賞=評価することができる。実際には、先に目的をカッチリ特定する必要はなく、形式に注目→目的を予想→形式について仮評価→目的に関して別の予想を立てる、といった反省的均衡のなかで目的が特定できればよい*3

 

芸術鑑賞を「測ることとしての鑑賞」として考えるならば、こういったヒューリスティックが使える。キャロルによれば、作品を理解できているかどうかと、作品を好むかどうかはひとまず独立であり、「良い作品っていうのは分かってるけど、個人的には好みじゃないな」と言っても矛盾はない。しかし、芸術鑑賞を「好むこととしての鑑賞」としてのみ考えてしまうと、こういう言い方ができなくなる。価値が分かるなら好きに違いないし、好きならば価値が分かっている、と考えるのはちょっと不都合なのだ。

 

3.目的の特定

では、作品の目的はどうやって特定するのか。キャロルは3つのリソースを挙げている。

  • 既存の作品との類似性に基づいて、その作品がどの芸術カテゴリー(ジャンルなど)に属しているのかが分かれば、カテゴリーの目的から作品の目的を考えられる。
  • 芸術的文脈からも、作品の目的を知りうる。モダニズムは、「絵画の本質を絵画で表現すること」が目的であり、モダニズム文脈に置かれた作品もこの目的を担う。また、芸術外の文脈が目的を指定することもある。レーニンによる「あらゆる芸術のなかで、映画が一番重要」宣言は、エイゼンシュテインらの課題を示唆していた。
  • 芸術家の発言やインタビューからも、意図された目的を知りうる。コミッション、マニフェスト、など。また、作者の意図があまり明確でなくも、鑑賞者は察することができる。

これら3つのリソース①芸術的カテゴリー、②芸術的文脈、③作者の意図を示す証拠が、ある目的において収束するなら、作品の目的はそれである見込みが高い。

 

キャロルによれば、本論文の説明は『批評について』(2008)の主張を少しだけ修正している。

  • 『批評について』では、カテゴリー分類を強調していた。すなわち、どのカテゴリーに属するかをがんばって特定し、カテゴリーが担う目的のもとで手段を評価する、という枠組みだった。
  • 本論文ではより一般的に、目的の特定を強調している。すなわち、①カテゴリーだけでなく②③も加味して作品の目的を特定し、そのもとで手段を評価する、という枠組みにした。

目的が①②③によって特定される、という事実は、目的に関する論争がありうることと、その論争が解決されうることを示している。これは、芸術鑑賞=趣味判断であり、「趣味に関しては議論できない」とする伝統的な見解と対立している。キャロルの鑑賞観において、評価のベースとなるのは事実をもとにした目的の特定であり、主観的な趣味ではないのだ。

 

4.帰結と想定反論

キャロルにおいて「測ることとしての鑑賞」の推しポイントのひとつは、Levinson (2010)が気にしていた問題を解決しうる点だ。レヴィンソンによれば、一方で、われわれは美的プロファイルを養いたい。すなわち、好き嫌いに関して個性があったほうが望ましい。他方で、われわれは理想的鑑賞者による評価を参照したい。すなわち、見る目のある人の判断であれば、信頼して、同じように判断できるようになりたい。しかし、理想的鑑賞者を目指すことは、美的プロファイルの多様性をなくしてしまうのではないか。

(この辺の話は森さんの発表資料を参照)

キャロルによれば、レヴィンソンが気にしている緊張関係は、鑑賞を「測ることとしての鑑賞」として考える限りは生じない。目的と手段に基づいて価値が分かることと、個人的に好むことは独立しているので、みんなで理想的鑑賞者(作品の価値をちゃんと測れる人)を目指したとしても、まったく同じ好みを持つようにはならない。

 

最後にいくつか想定反論に答えている。

【反論】鑑賞ヒューリスティックは芸術に限ったものではなく、バターナイフ、ライフル銃、銀行機関といった人工物にも当てはまるので、芸術評価ナラデハの説明にはなっていないではないか。

  • これはむしろ歓迎すべきことである。芸術作品の価値評価は、その他の人工物に対する評価と連続的であり、同じ手続きが使える。芸術評価にナラデハを求めたり、芸術の自律性うんぬんというのは疑わしい。

【反論】目的のない(少なくとも意図された目的のない)芸術作品もあるだろう。

  • 【応答】「どう鑑賞してくれてもいいっすよ」という表明は、ある意味、メタ的な目的の表明になっている。すなわち、「目的のない、開かれた作品を作ること」自体が目的だと言える。開かれた作品を作るためには、ありふれた解釈へと落ち込みそうな要素を排除するなど、形式上の工夫が必要になり、これらの手段が「目的のない、開かれた作品を作ること」というメタ目的を実現しているかどうかで評価できる。

【反論】「目的とか手段は知らんけど、個人的に好き」という趣味判断を排除するのは、エリート主義じゃないか。

  • 【応答1】なんも悪くない。芸術実践の外を見渡しても、「なんか分からんが、個人的に好きなだけ」という判断を信用する実践はどこにもない。あるツールの目的がまったく分かってない人によるツール評価は、ふつうだれも受け入れない。
  • 【応答2】そんなにエリート主義でもない。鑑賞ヒューリスティックという客観的な知識・技術は、学んで練習すれば誰にでも獲得できるものである。「趣味の良さ」とかいう概念は新参者には深淵すぎるが、鑑賞ヒューリスティックの手続きにミステリアスなところはなにもない。目的特定や手段評価は芸術教育として教えやすいし、学生としても学びやすい。また、①芸術的カテゴリー、②芸術的文脈、③作者の意図といった事実の尊重からして、この枠組みはエリート主義でもなんでもない。

 

本論文の主張をまとめると、こうなる。

  • 鑑賞は「好むこととしての鑑賞」と「測ることとしての鑑賞」に区別でき、後者のほうがいろいろよい。
  • 「測ることとしての鑑賞」は、1.目的特定、2.手段評価からなる「芸術鑑賞ヒューリスティック」によって説明できる。
  • これは、芸術以外のものに関する評価と連続的であるため、芸術鑑賞だけが神秘的というわけではない。
  • また、評価は事実ベースでなされるため、芸術鑑賞は単なる意見相違の問題ではなく、議論ができるものである。

 

✂ コメント

キャロルらしい、クリアカットだが論争的な論文だった。

『批評について』もそうだが、キャロルの鑑賞観・批評観は評価[evaluation]ありきといった感じで、解釈や感情的経験や好き嫌いは、あくまで評価に資する限りで意義を認められる。評価に関しては、意図された目的を中心に据える点でかなり意図主義よりで、一瞬どうかなぁとは思うが、鑑賞ヒューリスティックの枠組みなんかは極めてエレガントなので、もうこれでいいじゃん、という気にさせられる。実際、「この作品の目的はXで、そのために使われている手段はYで、YによるXの達成度は○○点です」という説明以上に、批評的に気になることなんてほとんどないんじゃないか、とすら思ってしまう。

こういった鑑賞観は浅い、という反論はあるだろう。とくに、批評実践の豊かさが〜うんぬんという向きには評判がわるそうだが、キャロルに差し替えせるほどの「深さ」「豊かさ」は、正確に言ってなんなのか。厳密に語ろうとするなら、結構難しいんじゃないか。

JAE収録というのもあって、鑑賞ヒューリスティックという枠組みが、美的教育の問題に直結するのも好感ポイント。鑑賞が趣味の問題であり、「趣味については議論できない」なら、芸術教育はしんどいだろう。本論文は、Film Studiesを始めとした専門教育のサポートにもなっているのが印象的だ。

 

一点だけ水を差すとしたら、「『批評について』はカテゴリー重視で、本論文はより一般的に目的重視」という対比は、キャロルと別の仕方でも整理できるかもしれない。

たしかに、カテゴリーを既存の、名前が付いたジャンルなどに限定して考えるならば、カテゴリー批評にできることはかなり制限されるだろう(典型的なジャンルものしか扱えない)。その限りでは、カテゴリーより目的を中心に据えたほうが、多様な批評ができるようになる。

問題は、カテゴリーを「既存の、名前が付いたジャンルなど」に限定して考えなくてもいいんじゃないか、という点だ。例えば、私は先日の応用哲学会での発表で、「作品を鑑賞・解釈・評価する上での「観点」「見方」「フレーム」など……そこから意味や価値が立ち上がる枠組み一般」としてカテゴリーの語を用いた。これは拡張的な意味合いかもしれないが、ともかく要点はこうだ。

  • 作品の価値は、作品性質(手段としての形式)だけでなく、目的と相対的に測られるものである。
  • 目的を伴う枠組みが無数にある。枠組みAにおいては作品の性質pは利点である。枠組みBにおいては作品の性質pは欠点である。
  • 枠組みAやBは、メジャーなものかもしれないし、マイナーなものかもしれない。みんながしばしば採用する枠組みであるかもしれないし、私個人が逆張りのために参照する恣意的枠組みかもしれない。
  • メジャーな枠組みの一部だけが、名前(ジャンル名、様式名、運動名、など)を得る。

重要なのは、目的と結びつき、手段と照らして価値評価させるような枠組みにとって、名前が付いていることは本質的ではない、ということだ。無名のカテゴリーであっても、同様に評価的機能を果たせる。

逆に、評価的機能を果たす枠組みがあり、それが間作品的に正しく使えるものなのであれば、その限りで一連の作品を括っている当の枠組みを「カテゴリー」と呼んでもいいのではないか。ちょっと違和感があるなら、「フレーム」なんかのほうがいいかもしれない。

要は、「あるカテゴリー(フレーム)のもとで手段を評価すること」と「ある目的のもとで評価すること」は言い方の問題であって、実態としては交換可能なんじゃないか。無名のカテゴリーないしフレームを認める限りで、「目的の特定」はそれを伴う「カテゴリーの特定」とイコールであり、「カテゴリーの特定」はそれに伴う「目的の特定」とイコールになる。

すると、これも発表スライドの引用だが、「ある意味で、批評は分類に始まり分類に終わる。正しく分類することは、正しく評価・解釈するための枠組みを得ること」であり、正しく評価・解釈するための枠組みを得ることは、同時に正しいカテゴライズを行うことだと言ってよさそう。分類は評価を伴い、評価は分類を伴う、というわけだ。なので、キャロルは重点の違い(「カテゴリー」か「目的」か)を、そんなに気にする必要はなかったと思う。

もちろん、このもとで「作品本来の目的=作品の正しいカテゴリー」がなにによって決定されるのかは別の話だ。私はキャロルが本論文で言っていることのほとんどをサポートするが、正しい目的の決定要因に関してだけは対立する。キャロルは意図や文脈を重視しているが、私は制度の役割を見ていきたい、その他いろいろ。

 

すっかりサンタクロースなキャロルのインタビュー動画も参考になるので、合わせてどうぞ。

質問リストも適当に訳しておきます。

【PART1】

  • 00:09-  芸術をよりよく鑑賞することができれば、その人の人生はどのように改善されますか?
  • 01:54- 芸術を鑑賞したり理解したりするために、どこから始めればよいのでしょうか?
  • 03:50- あなた自身は、ダントーのアイデアになにかを加えていると考えていますか、それとも離れていると考えていますか?〔キャロルはダントーの研究者でもある〕
  • 06:36- あなたにとって、趣味と美的経験の違はなんですか?
  • 10:06- デューイによる美的経験の概念はどこが間違っているのでしょうか?
  • 11:25- 何年か後に作品に戻ってきて、異なる評価をすることに重要性はあるのでしょうか?
  • 13:21- ジョージ・ディッキーが18世紀を「趣味の世紀」と呼んだのはなぜだと思いますか?
  • 16:33- なぜ私たちは、芸術鑑賞の趣味モデルを無視するべきなのでしょうか?
  • 20:23- 趣味に基づくバイアスのなにが問題なのでしょうか?
  • 21:22- あなたの「芸術鑑賞ヒューリスティック」とはなんでしょうか?なぜそれが味覚モデルよりも優れているのでしょうか?
  • 24:26- なぜ、芸術鑑賞の味覚モデルを捨てることに抵抗があるのでしょうか?
  • 29:04- 美に対する感情的な反応から逃れることができず、認知的な仕方での芸術分析に取り組むことができない人がいるということはありますか?

【PART2】

  • 00:09- 作品が個人の人生に与える影響は、その作品の評価に影響するのでしょうか?
  • 03:51- 美術評論家はアーティストであるべきか?
  • 09:35- 趣味なしで、どうやって質を見定めるのですか?
  • 15:08- これは芸術鑑賞に対する「エリート主義的なアプローチ」だ、と言うコメントにはどう答えますか?
  • 18:36- 芸術作品の目的が不確定であることはありえますか?もしそうだとしたら、それによって鑑賞することが不可能になるのでしょうか?
  • 22:30- 目的のない作品を作ることは可能でしょうか?
  • 23:14- 作品の目的に関するアーティストの説明が信用できない場合、どうすればいいでしょうか?
  • 25:26- どちらも効果的に目的を果たしているが、一方の目的が他方よりも優れていることからある作品が他の作品よりも優れていると言えるでしょうか?
  • 30:02- 芸術鑑賞と鑑賞一般を分けるものはなんでしょうか?
  • 31:57 - センシティブな写真をメディアから見えにくくさせないように、アーティストによって再制作されることについて、なにか考えがありますか? 

【PART3】

  • 00:09- なぜ今日、これほど多くのリメイク映画が作られていると思いますか?
  • 03:10- レビューを書く前に映画を複数回見たら、映画批評家の仕事はより良くなるでしょうか?
  • 06:51- 芸術鑑賞ヒューリスティックの下では、映画批評は映画の意図された目的を果たす能力を強調することに焦点を当てるべきでしょうか?
  • 09:10- ロジャー・イーバートのような映画批評家は、映画の意図された目的を適切に議論するような書き方をしていますか?
  • 12:03- 理想的な映画評論家は、映画製作者の心を完全に反映していると言えますか?
  • 14:09 - 映画のように多くの異なる目的群によって構成された作品は、絵画のように一人の人間がより少ない目的によって作った作品よりも、全体的に見て大きな目的を持っているのでしょうか?
  • 18:11- 映画は多くの人によって作られるので、映画批評家の仕事は美術評論家の仕事よりも難しいのでしょうか?
  • 20:24- 最近ご覧になった映画のなかで、特に評価の高いものはありますか?
  • 24:40- アニメーション映画についてはどうですか?
  • 25:11- 『ジョーカー』(2019)についてのご感想は?

*1:ヒューリスティクス(英: heuristics、独: Heuristik)または発見的(手法)とは、必ず正しい答えを導けるわけではないが、ある程度のレベルで正解に近い解を得ることができる方法である。発見的手法では、答えの精度が保証されない代わりに、解答に至るまでの時間が短いという特徴がある」

*2:2つ目の条件に「十分ないし適切な形式」を含めるせいで、悪い芸術作品が認められない。1つ目の条件に関しては、抽象的なデザインや絶対音楽といった非表象的な芸術形式を認められない。

*3:反省的均衡は『批評について』では、正しいカテゴリーを特定するための手続きとして紹介されていた。