「行為」は美学にとって真っ当な主題と言えるのか

7月27日土曜日に大妻女子大学で、「美と行為」をテーマにした公開ワークショップに登壇します。

6月はじめの勉強会で、「美的行為論の論文を書いている」と森さんにお話したところ、5人も登壇者が集まり、難波さんにおしゃれポスターを用意していただき、あれよあれよと大規模なワークショップに発展しました。ありがとうございます、とても楽しみです。

自分は「美しくする、美しくやる:なにが行為を美的行為にするのか」と題して話す予定です。要旨はこんな感じ。(他の方の要旨は上の森さんのブログにあります。)

なにが行為一般から美的行為を線引きするのか。本発表は、美的なものと形式の概念を結びつける古典的見解に基づき、美的行為を特徴づける。(1)行為の対象、(2)感性の行使、(3)美的評価からの動機づけが、いずれも美的行為をうまく線引きできないことは、興味深く、独特な仕方で美的と言える行為などないことを示しているように思われる。このような線引きの放棄に対し、私は美的行為を美的価値の担い手となる行為として同定するイージー・アプローチを提案し擁護するつもりだ。このアプローチに、美的価値についてのある種の形式主義を加えることで、美的領域に含まれる多層的な規範性について理解することができる。ときに、私たちにはアイテムから形式的欠陥を取り除く(すなわち美しくする)理由があり、ときに、その理由はさまざまな考慮事項によって拘束力を増す。しかし、より根底的な事実として、ある種の行為(演奏したり、発音したり、歩くこと)は、美しくなされなければならない。私たちに美への配慮があろうがなかろうが、私たちの美的行為は形式的欠陥を回避しなければならないのだ。

なのですが、問題の所在や背景を導入するパートが長くなりすぎてしまったので、ここで先出しします。私の発表だけでなく、今回のワークショップ全体の主題に関わる内容なので、予習に使っていただけると当日より楽しめるかもしれません。まぁ、今回のワークショップは「美×行為」での大喜利企画なので、話の方向性は発表者それぞれなのですが、少なくとも青田麻未さんのご発表には深く関わる内容だと考えています。

ワークショップの趣意文に「美学は伝統的に判断(judgment)・鑑賞(appreciation)を議論の中心に置きがちであった。しかし、近年の美学はその偏重を脱し、美的領域のより多様な側面に目を向けようとしている」とありますが、本エントリーはこの辺の解説です。

つい最近、青田さんによる日常美学本の背景解説として、同じような話を高田さんが書かれていました。本エントリーよりだいぶミニマルにまとまっているので、先に読んでおくのがおすすめです。

なので、本エントリーや上記ワークショップでの私の発表は、日常美学という、青田さんによって日本に紹介されたばかりの分野に対するコメントという性格を持っているとも言えます。日常美学については、本文のなかでも触れます。

前置きはこれぐらいにして、本題に移ります。

美的なものの特徴づけという課題

一本の美しいギターがある。これ使って、あるいはこれに対してあなたができることはたくさんある。あなたはギターをデザイン、製造、展示、販売することができる。購入、運搬、保管、清掃、改造、塗装、ステッカーを貼り、チューニングし、アンプにつなぎ、弦を交換し、火事の楽器屋から救い出すこともできる。単にギターに近づいたり、見たり、触ったり、質感を堪能することもできるし、もちろん、演奏、録音、作曲に使うこともできる。ライブパフォーマンスで壊すこともできるし、反ポピュラー音楽の儀式で燃やすこともできる。

全部ではないにせよ、このリストのなかには「美的行為」と呼べる行為があると思われるかもしれない。このように考えるとき、私たちは美的なものの特徴づけという課題に踏み込んでいる。

美学、というのは美的なものの学問だが、美的なものの特徴づけという課題はそのコアを成している。その他の◯◯とは区別される、独特な仕方で「美的」と言える◯◯はなにか。美学者たちは◯◯に色んなものを入れ、それぞれの仕方でこのコアタスクに取り組んできた。*1

古典的なところでは、「美的判断」「美的態度」が主な探求テーマであったと言えよう。美しいという判断を下すことは、その他の判断(善悪、有用さの判断など)を下すこととは重要な点で異なると考えられたのだ。判断者の心構えが特別である、判断の基盤が特別である、などなど。美的判断論は、美しさだけでなく、優美さや崇高さの判断を含むような仕方で拡張されていった。

分析美学の定番としては、「美的概念」「美的用語」「美的知覚」「美的経験」「美的価値」「美的対象」「美的快楽」「美的満足」「美的鑑賞」「美的反応」「美的性質」「美的特性」などが含まれる。このうち、モンロー・ビアズリーの影響下でとりわけ盛んに論じられてきたのは「美的経験」と「美的価値」だろう。ビアズリーは、ジョン・デューイの考えを引き継ぎ、美的経験には特別な現象学(感じられ方)があるとした。そんな特別な経験を与えるアイテムには、特別な価値としての美的価値があるので、私たちはこれを維持したり促進すべきである。こうして美的福祉が論じられる。

もうひとつ、フランク・シブリーの影響下で注目されてきたのが、「美的概念」である。シブリーは伝統的な美的判断論をよりストレートに継承しており、美的な概念を適用するときの論理について、とりわけ日常言語に着目しつつ探求していた。シブリーによれば、美的概念ないし美的用語には使い方に関して特別な制約がある。シブリーはもっぱら言葉の論理に関心があったのだが、その議論はやがて「美的性質」の存在論へと発展していく。概念が特別なのだとしたら、それが指示する性質も特別だろうと考えられたわけだ。*2

美的行為」は、「美的規範性」「美的実践」「美的理由」「美的義務」「美的生活」「美的共同体」などと並んで、近年の新入りにあたる。大雑把に言い切ってしまうならば、哲学的美学はここ20年あたり実践的転回を遂げている。経験という静的・受動的な次元よりも、行為という動的・能動的な次元に注目してみよう、というわけだ。美しい絵画を鑑賞したり、自然の壮大さに感動するだけでなく、部屋を掃除したり、スニーカーを集めたり、友達と食事したり、そういった日常的な行いにも美的な側面がある。だとすれば、行為についても美学することができるし、伝統的な美学はこれを無視してきたのではないか、と。

しかし、任意の分野はただそうしようと意図することによって、任意の方向へと転回できるわけではない。転回した先にある探求が、転回に先立つ分野の目的や方法を引き継いでいるかが問われるのだ。もし、伝統的な美学的関心から決定的な点で逸脱しているのなら、新しい“美学”は実のところ、正当な意味での美学ではなく、ただ好き勝手にあれこれ取り上げて「これも美学だよねぇ」と言い張っているに過ぎないことになる。

これは単に言葉遣いの問題ではなく、美学という学問のコアに関わっている。「美的[aesthetic]」という述語自体、18世紀に特定の関心のもとで作られたテクニカルタームであって、日常語ではない。人々が「美的」と呼んでいるものに注目し、分析したらある現象が見えてきたのではなく、その逆、私たちにうっすら見えているある現象を輪郭づけるために「美的」という術語が用意されたのだ。美的なものの特徴づけは、ほとんどつねに美的でないものの排除を含んでいる。ことの始まりからして、美学とは線引きなのだと言ってもいいだろう。

美的判断論と美的態度論

「行為」というのは美学が伝統的に排除してきた主題である。したがって、美的行為論というのが、新しい美学として認められるかどうかは、かなり論争的なポイントである。

美学が行為を排除してきたことは、わりと簡単に確認できる。行為に関する古典的見解(ヒューム的見解)によれば、行為には欲求が必要である。冷蔵庫に食べ物があるという信念だけでは、冷蔵庫を開けるという行為には至らない。行為者に、空腹なのでなにか食べたいといった欲求が必要なのだ。適当に定式化すると、「(信念+欲求)→行為」となる(矢印は「それに至る」ぐらいの意味)。

一方、美的判断に関する古典的見解(カント的見解)によると、美しさの判断は欲求とは関係しない。カントのやたらわかりにくい表現によれば、「趣味判断を規定する適意はあらゆる関心を欠いている」。いわゆる美的判断の無関心性として、カントはふたつのことを述べている。*3

第一に、美的判断は帰結として欲求を引き起こすような判断ではない。あるものを美しいと判断したからといって、これになんらかの欲求が合わさって、行為に至ることはない。比喩的に言えば、美的判断は外へと出ていくものではないのだ。これによって、カントは美しいものと快適なものを区別している。マッサージのような快適なものは、それを得たい・続けたいという欲求を引き起こし、そのための行動へと至らせるが、美しいものはそうではない。つまり、「(美的判断+欲求)→行為」ではない。

第二に、美的判断は欲求に基づいた判断でもない。あるものにこうあってほしいという欲求に、現にそういうものであるという判断が合わさって、美しいという判断に至ることはない。比喩的に言えば、美的判断は外からやってくるものではないのだ。これによって、カントは美しいものと善いものを区別している。鋭いナイフのような善いものは、ナイフには鋭くあってほしいという欲求に基づいて善いと判断されるが、美しいものはそうではない。つまり、「(信念+欲求)→美的判断」でもない。

では、外へと出ていくわけでもなく、外からやってくるものでもない美的判断とは、どのようなものなのか。カントによれば、美的判断は観想的[contemplative]であり、さらにカッコつけて述べるところでは「構想力と悟性の自由な戯れ」である。対象の姿かたちへとうっとり没入し、心身の内的活性化を感じ取り、その心的状態にとどまる、ぐらいの意味だ。奇妙ではあるものの、重要な意味において、「美的判断↔美的判断」なのだ。

目下重要なのは、第一の意味での無関心性、すなわち美的判断は欲求を引き起こして、行為につながるようなものではないという特徴づけだ。これは、カントさんマジrespectのショーペンハウアーを経て、いわゆる美的態度論へと発展する。20世紀初頭にエドワード・ブロウが影響力の大きい論文を書き、後にジェローム・ストルニッツがまとめ上げたこの考えによれば、芸術や自然を美的に経験するときには、経験それ自体を超えたさらなる目的をいったん脇に置くような心構え、適切な心的距離が必要なのだ。豊かな土地を眺めて満足する地主、娘の演劇を見てハラハラする父親、レポートのために興味のない音楽を聞く学生には、経験それ自体を超えた外在的な関心がある。彼らは判断するもの(土地、演技、音楽)に対して無関心ではない点で、美的判断の主体として不適格である。

美的態度論はジョージ・ディッキーという強烈な批判者によって弱体化されたが、美的判断の無関心性という考えは、現在に至るまで美的なものの有力な線引きとされている*4。良くも悪くも無関心性は美学にとってのコアとして期待されてきたのであり、つい2023年にもこのテーマで論集が編まれている。そして、この見解通りに美的なものがただ観想されるだけのものなのだとしたら、「美的行為」なんていう主題はフェイクだということになる。

美的経験論と日常美学

しかし、問題をややこしくしているのは、紆余曲折を経て20世紀なかごろに広まった美的快楽主義ないし美的経験主義という理論である。これはまずもって美的価値の理論だが、それを超えて重要な帰結を持つ、射程の広い理論である。それによれば、美しかったり優美なもの、一般的に美的に良いものは、美的快楽ないし美的経験という価値ある経験を与えるからこそ良いのである。美的に良い芸術や自然は、美的経験という特別な経験のための道具だということになる。

美的経験というのが、美的判断についてそう考えられてきたように無関心性から特徴づけられるなら問題は生じない。私たちは芸術や自然を道具として、美的経験という観想的経験に没入し、その外へと出ていかない限りで、いかなる行為にも動機づけられない。*5

しかし、美的経験論は、ときとして無関心性という特徴づけを無視して展開されることがある。カントは欲求を引き起こさない美しいものと引き起こす快適なものを区別したが、美的経験主義者は必ずしもこれを受け入れているわけではないのだ。

例を挙げよう。快を与えるものが欲しいという欲求に、美しい=快を与えるギターだという信念が合わされば、そのギターを買うという行為が動機づけられる。同様に、不快を遠ざけたいという欲求に、汚れた=不快を与えるギターだという信念が合わされば、そのギターをクロスで拭く行為が動機づけられる。美的なものを、快不快を与えるものから区別せずその一部として扱うならば、美的判断はふつうに行為につながるのだ。つまり、「(美的判断+欲求)→行為」と言える。*6

美的経験主義者は長らく、あえて美的経験の促進行為に注目することもなかったが、これを精力的に取り上げたのが、青田麻未さんによる入門書が出たばかりの日常美学という分野だ。おおまかには、2000年代なかごろに体系化され、プレゼンスを示すことになる。

ユリコ・サイトウが牽引する当の分野は、伝統的に芸術鑑賞に偏りがちだった美学を、もっと日常的なアイテムに対する行為をもカバーした形で拡張するよう提案する。芸術作品でなくても、私たちは椅子や部屋や食べ物について美的に判断し、さまざまな行為に駆り立てられている、というわけだ。今日における美的行為論の流行は、基本的には日常美学の延長線上にあると見てよいだろう。

しかし、一部の美的経験論や(少なくとも私の理解するところでは)これを引き継いだ日常美学は、古典的なカント的見解を単に無視するところに成り立っているのであった。すなわち、美的判断は行為につながらないという、200年ものあいだ強く支持されてきた線引きを、昇華させるわけでもなく単に手放すことで、「新しい美学」を構想している。そんなことしていいのか、それで得られるのは本当に美学なのか、と懸念されるのは当然であろう。これは、青田さんも日常美学本のなかで何度か取り上げている懸念だが、本のなかでは十分に応答できていないように思う点であり、ワークショップの際にぜひ伺いたい点だ。*7

続いて、日常美学のもう少し先の話をしよう。

美的行為論と美的価値論

「今日における美的行為論の流行」と言っているのは、おおむね2010年代なかごろからトレンディな、「美的行為」「美的規範性」「美的実践」「美的理由」「美的義務」などの諸理論のことである。これが日常美学の延長線上にあることはすでに述べたが、他の要因として現代行為論やメタ倫理学の発展を挙げるべきだろう。具体的には、2017年にヨーロッパ美学会刊行の『Estetika』誌上で組まれた「美的理由と美的義務」の特集が大きな転換点であったと私は理解している。メンツから分かるように、寄稿者はふだん必ずしも美学をやっているわけではない、行為論や倫理学の人が多い。しばしば哲学的にテクニカルな雰囲気は、2000年代の日常美学とはノリの違いを感じる。

2018年にはドミニク・マカイヴァー・ロペスが『美のために存在すること:美的な主体性と価値』という本を発表して、このトレンドを決定づけることになる。2021年にアレックス・キングが「美学における理由、規範性、価値」という優れたサーベイ論文を書いているので、そちらを読んでもらえれば議論の雰囲気はつかめるはずだ。

美的行為論の流行にとってもうひとつ重要な要因となったのが、美的経験主義の見直しである。日常美学の論者たちは、しばしば美的価値に関する経験主義者でもあり、美的に良いものが与える快楽や美的に悪いものが与える不快をもととして行為が動機づけられる、というモデルで考えていた。近年、美的行為論に取り組む論者たちは必ずしもそうではない。ロペスの本においてとりわけ顕著なように、彼らは美的判断の主体が感じる快不快以外のところで、主体が行為へと導かれるシナリオを与えようとしている。例えばロペスは、ごく大雑把には、主体の社会的身分が要因となって主体を行為に導く、というモデルを提唱している。*8

考えてみれば、倫理学において主体が行為へと至るシナリオは少なくとも三つある(功利主義、義務論、徳倫理学)のに、美学者はそのうち最初のものを当然視してきた。美的経験主義はいわば、美学版の功利主義である。これに対し、ロペスのネットワーク理論なんかは、美学版の徳倫理学という趣がある。*9

ということで、美的行為は事実上、美学のニューフェイスとして認められた感がある。しかし、しつこいようだが、無関心性という長らく重視されてきた特徴づけはどうなったのか。それは単に無視してよいものなのか。実は、ロペスは先に触れた無関心性の論集に寄せた論文で、無関心性の伝統をまさに拒絶しようとしている。こちらについてはまだチェックできていないので、読み次第また紹介しよう。

バックラッシュ

美的行為論のトレンドに対し、より保守的な美学者たちは、行為から観想的経験へと関心を引き戻そうとしている。その筆頭が、オーバーン大学のケレン・ゴロデイスキーである。

美的行為論の推進派が採用していたモデルを振り返ろう。ギターを買ったり拭いたりといった行為は、ギターが美しかったり汚かったりといった判断に基づいているのであった。美的判断から美的行為への橋渡しは、美的経験主義とネットワーク理論の間で相違するものの、そこに橋がかかっていること自体は共通認識である。

ゴロデイスキーの見解をおおざっぱにまとめるならば、美的なものはその橋の手前、すなわち美的判断や美的経験のほうにあるのであって、橋の先にあるのはとりわけ美的でもない、ふつうの行為である。あるギターを美しさで買うのも安さで買うのも、たいして違いはない。美的判断に基づいているという一点を除けば、美的行為をその他の行為から区別する独特な特徴などないのだ。したがって、美的行為はごく派生的な意味において、「美的」を冠するに過ぎないことになる。派生的でない、一次的な仕方で美的なものは、ゴロデイスキーによれば美的快楽ないし美的鑑賞である。ちゃんと美的なものを捉えたいのならば、美学者は行為ではなく快楽・鑑賞に注目すべきであり、実際、伝統的に美学者たちはそうしてきたのだ。*10

ところで、ロペスの『美のために存在すること』はかなり序盤で、美的価値に関する線引きの問い規範的問いを区別している。前者は、その他の価値から美的価値を区別する特徴を見つける、という課題に相当する。後者は、美的価値から行為する理由へとつながるシナリオを提示する、という課題に相当する。そしてロペスは美学者としては大胆にも、線引きの問いを棚上げし、規範的問いに集中することを選ぶ。どれがなにゆえ美的価値なのかを線引きすることなく、それらを包括しているであろう一般的な行為論を提示しようとするのだ。

ゴロデイスキーはこの方針にも反対している。そうして提示されるのは、例え正確なのだとしても、とりわけ美的なものにならではと言えるところのない、一般的な行為論である。そこまで露骨な表現は使っていないものの、おそらくゴロデイスキーはロペス的な試みが美学であることにそもそも懐疑的なのだろう。

まとめ

ということで、美的行為論はカント的見解を無視・否定する推進派と、判断や経験や快楽や鑑賞へと関心を引き戻そうとする反対派の間で、いくらか緊張を抱えつつ進展しています。トレンドという点では推進派のほうがだいぶと優勢ですが、反対派は検討に値した懐疑を提示しており、推進派はそれに十分に応答できているわけではない。というのが、いくらか反対派に寄った私から見た、今日の論壇です。

話の続きは冒頭で宣伝したワークショップに譲りましょう。なんだか、「その話って、本当に美学なんですか?」というコメントばかりするやっかい登壇者になりそうな予感がしますが、その手のコメントをする場合に念頭に置いているのは、上で長々と述べてきたようなことです。推進派の方も反対派の方も、ぜひ物申しに来てください。

 

公開ワークショップ「美と行為」
日時:2024年7月27日(土)13:00-
場所:大妻女子大学 千代田キャンパス A棟 A464教室(もともとA450教室でしたが、変更になったそうです)
https://www.otsuma.ac.jp/about/basic/access/chiyodacampus/
開催方式:対面形式(事前登録不要・参加無料)

主催・お問い合わせ先:森功次(大妻女子大学

 

 

*1:ここで美学と呼ぶのは、芸術哲学と同一でもなければ、芸術哲学を包含するわけでもない、感性的認識の学のことである。美的なものと芸術的なものを混同すると、話は一気にややこしくなる。例えば、芸術創作という行為にまつわる議論がちゃんと美学に含まれているので、美学はとりわけ行為を排除してないだろう、という考えは、芸術創作論(詩学)を美学の一分野として前提している。これはこれで伝統ある仕方でのカテゴライズだが、私は反対だ。以下を参照。

*2:ちなみに、『分析美学入門』のステッカーは第3章で美的経験論、第4章で美的性質論を取り上げている。それぞれ、ビアズリー的伝統、シブリー的伝統に対応していると言ってもいいかもしれない。

*3:厳密には、カントは「美的判断」の下に快適なものの判断も含めている。これを排除し、美しいものの判断に話を絞るときには「純粋美的判断」と言ったりするが、ややこしいのでここでは美的判断というのでつねに純粋美的判断を意味することとする。

*4:美的態度という神話」(1964)という有名な論文でディッキーが主張するところでは、豊かな土地を眺めて満足する地主、娘の演劇を見てハラハラする父親、レポートのために興味のない音楽を聞く学生は、あまり集中できていないという点を除いて、さらなる関心のない鑑賞者と根本的に異なるわけではない。ただ音楽として楽しもうとしている鑑賞者が払うような注意や思考を、レポートのために聞く学生が動員できないと考えるべき理由もない。さらなる関心を持っていることと適切な観照をすることは、両立可能なのだ。この論文、下訳は手元にあるので、気が向いたらどこかで発表したいと思っている。

*5:ところで、美的経験の線引きに関しても分析美学者たちは一枚岩ではない。ビアズリーは美的経験には特別な現象学があると考えたが、ディッキーはこれを否定している。数十年後、おおむねビアズリーの方を引き継いだロバート・ステッカー、マルコム・バッド、ジェロルド・レヴィンソンらは、美的経験を内在的に価値ある経験として捉えたが、ノエル・キャロルはこれを否定し、美的経験とは単に美的な性質を内容とした経験だと主張した。キャロルがディッキーの弟子にあたる、というのを知っておくと、分析美学史の見通しがよくなるだろう。

より近年は、ベンス・ナナイのように、知覚の特殊性から美的経験を線引きする論者もいる。美的経験が重要な点において知覚的であることはわりとコンセンサスに近いが、キャロルはこれにも反対している。

*6:私の知る限り、モンロー・ビアズリーはこのような、「行為を排除しない美的経験論」の代表格である。上で触れたようにビアズリーはデューイの思想を直接的に引き継いでいるが、ここには、世界をより良い方向へと改善しようとするプラグマティズム的伝統も含まれている。デューイからビアズリーへの影響については、今後もうちょっと調査したいところだ。

*7:サイトウは2001年の論文で日本文化を例としつつ、美的経験においては行為を含む諸要素が渾然一体となっていると主張する。おそらくはこの観察から美的行為という主題を正当化している部分がいくらかあるのだろうが、正当化としてはまだ弱い気もする。というのも、そこに渾然一体として感じられる現象があるにせよ、美学者はそこから美的な側面だけを抽出しようとしてきたはずだからだ。いずれにせよ、伝統的な美学は分析的で、日常美学は全体論的といってもいいかもしれない。あまり好きな二項対立ではないが、西洋的/東洋的と言われるときのあれだ。

*8:他にも、愛着やコミットメント、共同体的なつながりなどが、快不快に変わる美的行為の要因として注目されている。前者としては、アンソニー・クロスロビー・クバラアンドリュー・マクゴニガル、後者としては、ニック・リグルが有名どころ。クロスの理論は前に紹介した。

最近の美的価値論について書いたものは複数あるが、とりあえず以下を参照。

*9:もうちょっと解説を加えるなら、ロペスにおける美的行為のシナリオは次のような感じ。任意の美的エージェントは、自らが属する美的実践において自らが分担する行為タイプを踏まえ、その種の美的エキスパートが達成を収めるためにやるようなことをやるべきなのだ。大雑把に言えば、主体はうまくやっている人を見習い、うまくやるべきなのである。うまくやった先にある達成を、ロペスは明らかにアリストテレス的な開花繁栄になぞらえている。私は長らくロペスにおける「達成」がなんなのか(とりわけ、それがなぜ快楽に還元できないのか)ピンときていなかったが、徳倫理的なそれなのだと気づいてだいぶ見通しが良くなった。

*10:ゴロデイスキー自身の美的快楽論は、だいぶ込み入っているが、前に紹介したことがある。

ところで、「鑑賞はふつうに行為では?」という向きは、「鑑賞」という日本語のニュアンスに引きずられている。現代日本語の「鑑賞」は、作品と直面している時間のうちに生じるもろもろ全体を指す、価値中立的な用法がある。なので、「鑑賞行為」と言ったりすることにそんなにぎこちなさはない。一方、英語でいう「appreciation」には、堪能する・好むというニュアンスがより強い。少なくともゴロデイスキーはこのニュアンスで「appreciation」を使うし、この意味でのappreciationは行為というより情動である(悲しみを抱くことが行為ではないのと同様)。もちろん、ここには「行為=意思による自発的ふるまい」という前提があるが、これに議論の余地がないわけではない。