美しいもの、もっと美しいもの

美的価値についての議論は引き続きたいへん盛り上がっているが、次の事実は意外なほどに無視されている。すなわち、美しさや優美さは比較・ランクづけ可能である。絵の下手な私が模写した《真珠の耳飾りの少女》は、フェルメールによるオリジナルほどには美的価値がない。

「趣味については議論できない」「美は見る人の目の中にある」を真に受けている人は、美的価値に上下があるという観察自体を否定したくなるだろう。「みんな違ってみんな良い」というわけだ。しかし、仮になんらかの観点から私の模写がフェルメールのオリジナルを凌いでいるのだとしても、それと同時に、前者が後者に比べて稚拙であり、覇気がなく、ごくふつうの意味において劣っていることを否定できるわけではない。芸術家やパフォーマーですら創作や上演に際しては、自らの一手一手を美的に評価しており、より力強いブラシストロークやより優美なターンをもたらすよう配慮している。美的価値における優劣が意味をなさないのだとすれば、これらの配慮を理解することは不可能である。

さて、価値があるとはそもそもどういうことか。近年の現代美学において広く受け入れられている分析によれば、価値があるとははなんらかの行為や反応をする理由を与える特徴をもつということだ*1フェルメールのオリジナルは、私の模写にはない精巧さをもつので、美術館に鑑賞しに行ったり、保護・修復・展示したり、見て感動を覚えるだけのより強い理由を与える。そう選択できる場合には合理的なエージェントはみなオリジナルを鑑賞するべきであるし、私の模写ではなくオリジナルを美術館に展示するべきである。オリジナルよりも私の模写に対してより強い感動を覚えるエージェントは、美的理由に照らせば不合理である。

ロビー・クバラ[Robbie Kubala]は近刊の論文「Non-Monotonic Theories of Aesthetic Value」で、このような等級づけ可能性[gradability]に加え、次のような原理を尊重することが、美的価値論にとっての重要な評価基準になることを訴えている。

単調性:対象Oに関してφする美的理由の強さは、Oの美的価値に沿って単調に変化する。
Monotonicity
: The strength of our aesthetic reasons to φ with respect to an object O varies monotonically with the aesthetic value of O.

フェルメールのオリジナル版《真珠の耳飾りの少女》は、私の模写よりも高い美的価値をもつ。したがって、前者を鑑賞する理由は後者を鑑賞する理由よりも強い。ここで、私よりもはるかに手先が器用だが、フェルメールほどではない美術部員が同じ作品を模写したならば、彼女の模写はオリジナルほどではないにせよ私の模写よりも美的価値が高いはずだ。したがって、彼女の模写を鑑賞する理由は、私の模写を鑑賞する理由よりも強く、オリジナルを鑑賞する理由よりも弱い。美的価値の大小が、そのまま、鑑賞する理由の大小となる。一見すると、これはすごく当たり前のことである。

しかし、クバラによれば、美的価値とはなにかに答えようとする理論の多くが、この単調性原理に違反したケースを認めてしまうのだ。具体的には、Nguyen (2019)とStrohl (2022)のエンゲージメント理論、Riggle (2022)の共同体主義理論、Lopes (2018)のネットワーク理論は、それぞれ美的価値と美的理由の強さが不釣り合いに変化するケースを許容してしまう。逆に、今日ひどく攻撃されている快楽主義は、単調性原理を尊重している限りでは理論的アドバンテージをもっている。

以下ではクバラの議論を紹介しよう。同時に、現代の代表的な美的価値論を三つまとめて紹介することになるので、本エントリーはかなりお得である。

美的理由についての前置き

各立場の検討に先立ち、クバラは説明課題をさらに明確化している。ここが実はかなり大事なので、ちゃんとまとめておこう。

作品を鑑賞する理由はいろいろある。私の母ならフェルメールのオリジナルよりも私の模写を見る理由をより強くもつかもしれないし、単純にマウリッツハイス美術館まで赴く時間や旅費のない人も私の模写を見る理由をより強くもつかもしれない。注意したいのは、これらはいずれも対象の美的価値とは関係のない、主体側の要因から鑑賞理由が左右されるケースだという点だ。

クバラは単調性原理を以下のように限定する。

狭義の鑑賞的単調性(NAM):対象Oを鑑賞する対象由来の美的理由の強さは、Oの美的価値に沿って単調に変化する。

Narrow Appreciative Monotonicity (NAM): The strength of our object-given aesthetic reasons to appreciate O varies monotonically with the aesthetic value of O.

Wolf (2011: 55)は美的価値を比較する例として、「構造の複雑さ、散文の質、人物描写の深さと繊細さ、市民社会に対する洞察」ゆえに『ミドルマーチ』は『ダ・ヴィンチ・コード』より優れた小説であると述べるが、こういったケースこそ注目に値するものである。そこでは、複雑さや繊細さといった対象がもつ美的特徴に由来して、より強い美的理由が生じる。個人的なこだわりや社会的義務が与えるのは、対象由来の理由ではないか、美的理由ではないことから、脇に置かれるべきである*2

クバラによれば、美的実践が基本的には対象志向であることを多くの理論は十分に説明できておらず、したがって過度に修正的である。この点は私もなんとなく感じつつ明確化できていなかった点なので、かなり学びがあった。「対象由来の美的理由」というのは私も今後使っていこうと思う。

快楽主義

伝統的な見解では、美的に良いものとは美的快楽を与えるものである。ある特別な快楽を与えるからこそ、《真珠の耳飾りの少女》やクジャクは美的に良い、というわけだ。ここでは、価値の一次的な担い手は美的快楽であり、アイテムはこれを与える限りで、道具的で二次的な価値をもつことになる。美的快楽主義は、快楽を「価値ある経験」に取り替えて射程を広げたり、判定するのは理想的批評家だとして客観性を担保したり、さまざまな仕方で補強されているが、そのポイントに変わりはない。美的に良いものは、feel goodにしてくれるから良いのだ。

ところが、現代美学ではこのような美的快楽主義への異論が相次いでおり、さまざまな代替案が提示されている。美的価値を説明するのは快楽を与える能力ではなく、実践に相対的な達成である、はたまた意義ある共同体の実現である、といった具合に。快楽に訴えて美的価値を説明する場合にも、快楽を与えられるから美的に良いのではなく、美的に良いものは快楽でもって反応することが適切なのだ(適合態度分析)、という説明順序を好む論者たちが現れている。Van der Berg (2020)や森 (2020)が紹介しているように、議論はおおむね「快楽主義者とその論敵たち」という構図で進行している。

クバラによれば、しかし、単調性原理を尊重している限りでは、快楽主義はよろしい理論である。快楽主義において、美的価値の度合いはアイテムが与えられる快楽の度合いに正確に対応する。鑑賞者には快楽を最大化する理由がある。したがって、鑑賞する理由の強弱は与えてくれる快楽の大小に対応する。より大きな快楽を与えるアイテムほど、より鑑賞する理由が強いのだ。単調性原理は守られており、鑑賞する理由がより強いのに美的価値が低かったり、美的価値がより高いのに鑑賞する理由が弱いケースは入り込まない。

クバラの考えでは、美的快楽主義は対象由来の理由に焦点を当てている点でも望ましい。主体が感じる快楽は、当然ながらそのときの体調や普段の信念によって左右される。しかし、「構造の複雑さ、散文の質、人物描写の深さと繊細さ、市民社会に対する洞察」ゆえに『ミドルマーチ』が与えるより大きな快楽、それだけがプロパーな意味での美的価値を構成するのだと考える限りで、美的快楽主義は作品外的な要因たちを切り離せる。

クバラ自身は美的快楽主義を本格的に擁護するつもりがなく、その他の問題点も含めて総合的に判断すれば退けられるべきだと示唆している*3。それはともかく、単調性原理を守っていることは、美的快楽主義がもつその限りでのアドバンテージである。とりわけ、多くの立場はこの原理に違反してしまうからだ。

エンゲージメント理論

Nguyen (2019)とStrohl (2022)はそれぞれ独立に、「エンゲージメント[engagement]」の概念を中心に据えた美的価値の理論を展開している。engagementは美的対象への「従事」「関与」「たずさわり」などと訳せそうだが、ここではそのままエンゲージメントと表記しておく。

グエンによれば、美的実践において価値があるのは、アイテムへとエンゲージする経験それ自体である。美的判断論の伝統に反し、対象がもつ価値について正しく判断することは別に楽しくないし、私たちを美的実践へと駆り立てるものではない*4。このことは、いわゆる自律性の原理(美的判断は他人からの証言任せではなく直接経験に基づいて自力でやらなければならない)の出どころについても理解させてくれる。結局のところ肝心なのはエンゲージメントであり、自律的でない美的判断にはエンゲージメントが欠けているのでよろしくないのだ。

クバラは、グエンが用いる「美的価値」が、ほとんど場合アイテムの美的価値ではなく、アイテムの経験の価値を指している点で、議論に照らせば的外れであることを的確に指摘した上で、一応、「価値あるエンゲージメントを与えるアイテムには美的価値がある」というふうに帰結主義的に拡張できることを示唆している。こう拡張されたエンゲージメント理論は、快楽ではなく価値あるエンゲージメントに訴える点を除けば、美的快楽主義とほとんど同じ立場である。

しかし、一様に増減する快楽とは異なり、グエンの想定しているエンゲージメントは、まったく予想のつかない仕方で価値が増減する。例えば、『死霊の盆踊り』のようなどうしようもない駄作でも、いかにどうしようもないのかじっくり分析する経験は、グエンにおいて価値あるエンゲージメントとなりうる。すると、『死霊の盆踊り』は価値あるエンゲージメントを与えうるので、美的価値の高い作品となる。これはどう考えてもおかしいし、これだとなんでもありだ。

あるいは、『死霊の盆踊り』から通常それを駄作にしているとされる特徴を取り除いた場合、具体的にはアホみたいに長いダンスシーンを大幅にカットした場合、作品はマシなものになりそうなところだが、エンゲージメント理論においてはよりひどいものになる可能性すらある。というのも、それがとことん駄作だと結論づけるに至る価値あるエンゲージメントにとって、アホみたいに長いダンスシーンはまさに必要だったからだ。修正版『死霊の盆踊り』は、もはやかつての価値あるエンゲージメントを与えてくれない。したがって美的価値がより低い。しかし、この結論は、作品をまだマシなものにしようとして、その目立った美的欠点を取り除いたという事実に照らせば、奇妙である。

トロールのエンゲージメント理論も同様の問題を抱えている。彼によれば、従来の批評的基準では駄作とされるが、興味深い仕方で基準破りをしているような、「良い駄作」がある。ストロールによれば、「良い駄作」は価値あるエンゲージメントを与えてくれるからこそ良いのだが、だとすれば、それが駄作でもあることはどのように理解すればよいのか。「良い駄作」と「悪い駄作」の違いはなんなのか。『死霊の盆踊り』は結局、良い駄作なのか悪い駄作なのか。

結局のところ、エンゲージメント理論は対象由来の美的理由ではなく、エンゲージする主体由来の理由を多分にもち込んでしまい、単調性原理に違反したケースを認めてしまう点でよろしい美的価値論ではない。対象が与える快楽という一元的な説明を嫌って、エンゲージメントというなんでもありな概念をもち出したところから、この問題は始まっている。

共同体主義理論

Riggle (2022)は、ともに食事しともに踊るといった、「私たち」単位でなされる美的活動に焦点を当てるべく、共同体主義理論なる立場を提唱している。それによれば、美的実践とは「個性を育成し、美的自由を促進し、美的コミュニティを生み出す」ような美的共同体を理念とした実践であり、これに寄与するものこそ美的価値だとされる*5

共同体主義理論は、「アイテムxは美的価値Vをもつ ⇔ __」みたいな分析を積極的に拒んでいるのでたいへん扱いにくいのだが、見方によっては、これも帰結主義的な理論である。価値の一次的な担い手は美的共同体であり、アイテムはこれに寄与する限りで、道具的で二次的な価値をもつことになる。クバラによれば、リグル的な美的価値は、たしかに等級づけ可能である(つまり、美的共同体にちょっとしか寄与しないものと、よりよく寄与するものがありうる)。しかし、単調性原理には違反している。鑑賞する理由の強さは、美的共同体にどれだけ寄与するかには対応づけられていない。美的共同体なるものによりよく寄与するからこそ、目の前のアイテムに鑑賞するより強い理由を認める人がいるとは考えにくいし、いるとしても、それは脅迫されて脅迫者を尊敬するのと同様に、誤った類の理由[wrong kind of reason]からそうするに過ぎない。

共同体主義理論は、対象由来の美的理由から積極的に距離を取ろうとしているらしいが、そのせいで単調性原理にも違反してしまう。一方、リグルも『なぜ美を気にかけるのか』のディスカッションでは、「しょうもない作品やダサい服やしょぼいバンドに時間を費やしてしまう」ことがあると述べている。しょうもないから見ないというのは対象由来の理由にほかならないが、共同体主義理論はその規範性も悪い美的共同体に訴えて説明したがるかもしれない。しかし、悪い美的共同体のなにが悪いのか、ちゃんとした説明はまだ与えられていないし、ダサい服共同体などがこれに該当することも説得的に示されたわけではない。課題は山積みである。

ネットワーク理論

Lopes (2018)が提唱するネットワーク理論は、クバラや私やほかの多くの論者が認めるように、ほとんど唯一本格的に展開されている反快楽主義理論である。その分、ロペスの理論体系は入り組んでいて難しいが、ポイントは次のようにまとめられる。すなわち、美的価値は、特定の美的実践において特定の行為タイプに従事し、やるからにはうまくやろうとするエージェントに対して、行為する理由を与える性質から基礎づけられる高次の性質である。ある絵画が優美という価値をもつのは、キュレーターがそれを展示する理由をもったり、修復家がそれを修復する理由をもったり、鑑賞者がそれを見に行く理由をもつという事実から基礎づけられる。彼らにそういった行為をする理由があるのは、彼らが美的エキスパートであり(あるいは美的エキスパートを目指すべき立場にあり)、エキスパートはうまく行為して達成を目指すべきだからだ。

ネットワーク理論は、達成を目指すエージェントたちを出発点とし、社会的相互作用の観点から美的価値を分析している。しかし、そこで説明されるのはもっぱら私たちになぜあれこれする理由があるのか、美的価値の規範的効力であって、この分析自体に美的価値の上下や正負は現れない。

Lopes (2018: Chap. 7)はやや補助的な議論として、美的利点を次のように説明している。

利点:美的価値Vはアイテムxの美的利点である=〈xはVである〉という事実は、美的実践Kの状況CにおいてエージェントAが行為φする理由であり、CにおいてAがうまくφすることが、KにおけるVの促進につながるようなものである。

Merit: V in an aesthetic merit in x = the fact that x is V is a reason for A to φ in C in K, and A’s success in φing in C contributes to promoting V in K. (2018: 132)

要点だけ噛み砕けば、美的利点とは、成功した行為のなかで増えていく性質のことである。ある絵画の優美さは、うまく展示されたり鑑賞されるなかで、より多くの優美な絵画の生産へと貢献する。このとき、優美さは絵画実践という環境にフィットしており、自己増殖的であり、したがって美的利点なのだ*6

ロペス的な美的利点は、等級づけ可能(美的価値の大小は拡散力の大小に対応する)だが、リグルの考える美的価値と同様に、単調性原理に違反している。猫ミームは流行っており、流行っているからこそさらに拡散されていくが、この拡散力自体が、猫ミーム的ユーモアを美的利点にしている、というのは変な説明である。端的に言って、流行りものが良いとは限らないし、良いのだとしても、流行っているからこそ良いのではない。猫ミームには、それを鑑賞するだけの対象由来の美的理由がぜんぜんないかもしれないし、あるとしても、それは流行っているからこそ美的価値をもつ=鑑賞に値するわけではない(そう考えてしまうのは、またしてもwrong kind of reasonだ)。

美的利点についてのロペスな説明は、対象由来の美的理由をまったく捉えられていないため、潔く放棄するべきだとクバラは結論づけている。実際、美的価値そのものを達成の観点から分析するというネットワーク理論のコア部分は、対象由来の美的理由を認めることと両立可能である。増えるかさらに増えるかを、美的に良いかより良いか、したがって鑑賞する理由があるかさらにあるかに対応づけるのがしんどいのだ。

✂ コメント

各立場の紹介から検討までたいへん手際のよい論文だった。上でも述べたが、対象由来の美的理由に焦点を合わせるべきだ、というスタンスはかなり共感できる。美的価値論は、どうしても「美的価値」というワンワードでの大喜利になってしまいがちだが、こうして議論の焦点を合わせてくれる論者がいるというのは頼もしいことだ。

ところでこの論文に行き当たったのは、いま個人的にネガティブな美的価値についての論文を準備しているからだ。まだ考え中だが、ことによるとクバラとかなり似たような作業を通して、かなり似たような結論にたどり着く論文になるかもしれない。すなわち、美的価値には明らかに負の値をもったものがあるのだが、主要な美的価値論の多くはこの事実をうまく説明できず、したがって退けられるべきなのだ。近いうち、どこかで発表できればと思う。

 

参照文献

Kubala, Robbie. Forthcoming. “Non-Monotonic Theories of Aesthetic Value.” Australasian Journal of Philosophy.
Lopes, Dominic McIver. 2018. Being for Beauty: Aesthetic Agency and Value. Oxford University Press.
Lopes, Dominic McIver, Bence Nanay, and Nick Riggle. 2022. Aesthetic Life and Why It Matters. Oxford University Press. ドミニク・マカイヴァー・ロペス, ベンス・ナナイ, ニック・リグル『なぜ美を気にかけるのか』森功次訳, 勁草書房, 2023.
Nguyen, C. Thi. 2019. “Autonomy and Aesthetic Engagement.” Mind; a Quarterly Review of Psychology and Philosophy 129 (516): 1127–56.
Riggle, Nick. 2022. “Toward a Communitarian Theory of Aesthetic Value.” Journal of Aesthetics and Art Criticism 80 (1): 16–30.
Strohl, Matthew. 2022. Why It’s OK to Love Bad Movies. Routledge.
Van der Berg, Servaas. 2020. “Aesthetic Hedonism and Its Critics.” Philosophy Compass 15 (1): e12645.
Wolf, Susan. 2011. “Good-for-Nothings.” Proceedings and Addresses of the American Philosophical Association 85 (2): 47–64.
森功次. 2020. 「美的なものはなぜ美的に良いのか:美的価値をめぐる快楽主義とその敵」『現代思想』 49 (1): 86–100.

*1:具体的にどのような行為や反応をする理由を与えるのが美的価値なのかというのは論争的な点だが、有力な見解のひとつとして、美的価値に駆動されるふるまいはなんらか特定的な意味での「鑑賞[appreciation]」である。クバラも、これに乗っている。

*2:主体由来の美的理由なるものを認めるかどうかは、最近ちょっと盛り上がっているトピックである。ある芸術家やジャンルに個人的な愛着をもつことは、それらをより優先的に鑑賞する理由を高める。それは「美的」理由と呼ばれるのにふさわしいものなのか、大局的に見ていいことなのか、論争ポイントがいくつもある。

*3:クバラ自身の美的価値論は、本論文でも別のところでも体系的には提示されていないが、適合態度分析にややシンパシーがあるように感じられた。本論文の批判対象からこの立場が除外されていることからも示唆される。

*4:これは、『なぜ美を気にかけるのか』でベンス・ナナイ[Bence Nanay]も賛同を示している見解である。

*5:リグルは美的共同体の善として(1)個性、(2)美的自由、(3)美的共同体を挙げるが、(3)はどう見ても同語反復だし、そうでないとしても(1)(2)と同じ並びにするのはカテゴリー・ミステイクだ。リグルは繰り返しこの三つを取り上げるのだが、どういうつもりなのかは分からない。

*6:反対に、美的欠点とは、成功した行為のなかで減っていく性質のことだとされる。トイレの汚さは、うまく清掃されたり酷評されるなかで、この世界から消えていくことになる。