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描写の哲学において写真は個別の議論を必要とするのか?

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「描写の哲学」研究ノートです。

「描写の哲学ビギナーズガイド」で言えば、「1.描写の本性:描写とはなにか? 画像とはなにか?」と「6.写真の特性:写真のなにがそんなに特別なのか?」にまたがる話題。

写真(photographs)は画像の一種だが、とりわけ特殊な性格を持った画像である。

ごく素朴な直観において、「絵画は間違いうるが、写真は嘘をつかない」「絵画は主観的な表現だが、写真は客観的な伝達である」と思われる。

描写の哲学は基本的に「画像」一般の本性に迫ろうとする分野だが、絵画のような手製(hand-made)の画像と写真を分けて論じるべきかどうかについては、意見が別れている。

すなわち、「絵画と写真は区別して論じるべきだ/論じざるを得ない」と考える陣営と、「なんらかのひとつの原理によって画像一般を包括的に説明すべきだ」と考える陣営がある。適当に、前者を区別派、後者を包括派と呼んでおこう。

本記事は、区別派が写真と絵画をそれぞれどう論じているのか、あるいは包括派がどのような原理によって画像一般を説明しているのか、といった内容にはほとんど踏み込まない。もう少し手前の話をする。

ウォルハイムの「うちに見る説」と区別派

リチャード・ウォルハイム(Richard Wollheim)は二次元の画像表面のうちに三次元の描写対象を見る(seeing-in)という独特な経験によって画像を特徴づけた。前回書いた記事を参照。

「うちに見る」単品だと、三つのクレームがつく。

  1. 「うちに見る」経験を与える非画像:「二重性の経験を与える」ことは画像であるための必要条件かもしれないが、十分条件ではない。「雲のうちに見られる〈ドラゴンの頭〉」や「壁のシミのうちに見られる〈人の顔〉」といった、画像ではないにもかかわらずseeing-in経験を与える事例を除外するよう、追加の条件が必要である。
  2. 複数の「うちに見る」経験を与える多義的な画像:多義的な画像の解釈に関しても、「二重性の経験を与えること」は必要条件かもしれないが、十分条件ではない。双子の兄Aと弟Bに関して、そのうちに〈兄A〉を見ることのできる画像は、たいていそのうちに〈弟B〉を見ることもできる。この場合、〈兄A〉と〈兄B〉のいずれが画像の正しい描写対象であるのかについて、基準が必要である。
  3. 「うちに見る」経験を与えない画像:トロンプルイユのようなだまし絵。適切な仕方で見られている限り、二次元の画像表面は意識されない。よって、二重性は必要条件ですらないように思われる。

3.はさしあたり関係ないので保留。

ウォルハイムは、1.2.の問題(とりわけ後者の認識論的問題)に応えるため、画像作者の意図(maker's intention)に訴える。

すなわち、そのうちに対象Aを見るよう意図されて制作された人工物のみが画像であり、画像の適切な描写対象として解釈されるべきなのは、制作において作者が意図した描写対象である。

よって、例えば〈兄A〉を描こうと意図して双子の〈弟B〉をモデルにするようなケースも、出来上がるのは〈兄A〉の画像だというのがウォルハイムの見解となる。

 

このような意図主義にはいろいろと問題があるわけだが、ここで取り上げたいのは、「意図主義では写真を説明できないのではないか」という懸念だ*1

さしあたり、ウォルハイムはこれを重大な問題と捉えている。結局、ウォルハイムは「手製の画像には意図に基づく正しさの基準があり」「写真には因果関係に基づく正しさの基準がある」という仕方で、議論を分解する。

ロバート・ホプキンス(Robert Hopkins)も、ウォルハイムの方針に従っている。*2

ホプキンスは他にも、写真の独自性(「写真の与える画像経験は叙実的である」)についての論文を書いており、絵画とのコントラストを強調している。

 

やや異なる文脈では、ロジャー・スクルートン(Roger Scruton)が区別派の議論を展開している。詳説はしないが、スクルートンは「表現的な絵画 vs 信念独立な写真」という対比をめちゃめちゃに推している。スクルートンはやがて、写真はそもそも描写(depiction)や表象(representation)ではない、と結論する。おまけに、「表象である」ことを「芸術性を持つ」ことの必要条件と考えるので、「写真は芸術たりえない」ということになる。*3

 

ウォルハイム、ホプキンス、スクルートンのいずれも、「写真と絵画は別モノ」だと考える区別派だ。個々の議論はともかく、区別派は「写真と絵画はなんか違う」という直観を拾っている。

区別派は描写の哲学の分解を(多くの場合しぶしぶ)受け入れるわけだが、Lopes 1996はこのような妥協をぜんぜん良くないものだと考えている。描写の哲学は、多様な画像をフルレンジで説明すべきだ、とロペスは考える。

 

ふたつの包括派

包括派は、なんらか特定の原理によって写真も絵画とまとめて説明しうる、と考えるわけだが、当の原理については包括派のなかでもおおきく二つの陣営に分かれる。

意図包括派:エイベル

片方は、「写真もまた作者の意図に基づく画像である」と主張する。代表的な論者はキャサリン・エイベル(Catharine Abell)

意図包括派は、ウォルハイムによる意図のアイデアを引き継ぎ、かつウォルハイムのように弱気にはならず、「写真における意図」を定式化しようとする。本稿ではエイベルの立場だけを確認しよう。

全体としてのエイベル理論はアップデートされた類似説なのだが、類似説の問題点とは「どこがどう類似しているのか分かりようがない」というものだった。エイベルは「作者の意図を参照すれば分かる」という立場をとるため、意図はかなり重要な部分を占めていると言えよう。

Abell 2005における写真の扱いは以下のようなものだ。エイベルによると、写真画像にも二つの意図が含まれている。

  1. カメラ設計者の意図:写真のメカニズムには、「シャッターを押すことで、レンズの前にある事物を描写対象にするという、カメラ設計者の意図」が組み込まれている。誰も意図せず、落として撮影してしまった写真も、このような意図によって「〈落ちた瞬間のレンズの前の風景〉の画像」となる。
  2. 撮影者の意図:撮影には、カメラの位置だけでなく、レンズの選択や、フォーカス、シャッタースピードなど、様々な可変的な要因が関与しており、これらは通常写真家が意図的に選択する。ちゃんと調整しないとまともな画像にならないという意味で、画像の描写対象はやはり撮影者の意図に依存している。

エイベルは、グライスの語用論を援用したコミュニケーションモデルで、描写機能を説明する。グライスの議論は意図を主軸として構成されているので、写真が非意図的産物だとエイベル的には困るのだ。

エイベル理論はAbell 2009において修正的に発展されているが、写真の意図についての考えは引き継がれている。また、エイベルと同じような方針として意図ベースの説明を試みる論者に、Blumson 2009がいる。

 

ちなみに、一般的な議論として、「写真は撮影者の意図の産物でしょ」と言っている論者は少なくない。Snyder & Allen 1975など。

ついでながら写真史的なことを言えば、「絵画は主観的な表現だが、写真は客観的な伝達である」というのはほとんど自明ではない。写真の「表現性/芸術性/人為性」と「客観性/中立性/機械性」については、つねに緊張があった。

ストレートフォトグラフィや報道写真のように、客観性こそが写真の本質なのだと考える言説が目立った一方、ピクトレアリスムやその後のシュルレアリスムなど、写真の表現的性格を推す言説もあった。エイベルやスナイダー&アレンは、後者の末裔だと言えよう。

また、今日、めちゃめちゃ手の加えられたデジタル写真が依然として「写真」扱いされている現状を踏まえれば、「写真もまた意図の産物なのだ」と述べる方の陣営に一定の分があることは間違いないだろう。Mitchell 1994などは、デジタル写真における本質的な操作可能性を強調している。

一方で、「写真は客観的なのだ!」というアジテーションを振りまいてきたのはバザンやらバルトといった小難しい文筆家たちである。そこに過度な哲学的抽象化があるのではないか、という懸念はさしあたりもっともらしい。

 

ということで、エイベルのような意図包括派は画像を包括する原理として、作者の意図に訴える。

 

因果包括派:ロペス

もうひとつの包括派は、「絵画もまた因果関係に基づく画像である」と主張する。この立場は、ドミニク・ロペス(Dominic Lopes)によって強く支持されている。

Lopes 1996はアスペクト再認説(aspect-recognition theory)」という理論によって画像一般を説明している。高田さんとシノハラさんのノートを参照。

ざっくり説明すると、画像は特定の主題(subject)について、「どんな性質を描き、どんな性質を省略し、どんな性質を付け加えるか」という仕方で、一連のパッケージ化された性質のセット=アスペクトaspectを提示する。アスペクトは、それを目にした観者が主題を再認(recognize)できるような仕方で組み立てられており、このような構成が画像を画像たらしめている。

「〈リンゴ〉の画像」は、「赤さを含み、丸さを含み、四角さを含まない」といった仕方で一連の性質を描き、これを見た観者はふだん〈リンゴ〉を認識するのに用いるのと同じ再認能力を行使して、「あぁ、これはどうやら〈リンゴ〉を描いているのだな」と気づく。

ロペスにとって重要なのは、画像によるアスペクト提示が、信念独立な情報伝達によってなされている、という特徴づけだ。ここで絵画が意図的産物だとロペス的に困るのだ。

 

ロペスが引き合いに出すのは、ウォルトンの透明性テーゼである。ウォルトンについては「区別しつつ包括する派」で後述するが、大筋として、ウォルトン「写真は信念独立だが、絵画は信念依存な画像である」と対比させている。

これに対し、ロペスは「絵画もまた信念独立な画像である」ことを主張している(第9章)。

ロペスの根拠はこうだ。まず、画像のうちに見られる内容は、対面の知覚によって見られる内容と同じく、非概念的(non-conceptual)である。すなわち、当の内容についての概念を所有していなくとも、知覚したり、画像のうちに見ることができる。例えば、ある色を見る能力は、当の色がなんという色なのかについての概念の所有を前提としない。同様のことは、画像を見る経験にも成り立つ、とロペスは考える。*4

続いてロペスは、信念(belief)が概念の所有を前提とする、と論じる。「クレオパトラ」という固有名や「女性である」という性質について、概念を所有していない限り、「クレオパトラは女性である」という信念を持つことはできない。

さて、ロペスによれば、①画家が描写対象を目で見て、②筆や絵の具を手に取り、③絵画を描く、というプロセスは一貫して非概念的になされている。画家は、〈トマト〉がなんなのか分かっていなくとも、目の前にある赤くて丸い物体について、描くことができる。よって、絵画を描くプロセスは、全体として信念独立なのだ。

これを根拠に、ロペスは、絵画もまた「絵画もまた信念独立な画像である」と結論する*5。後述するウォルトンは写真を「透明」だと呼んでいるが、ロペスによれば画像一般が「透明」なのだ。

そして、画像一般が信念独立な情報伝達なのであれば、その内容に関しては因果的な情報伝達プロセスを参照する必要がある。

 

ということで、ロペスのような因果包括派は画像を包括する原理として、因果に訴える。

 ロペスのアスペクト再認説を直接引き継ぐものではないが、知覚の哲学・心の哲学を援用して描写を説明する論者には、これに準ずる包括派が多い。Nanay 2011やBriscoe 2016など。

彼らは認知科学的な原理によって画像一般を包括的に説明する。 ナナイにとっては「Ventral-Dorsal」というふたつの視覚経路がそれであり、ブリスコーにとってはdeep resemblanceを扱う能力がそれになる。

このような認知科学的アプローチにとって、写真と絵画の差異はあまり問題にならない。つまるところ、二次元の平面になんらかの三次元の対象を見て取る、という共通した経験があり、これを説明しようとする。

 

区別しつつ包括する派:ウォルトン

ケンダル・ウォルトン(Kendall Waltonによる透明性テーゼは、しばしば写真の特殊性を強調する、区別派の立場として理解される。

しかし、実際にウォルトンがとっているのはより慎重な立場だ。この辺については修士論文に書いた。

ウォルトンは「〜の写真である(photograph of ~)」について、因果的な基準を採るが、「〜の描写である(depiction of ~)」については、ごっこ遊び理論に基づく別の説明を与えている。そして、写真は写真として(via photograph)の経験を与えると同時に画像として(via depiction)の経験を与える、という仕方で二重の役割を認めている。内容についても、「写真としての内容」と「描写としての内容」を別々に持つことになる。

双子の兄Aを意図して、双子の弟Bをモデルとして撮影するケースで言えば、最終的な産物である写真はふたつの内容を持つ。第一に、写真は「〈弟B〉の写真」である。(明らかに、これは「〈兄A〉の写真」ではない。)しかし第二に、写真は「〈兄A〉の描写」である、と言ってもよい。*6

あるいは、『パイレーツ・オブ・カビリアン』において、ジョニー・デップ扮するジャック・スパロウについて考えよう。これを捉えた写真は、作者の意図においては〈ジャック・スパロウ〉の描写だが、因果的には〈ジョニー・デップ〉の写真である。ウォルトンは、「〈ジョニー・デップ〉の写真であると同時に、〈ジャック・スパロウ〉の描写である」という(割とトリヴィアルな?)直観を無理なく回収している。

しかしながら、「〜の描写である」についてウォルトンが取り上げるのは、明確に課題を残す理論である(注2を参照)。ともかく、ウォルトンの立場は、以下のようになる。まず、画像一般については、包括的な原理によって説明できる(byごっこ遊び理論)。これに対し、写真のみに認められる特殊な役割(透明性)については、個別の議論を要する。「〜の写真である」については、はおおむね因果関係に基づいていることを擁護する。

 

まとめ

描写の哲学において写真は個別の議論を必要とするのか?

  • ウォルハイムは勢いよく「うちに見る+意図!」と言ったが、写真に意図主義を持ち込むのに躊躇した。ホプキンスはこれに従う。二人にとって、写真は個別の議論を必要とする。
  • エイベルは強気の意図説をとり、写真も意図に基づいていることを示す。ロペスは強気の因果説をとり、絵画も因果に基づいていることを示す。それぞれ逆の方向で、画像一般を包括的に説明する原理を探している。
  • ウォルトンは、写真の固有性について思想強めに推しているが、実は「描写」としての機能を別で認めている。後者については写真と絵画を包括的に説明するごっこ遊び理論を用意している。

コメント

意図主義ぜったいに噛み付く美学者なので、長期的にはエイベルやブラムソンのプロジェクトと戦っていきたいと思っている。

方針としてはロペスにシンパシーを感じるものの、もうちょい補強する必要があるよな、と感じる。

ところで、Understanding Pictures (1996)で因果包括派を代表しているロペスだが、「写真のニューセオリー」を展開しているFour Arts of Photography (2015)では、むしろ写真の人為性を強調している。

後者によると、ロペスは写真が信念独立ではなく、しるしづけプロセスという人為的介入を積極的に認めているように思われる。

この一見したところの著作間矛盾について考えているのですが、Four Arts of Photographyは未読なので、単純に僕が知らない前提があるのかもしれない。

 

 

*1:その他、例えば誤表象(misrepresentation)の問題がある。子どもが〈母親〉を意図して描きなぐったイラストは、両腕がなく、全身がショッキングピンクかもしれない。ただそのように意図していたという理由からこれを「〈母親〉の画像」と呼ぶのには、どうもためらいがある。

*2:もうちょっと正確に述べれば、ホプキンスは多義的な画像の解釈に関して作者の意図を参照する必要があるという点では、後述するエイベルと同じ意図主義だ。しかし、ホプキンスは意図の特定に関して、関与的な知識のうちに「描写メディアに関する知識」を含めており、この点で区別派に与していると言える。

*3:ところで、スクルートンの懐疑主義は、近年「写真のニューセオリー」と呼ばれる一派からタコ殴りにされている。スクルートンの細かいアーギュメントについては、ロペスの整理がわかりやすい。藍白さんのレジュメを参照。

*4:実際、「概念を所有する」ということでロペスが考えている事態はいまいち判然としない。下の注の清塚さん論文を参照。また、知覚の哲学における「概念主義(conceptualism)」を踏まえているのかどうかもよく分かっていない。

*5:清塚 2003が指摘するように、ロペスの議論には飛躍がある。上述の議論で言えることはせいぜい「信念独立な仕方で描かれるような絵画も存在しうるので、写真だけが透明なわけではない」ぐらいのことであり、対して、「画像一般は信念独立な仕方で描写を行う」はだいぶ強い主張だ。とはいうものの、それぐらい勢いのある本ではある。

*6:もっとも、「〈兄A〉の描写である」と言えるためには、「〜の描写である」の内実について、ウォルトンが展開している込み入った説明(ごっこ遊び理論)を前提とする必要がある。ここでは割愛。以下のノートなどを参照。