哲学者は認知科学の論文を読むか?|描写の哲学の場合

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描写の哲学はかなり学際的な分野だ。異なるバックグラウンドを持つ研究者たちが、画像という同一の主題を、さまざまなアプローチで扱っている。

2021年6月26日㈯に、松永さん(@zmzizm)主催の「描写の哲学研究会」があり、今年度は「描写の哲学と認知科学がテーマになっている。もう事前申し込みは締め切っているので宣伝としてはいまさらなのだが、会に先立ちこの話題に関して自分が気になっている点を整理しておきたい。

まずはHPに挙げられている「想定される論点」を引用しよう。

  • 描写の哲学の議論は、心理学や神経科学といった認知科学からどう見えているのか。
  • 哲学者は経験的な研究ぬきに特定の前提を置きがちだが、それは適切なのか。
  • 認知科学者と哲学者の関心の違いは(もしあるとすれば)どこにあるのか
  • 描写の哲学で共有されている諸概念は、認知科学にとって何らかの意義を持つのか。
(2021年度 描写の哲学研究会 - 描写の哲学研究会)

描写の哲学のこれまでとこれからを知っていないと、こういった論点が想定されるのもピンとこないかもしれない。順を追って説明しよう。

 

1.描写の哲学のこれまでとこれから

(最近「描写の哲学」サーベイ論文も書いたので、ついでに宣伝)

前提として第一に、狭義の「描写の哲学」は分析美学のサブジャンルとして出発している。そこでは、もっぱら絵画、写真などの芸術作品と、これらに対する「◯◯を描いている」といった批評的言明が研究対象であり、20世紀後半の主なプレイヤーであるGombrich, Wollheim, Walton, Lopes, Hopkinsはみな美学・芸術哲学の研究者であった。また、分析系つながりで、言語哲学の人が描写について書くという流れも一時期目立っていた。GoodmanやSchierはその古典だし、近年ではAbell, Blumson, Kulvickiもこの路線で論文や本を書いている。実際のところ、画像表象を考える上で芸術作品ばかりを問題にするのはバイアスであり、より一般的に意味[meaning]を考える言語哲学のほうが、一般的関心としては近いものであったとも言える。Abell & Bantinakiによるアンソロジーのイントロダクションでもこのことが意識されており、次のように説明されている。

言語哲学がそれ自体としてひとつの哲学的分野としてみなされてきたのに対し、描写の哲学は通常、考えられるとしても美学のサブ分野として考えられる。これは、言語哲学を文学の哲学と混同するようなものだ。画像の美学に関しては多くの興味深い問題があるとはいえ、少なくとも同じぐらい多くの非美学的問題がこの分野には含まれている。(Abell & Bantinaki 2010: 1)

と言いつつも、アンソロジー寄稿者の多くは(編者である二人を含め)芸術的関心の強い研究者であったことも事実である。ともかく、20世紀なかごろにディシプリンとして立ち上がった「描写の哲学」は、画像芸術への関心から、画像の意味に関する一般的関心へと、徐々に拡張されながら発展してきたことになる。とはいえ、その担い手はつねに哲学者であった。(ここで哲学者は、基本的に先行研究を読んで考えて書くという作業だけをやっている人を指し、美学者を含む。)

しかし第二に、描写の哲学において認知科学的な研究を引いてくる論者が目立ってきている、という事情がある。これは近年に限った話ではなく、分析系つながりで心の哲学や知覚の哲学の論文が引かれてきたのを含めれば、年表的には遅くとも90年代ぐらいから盛んな動きだと見られる。Nanayは脳の構造に関する理系な話をよくするし、Briscoe (2016)ははっきりと「哲学者はもっと視覚科学を気にするべきだ」と書いている。

 

2.進撃の認知科学

ということで、絵画とか写真とか映画について語ったるぜというモチベではじめたら、いつの間にか「脳はこうなっていて……」「視覚的注意に関してはこういうデータがあって……」みたいな話を読まされる、というトラップが描写の哲学にはある。ちなみに、描写の哲学にはもうひとつトラップがあって、射影幾何学の話もいくらか読まされる。具体的にはKulvicki, Hyman, Greenbergあたりが線遠近法やら射影変換やらの難しい話を導入している。

これは哲学における自然主義プロジェクトの一端でしかなく、格別に雑なまとめ方ではあるが、哲学者的には「のびのびと思索に励んでいるところに、データや数式を抱えた理系の人たちがやってきて文句を言う」し、経験科学の人的には「実験やら統計やらでコツコツ頑張っているのに、哲学者とか芸術ポエマーがいい加減なことを書いている」といった対立が浮上することになる。

例えば、描写の哲学においてもっとも影響力の大きい理論のひとつであるWollheim (1980)の「うちに見る[seeing-in]」を挙げよう。ウォルハイムは、表象的な画像に目を向けるときには、物質的な二次元の画像表面を見るだけでなく、そのうちに三次元の描写対象(描かれている人とか場所とか)が見られると論じている。しかも、その二つはゴンブリッチが述べたように交互に意識されるのではなく、二重性において同時に意識されるのだ、とする。私の知る限り、ウォルハイムは専門的な芸術哲学者であり、うちに見る理論に関しても経験的な裏付けはほぼ与えていない。すると、「二次元の表面のうちに三次元の物体を見る」とか「それらが同時に意識される」といったことが、視覚科学に関しては素人であるウォルハイムになぜ言えるのか心配になってくる。「うちに見る」に限らず、美学寄りの描写の哲学には、こういった議論や概念がたくさん見られる。

もちろん、私は文系理系の対立煽りがしたいわけではないし、こういった表面的な対立の乗り越えこそが学際的研究における腕の見せ所なわけだが、ともかく、そういった分野的・方法論的対立はある。よって、冒頭の「想定される論点」が出てくるわけだ。

  • 描写の哲学の議論は、心理学や神経科学といった認知科学からどう見えているのか。
  • 哲学者は経験的な研究ぬきに特定の前提を置きがちだが、それは適切なのか。
  • 認知科学者と哲学者の関心の違いは(もしあるとすれば)どこにあるのか。
  • 描写の哲学で共有されている諸概念は、認知科学にとって何らかの意義を持つのか。
(2021年度 描写の哲学研究会 - 描写の哲学研究会)

この四つの想定だけでも、描写の哲学では「理系の人から怒られる」という懸念がつきまとっていることが伺えるし、少なくとも私はばっちり怖がっている。

問題は、この怖がりとどう付き合っていくかにある*1潜在的な脅威があるときに、できることはいくつかある。

  1. シンプルに無視して逃げる:理系の難しい話は読まない、聞かない、書かない。自分の読みたい文献を読み、書きたい論文を書く。
  2. 自分の武器を確認し、陣地を守る:方法論的な棲み分けを図るために、「哲学・美学はなにをやっているのか」と反省する。場合によっては、自分側の分を相手に対して説明してやる。
  3. 相手の強さを認め、仲間にしてもらう:理系の難しい話も勉強して、読める聞ける書ける状態を目指す。

実際は、哲学者は多かれ少なかれ、これら三つを適度にやっているのだろう。私は明らかに自分の知的キャパシティを超えている論文は(一端、と言っておきたい)脇に置くし、哲学なりのやり方や意義についてそれなりに考えておくし、読める範囲では理系の研究も引用するよう心がけている*2

しかし、無視というコマンドを多用する人は信用を失うし、現実問題としてよほどキャパのある美学者でなければ「認知科学も全然いけます」な状態まで極めるのはしんどい。自分の専門分野を勉強するので手一杯なのだ*3。ということで、哲学者側としては、第二のオプション、すなわち自分らのやり方を反省し、経験的研究との棲み分けができそうなら棲み分け、やり方に関して文句を言われたときにはそれを逐一説明する、というのが現実的になる。

 

3.哲学者の役割:問題提起モデル?

先日の松永さんのご発表もそういった内容だったし、今回の会もそういった落とし所を探すことが目標になるだろう。

松永さんは、私見だと留意しつつ、「哲学のナラデハ特徴の候補」を挙げている。筆頭に挙げられるのが「既知のことをわかりなおしたい」という動機だ。

  • 哲学者は、自分(そしておそらく多くの人)がすでに素朴なかたちでわかっていることを、構造化したかたちでわかりなおしたいというモチベーションで研究している。
  • 比喩で言えば、「何かごちゃっとした複合体をばらして、整理された積み木として組み立てなおす」というイメージかもしれない。積み木のブロックになるのが個々の概念に相当し、できあがった積み木の全体が理論に相当する。
(3.1 哲学者の積み木 - ゲーム研究における理論的研究の位置づけを考える)

 松永さんの説明に私は100%同意するし、ちゃんとした哲学をやっている人ならたいてい同意するだろうと思う。少なくとも私は、「皆さんが見たことも聞いたこともない事実を持ってきました」という体のなにかを書いたり喋ったりしたことはなく、「この辺のよく分からんものを整理しました」という体をとることが多い。整理の過程ないし結果に伴う気分の良さも身体的に共有できている*4

ともかく、重要なのはこれが「動機」であって「正当化」ではないという点だ。すなわち、「そんなことをしてなんの意義があるのか」には答えられないにせよ「なんでそんなことがしたいのか」にはしっかり答えられる。「私はこれがやりたい。これは私を気分よくさせるからだ」という主張は、その点に限って言えば、文句を言われる筋合いなどない。

一方で、哲学外の人が気にしているのは、やはり「そんなことをしてなんの意義があるのか」というレベルの話だろう。松永さんは「積み木の使い道」を次のように予想している。

① 普通の理論研究としての使い道。

  • 哲学者自身のモチベーションはともかく、出てきた理論は調査や実験のフレームワークとして利用できる。

② 経験的研究のモチベーターとしての使い道。

  • 哲学者は直観にもとづいて理論を組み立てるが、その直観が本当なのか、その理論は事柄の本性をとらえているのか、といった問いは普通にありえる(哲学者自身はそれに興味を持たないとしても)。
  • なので、哲学者の議論を踏み台にして経験的な研究を進めるという方向があるのではないか。
(3.2 積み木の使い道 - ゲーム研究における理論的研究の位置づけを考える

描写の哲学で言えば、ウォルハイムのうちに見る理論は、画像知覚に関する経験的調査の前提としても使いうるし、疑わしいならそれを確かめるための研究が立ち上がることにもなる。経験科学に対する哲学の意義は、前提となる枠組みや踏み台となる主張を与える点に求められる。こちらに関しても理解できるし、少なくともそういう役割があればいいなぁ、とは思うのだが、こういった哲学の「問題提起モデル」(と呼ぼう)もいまだ十分ではないかもしれない。

 

ということで、私が「描写の哲学と認知科学」に関して気になっている問題は以下の二つである。

第一に、問題提起モデルは、経験科学が哲学に対して枠組みや踏み台を外注していることを想定しているが、本当にそうなのか。極端な話、認知科学者はあらかじめなにを踏まえてなにを問うべきか分かっておらず、整理された前提や問いを哲学のうちに探していることになるが、そんなこと本当にあるのか。あるとしてどれだけの頻度であるのか。具体的に、哲学的議論を出発点として提出された有意義な認知科学研究にはどういう例があるのか。普通に経験科学のなかで前提や問いを立てる場合のほうが多いと思うが、そういった自給より哲学者への外注を選ぶ積極的理由があるのか(哲学者の立てる前提や問いは本当に整理されているのか。むしろ込み入りすぎじゃないか)。

第二に、問題提起モデルは、哲学者が認知科学を勉強する必要性に関してあまりヒントにならないのではないか。問題提起モデルは、前述のオプション2に相当し、基本的には棲み分ける方向での調整を目指している。言いようによっては、「哲学の領分はここからここまでなので、そういう話はそっちでどうぞ」という仕方で、毅然として読まないことを正当化してくれるモデルになっている。しかし、一方ではちゃんと勉強するためのリソースに恵まれた哲学者がおり、そういった猛者たちによって認知科学やら射影幾何学が引用される流れが現にある。例えば、Nanay (2011)に「認知科学的データによれば、脳には腹側[ventral]の視覚経路と背側[dorsal]の視覚経路があり、前者が描写内容、後者が画像表面を心的に表象している」と言われても、私には「そうなんだ……」としか言えない。それを確かめたり反証したりするには、関連分野の論文を読む能力だけでなく、理想的には追試のためのスキルおよび環境を持っている必要があるが、哲学者にはアームチェアしかない*5。そうなると、ナナイのそれは哲学的には検討不可能な無敵の主張ということになってしまう。まとめると、現にオプション3を選んでいる猛者たち(あるいは、認知科学の方から流れてきたガチ勢)が活躍しているなかで、問題提起モデルにとどまることは、結果的にその人の研究を孤立させてしまうことにはならないのか。

 

ベストアンサーはやはり「適度に無視し、適度に自律を訴え、適度に勉強する」ということになるのだろう。

あるいは、主題の一部を身売りするというのも、現実的な選択肢だろう。描写の哲学で言えば、画像知覚の本性に関して哲学者・美学者がとやかく言ってもしょうがないので、「手前までの概念的整理は担当するので、その先は実験なりしてください」という指示を出す、というのはアリだと思う*6。「画像経験は錯覚である」みたいな命題は、60年代初頭はともかく今日においてテキトーに言い放つわけにもいかない。しかし、一部の問いや主張は、依然として哲学固有のそれとして生き残る(生き残ればいいよね)と思う。

 

参考文献

  • Abell, Catharine & Bantinaki, Katerina (eds.) (2010). Philosophical Perspectives on Depiction. Oxford University Press.
  • Briscoe, Robert (2016). Depiction, Pictorial Experience, and Vision Science. Philosophical Topics, 44 (2):43-81.
  • Nanay, Bence (2011). Perceiving pictures. Phenomenology and the Cognitive Sciences 10, (4):461-480.
  • Wollheim, Richard. (1980). Art and its Objects: With Six Supplementary Essays. Cambridge University Press. リチャード・ウォルハイム『芸術とその対象』, 松尾大訳(2020), 慶應義塾大学出版会.
  • 銭清弘 (2021). 「画像がなにかを描くとはどういうことか」『新進研究者 Research Notes』, (4):123-131.

*1:そもそも、良くも悪くも経験科学の成果を気にするのは、分析哲学のナラデハ特徴だろう。そうでない"哲学"の話はしないことにする。

*2:修論で、「結びつきの感覚[sense of contact]」について論じた箇所など。

*3:マウントされそう。

*4:しかし、哲学者としてはこの動機を否定する動機はあるだろう。具体的には、申請書の類を書いているときに、「この哲学的研究は私にとって気分がいいのでやります」というわけにはいかない。

*5:実際、この勉強しにくさはほとんど制度的に非対称的である。知識があったとしても、ラボを借りて確かめる権利ないし予算を持っている哲学者はおよそいないが、自然科学者はアームチェアに座れる(暇さえあれば)。

*6:ちなみに、倍速鑑賞の論考もこの構造を持っている。私は鑑賞の「回復」という概念を立てて、もしそれが成り立つなら、倍速の悪さの少なくとも一部は打ち消せるよね、という主張をしている。一方、回復という認知的プロセスが現にあることについては、「ある気がするよね」という仕方で読者の直観に訴えるだけであり、これは共有してもらえたりもらえなかったりした。最終的な決着は、経験科学の課題だろう、という仕方で投げている。

もっとも、回復可能性に関して、認知科学的にどのようなことが言えるのかはまったく定かではない。実証的な研究によって、回復可能性がでっち上げだと否定されるならば、私もそれを甘んじて受け入れようと思うのだが、むしろこれを肯定するような実験結果が出るのではないかと期待している。

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