村山正碩「視覚的修辞:エル・グレコからアボガド6まで」|『フィルカル』vol.5 no.2「特集描写の哲学」レビュー

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 『フィルカル』vol.5 no.2「特集:描写の哲学」収録の論文、村山正碩「視覚的修辞:エル・グレコからアボガド6まで」のレジュメとコメント(青字)です。

1.描写における分離

本論文は、エル・グレコからアボガド6まで広くみられる絵画の表現技法(村山はこれを「視覚的修辞」と呼ぶ)の構造と意義に迫る。

まずはじめに、画像が描く対象と、画像がそれに帰属させる性質に関して、「描写対象 [depicted object]」「描写内容 [depicted content]」の区別がなされている。赤い東京タワーを描いた絵画は、東京タワーという描写対象を〈赤い〉という描写性質をもつものとして描いているが、画像の描写内容は現実の対象が持つ性質と一致するとは限らない。絵画は、東京タワーを〈青い〉ものとして描くこともできる。

描写対象+描写内容は、ウォルハイムがうちに見る [seeing-in]と呼ぶところの経験を介してアクセスされる。ここで村山によれば、画像のうちに見る内容と、画像の描写内容もまた、一致するとは限らない。例えば、人物の手を描く際に指紋を省略するようなケースは、絵画のうちに〈指紋を持たない〉人物を見て取れるが、このような性質は描写内容に含まれるものではない。同様に、棒人間は〈痩せた体格をもち〉〈のっぺらぼうである〉存在を見て取ることができるが、画家はまさにこのような性質を持つなにかを描いているわけではない。ここで正しい描写内容になりうるのは、〈しかじかの身体の構成や姿勢を持つ〉といった性質だけであり、上に挙げたような性質は「逸脱的性質 [deviant property]」と呼ばれ、描写内容から排除される。これはHopkins (1998)が「分離 [separation]」と呼んだ事態である。

分離に関わる問題がふたつある。第一に、うちに見る内容から描写内容を特定する解釈はどうやってなされるのか。ホプキンスは、作者の意図によって決定されることを訴え、意図の特定についてもいくらかの手がかりを挙げている*1

第二に、逸脱的性質に積極的な意義はあるのか、という問題がある。そのような性質が、たんに諸制約の産物であるなら、解釈によって除外されるだけであり、積極的な意義を持たないことになりそう。しかし、逸脱的性質はしばしば芸術的達成の手段として意図的に利用されており、その典型例としてエル・グレコの絵画ある。

  • 個人的には村山さんが「描写内容 [depictive content]」と呼んでいる項を「描写性質」と呼ぶようにしており、「描写対象」+「描写性質」=「描写内容」で考えている。これに関しては、画像的な述定性質を「content」と呼んだLopes (1996)がギルティな気がしなくもないが、英語のcontentはともかく、日本語で「画像の内容」「描かれている内容」と言うときに、対象を除外してもっぱら性質の話だけするような用法はないはずだ(ふつうに「この絵画が描く内容は、ナポレオンである」と言うだろう)。いずれにしても、本論文で村山さんが話題にしているのは、一貫して性質であるはず。とりあえず、以下ではなるべく村山さんの用語に忠実な仕方で「内容」の語を使いたい。
  • 最近、描写の整理に関して、村山さんと話が噛み合わない何度か場面があったのだが、理由が分かった気がする。村山さんは、基本的にホプキンス=エイベル的な用語法に倣っており、「うちに見る内容」vs「描写内容(実質的には作者の意図した内容)」という区別を受け入れているが、現在の僕は後者の意図主義に反対であるため、この用語法を受け入れていない。僕の場合、うちに見る+なんらかの非意図主義的な正しさの基準=画像の描写内容となる。肝心の基準はいまだカッチリ分かっていないが、棒人間の〈痩せた体格をもち〉〈のっぺらぼうである〉といった性質を「描写内容」から除外しない程度には類似説か再認説に近いものだと予想している(し、このことに理論上の問題があるとも思わない)。なので、村山さんが「逸脱的性質」と呼び、「描写内容」から除外しようとしている性質の一部は、僕にとって普通に「描写内容」だということになる。
  • ここにはおそらく、depictiveの意味上の主語を作者とみなすか画像とみなすかの違いも、影響しているだろう(僕は後者で考えたい)。また、取り扱っている主題から明らかなように、村山さんはさしあたり芸術絵画の美術的な鑑賞を念頭に置いているので、ホプキンス=エイベル的な(意図主義よりの)用語法が馴染むのだろう。実際、芸術鑑賞という文脈で意図が重要な役割を持つ、という見解については僕もぼんやり同意する(現実意図か仮説意図かはまだ考えていない)。
  • とはいえ、僕が村山さんのそれに反する整理をはっきりとるようになったのは夏の若手フォーラムでの発表以後であり、同フィルカルでは村山さんとほとんど同じ仕方で「描写内容」と「うちに見る内容」を区別し、その間にホプキンス=エイベル的な解釈プロセスを置いている。一応、エイベル説の困難を指摘しており(注20)、「画像の含み」を使うとしても主張などの二次的使用上の内容に関して使うほうが無難だと述べているように、オリジナルの「分離」問題(「うちに見る内容」vs「描写内容」)において意図に訴えるアプローチについてはここでもほとんど支持していない。
  • どちらが標準的な用語法かと言われれば、村山さんのほうだと言わざるを得ないが、ホプキンス=エイベル的な仕方で「描写内容」の範疇を定める限り、実質的に意図主義にコミットせざるを得ない、というのも事実である(村山さんもp.113でこれを認めている)。
  • 自分でもいまいち整理できていない話題として、ぼんやり提題しておきたいのは、分離と誤表象の違いだ。後者は、「うちに見る内容に、現実の対象が持たない性質が含まれる」という仕方でも生じうるし、「描写内容に、現実の対象が持たない性質が含まれる」という仕方でも生じうるので、分離問題とは水準の異なる問題であるはずだ。以下で見る様式的変形や視覚的修辞は、もっぱら分離ギャップを踏まえた理論のようだが、誤表象ギャップに関してはどうだろうか。青く描かれた東京タワーの〈青さ〉は、誤表象だが逸脱的性質ではないはず。ここにも視覚的修辞があると言える気がする。

 

2.様式的変形と規範的鑑賞

エル・グレコが聖人を縦に細長く描いた理由については、医学的説明と美術史的説明がある。前者によれば、エル・グレコは乱視であったり大麻を使用していたことになる。しかし、この説はX線検査によって明らかになった事実(いちど普通のプロポーションで描いた後に引き伸ばしている)を踏まえると疑わしい。すると、細長さは美術史的に説明されるような「様式的変形 [stylistic deformity]」であると考えられる。美術史的には、「聖人の精神的次元(霊性)を強調すべく、その身体を自身の個人様式で歪めて描いた(p.114)」とされる。これは分離の一例にほかならない。Bantinaki (2018)は、ここにある逸脱的性質の意義について考えている。

まず、「可能的鑑賞」と「規範的鑑賞」を区別する。前者は、絵画の経年劣化によるひび割れのなかに〈ひび割れた肌を持つ〉女性を見て取るなどの、可能だが作者によって意図されたものではない鑑賞モードを指す。バンティナキが問題にしているのは、そうではなく、意図に従った「規範的鑑賞」において逸脱的性質が持つ意義である。

絵画のひび割れと、エル・グレコの細長さは、後者が意図的に描かれている点で異なるため、前者は端的に無視される。次に、バンティナキはBrown (2010)から、次のような見解を引き出す:すなわち、絵画の「規範的鑑賞」とは、その逸脱的性質を“あたかも正しい描写内容であるかのように見なす”経験である。これはブラウンの用語で「分離的seeing-in」と呼ばれる。

しかし、バンティナキによれば、ブラウン説は様式的変形の鑑賞について正確ではない。例えば、アンリ・マティスの《音楽》について分離的seeing-inをするならば、そこに見て取れるのは〈怪物のような〉女性だが、①このような見方はマティス本人が否定しているのに加え、②このような見方は「不気味な絵」といった印象を絵に帰属させることになり、これは間違っている。バンティナキは②の見解を支持するために芸術心理学を援用しているらしい。

 

さしあたり、さまざまな様式的変形のうち、心的状態の表出 [expression]と関わるものだけを考えることにする。エル・グレコマティスも、その様式的変形によって、描かれている人物の心的状態に関するなにかを述べている。バンティナキの提案とは、ブラウン説のように逸脱的性質を“正しい描写内容であるかのように見なす”経験をする代わりに、これらを心的状態の表出と見なす、というものである。これに従えば、エル・グレコ絵画における聖人の〈極端に細長い〉は、ひび割れのようなノイズではなく、聖人が文字通り持つ性質でもなく、霊性の表出として見られることになる。表情とのアナロジーで言えば、〈つり上がった眉〉は、たんなる生理的異常や顔の歪みではなく、表出的意義を持つ。バンティナキ説は、つり上がった眉に不満や傲慢の表出を見てとるように、絵画の様式的変形にも表出を見て取るべきだと考える。

村山はバンティナキ説を評価しつつ、しかし、上述のアナロジーについてはうまくいっていないことをも指摘している。正確な定式化としては、様式的変形の規範的鑑賞とは、逸脱的性質を①特定の表出内容の媒体と見なしつつも、②描写内容の一部には含まれないものと見なす、ということになる。

  • こちらはほぼバンティナキ説のまとめ。
  • バンティナキがブラウン説(および分離的seeing-inを経由した性質帰属)を切り捨てている根拠についてはもうひとつ分からなかったので、芸術心理学というのがなんなのか気になる。 

 

3.視覚的修辞

村山は新たに以下の区別を導入する:画像の持ちうるさまざまな内容を「画像の内容 [content of picture]」呼び、このうち、うちに見る内容を通してのみアクセス可能な内容を「画像内容 [pictorial content]」と呼ぶ。いま、描写内容は画像内容に含まれる(seeing-inを介しているので)が、描写内容ではないような画像内容(seeing-inを介しているが、描写はされていない内容)がある。

さきほどの表出的性質(〈不満〉など)や、ほかにも美的性質(〈壮麗さ〉など)は、描写内容(ここでは一連の形象的性質に限定)ではないが画像内容である。いずれも、うちに見る内容を前提として伝えられるような高次の性質だと言える。まとめると、seein-inを介して伝えられる画像内容には、「描写内容」と「高次内容」が含まれており、両者は排他的である。

いま、描写内容と高次性質の関係には二種類あることが指摘できる。①標準的関係:描写内容に含まれる性質(実質、非逸脱的性質)が媒介となる、②非標準的関係:逸脱的性質が媒介となる。前者は「😠」の描写内容であるところの〈しかめっ面〉から〈怒り〉という高次性質が得られるケースで、後者はエル・グレコの絵画が該当する。エル・グレコの場合、最終的に得られる高次性質〈霊性〉は、〈極端に細長い〉という逸脱的性質を媒介としており、これは前述の通り描写内容ではない。村山は、このような非標準的関係による高次性質に付与を指して、「視覚的修辞」と呼ぶ。

村山によれば、視覚的修辞は、表出を伝達するような様式的変形にとどまらず、より一般的な現象である。例えば、ポケモンのサルノリを描いたイラストは、〈二本の腕〉という逸脱的性質によって、〈棒を振る運動〉という高次性質を伝えている。明らかに、サルノリは右腕が二本ある生物ではないため、〈二本の腕〉は描写内容ではない。

次に村山は、虚構的キャラクターに関する高田の議論を引きつつ、美的性質という高次性質についても同様のことが言えるとする。デフォルメされ、鼻を持たないようなキャラクターについて、鑑賞者はその正確な外見を把握できないにもかかわらず、〈かわいい〉〈かっこいい〉といった美的性質を帰属させている。高田によれば、ここには鑑賞上の解釈規則があり、村山はこれを自身の議論と接続している。

アボガド6『心配事』も同様に、〈万力に頭を挟まれている〉という表現によって、〈頭を締め付けられる感覚〉という高次内容を伝えている。村山によれば、このケースは様式的変形には該当しないものの、視覚的修辞となっている。

村山は次のようにまとめている。

ある画像に視覚的修辞が成立するのは、その高次性質に〈その逸脱的性質を媒体として獲得される高次性質〉が含まれるとき、かつそのときにかぎる。(p.123)

最後に、村山は視覚的修辞の規範的鑑賞が、バンティナキの様式的変形におけるそれとおおむね同じであることを指摘した上で、視覚的修辞の意義については、同じくバンティナキに倣いつつ、「率直に描くことの難しい性質を描写対象に与えるための解決策」になると述べる。心的状態や、運動など、静止画で描くことの難しい性質は、視覚的修辞によって伝えられるのだ。

  • はじめの「画像の内容」「画像内容」の区別は、用語的にピンと来ない上、「画像内容ではない画像の内容(サインなど)」が主題的に関わることもないため、不要であるように思われる。その後も、「高次性質」、これに関わる「標準的関係」「非標準的関係」など、さまざまな項や影響関係が導入されるため、p.120の図だけでフォローするのはやや難しい。おそらく、まとめると次のようになるだろう。

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  • 思うに、ここでほとんど役割を果たしていない項は「描写内容」であって、うちに見る内容のうち、「①非逸脱的性質(実質、描写内容)→高次性質」 「②逸脱的性質→高次性質」という2ルートで標準的関係/非標準的関係を十分特徴づけられたはずだ。抽象化しておくと、うちに見る内容{a, b}かつ正しい描写内容{a, c}のとき、逸脱的性質{b}から高次性質{β}が得られるのが②非標準的関係、非逸脱的性質{a}から高次性質{α}を得られるのが①標準的関係。
  • アボガド6の『心配事』について、Green (2008)の「外的側面」「内的側面」を引きつつ論じている箇所は、ちょっと難しくて分からなかった。
  • 【全体の感想】デフォルメによって表出的性質を伝える「様式的変形」よりも、逸脱的性質一般によって表出的性質以外にもいろいろ伝えられる「視覚的修辞」のほうが、汎用的だというのはそれなりに納得するし、理論的な旨みもわかる。一方で、射程オープンにしてしまったからこそ、視覚的修辞がほとんど任意の表現に関して指摘できそうな危うさも感じる。特定の逸脱的性質が特定の高次性質をもたらす、という基準(ざっくり言えば、やはり意図か)があればよいのだが、p.124で村山さんも述べている通り、なかなか一般化するのが難しそう。少なくとも、末尾やあとがきで予想されている通り、「逸脱的なコテ線→〈わんぱくさ〉」「逸脱的な花を散らす→〈美しさ〉」「逸脱的な豆電球が浮かぶ→〈ひらめき〉」といったベタな表現は、伝統や慣習の役割が小さくない気がする。少なくともマンガに関しては、この手の表現技法に関する研究が少なくないはずなので、共闘していければ面白い気がします。
  • 余談ですが、『チェンソーマン』64話の🐸<ゲコって、どういう理屈か分からないのに〈絶望感〉とか〈無敵感〉の視覚的修辞になっていて、すごくないですか?

*1:この話題を扱ったものとしてはAbell (2005)がある。エイベルは同様に意図に訴えるが、ホプキンスの挙げる手がかりが不十分であるとして、グライスの「含み」理論を援用する。