レジュメ|Enrico Terrone「正しさの基準と描写の存在論」

f:id:psy22thou5:20210619220444p:plain

Terrone, Enrico (forthcoming). The Standard of Correctness and the Ontology of Depiction. American Philosophical Quarterly.[PDF]

 

描写の哲学、とりわけ「正しさの基準」に関する最新の論文。*1

「正しさの基準[standard of correctness]」(以下、SOC)とは、Wollheim (1980)が定式化した問題。ざっくり言えば、画像には色んなものが見て取れるが、「画像がほんとうに描いているもの」についてはなんらかの外的情報(たいてい、画像の歴史的事実のどれか)を踏まえて特定・固定する必要があるという話。画像に目を向けるだけでは、犬なのか猫なのか、双子の兄Aなのか弟Bなのか、今日の出来事なのか昨日の出来事なのか、よくわからない。

正しさの基準といえば、描写内容の特定に関する認識論的な話として扱われることが多いが、本論文はこれを画像の存在論的一要素として組み込もうとするもの*2ゴッホ《古靴》に関するハイデガー、シャピロ、デリダの有名なバトルなんかも取り上げている。

 

1.個別者と種/2.観点と特徴

なにがSOCになるかについては、①「絵画など手製の画像は意図が基準になり、写真は因果が基準になる」という区別派、②「写真も撮影者の意図が基準になる」とする意図包括派、③「絵画も因果関係が基準になる」とする因果包括派に分かれている*3。しかし、Terroneの関心は基準の特定ではなく、その役割を整理する点にある。

まず、Terroneは多義性が問題になるような事柄を四つ上げている。

  • 個別者[individual]:特定の個別者を描くとして、どれを描くのか。
  • 種[kind]:描かれる事物がなんらかの種に属するとして、どれに属するのか。
  • 観点[standpoint]:描かれる事物が特定の時間、空間、世界に位置づけられているとして、それはいつどこなのか。
  • 特徴[feature]:見て取れる性質のうち、事物に帰属[ascribe]される性質があるとして、どれを帰属するのか。

 

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/31/David_-_Napoleon_crossing_the_Alps_-_Malmaison1.jpg

ダヴィッドの《サン=ベルナール峠を越えるボナパルト》は、〈ナポレオン〉を描くのであって、ナポレオンと瓜二つのマポレオンを描いているわけではない。〈ある人〉を描くのであって、ある火星人を描いているわけではない。〈現実世界〉1800年5月〉〈アルプス山〉を越えようとしている瞬間を描くのであって、虚構世界の2800年5月にオリンポス山を越えようとしている瞬間を描いているわけではない。画像は、〈虚構世界の2800年5月にオリンポス山を越えようとしている火星人マポレオン〉にも見える(なんせそっくりなのだから)が、これはダヴィッドの絵画にとって正しい描写内容ではない。ここで意図主義的なSOCを取るならば、このことは「作者はそう意図していなくて、こっちを意図している」ことから正当化される。*4

 

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/b4/Kafka.jpg/400px-Kafka.jpghttps://upload.wikimedia.org/wikipedia/en/thumb/2/2d/Matisse_-_Green_Line.jpeg/600px-Matisse_-_Green_Line.jpeg

特徴SOCに関する話はもう少しだけややこしい。カフカを撮影した白黒写真には白黒のカフカが見て取れるし、マティスによる《緑の筋のあるマティス夫人の肖像》には顔の中心に緑の筋を持ったマティス夫人が見て取れる。Terroneの言い方では、〈白黒である〉〈顔の中心に緑の筋を持つ〉といった特徴は、画像において付与[endow]されているが、その描写対象である〈カフカ〉や〈マティス夫人〉に対して帰属[ascribe]されているわけではない*5。ここでも、画像が実際に主題に帰属させる特徴と、そうでない特徴は、なんらかの正しさの基準によって切り分けられる。

Terroneによれば、対面でなにかを知覚する場合にも、個別者、種、特徴に関する正しさの基準が考えられる。一方、観点SOCが問われるのは画像独自である。対面でなにかを知覚する場合、知覚されている事物の位置が〈現実世界〉〈いま〉〈ここ〉なのは自動的に確定するが、画像に描かれている事物の位置がどこなのかは、しばしば外的な情報を参照しないと確定できない。

 

3.不確定性、解釈、不一致 

https://micrio.vangoghmuseum.nl/iiif/EJgic/full/1280,/0/default.jpg?hash=LPRGFWDLORk3AGDvNRg2djo8_dQ9pnTgTXOZ99i8Igw

ということで、ゴッホの《古靴》の話になる。

前述の通り、SOCは画像の「正しい描写内容」を定めるが、対応するSOCが存在しないか、それにアクセスできないときには、画像の描写内容は不確定になる。ゴッホの《古靴》には、しかじかの状態の靴が見て取れるが、これは厳密になんなのか、どこにある誰の靴なのか、よく分からない。

マルティン・ハイデガーは「芸術作品の起源」で、それを〈一対の靴〉、それも〈一対の農婦の靴〉だとして、そこから農業やら大地やらの話に展開していく。これに対し、メイヤー・シャピロはもろもろの資料的調査をした上で、ゴッホは当時都市に住んでおり、絵画のそれは〈一対の都市生活者の靴〉なのであり、それも〈ゴッホ本人の所有していた一対の都市生活者の靴〉なのだと反論する。農婦の靴だと断言したハイデガーは、思い込みでとんちんかんなことを語っているに過ぎないのだ、と。

これに対しジャック・デリダは『絵画における真理』において、シャピロの解釈にも疑問を投げかける。ゴッホが都市に住んでいたからといって、彼が描く靴が都市生活者の靴であるとは限らない。また、シャピロもハイデガーもそれが〈一対の靴〉であることには合意しているようだが、なぜそう言い切れるのか。よく見ると、二足の靴はよく似ており、どちらも左足用の靴であるような気がしないでもない。だとしたら、〈一対の靴〉だと断言するのも間違いだということになる。決定的証拠がない以上、描かれているのは〈靴〉、それ以上でも以下でもない、というのがデリダの結論となる。

ハイデガーは、描かれているそれは〈一対の農婦の靴〉という種に属するものだと考えた。シャピロは、そうではなくゴッホが所有していた具体個別的な靴まで特定することで、〈ゴッホ本人の所有していた一対の都市生活者の靴〉なのだと主張した。デリダは、二人よりもっと手前で、〈靴〉という種に属するものだと言えるだけであり、それ以上でも以下でもないと考えた。

さしあたり、Terroneはデリダの見解に次のような異論を唱えている。たしかに、個別者や厳密なの不確定性に関しては、デリダの指摘ももっともであろう。ただし、観点に関してもなにも言えないのだとするなら、デリダは間違っている。Terroneによれば、《古靴》の靴は、少なくとも〈1880年代〉の〈西ヨーロッパのどこか〉に位置づけられる靴として理解しなければならない。*6

興味深いのは、Terroneがこういったバトルを解釈[interpretation]のレベルではなく、その手前の理解[understanding]のレベルだとみなしている点だ。SOCを踏まえ、画像の正しい描写内容を特定するのは「理解」に相当し、その先でいかなる「解釈」をする者も、理解レベルでは同意する必要がある。*7

 

4.描写のゲーム/5.ピクチャーとイメージ

TerroneはSOCを画像表象にとっての構成的ルール[constitutive rules]だと考える方向に進む。いわゆる社会存在論的な道具立てを使って、画像の存在論的身分を定義しよう、という議論だ。

チェスのルールが一連のやり取りをチェスの試合たらしめているように、描写のSOCが画像を画像たらしめている。チェスのルールがチェス盤の使い方を定めるのと同様、SOCは画像表面の使い方を定めている。デザインが全く同じでも、一方は双子の兄Aの画像で、他方は弟Bの画像であるならば、両者は数的に区別される。それは、①だけでなく②もまた画像の存在論アイデンティティに関与的だからだ。もっとも、チェスとの違いは、描写の場合は①画像表面上のデザインと②構成的ルールとなるSOCが、どちらも事例ごとに異なる、という点にある。

わりと面白い論の進め方として、TerroneはSOCなしで画像のうちになにかを見て取る(seeing-inする)ことをイメージ・ゲーム[image game]と呼び、これにSOC込みで画像を理解しようとすることをピクチャー・ゲーム[picture game]と呼んでいる。同様の区別は、フッサールらの「像オブジェクト/像サブジェクト」、カルヴィッキの「骨ダケ内容/肉ヅキ内容」、ナナイの三重性にも見られるが、Terroneは内容のレベルに命名する代わりに、画像の使い方(ゲーム)に命名している。

また、指標詞に関するカプランの「意味特性[character]/意味内容[content]」になぞらえつつ、画像表面に対する一定のイメージ・ゲームから、SOC次第でさまざまなピクチャー・ゲームが出てくることを素描している(これはKulvicki (2020)の指摘でもある)。「私[I]」という指標詞は、characterレベルの辞書的定義として「話し手」を表すが、contentレベルでは文脈ごとに異なる人物を指示することになる。もっとも、「私」のような指標詞はcharacterのレベルで個別化されるのに対し、画像はcontentのレベルで個別化される、という相違点も指摘している。*8

要するに、一定のデザインを持つ画像表面は、イメージのレベルでも遊べるし、ピクチャーのレベルでも遊べる。命名が示すとおり、Terroneによれば画像の画像としての使用はもっぱらピクチャー・ゲームである。画像は、見て取るものの正しさを気にせずseeing-inだけを楽しむのにも使えるが、そういったイメージ・ゲームは画像実践的に肝心なものではない。ゆえに、SOCもまた画像の存在論的構成要素であると主張される。

 

6.描写の多様性/7.画像の密かな暮らし

各種SOCを存在論的に組み込むことで、画像の多様性を分類しているのも面白い。

  1. 図鑑:種一般の特徴を示す。種SOCと特徴SOCを持ち、観点SOCを持たない*9

  2. パスポートなどのID写真:特定の時間や空間から独立した個別者の姿を示す。個別者SOCと特徴SOCを持ち、観点SOCを持たない画像。
  3. 監視カメラ映像:特定の時空間での個別者の姿を示す。個別者SOC、種SOC、特徴SOC、観点SOC全部ありな画像。
  4. 抽象画:イメージ・ゲームに使えるが、ピクチャー・ゲームには使えない。種SOCすらない画像。

ここで、ピクチャー・ゲームに使えない抽象画を「画像」から排除するなら「画像はデザインだけでなくSOCから構成される」という主張が改めて支持されることになる。逆に、抽象画も「画像」とみなすなら、ミロにもタンギーにもクレーにもカンディンスキーにも、少なくとも観点SOCはあり、奇妙な別世界のなにかを描いていることになる。ここではどちらにもコミットしないらしい。

Terroneによれば、現在のSOCは多かれ少なかれ歴史的・共同体的に偶然的なものである。たしかに、画像のSOCをもっぱら意図主義的に考えることは、実践的にいろいろと望ましい(この画像はなんの画像?というときに作者に聞いて分かるなら、それで全然オッケー)。しかし、作者の意図がもはやアクセス不可能な場合など、SOCは交渉[negotiation]を経て、ある種の公的規範[public norm]となる。Newall (2011)による、「正しい描写内容を投票による多数決で決める共同体」の思考実験なんかも引かれている。ここまで極端ではないが、実際に採用されているSOCは、少なからずこういった公的性格を持っている。また、芸術史家や芸術理論家は、そういったnegotiationの役割を担うことになる。

 

結論でも面白いことを述べている。曰く、画像が①画像表面と②SOCから構成されるのだとしたら、保存・修復の上でも②を気にする必要がある。すなわち、絵画などを正しく保存するためには、見た目(物理的な損傷など)だけでなく、正しさの基準(オリジナルの文脈でどう見られていたかなど)にも気を配る必要がある。この点で、修復家と芸術史家は、同じ事業に参加していることになる。

もちろん、この存在論的事実は鑑賞にとっても大事である。外的な情報を一切切り離して、絵画だけを精査しようとする自律主義は、イメージ・ゲームをしているだけであり、より肝心なピクチャー・ゲームができていない。絵画を絵画としてちゃんと鑑賞するには、SOCも気にしなければならないのだ。

 

✂ コメント

なるほど私はずっとここで言うところのピクチャーよりイメージを気にしてきたのだな、という気づきを得た。ここ数ヶ月、depi読でのやり取りもあって、個人的にかなり説得されてきた。実際、「SOCなしのイメージ・ゲームより、SOC込みのピクチャー・ゲームのほうが肝心でしょ」という見解を、Terroneは「実践的・慣習的にそうでしょ」で押し通すつもりらしいが、今では特に反対する理由もなくなってきた。とりわけ、棒人間の〈ガリガリの身体〉みたいな逸脱的性質が、ピクチャーとしてはそこにないが、イメージとしてはそこにある、というので割と直観的に満足しつつある。

最近はよく抽象画について考えているので、イメージ・ゲーム/ピクチャー・ゲームの区別で扱えるのもうれしさがある。ただし、理論的にはイメージ・ゲームにすら使えない抽象画もあるかもしれない。これについてはWollheim (1987)が触れている。以下は松永さんからの孫引き。

Wollheim(1987: 63)の例を借りれば、たとえばハンス・ホフマンの《Pompeii》は形態内容を持つ抽象画であり、バーネット・ニューマンの《Vir Heroics Sublimis》は形態内容を持たない抽象画と言えるかもしれない。もちろん、両者とも形態内容を持つという考えもありうる。それは作品解釈の問題である。

描写内容の理論 - 9bit: 注20

https://www.tate.org.uk/art/images/work/T/T03/T03256_10.jpg

https://www.moma.org/media/W1siZiIsIjQ3ODMxNSJdLFsicCIsImNvbnZlcnQiLCItcXVhbGl0eSA4MCAtcmVzaXplIDIwMDB4MjAwMFx1MDAzZSJdXQ.jpg?sha=b29a4fb596ff0275

 

要は、①名状しがたいにせよなにかを表象している抽象画と、②地と図の区別すらほぼなく、非表象的デザインとしか呼べないストイックな抽象画の区別がある*10。美術史周りでこういった話はふつうにありそうなので、つなげて考えられると面白そう。

もちろん、社会存在論とつなげて公共性を持ち込むアプローチは、応用哲学で発表したカテゴリー論と同じ路線で学びがある。私はグァラから入ったので、まだサールの存在論的「構成」に納得していないのだが、この辺は改めて勉強したい。

*1:筆者のエンリコ・テローネ[Enrico Terrone]は去年からイタリアのジェノヴァ大学でAssociate Professorをしている研究者。美学、映画の哲学、社会存在論などが専門。去年だけでもJAACにSFの定義ドキュメンタリーの定義、BJAにポップソングの現象学の論文を載せており、最近の分析美学では要注目人物のひとり。『The Pleasure of Pictures』に載せている「映画は二回見よう」論文によれば、昔は映画批評もやっていたとか。関係ないが、本記事で取り上げている論文、「acceptance date: 20 January 2020」なのにいまだにAPQに掲載されてなくて、英語圏も難儀だなぁとしみじみ。

*2:「認識論的な話」の例として、Abell (2005)。

*3:前に書いたもの。

*4:この段落はTerroneaではなく私の考えた例。

*5:endowは語のニュアンスが全然わからない。私がいま書いている論文では、性質として「表示[display]されているが帰属[attribute]されていない」と説明しているが、もっとしっくり来る言葉遣いがあるかもしれない。

*6:もっとも、Terroneのこの応答はデリダにほとんど刺さらないと思われる。実際、「《古靴》の主題は〈1880年代〉の〈西ヨーロッパのどこか〉に位置を持つ」というTerroneの判断こそ、「そんなん言い切れないじゃん」とデリダが批判している判断にほかならない。具体的なSOCの中身にコミットしないこともあり、なぜ〈1880年代〉の〈西ヨーロッパのどこか〉までは言えるのか定かでないが、意図にせよ因果にせよということなのか。Terroneは、三者のバトルが、このあと論じる「交渉」の一種であると述べているが、〈1880年代〉の〈西ヨーロッパのどこか〉であることは交渉なしで言い切れるのか。

*7:キャロル『批評について』の「解明」と「解釈」に相当。エイベルのフィクション本も似たような区別を導入している。

*8:seeing-inできるものをイメージと呼び、+SOCなものをピクチャー=画像と呼ぶのは、Kulvicki (2006)のもっとテクニカルなimage/pictureの区別とは対応していないっぽくて、地獄を予感している。

*9:私の考えでは、種SOCと特徴SOCがあるからといって直ちに図鑑的な指示が実現するわけではない。少なくとも、「〈ある鳥〉の画像」と「〈鳥一般〉の画像」は概念的に区別されるはず(前者は後者の前提)だが、Terroneは「不特定のある◯◯」を描くレベルにあまり意識的でない気がする。前に書いたノートを参照。こちらは最近ようやく論文になりそうな気がしてきた。

*10:後者を「ストイック」と呼んだが、abstractの動詞としての意味(抽象する)や語源(抜き出す)を踏まえると、「あらかじめ表象的内容を持っていて、これをミニマルにシェイプアップしたもの」こそがabstract paintingな気がしないでもない。「抽象[abstract]」の用法がずさん、という話ではあるので、レベルを整理して別々の名称をつけるとよいかもしれない。

  • ふつうになんらかの個別者や種を描写しているが、性質をいくらか省略してミニマルに描いた画像。棒人間とかデフォルメ。ふつうに表象的なpictureにくくられるので、ストイックな意味での「抽象画」ではないが、相対的に「抽象的」ではある。
  • 名状できないが、なんらかの事物を描いている画像。一応三次元の奥行きがあり、なにかよくわからん物体が見て取れる。Terroneの挙げるミロ、タンギー、クレー、カンディンスキーはぜんぶこれ。たぶんpictureではないがimageではある(seeing-inはできる)。
  • 地と図の区別がないやつ。少なくとも理念としては二次元のデザインにとどまることを目指している。ポロックとかクラインとか。pictureではないし、imageですらない(seeing-inもできない)。