どの活動がなにゆえ「芸術」なのか?

芸術哲学の(根幹とまでは言わずとも、)代表的なトピックのひとつは芸術の定義である。芸術とはなにか。どこのどれがなにゆえ芸術作品であり、その他のアイテムはなぜ芸術作品ではないのか。

分析美学における芸術の定義史は教科書[1][2]やStanford Encyclopedia of Philosophyのエントリーを読んでいただければ結構なので、ここでは新しめの話を紹介する。*1

芸術の定義とバックパス

芸術の定議論では、制度説や歴史説といったそれなりにもっともらしい立場が現れて以降、おおきなブレイクスルーはなかった。流れを変えたのはドミニク・ロペス[Dominic Lopes]である。2008年の、その名も「芸術の理論なんて誰もいらない」という論文で、ロペスは次のように提起する。

私たちが必要としているのは、芸術[art]の理論じゃなくて、諸芸術形式[the arts]の理論である。気になる/気にすべきなのは、音楽、ダンス、演劇、文学、映画、絵画、建築といった各芸術形式の本性であって、「芸術」というドでかいカテゴリーの本性ではない。私たちは「いい絵画だなぁ」と言ったりするが、めったに「いい芸術だなぁ」などとは言わない。ロペスは、artの理論をthe artsの理論によってバックパスしようとする。すなわち、

(R) あるアイテムxは芸術作品である ⇔ xは活動Pにおける作品であり、Pは諸芸術形式のひとつである。(Lopes 2008: 109)

音楽、ダンス、演劇、文学、映画、絵画、建築がそれぞれ芸術形式、芸術実践、芸術活動なのは分かっているとしよう。ある個別の対象xがそのいずれかの種に属するならば、xは芸術作品である。芸術作品の定義なんてこんなんでいいのだ、とロペスは考える。芸術の定義論にさらなる「○○説」を付け加えるかわりに、ロペスはゲームチェンジを提案しているのだ。

 

ロペスの方針は、2014年の単著『Beyond Art』で体系的にまとめられる。さて、そうなってくると当然次に気になるのは、どの活動がなにゆえ芸術活動と言えるのか、である。なぜ備前焼は芸術活動なのに、コーヒーマグカップ作りは芸術活動じゃないのか。なぜ小説家による執筆活動は芸術活動なのに、新聞記者によるレポートは芸術活動じゃないのか。なぜバレエを踊るのは芸術活動だが、サッカーのシュートは芸術活動じゃないのか。活動によって生産されるもの(食器、テキスト、動作)は似てるどころか、場合によってはまったく見分けがつかないのに。

ということで本題、ミシェル・アントワーヌ・イネス[Michel-Antoine Xhignesse]による論文「なにがある種を芸術-種にするのか?」(2020)に移る。*2

 

なにがある種を芸術種にするのか?

ある種(形式、実践、活動)が芸術種なのかどうかは、慣習の問題である、というのがイネスの主張だ。「慣習」の中身については後ほど問題にするとして、とにかく慣習は本性から恣意的で偶然的なものなので、どれが芸術種でどれがそうでないかも恣意的で偶然的であり、したがってどれが芸術作品でどれがそうでないかも恣意的で偶然的だということになる。慣習的にそうなっちゃっているからにはそうなのであり、それ以上でも以下でもない。元も子もないと言えば元も子もない説明だが、イネスはこれを受け入れる。曰く、ある種を芸術種にするのは、「慣習的な雰囲気[a conventional atmosphere](488)」である。(もちろん、これはダントーが述べた「an atmosphere of artistic theory」へのオマージュだ。)

 

まずイネスは、ロペスが話をそちらにシフトさせようとしているthe artsが、物理的メディアのことではないのを確認する。備前焼とマグカップ、小説と新聞記事、ダンスとシュートは、ものとしてはすごく似ている。「絵画」を純粋に物理的メディア(平面上に印を付けた物体)のことだとみなしてしまうと、子供の雑な落書きも《モナ・リザ》も等しく絵画だし、ロペスの原則(R)に従えばどちらも芸術作品だということになる。しかし、子供の雑な落書きは芸術作品ではないはずだ。どうやったらこのような線引きを理解できるのか?*3

芸術種についてのイネスの方針は、ロペスによってすでに予告されたものである。ロペスは芸術種のかわりに「芸術メディア」を問題としているが、ロペスにおける「メディア」はちょっと変わっている。曰く、絵画、写真、映画といったメディアを区別するのは技術的リソースであり、ここには物理的な素材(もの)だけでなくテクニックのような手続きも含まれている。ざっくり言えば、メディアは物理的なものだけでなく、テクニック、やり方、手続きによって個別化されるのだ。*4

これを引き継ぎ、手続き改め「慣習」こそが芸術種を芸術種たらしめている、というのがイネスの中心的な主張となる。では、「慣習」とはそもそもなにか?

 

ふたつの慣習概念

よく知られた慣習[convention]の定義は、デイヴィド・ルイス[David Lewis]によるものだ。つい数年前に邦訳が出た『コンヴェンション:哲学的研究』で、ルイスは慣習を「コーディネーション問題への解決手段」として説明している。実際にはゲーム理論のテクい話だが、以下ではポイントだけかいつまんでインフォーマルに紹介する。

コーディネーション問題(調整問題)[coordination problem]というのは、二人以上のエージェントが互いの出方を見て自らの戦略を決めるような場面であり、利用可能な選択肢が複数あり、さしあたりは直接的なコミュニケーションができないような場面だ。具体的としては、車を運転するときには右車線を走るか、左車線を走るか、といった例が挙げられがちだ。みんな揃ってそちらを走るなら右でも左でも構わないが、ランダムに走ってぶつかるのはまずい。

ある選択が実現され、安定し、もはや自分だけ離脱しても得しないような状況を均衡[equilibrium]と言う。現在の日本では左車線走行が均衡をなしている。私が今日から自分だけ右車線走行をしようとしても、衝突してケガするだけなので、そんなことをしようとは思わない。みんなそう思っているので、誰も右車線走行には切り替えない。みんなで左車線を走るという戦略の安定によって、コーディネーション問題は解決される。

法律のようなルールを受け入れることでコーディネーション問題は手っ取り早く解決しうるが、そういう明示的合意がないうちは、私たちはいわば「空気を読む」(合理的に考慮する)しかない。連絡がつかない友達と渋谷で待ち合わせをするなら、とりあえずハチ公のような顕著な[salient]場所に行くだろう。前にTSUTAYA前で待ち合わせをしたという先例[precedent]があるなら、TSUTAYA前に行ってみるのも手だろう。ルイスによれば、とりわけこういった先例を通してコーディネーション問題を解決する装置こそ、慣習にほかならない。前にもそうしたから今回もそうする、そしてみんな同じように考えて前にしたのと同じことをするからこそ問題が解決される。それが慣習の役割であり、本性である。

 

しかし、イネスはルイス的な慣習は芸術活動と非芸術活動の線引きには使いづらいと考えている。なぜなら、芸術実践というのは、そもそもコーディネーション問題を解くようなものではなさそうだからだ。芸術作品を創造するという課題は、車線を選ぶという課題とはあまり似ていない。マニエリスムの絵画実践では人物の手足を長めに描く慣習があるが、その慣習抜きには困ってしまうような問題があらかじめ存在し、当の慣習が問題が解決しているわけでもない。一般的に、ルイス的な「慣習」は、あらかじめ存在し、解決されるべきコーディネーション問題を前提する点で、私たちが慣習とみなしているあれやこれをカバーするには狭すぎるのだ。

イネスはより使い勝手のよい慣習概念として、Millikan (1984)の慣習概念を持ち出す(SEP「Convention」の6.3も参照)。ミリカン的な慣習は、「もっぱら先例に由来して複製[reproduce]していく行動パターン」であり、コーディネーション問題への解ともなりうるが、そうなることは必須ではない。複製は、「行動パターンP1から、それと似た行動パターンP2が生じ、P2はP1に反実仮想的に依存している」ことから説明される。なんらかの点で有益だから行動パターンとして複製されるのではなく、単にそうしてきたからそうし続けるという点が、慣習であることのポイントだ。先例に沿って同じような行動パターンを複製していれば、なんの役にも立たないとしても、そこにはもう慣習がある。また、意図して複製する必要もなく、無意識にふるまっても慣習の一部を構成しうる。ルイスが推論能力やら共通知識やら合理性やら意図をエージェントに要求する一方で、ミリカンはそういうのを全く求めない。ミリカンの自然主義的な「慣習」は、複製関係だけを要件とすることから、ルイスとは逆に広すぎるのではという懸念もある(例えば、合理的でない動物にも慣習があることになる)。それはともかく、イネスは芸術慣習をミリカン的な慣習から説明しようとする。

 

芸術慣習の恣意性

いわゆるアートワールドも、さまざまな芸術慣習(ジャンルごとの解釈・評価慣習、イコノグラフィー、描写の規範など)が合わさった、複雑なシステムとして理解される。実際のところ、芸術慣習の起源と発展の全貌を追うのは難しいので、イネスは比較として17世紀オランダのチューリップ・バブルを紹介している*5。1610年代ごろからオランダの宮廷ではチューリップがアクセサリーとしてバズり、それを身につけることのなにがうれしいのかを置き去りにして、人気だからより人気になり、高価だからより高価になっていった。チューリップ・ワールドはやがてバブル崩壊に至るが、それまでの間、植物学者、園芸家、栽培家、商人、花屋といったさまざまな職種の人がそれぞれ役割を果たしていた。こういった投機的な力によって突き進み、強化されていく点で、かつてのチューリップ慣習と現在まで続く芸術慣習は同類である、というわけだ。どの花が人気を博し、価値あるとみなされるようになっていくのかは恣意的である。チューリップだからこそバズった、という側面はほとんどない。同様に、どの活動が芸術慣習に組み込まれるのかは、根本において恣意的である。

 

さて、芸術活動なのかどうかが慣習の問題であり、慣習は恣意的だというのはわかったが、もっと具体的に言って、ある活動が芸術活動なのかどうかを私たちはどうやって知りうるのか

イネスはこの問いに対して始終消極的である。結局のところ、諸芸術の歴史は長すぎて資料も断片的であるため、歴史上のどの時点でどういう理由から芸術活動となったのか、私たちには知り得ない場合が多い。とはいえ、比較的最近の芸術形式であり資料も豊富なもの、例えば映画については、なぜ諸芸術のひとつなのか多少は具体に答えられるとする。映画の制作や鑑賞の実践を調査し、現代文化において果たしている役割に着目すれば、機能主義的に映画はひとつの芸術形式なのだと言えるかもしれない。この手の説明は、すでに同様の役割を果たしてきた別の芸術形式(絵画や写真)から映画が派生してきたのだと指摘することで、正当化される。

 

まとめよう。イネスが当初気にしていたのは芸術作品の定義であった。ロペスにならい、(1)あるアイテムが芸術作品かどうかは芸術活動の産物かどうかの問題だとした後で、イネスは(2)ある活動が芸術活動かどうかは芸術慣習的にそうなのかどうかの問題だとした。芸術慣習は恣意的なので、したがって芸術作品かどうかも恣意的である。芸術の定義としては、ディッキー的な制度説のややこしいところ(「身分の授与」とか「鑑賞の候補」とか)を削って、ミニマルにまとめたものだと位置づけられるだろう。

イネスによる重要な補足として、芸術慣習の起源が恣意的であるからといって、今日においてもなんの有用性もなく、維持する強制力もないわけではない。むしろ、はじめは恣意的でも、慣習は自己強化を重ね、ふるまいを統制するような規範として発展していくものだとする。

 

✂ コメント

「芸術種」と呼ばれているものはおおむね「芸術のカテゴリー」に対応するので、私の博論テーマにとっても非常に重要な論文だ。使っている説明項がミリカンの慣習かグァラの制度かという違いはあるが、社会的アプローチをとる点でも、私とは方針が大きく重なっている。

大きな対立点になりそうなのは、(1)芸術慣習(ないし制度)に根本的かつ包括的な恣意性があるとするのか、(2)いくつかの場面ではコーディネーション問題とその解としてのパターンがあるとするのか、という点だ。前にDebates in Aestheticsに書いた論文では、私は芸術のカテゴライズ実践について後者に傾いている。グァラの制度理論はルイスの慣習理論の上に築かれているので、(多くの点でサールの制度理論よりはマシなのだろうが)イネスからは狭すぎると言われるかもしれない。本論文では触れていないので、イネスがグァラの制度理論をどこまで有望だと考えているのかは分からないが。

とはいえ、そんなに深刻な対立点があるわけでもなさそうだ。いま投稿中の論文では「ジャンル」なる芸術のメタカテゴリーをルールの観点から分析しているが、そちらにはジャンルについてのルイス的説明をしているAbell (2015)に対抗して、イネス=ミリカン的な説明を突きつけるくだりが含まれる。実際、芸術におけるジャンル=ルールがどう有効性を獲得するのか(イネス的な問い方としては、ある芸術種がどう定着するのか)については、まったくの恣意的か、さもなければ問題解決のための合理的採用だという、二者択一を迫られるものでもなさそうだ(という話も書いている)。

 

私はもうすっかり分析美学における芸術の定義論に毒されたので、芸術作品かどうかは社会的相互作用のなかで恣意に決まるという見解にはそんなに驚きはなかった。しかし、〈芸術とはなにか〉をまさにこれから考えようとしている人にとっては元も子もないし、知的に魅力的でない立場のように思われてしまうのではないか、というのは時折思わないでもない。だからどうしようというわけでもないが。

 

*1:ざっくり流れだけ紹介すると、芸術作品の本質はこれだ!いやあれだ!といった議論が一通りなされた後、「芸術の本質たる特徴はない」とする立場(ワイツ)によって50年代なかばには一旦議論が下火となる。その後、「作品の内的性質じゃなくて、人や歴史や制度との関係的性質に訴えればいいんじゃないか?」という考え(マンデルバウム)とともに制度説(ディッキー)や歴史説(レヴィンソン)が現れ、定義論リバイバルとなる(70年代〜80年代)。

〈芸術作品を芸術作品たらしめているのは社会的要因であり、芸術という身分は制度や歴史と絡んでいる〉という考えはあまりにももっともらしかったので、もうそれでいいじゃんという雰囲気になった。その後現在に至るまで、ブランニューなオルタナティブは現れていない。その後の数十年は、これら社会的アプローチの洗練、曖昧な点の払拭、似たような立場の間の小競り合いによって費やされた感がある。

芸術の定議論が安定したのは、コンセプチュアル・アート以降、存在論的にブランニューな芸術形式がそもそも現れていないことにも原因があるのだろう。ある意味でやはり芸術は終焉したので、定義論が終焉するのも当然だ。

*2:ミシェル・アントワーヌ・イネスは現在キャピラノ大学の講師。David Daviesの指導のもと、2017年に芸術製作における意図についての博士論文を書き、2019年まではロペスらのいるブリティッシュ・コロンビア大学でポスドクをされていた。ここで取り上げている論文「What Makes a Kind an Art-kind?」は2018年イギリス美学会のEssay Prizeと2022年アメリ美学会のDanto Prize in Aesthetics特別賞をとっている、大注目の1本。

*3:「子供の雑な落書きだって絵画でありアートだろう!」と考えてしまう人は、問いのポイントを逃している。そうやって帰属できるのは、純粋に物理的メディアを問題とした薄い意味での「アート」でしかない。それでよければ、写真は芸術形式なので、私が日常的に撮影しているスナップショットはぜんぶアートだし、建築は芸術形式なので、私の住んでいるアパートも立派なアートだ、ということになる。これらが薄い意味で事実だとしても、〈《モナ・リザ》や《泉》や《ブリロ・ボックス》はなにゆえ芸術なのか〉という厚い問いとはほとんどなんの関係もない。

それでもなお「あらゆるものは等しくアートだ!線引きなどない!」みたいな直観がある人は、①それにどんな根拠があるのか、②他の人たちもその直観を持っているのか、③それが正しいとしてなにがうれしいのか、辺りを考えてみるとよい。

*4:

メディウム」についてはキャロルのサーベイを参照(ロペスへの反論もある)。こちらでも書いているが、「メディウム」を物理的媒体としてだけでなく慣習を組み込んだものとして理解し、この概念をいわば延命しようとする方針は、分析美学の外ではクラウスやカヴェルのアプローチとして知られている。

*5:

ウィキペディアによるとこちらもことの実態がよくわかっていないようだが。