画像経験の二重性(twofoldness)について:リチャード・ウォルハイムとベンス・ナナイ

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描写の哲学関連のサーベイです。

ベンス・ナナイ(Bence Nanay)の論文を立て続けに4本ほど読んだ。

  • Nanay, Bence (2004). Taking Twofoldness Seriously: Walton on Imagination and Depiction. Journal of Aesthetics and Art Criticism 62 (3):285–289.
  • Nanay, Bence (2005). Is Twofoldness Necessary for Representational Seeing? British Journal of Aesthetics 45 (3):248-257.
  • Nanay, Bence (2011). Perceiving Pictures. Phenomenology and the Cognitive Sciences 10 (4):461-480.
  • Nanay, Bence (2015). The History of Vision. Journal of Aesthetics and Art Criticism 73 (3):259-271.

ナナイはリチャード・ウォルハイム(Richard Wollheim)が画像経験の二重性twofoldnessと呼んだ性格についていろいろと書いている*1。ナナイ自身も、この概念の扱いについてアップデートし続けているので、ブレを整理する意味でもまとめておきたい。

【これまでのあらすじ】

ゴンブリッチ「絵画は、本当は平面のキャンバスなのに、それとは異なる対象を見せることで鑑賞者を錯覚させる(錯覚説)」

ゴンブリッチ「鑑賞者は、描かれている対象に注意を向けているさいは表面を忘れており、表面に注意を向けているさいは描かれている対象を忘れている(画像経験の一面性)」

ウォルハイム「いや、対象に注意を向けているさいも表面を忘れちゃいないでしょ(一面性の否定)」

ウォルハイム「画像の経験は二重性によって特徴づけられる。鑑賞者は、画像表面のうちに対象を見る(seeing-in説)」

ウォルハイム「構図的側面と再認的側面が…ほにゃほにゃ」

ナナイ「どゆこと?」

ナナイが書いている通り、ウォルハイムのアーギュメントはだいぶ曖昧で、なにかと疑問点が残る。これを解きほぐしたい。

 よくある間違い

先立って、二重性に関するありがちな誤解をといておく。

誤解が見られがちなのは、ウォルハイムの二重性に関してウサギ-アヒルが引き合いに出されるような場面だ。ウォルハイムが「画像一般が、画像表面と描写対象の二重性において経験される」と論じるとき、意味されているのはウサギ-アヒル絵のように「〈ウサギ〉として見ることもできるし、〈アヒル〉として見ることもできる」という事柄ではない。

おそらく、誤解のおおもとはゴンブリッチにある。ゴンブリッチは、画像経験の一面性を訴える上で、「描写対象を見ているうちは画像表面を見ていない」と論じたくだりまではウォルハイムらと歩調を合わせていたが、これを支持する議論としてウィトゲンシュタインのseeing-asを援用したあたりから様子がおかしくなる。ウィトゲンシュタインの例は、ゴンブリッチが論証したい事柄と対応していないのだ。

「ウサギ(描写対象1)/アヒル(描写対象2)」に関するアスペクトの切り替えと、「画像表面/描写対象」に関する注意の切り替えは、水準の異なる話題であって、ゴンブリッチの援用が失敗していることを示している。

なにとなにが二重なのかについては後述するような議論があるものの、さしあたり「二次元の画像平面」「三次元の描写対象」が二重である、という話として理解しておきたい。ウサギとアヒルは両方とも三次元。

 

二重性はなににとっての必要条件なのか

まずもって、二重性が要求されるような場面はどういう場面なのか。

二重性をなににとっての必要条件として解釈するか、二通りの道があるというのは、Levinson 1998が論じている。Nanay 2005の整理によると、

(a)画像経験一般にとって、二重性が必要条件である。

(b)画像の美的鑑賞にとって、二重性が必要条件である。

ウォルハイム自身、この辺を混同していると思しき書き方をしているが、レヴィンソンが指摘するように、(a)と(b)は別々の主張である。

ゴンブリッチもウォルハイムも美術畑の人なので、(b)に関心が寄るのは当然だろう。しかし、今日の描写の哲学は非美的な画像も含めて画像一般を扱うのが標準的なため、(a)も重要になってくる。

レヴィンソンは強い要求として二重性のawareを解釈する(後述)ので、(a)は否定する。すなわち、二重性は画像の経験一般について必須のものではない。

一方、芸術的画像(絵画など)の美的鑑賞という限定された実践に関する(b)について、レヴィンソンは支持する。絵画の適切な鑑賞は、それがなにを描写しているのかに関する特定に尽きるものではなく、どのように描写されているのか、メディアへの注意が求められる。

ナナイも、美的鑑賞についてはレヴィンソンに同調している。一方で、二重性をレヴィンソンとは異なる仕方で理解した場合、(a)についてもナナイは支持できるとする。

ここで、問題は「二重性」の解釈に移る。

 

なにとなにが二重なのか

一番シンプルな仕方で理解された二重性とは、二種類の対象が同時に経験されている、という意味での二重性である。すなわち、

(1)画像経験において、観者は、3次元の描写対象の性質にawareであると同時に、2次元の画像表面の性質にawareである。

『Art and its Objects』(1980)の時点で、ウォルハイムは二重性をこのように定義している。しかし、このような要約には不安が残る。

第一に、二種類の対象が同時に経験されているというのは、単に別々の経験が偶然的に共存しているだけだと言われるかもしれない。

第二に、経年劣化によるキャンバスのひび割れなど、描写対象の性質には貢献しないような画像表面の性質がある。このようなケースをはじきたい。

『Painting as an Art』(1987)のウォルハイムは別様の説明をしている。それによると、二重性とは単一の経験が持つ二つの側面aspectである。ウォルハイムの言葉遣いによれば、画像知覚には「構図的側面configurational aspect」と「再認的側面recognitional aspect」がある。前者は描かれた表面marked surfaceに関わり、後者は描写対象depicted objectに関わる。ナナイの整理によれば、

(2)画像経験において、観者は、描写対象にawareであると同時に、その描写され方についてもawareである。*2

ナナイによると、筆づかいなどの「描写され方the way it is represented」は画像表面の性質にスーパーヴィーンするが、画像表面の性質そのものではない。これによって、ひび割れのケースをはじける。

ナナイによると、ここでもウォルハイムは(1)と(2)を混同しているらしく、それぞれの意味で主張されている箇所がそれぞれある。

正直、「単一の経験が持つ二つの側面aspect」という話からなぜ(2)のようなまとめになるのかもうひとつピンと来ていないのだが、ナナイはこれを詩とのアナロジーにおいて説明する。詩の鑑賞には、その意味だけでなく、音(意味の与えられ方)が重要となる。これが描写対象と、その描写され方に対応するとのこと。

ナナイは、(b)の意味での二重性を(2)画像の美的鑑賞と結びつけ、(a)の意味での二重性を(1)画像経験一般と結びつける。結果として、(2)で解釈された二重性が、画像の美的鑑賞にとって必要であることについては、レヴィンソンの主張を引き継いでいる。

一方、レヴィンソンに反し、ナナイは(1)の意味での二重性を、(a)画像経験一般の必要条件とする。今度は「aware」の解釈による。

 

「awareである」とはどういうことなのか

ウォルハイムが「画像表面surfaceと非表象対象represented objectの両方に気付いているaware」と書いたときのawareについては、二つの解釈が可能であるとする。

(あ)観者は、画像表面と描写対象の両方に、意識的に注意を向けているconsciously attend。

『Art and its Objects』(1980)の定義では、はっきりとattentionの語が使われている(p.213)。

レヴィンソンは(あ)で解釈した上で、「ポストカードの絵やテレビ番組を見るときに、画像表面に注意を向けているわけではないので、二重性は必要条件じゃない」とコメントしている。ナナイも、attendという強い要求としてawareを解釈する場合、二重性を画像経験の必要条件とするのは無理筋だとしている。画像表面に注意を向けず、その内容だけに注意を向けることは、明らかに可能だからだ。

ナナイによれば、ウォルハイムのawareはもう少し弱い要求として修正的に解釈できる。少なくとも、『Painting as an Art』(1987)以後のウォルハイムはconsciously attendほど強いことを要求しているわけではない。

Nanay 2005は「attendしていなくても両対象をregisterしていればよい」みたいなふわっとした説明をしているが、Nanay 2011では別の提案をしている。それによれば、

(い)観者は、画像表面と描写対象の両方を、(心的に)表象しているrepresent。

画像表面と描写対象が、いずれも意識に浮かんでいる必要はない。しかし、観者が形成する視覚的な心的表象に関しては、画像表面と描写対象の両方が生じている、とナナイは訴える。

ここでナナイがとっているのは明らかに知覚の表象主義的立場であり、わりと問題含みの立場ではある(自分でも言ってる)。

Nanay 2011は、腹側(Ventral)視覚経路背側(Dorsal)視覚経路が、それぞれ描写対象の心的表象と画像表面の心的表象に貢献している、と訴えている。「描写のVentral-Dorsal説」はナナイにとってメインのアーギュメントであり、これを支持するための認知科学的データを挙げたりしている。しかし、個々の論証をあまり評価できていないので、ここでは保留としておこう。

ともかく、「画像経験は一般的に、画像表面と描写対象の両方が関わってくる」というのがナナイの主張であり、大筋としてはウォルハイムの擁護となっている。

 

まとめ

二重性がなにに関する話なのかについて、二つの解釈がある。(Levinson 1998; Nanay 2005)

(a)画像経験一般

(b)画像の美的鑑賞

 

なにとなにが二重なのかについても、二つの解釈がある。(Nanay 2005)

(1)画像表面+描写対象

(2)描写対象+描写され方

 

二重性の経験におけるawareという心的状態についても、二つの解釈がある。(Nanay 2005; 2011)

(あ)意識的に注意を向けている

(い)心的に表象している

 

(b)については、レヴィンソンもナナイも認めている*3。レヴィンソンは(a)+(あ)に関して否定しているが、ナナイは(a)+(い)によって肯定している。

二重性についてはざっくり(a)+(1)+(あ)の主張だと理解していたので、解釈の広がりが確認できて勉強になった。

 

そのほか残された問題

トロンプルイユは画像じゃないのか

二重性説にとって明らかなネックの一つは、トロンプルイユTrompe-l'œilといっただまし絵である。

トロンプルイユに騙されている限り、鑑賞者は画像表面に気づかない。これはトロンプルイユ制作において意図された、正しい見方ですらある。

トロンプルイユは二重性において経験されない、という点で、画像経験の必要条件を満たしていない。よって、トロンプルイユは画像ではない、という帰結がもたらされる。

『Painting as an Art』のウォルハイムはこの帰結を受け入れる線でねばっているが、「いやいや、トロンプルイユは画像でしょ」という見解もあり、これだけで一つの論争領域を形成しているほどだ。

未読だがナナイもトロンプルイユ問題について書いている。

 

画像経験の十分条件はなにか、正しい描写対象はなにか

二重性は画像経験の必要条件、あるいは控えめに言って画像経験の重要な特徴だろうが、明らかに十分条件ではない。月のクレーターのうちにうさぎを見たり、岩の割れ目に人の顔を見るように、画像ではない対象も二重性の経験を与えうる。

また、画像のうちに見ることのできる対象の候補は複数ある。ウサギ-アヒル絵のような画像が、「ウサギを描写している」のか「アヒルを描写している」のか「ウサギでありアヒルであるようなものを描写している」のかは、うちに見ることができる+αによって説明されなければならない。このような問題は、「正しさの基準standard of correctness」として議論されている。

ウォルハイムはざっくり、画像製作者の意図を組み込むことで、十分条件を提出しようとしている。キャサリン・エイベルも、意図の線で正しさの基準問題を扱っている。

 

ウォルトン説との対立点

『Painting as an Art』ほか、ウォルハイムは繰り返しケンダル・ウォルトン(Kendall Waltonの「ごっこ遊び説」をディスっている。*4

  • Wollheim, Richard (1991). A Note on Mimesis as Make-Believe. Philosophy and Phenomenological Research 51 (2):401-406.
  • Wollheim, Richard (1998). On pictorial representation. Journal of Aesthetics and Art Criticism 56 (3):217-226.

ウォルハイムは、自身のうちに見る説がウォルトン理論と拮抗するものだと考えているらしい。ウォルトンからの応答は以下。

  • Walton, Kendall (2002). Depiction, Perception, and Imagination: Responses to Richard Wollheim. Journal of Aesthetics and Art Criticism 60 (1):27–35.

 二人の論争(?)については清塚邦彦さんの論文を参照。

清塚邦彦(2010)「絵を見る経験について : R・ウォルハイムとK・L・ウォルトンの論争を手がかりに」

ウォルハイムは、ウォルトンが画像経験を能動的な想像から論じた点に不満らしいが、清塚さんによればここには誤解がある。ウォルトン的な「想像」は、能動的になされる必要はなく、受動的でありかつ指定される(公式のごっこ遊び)ものである。*5

「そもそもなぜ画像は二重性において経験されるのか」「二重性とは、どのような知覚的プロセスなのか」といった知覚の本性に関わる問題について、ウォルハイムはたしかなことを述べていない。Walton 2002は自説がウォルハイム説に対する補足となっていることを強調しており、清塚さんもこれを認めている。

 一方、Nanay 2004はウォルトン説がウォルハイム説の補足となっていることを否定する。こちらはナナイが(おそらく)はじめて描写について書いた一本だ。

ウォルトン説は「画像表面を見る経験」が「描写対象を見る経験」として想像される、とする点で、二重性をウォルハイムから引き継いでいると称する。しかし、ここで二重とされているのは、二つの経験experienceである。このような二重性の理解は、ウォルハイムの「構図的/再認的」の枠組みとズレている、とナナイは分析する。

また、「経験」の内実を現象学的なクオリアとして解釈する場合、二重になりようがない!などの指摘によって、ウォルトン理論とウォルハイム的な二重性が両立しないことを主張している。結論として、ウォルトンは「二重性」を無理に引き継ごうとするべきではない、と述べる。

 

二重性に関連する話題

視覚の歴史?

Nanay 2015は、美術史において主張される「視覚の歴史(history of vision)」について扱っている。*6

美術史によれば、人間の視覚は歴史を通して変化してきたのであり、絵画の評価においては当時の人びとの視覚を念頭に置かなければならない。当の主張は、ハインリヒ・ヴェルフリン、アロイス・リーグル、ヴァルター・ベンヤミンらによって支持され、美術史においてはかなり広く受け入れられている。

一方、視覚の歴史説についてはアーサー・ダントーデヴィッド・ボードウェルらが反論しているほか、知覚のモジュール説といった反証も存在する。(モジュール説はモジュール説で疑わしい説なのだが)

ナナイは、「視覚が歴史的に変化した」という主張の内実を整理しながら、最終的にこれを擁護している。曰く、変化したのは「ものを見るさいの現象学的経験」であり、この変化をもたらすのは「視覚的注意visual attentionの変化」であるとのこと。バスケットボールをパスしあう集団に混じったきぐるみゴリラの実験とか。

西洋における芸術絵画の美的鑑賞に注目した場合(すなわち、上述の(b))、画像の二重性への注意twofoldness attentionは16世紀ごろに広まったと思しき証拠がある。アルチンボルドダヴィンチの絵画、ウォルフィンやウォルハイムらの記述は、いずれも16世紀以後、二重性への注意を前提とするような美術が増えたことを示している一方、16世紀以前に二重性が重視されていた証拠はなく、アルベルティ『De Pictura』(1450)など当時の美術理論書も、もっぱら描写対象の話に尽きている。表面は注意を払われていない。

ここから、ナナイは仮説的に「16世紀以前は画像の二重性が注意されていなかったが、16世紀以後は注意されるようになった」として、視覚的注意が歴史的に変化したことを主張する。注意の変化は、視覚の現象学的経験を変化させる。よって少なくとも、16世紀イタリア美術の例においては、「視覚は歴史的に変化した」。

ナナイは、この仮説が別の時代や地域にも一般化できると予想している。こちらも議論の評価には踏み込まない。

 

個別作品の批評?

ナナイによるアンドレアス・グルスキー論(Nanay 2012)は、前にレジュメをあげた。いま思えば、これは二重性の枠組みを作品批評として応用する試みなのだろう。

ナナイによれば、グルスキー写真の面白いところは、それがミクロな構造とマクロな構造を持ち、ミクロな構造に二つの役割がある点だ。

近くで見た場合、ミクロな構造は二重性における描写対象となる。遠くで見た場合、ミクロな構造は二重性における画像表面上のデザインの役割を担う。これはアルチンボルドの野菜が持つ二重の役割と同じらしい。注意の変化によって、〈野菜〉という描写対象としても見られるし、〈人〉という描写対象のためのデザインとしても見られる。*7

アルチンボルドとは異なり、グルスキーの巨大プリントは、鑑賞者が歩み寄ったり離れたりすることで注意が変化する。*8

 

音楽作品の二重性?

音楽作品の美的鑑賞には「演奏された音楽作品の性質/演奏トークンの性質」の二重性がある、みたいな話もしている。

本文は未読。アブストを見る限り、こちらも「二重性」の語を借りている以上にウォルハイムとの接点があるわけではなさそう。

 

 

以上。ほかに思いついたら書き加えます。

こんだけ書いておいて、ウォルハイムの原典はほとんど読めていない、というのがplot twistです。オンライン読書会などやりたいですね。

 

 

文献一覧

  • Levinson, Jerrold (1998). Wollheim on Pictorial Representation. Journal of Aesthetics and Art Criticism 56 (3):227-233.
  • Nanay, Bence (2004). Taking Twofoldness Seriously: Walton on Imagination and Depiction. Journal of Aesthetics and Art Criticism 62 (3):285–289.
  • Nanay, Bence (2005). Is Twofoldness Necessary for Representational Seeing? British Journal of Aesthetics 45 (3):248-257.
  • Nanay, Bence (2011). Perceiving Pictures. Phenomenology and the Cognitive Sciences 10 (4):461-480.
  • Nanay, Bence (2012). The Macro and the Micro: Andreas Gursky's Aesthetics. Journal of Aesthetics and Art Criticism 70 (1):91-100.
  • Nanay, Bence (2012). Musical Twofoldness. The Monist 95 (4):607-624.
  • Nanay, Bence (2015). The History of Vision. Journal of Aesthetics and Art Criticism 73 (3):259-271.
  • Nanay, Bence (2015). Trompe l’oeil and the Dorsal/Ventral Account of Picture Perception. Review of Philosophy and Psychology 6 (1):181-197.
  • Nanay, Bence (2018). Threefoldness. Philosophical Studies 175 (1):163-182.
  • Walton, Kendall (2002). Depiction, Perception, and Imagination: Responses to Richard Wollheim. Journal of Aesthetics and Art Criticism 60 (1):27–35.
  • Wollheim, Richard (1980). Art and its Objects. Cambridge University Press.
  • Wollheim, Richard (1987). Painting as an Art. Thames & Hudson.
  • Wollheim, Richard (1991). A Note on Mimesis as Make-Believe. Philosophy and Phenomenological Research 51 (2):401-406.
  • Wollheim, Richard (1998). On Pictorial Representation. Journal of Aesthetics and Art Criticism 56 (3):217-226.

*1:シノハラユウキ(@sakstyle)さんのエントリーで知ったが、ナナイはカリフォルニア大学でウォルハイムに教わっていたらしい。

出典はPostgraduate Journal of Aestheticsに載ったインタビューだが、聞き手が不気味さ研究のMark Windsorっていうのも面白い。「ウォルトン>レヴィンソン」「カリー>エイベル」「キヴィ>メスキン」に加えて、分析美学の師弟関係ネタが増えた。

*2:Nanay 2018では、二つの解釈を組み合わせて調整した結果、画像には三重性threefoldnessがあるのだと主張される。すなわち、①画像表面、②視覚的にエンコードされた三次元の対象、③三次元の描写対象、という三項が関わってくる。②は、Nanay 2005の時点で「描写され方」と言っている事柄を引き継いでいるように思われる。三重性は三重性で曖昧な部分を残す枠組みだが、この辺は松永さんが見事に整理してくださっている。以下を参照。

*3:Nanay 2011では(b)+(1)+(い)の線で整理されている。曰く、画像の美的鑑賞においては画像表面もVentralに知覚されている。

*4:ウォルトンの描写論については以下にまとめている。

*5:ウォルトンの「想像」概念が能動性を要求しないというのは正しい解釈である。にしても、言葉づかいに関する落ち度は明らかにウォルトン側にあるだろう。

*6:余談だが、この論文には中国語訳があり、華東師範大学発行の『中国美学研究』10号に収録されている。ナナイ、中国にも進出しているのか……。

*7:アルチンボルドはナナイのお気に入りらしく、よく例示されている。しかし、冒頭に松永さんのツイートを挙げた通り、よけいにミスリーディングな事例ではないかと思われる。ナナイは、アルチンボルドみたいな複数アスペクトの作品について、その鑑賞には「画像表面/描写対象」という二重性への注意が前提となる、と考えているらしい(Nanay 2015, p266)。わかるようなわからないような。

*8:二重性をこのような批評に応用するのはナナイのオリジナルであり、正直なところ、だいぶ無茶していると思う。上の記事にも書いたが、追加で不満点を思いついたのでいくつか。

第一に、ウォルハイムの用語を使いつつ、ウォルハイムの関心からはだいぶ離れたところで議論しているため、無駄に用語を攪乱しているのではないかという懸念がある。

第二に、ミクロな構造が「描写対象」にもなるし「画像表面」としての役割も担う、という説明がいまひとつピンとこない。グルスキーにしろアルチンボルドにしろ、そこに見られているのは複数のアスペクトであって、ウサギ-アヒル絵のそれに近い画像であると考えるのが妥当であろう。グルスキーの場合、単一の画像表面上のデザインが、〈幾何学的な模様〉としても〈川〉としても見られる、という説明で十分なはずだ。前者が後者のためのデザインとして機能する、という入れ子的な整理のうれしさはわかっていない。

第三に、このような説明によって、グルスキー写真の面白さやナラデハ性が十分に引き出せているのか定かではない。「分析美学の理論と個別作品の批評を接続するのは難しい」といういつもの話ではある。