Liminal Spaceのなにが不気味なのか

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リミナル・スペース[Liminal Space(s)]は2019年ごろに4chanからTwitterReddit経由で広まった、インターネット・ミームである。Fandomの「Aesthetics Wiki」によれば、

Liminal Spaceの美学は、広くてなにもない、薄気味悪く不穏な雰囲気[eerie and unsettling vibe]のある部屋、廊下、ホールなどから成る。

Liminal Space | Aesthetics Wiki | Fandom

ミームとして拡散された経緯はknow your memesなどを読んでもらえばよい。

Twitterでは「@SpaceLiminalBot」なるアカウントが精力的(?)にリミナルな画像を拡散しており、2021年10月現在約42万人のフォロワーがいる。

9月にはtogetterのまとめが注目されていたので、日本における知名度も徐々に上がってきたようだ。

 

基本的には、「3回見たら死ぬ絵」的なネット都市伝説のノリ(いわゆるCreepypasta)と、Vaporwave的なジャンクを愛でるカルチャーが悪魔合体した画像ミームだが、不気味な音楽に合わせるとなおのこと怖い。「あなたが悪夢で見た場所」とかいうタイトルで延々とリミナルな空間をスライドショーする動画なんて、たいそう怖くて見てられない。

 

情動的な部分をくすぐる性質を持ち、事例の供給にも事欠かないなど、ミームとしてバズる要因がたくさんあるのだが、そういった分析もここでは脇に置こう。

問いはごく基本的なものだが、おそらくもっとも気になるものだ。すなわち、

Liminal Spaceのなにが不気味なのか。

この問いには何通りもの答えがあるだろう。本記事ではそのうちのいくつかを取り上げる。

 

不気味さとはなにか

ここで問題にしているのは、美的用語の適用をめぐる問題だ。Liminal Spaceはさまざまなネガティブな美的性質を持つ(怖い、不気味、薄気味悪い、不穏、etc.)のだが、そのうち私が問題にしたいのは、不気味[uncanny]という特定の性質・用語である。

まず明らかに、Liminal Spaceは狭い意味で理解された恐怖[fear]を喚起するものではない。狭義の恐怖は、身体的危機の認知、すなわち「危ない」「危険だ」といった認知に由来している*1。昼間の山でくまに出会う経験は怖いが、おそらく不気味ではないだろう。

では「uncanny」とはどのような情動なのか。これについては、フロイトの古典的な研究があるが、その説明は「克服された原初の信念が回帰する」みたいなフロイト節全開で、らちが明かないのでもう少し気の利いた説明に頼ろう。

マーク・ウィンザー[Mark Windsor]「不気味さとはなにか?」(2019)は、「一見したところの不可能性[an apparent impossibility]」に注目して不気味さを定義している*2

ウィンザーによれば、

私がxを不気味なものとして経験するのは

  1. 具体的な[concrete]対象/出来事としてxを経験しており、
  2. 私は、自身が可能であると信じている事柄に調和しない[incongruous]ものとして、xを経験しており、
  3. そのことが私に対し、xについての不確実性を生じさせ、
  4. それによってxへの直接的な感情[feelings]として、不安が生じるとき、かつそのときに限る。(Windsor 2019: 60)

重要なのは二番目の条件だ。不気味なものは、私が可能だと信じている事柄に調和せず、そこから逸脱し、私の世界認識を脅かすようなものとして立ち現れる。恐怖が身体的な脅威だったのだとすれば、不気味さは認識的な脅威だと言ってもいいだろう。世界が自分の知っている世界ではなくなってしまったかのような、あるいは自分の頭がおかしくなってしまったかのような、そんなとまどい・無力感が、不気味さには伴う。玄関先に、知らぬうちに置かれているくまのぬいぐるみは、恐怖よりも不気味さを喚起する(もっとも、ヤバイやつが部屋に入ってきた証拠だと考えればただちに恐怖も喚起するのだが)。

他にも例えば、

  • ドッペルゲンガー:私とまったく同じ人間が、もうひとり実在するのかも知れない。
  • 双子:まったく同じ人間が、ふたり存在するのかもしれない。
  • 蝋人形:生きていない無生物が、実は生きているのかもしれない。
  • 一日に何度も同じ数字を見かける:神的ななにかが、裏で世界の糸を引いているのかもしれない。

不気味さを喚起される対象/場面には共通して、現実に関する私の認識フレームを脅かすという性質がある。

 

情動は行動の動機づけになる。くまを見つけて恐怖を感じれば、逃げるなり死んだふりをするなり、なんらかのう行動をしたくなるだろう。同様に、ウィンザーはこのような不気味さの感覚が動機づける行動について触れているが、それはウィンザーが考えている以上に重要な事柄だと思われる。便宜的に、次のように名付けよう。

  • (A)フレームの修正による解決[resolution]:現実に関する自分の認識フレームを修正し、xを矛盾しないものとしてカバーする。例えば、ぬいぐるみは友人のサプライズだとして納得する。
  • (B)経験の否定による解消[dissolution]:現実に関する自分の認識フレームを維持し、xの経験を錯覚とみなす。例えば、ぬいぐるみを見たのは目の錯覚だとして、なにも見なかったことにする。

上述の不気味さの定義と照らし合わせれば、(A)は条件2の否定、(B)は条件1の否定だと言えよう。ふたつ合わせて、不気味さに対する心的抵抗と呼んでおこう。

解決か解消が首尾よくなされる限りで不気味さは消滅するので、不気味さが持続するには、それが動機づける(A)ないし(B)という心的抵抗が絶えず失敗する、という条件が必要だ。すなわち、不気味さとは、ある種の逸脱に関する認知と、それを規定範囲内に収めようとする心的抵抗の連続的失敗、その動的プロセスにおいて立ち上がるネガティブな情動だと言える。不気味さには宙吊り=サスペンス[suspense]の感覚が伴う、といってもいいかもしれない。*3

 

ということで、それなりによさそうな「不気味さ」の定義が得られた。本題に入ろう。

 

痕跡としての写真

Liminal Spaceにおける不気味さの一因は、とっぴな話かもしれないが、写真というメディアに一般的な不気味さであるかもしれない。Liminal Spaceは写真ばかりではなくイラストや3Dモデルのものもあるが、ここではひとまず写真のものに限定しよう。

写真特有の不気味さについては数年前に発表したことがある。(本節の元ネタは基本的にこの発表資料だ)*4

他の条件が等しいときに、絵画ではなく写真なんですと伝えられること自体に、不気味さを増すなにかが含まれている、というのはむしろありふれた直観ではないだろうか。心霊写真や呪いのビデオが一大カルチャーを築いているのも、文化的に根深いところでメディアと結びついた不気味さの感覚があるからだろう。「写ってはいけないものが写ってしまう」不気味さは、写真メディアに特有であって、手描きの画像にはなかなかないものだ。

では、写真に特有の不気味さは、写真のいかなる性質に由来するのか。例えばWalton (1984)の「透明性テーゼ」が正しければ、われわれは写真を通して文字通りに被写体を見ていることになる。不気味なものを直に目にしているのだから、そりゃ不気味さを感じるだろう、と言えそうだが、残念ながらウォルトンのテーゼには多くの反論があり、あまり頼りがいがない。また、仮に透明だったとしても、経験における不気味さはただちに被写体の不気味さとしてバックパスされるので、写真というメディアに特有の不気味さについては、説明上あまり役に立たない。とりわけ、Liminal Spaceは、ものにもよるが、被写体としては多少薄暗いだけの部屋や廊下やホールであることが多い。おそらく、実際にその場にいるときに喚起される不気味さは、写真を通して見る不気味さほどではないだろう。写真メディアが、その不気味さを増しているのだとすれば、われわれにはその説明が必要だ。

このトピック(写真による特権的な情動喚起)に関して私が気に入っている説明は、これまたある意味では平凡な決り文句であるところの、「写真は痕跡[trace]である」という説だ。

バザンやソンタグも痕跡としての写真について書いていたわけだが、ウォルトンに対する対抗案としてこの考えを復活させたのはPettersson (2011)だ。

痕跡は、対象との物理的な接触の結果として生じる。これを踏まえれば、恋人が座った後のクッションに親密さを感じることはスムーズに説明できる。その凹みが恋人の座った痕跡であることは、そこに特別な親密さを感じるのに十分な条件となりうるからだ。その凹みのうちに、文字通り恋人を見ているわけではない。同様に、写真が与える被写体との「結びつきの感覚」も、文字通り被写体を見ているのだと言わずとも、それが被写体の痕跡であると言えば十分なのではないか。ペテルソンの説明は穏健かつ直観的なところを攻めている。

 

ということで写真は被写体の痕跡であるとして、その事実が不気味さの喚起とどう結びつくのか。これはおそらく、二つの事実の組み合わせとして説明できる。

  • 一般的に言って、写真は、被写体をもとの文脈から切り離して提示する。
  • 一般的に言って、写真には、非写真的な画像としての次元があり、これは再文脈化に対して無防備である。

第一の事実は、不気味さの阻却要因であった心的抵抗にとって重要である。前述の通り、認識的に齟齬をきたす経験をしても、フレームを修正できたり経験を錯覚として否定できれば、不気味さは消える。しかし、そのためには、さまざまな角度から時間を掛けて、対象や出来事を観察することが必要である。写真は、被写体の持つ情報を時間的・空間的に凍結することで、これを困難にする。もうちょっと情報が欲しいのに、写真は絶妙なところでさらなる情報を与えてくれないのだ。これは低解像度のビデオ映像で、なにかがうごめいているタイプの不気味さにも通ずる。

Liminal Spaceの周囲にもきっと有機的な家具なり置物があり、別の時間帯にはちゃんと人が利用するような空間なのだろう。写真は、一定の枠内でそれを切り取り、枠の外でなにが起きているのかを分からなくする。

第二の事実として、写真のうちに見られるものは被写体ばかりではない。端的に言えば、写真のうちには被写体以外にも、いろんなものが見て取れる*5Wollheim (1980)がうちに見る[seeing-in]と呼んだ経験において、(ウォルハイムは必ずしも認めないだろうが)画像との視覚的類似性が成り立つものは、たいていの場合画像のうちに見て取ることができる。ダイアン・アーバスによる双子の写真は、実はまったく同じ人間がふたり存在する痕跡なのかもしれない。いや、実は二人とも生身の人間なのではなく、ハリボテなのかもしれない。

Liminal Spaceという抽象的な空間に対しては、その場所や用途や目的や秘密について、あることないこと想像しながら、写真を見ることになる。実際、Liminal Spaceをミームとして成長させた要因の一つは、それと結びついた二次創作的な物語である。4chanのある匿名ユーザーは以下のように語る。

気をつけないと、間違ったところで現実から抜け出してしまい、Backrooms*6に行き着いてしまうよ。そこには、古い湿ったカーペットの悪臭、モノイエローの狂気、最大限のハム音を放つ蛍光灯の無限に続く背景ノイズ、そして約6億平方マイルのランダムに分割された空っぽの部屋しかなく、閉じ込められてしまうのだ。

/x/ - Paranormal » Thread #22661164

インターネット・ミームにおいて、この手の再文脈化はお手の物だ。画像ミームが、もとの文脈とは異なる文脈において、異なる意味内容を担う経緯についても、論文を書いたことがあるのでそちらを参照。

 

こうして、写真は間違いなくなにかの痕跡でありつつ、別のなにかにも見えてしまうという性質があり、また、その被写体に関して確証を得るには、脱文脈化によって情報が欠けてしまっているという事情がある。写真を通してなにかを見る経験は、そこで見られるなにかが、写真を痕跡として生じさせた実在するなにかであるかどうか不確定であり、観者はある種のサスペンスに置かれる。これは、不気味さを生じさせる動的プロセスと、不運にも親和的である。そもそも痕跡としてみなされず、その描写内容が一面的な水準で展開される絵画には、このような不気味さをもたらす構造はない。

 

Liminal Spaceと、痕跡としての写真の結びつきを踏まえれば、前者における詩学のひとつが見えてくる。Liminal Spaceの事例は、しばしば水平のとれていない構図や、フラッシュを焚いた暗室の写真から選ばれている。これが、事件現場の鑑識写真を連想させることは言うまでもないだろう。なにか恐ろしいことが起きた痕跡を捉えた写真は、二重の意味で不気味な痕跡となる。Liminal Spaceの不気味さは、部分的にはそのような様式美に乗っかっているわけだ。*7

 

人のいない空間と人-不在空間

ミームの名称となる以前の「Liminal Spaces」は、ある場所から別の場所へと移動する際の境界となる、廊下や通路を指す建築用語である。ふつうはそこで立ち止まってなにかをすることなく、さっさと歩いて通り過ぎるだけの空間にあたる。

そういった場所には、しばしば階段のように反復的な造形物が置かれていたり、窓がなかったり、薄暗かったりと、閉所恐怖症的な強迫観念を刺激する。ミームとしてのLiminal Spacesは、そういった潜在意識下でひろく共有されているぞわぞわを、前景化させる狙いがあるのだろう。だからこそ、Vaporwaveと同じように、ただ奇怪なだけでなく、奇怪にもかかわらずある種のノスタルジーと紐付けられる。そこは、夢やサブリミナルにおいて、行ったことのある場所なのだ。*8

 

そういった不気味さを強化している要因のひとつは、Liminal Spacesにおいてはほとんどつねに人が写っていないことだ。一方では典型的な人工的空間であるにもa

わらず、そこにいるはずの人々がいない。閉店後の薄暗いフードコートや、誰も使っていないプール、ドアの閉め切られたホテルの廊下など、他の時間においては間違いなく誰かがいた/いるだろうはずなのに、今は誰もいない、という感覚がミソなのだろう。

では、画像において人がいないとはどういうことか。

こちらも前述のペテルソンが熱心に取り組んでいたトピックであるため、出発点についてはおんぶにだっこでお願いしよう。

一般的に、画像は、直接的には否定的な性質を描写することはないと言われる。あるりんごが〈赤い〉ことは描写できるが、〈赤くない〉ことは描写できない。赤さという性質は、赤い絵の具を塗りつけることによって例化されており、画像表面が赤さを所有するとともに、その描写対象が赤いことを伝達できる。一方、〈赤くない〉は間接的にしか伝達されない。具体的には、例えば、画像は〈緑である〉を描写することで、間接的に〈赤くない〉を伝達することになる。

だとすれば、「なにもない空間[empty space]」を画像のうちに見るとはどういうことか。物理的な事物とは異なり、なにもない空間には姿[look]がないにもかかわらず、それを描くとはどういうことか。

Pettersson (2018)の説明は現象学的なものであり、なにもない空間を画像のうちに見るとは、まずもって画像のうちになにかを探す[looking for things]ことの結果である、とされる。

描写の理論として、ここでペテルソンが参照するのは、ウォルトンの想像説だ。ウォルトンにおいて、画像のうちになにかを見る経験とは、知覚と想像力の両方を動員する経験である。われわれが実際に目で知覚しているのは二次元の画像表面なのだが、そのうちに三次元の描写空間を見るような想像力が加わることによって、「画像のうちになにかを見る」という経験が成立する。知覚されたものが、想像によって彩られる[colored]ことで、同時に別のものを見るかのような経験に変容するのだ。

ペテルソンは、ここにRichardson (2009)Sorensen (2008)の説明を組み合わせる。対面においてなにもない空間を見ることは、たんに「なにも見ない」のではなく、特定の反事実的条件を満たすような潜在的空間を見ることである。すなわち、「もしそこになにかがあれば、そのなにかを見ることになるだろう」という性質を伴う空間が、そこでは(広い意味で)知覚されている。

われわれは、なにもない空間が視覚的対象の潜在的な場所であるという、想像された意識[imagined awareness]を経験している。もし画像空間内にものがあれば、それを見ることになるだろう、ということが、想像的に意識されるのだ。(Pettersson 2018: 137)

 

ここでも、ウォルトンの想像説にはいろいろとツッコミどころがあるのだが、ペテルソンのおおまかな枠組みは、Liminal Spaceの不気味さを説明するのに十分役立つものだ。前述の通り、Liminal Spaceにおいてとりわけ重要だと思われる不在は、の不在であるため、以下では「画像のうちに、人がいない空間を見て取る」経験として置き換えつつ敷衍していこう。

さしあたり、本記事の目的においては、描写される空間の性質として「人がいない」ことと「人-不在である」ことの違いを踏まえておくことが有用だろう。

  • 「人のいない空間」の画像:人を描写する画像ではないあらゆる画像。
  • 「人-不在空間」の画像:人のための潜在的な場所であることを想像的に意識させる画像。

私の持っている『世界の犬図鑑』には、いろんな場所を駆け回る犬たちが描写されているが、どのページにも人は描写されていない。しかし、そのことは犬図鑑内の画像にLiminal Spaceのような不気味さを付与する事実ではない。「人のいない空間」の画像はありふれているのだ。

「人のいない空間」のサブクラスである「人-不在空間」は、たんに〈人がいない〉という否定的性質を間接的に伴うのではなく、〈人-不在である〉という肯定的性質を直接伴うような空間である。ペテルソンの枠組みに従えば、それは「もしそこに人がいたとしたら、われわれは画像のうちにその人を見ていただろう」という反事実条件とともに、それが人のための潜在的な場所であることを、想像を介して意識させるような空間の描写である。*9

 

Liminal Spaceは、明らかに単なる「人のいない空間」ではない。前述の通り、それは他の時間においては間違いなく誰かがいた/いるだろうはずなのに、今は誰もいない人工的空間なのである。このような空間は、そのうちに人の姿を探すことを促し、同時に〈人-不在である〉ことを意識させる。これを捉えた写真は、前節で見たような脱文脈化と再文脈化も加わり、観者の心的関与(想像、連想、推測)を動員しつつも、それを挫くような画像として成立する。こうして、Liminal Spaceのうちに人の姿を探すわれわれは、再び、前述した不気味さの動的プロセスに置かれるわけだ。

ここからも、より不気味なLiminal Spaceを見つけたり分析するためのtipが得られる。すなわち、単に人がいないのではなく、人-不在であることをなんらかの手段で効果的に前景化させた事例は、より不気味であり、ひとつの基準においてはよりよいLiminal Spaceなのだ。事例の分析は、空間やアングルの選択を通して、いかにこの性質を強調しているかが、ひとつの切り口となるだろう。

 

なにもない空間をなにもない空間として理解すること(そして、そこに不気味さを感じること)は、心的な働きかけによって支えられている点で、ペテルソンが述べるように頭の中から出てくる[coming out of our heads]経験だ。

ダイアナ・ロスが歌ったように「すべてはあなたの手の中にある[it's all in your hands]」のではなく、MACINTOSH PLUSが歌わせたように「すべてはあなたの頭の中にある[it's all in your head]」のかもしれない。

 

まとめ:Liminal Spaceのなにが不気味なのか

以上、Liminal Spaceという画像ミームが不気味さを喚起する理由の、少なくとも二つを説明してきた。言うまでもなく、理由はほかにもあるだろうが、この二つはLiminal Spaceの不気味さに関して、それなりに主要な部分を捉えているように、私には思われる。

  1. 痕跡としての不気味さ:写真は被写体を脱文脈化し、使用者によって再文脈化を施される。このことは、紛れもなく実在したなにかの痕跡でありつつ、それがなんの痕跡であるのか不確定であるというサスペンスにおいて、写真を不気味なものにする。Liminal Spaceもまた、超自然的で奇怪な空間であるという物語とともに、その痕跡なのではないかという認知から、不気味さを喚起する。
  2. 人-不在画像としての不気味さ:たんに人が描かれていないのではなく、それが人のための潜在的な場所であるにもかかわらず、今は人がいないことを想像的に意識させるような「人-不在画像」がある。Liminal Spaceもまたその一例であり、われわれはそのうちに人の姿を探しつつも、その心的関与が繰り返し挫かれることで、不気味さの動的プロセスに置かれる。

もちろん、Liminal Spaceが喚起する情動は不気味さだけとは思われないし、ちらっと触れたとおり、ある種のノスタルジーも重要なエレメントになる。別の切り口からの分析はまた別の人がやるというものだろう。

 

 

*1:これは情動の哲学における認知主義[cognitivism]という立場を前提している(キャロルなど)。そうでないという人もいる(プリンツなど)。

*2:本論文はFinnish Society for Aestheticsのアワードをとっているほか、BJAの2018年ベストにも選出されているので、頼るには十分な肩書だろう。

*3:用語が微妙に異なるが、数年前の発表で作ったスライドは以下。

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*4:そもそも本記事を書こうとしたきっかけは、Twitterのほうで応用の可能性をご指摘いただいたからだ。ありがとうございます。

*5:ペテルソンはこのような写真の二面性を「描写的な痕跡[depictive traces]」と呼んで特徴づけているが、同様の二面性はすでにウォルトンにおいても指摘されていた。その枠組みを見直そう、という話については修論で書いた。

*6:Liminal Spacesの前身となったミーム

*7:もちろん、事例の中にはキューブリック映画のような、バチッと構図のキマったケースもある。その異様にストイックで無機質な構図が喚起する不気味さは、また別の様式美であろう。

*8:さらに言えば、これもVaporwave経由なのだろうが、「ニンテンドー64的な、カクカクしつつものっぺりとしたバーチャル空間」など、ゲーム文脈から来ている美意識は少なからずあるだろう。『ゴールデンアイ 007』なんて、どこをキャプチャーしてもLiminal Spaceだ。そこは、ゲームで行ったことのある場所なのだ。

*9:たんなる「人のいない空間」ではなく「人-不在空間」であるかどうかは、おおむね知覚者の期待や態度に基づいて区別されるし、たんなる「人のいない空間」の画像ではなく「人-不在空間」の画像であるかどうかは、おおむね画像が提示される文脈や出自に関する情報(作者の意図など)で区別されるだろう。これを厳密に切り出す条件を見つける必要は、とくにないと思われる。