レジュメ|ジョナサン・コーエン&アーロン・メスキン「写真の認識論的価値について」

f:id:psy22thou5:20190811191131j:plain

Cohen, Jonathan & Meskin, Aaron (2004). On the epistemic value of photographs. Journal of Aesthetics and Art Criticism 62 (2):197–210.

 

写真の認識論的価値(epistemic value*1を巡る、2004年の重要論文。

K.Walton、C.Abell、R.Hopkins、S.Waldenらの論争から、近年の「ニューセオリー」周辺のアップデートまで、写真から得られる「情報」「知識」を巡る議論はいずれもCohen & Meskin 2004の上に成り立っていると言っても過言ではない。コーエン・アンド・メスキンでピンとこないのはモグリです。

やや古い議論ですが、今日的な論争の基盤になる論文なので、分析写真論に関心のある方はぜひ見ていってください。

 

0.イントロダクション

  • 写真が持つ、特別な認識論的価値を説明する。
  • 第1節ではWalton 1984の「透明性テーゼ」を紹介し、続く第2節〜第4節ではこれに反論する(写真は透明ではない)。第5節〜第7節では、写真の認識論的価値を擁護するための代案を提唱する。

 

1.透明性と写真

Walton 1984については、すでに論文ノートを公開していますので、この節は要点だけまとめます)

  • ウォルトンによれば、写真は鏡や望遠鏡と同じような視覚の補助である。
  • 「透明性」:「写真を通して被写体を見る」ことは、文字通りの意味で被写体を「見る」ことである。写真は透明だが絵画は透明ではない。
  • 写真は透明だと言える根拠:①反事実的依存関係(対象が変われば写真も変わる)+しかも自然的(意図しなくても変わる)、②類似性の保持(実際似ているもの同士は、それぞれの写真も似ている)
  • ウォルトンの立場では、「透明性」から写真の認識論的価値も説明できる。
  • 問い:しかし、「透明性テーゼ」はどうも直観的ではない。やはり、鏡や望遠鏡は透明で、写真や絵画は不透明なのでは?

 

2.自己中心的な、空間についての信念

  • ウォルトンに対する反論者(Currie 1995、Carroll 1996など)は、しばしば「視覚的に表象された空間情報(visually represented spatial information)」=「自己中心的な情報(egocentric information)」に訴える。
  • 「自己中心的な情報」*2:自分が今いる場所から見て、どの方向に、どれぐらいの距離を隔てて対象があるのか、についての空間的位置情報。
  • 写真を見るさいには、自己中心的な情報についての信念が欠如しており、ゆえに、写真を見ることは文字通り見ることにはならない。(前提「信念に関する要請(doxastic requirement)」:文字通り見るためには、自己中心的な情報についての信念を持っていなければならない)
  • まとめると、直接視や鏡や望遠鏡で見るさいには、自己中心的な情報についての信念が伴うのに対し、写真を通して見るさいには対象がどこにあるのか分からないため、後者の経験は文字通りの「見る」とは言えない。
  • Walton 1997による応答:「信念に関する要請」は厳しすぎる。鏡を複数枚用いて、反射しまくった先に置いたカーネーションを見るさいには、カーネーションがどこにあるのか分からない(自己中心的な情報を得られない)けど、ちゃんと見ているではないか(これで見ていないとでも言うのか)。
  • カリーとキャロルは、「信念に関する要請」を弱めることで再反論できそうだが、これでは反例と応答のイタチごっこになりかねない。

 

3.非信念的な解決を求めて

  • カリーとキャロルによる要請とは、「対象を見ているとみなされるために、主体が信じていなければならないこと」に関するものであった。(信念に関する要請)
  • たしかに、複数枚の鏡の先にあるカーネーションの例では、主体は自己中心的な情報に関する信念(belief)を持たない。しかし、それでもカーネーションを見ている、というウォルトンの応答はもっともらしい。
  • これが示すのは、特定の信念の有無によっては、写真と鏡の事例を区別できないということ。信念はあったりなかったりするので、これが文字通りの「見ること(seeing)」にとって必要条件になるとは言い難い。*3
  • ここでは、「見ているということを知っている(knowing)」必要はなく、「見ている(seeing)」かどうかだけを論じられればよい。

 

4.自己中心的な空間情報

  • ウォルトンに対する反論は、非信念的な(nondoxastic)ものでなければならない。そして、やはり写真は透明ではない、と言いたい。ここでは、別の角度から(「信念」や「知識」にコミットせず)「自己中心的な空間情報」を検討する。

  • 以下では、シャノン&ウィーバー情報理論(information theory)および、これを哲学的に検討したフレッド・ドレツキ(Fred Dretske)の理論を援用する。
  • 情報伝達(information carrying): ある対象と別の対象の間にある、客観的(objective)、確率的(probabilistic)で、反事実的依存を持つような関係。
  • [室温計]が[室温]についての情報を運ぶのは、そこに客観的/確率的な結びつきがあるから。➡[室温計]が24℃を指し示すときに[室温]が24℃である確率は、[室温計]が24℃を指し示さないときに[室温]が24℃である確率よりも、はるかに高い。+反事実的依存関係:[室温]が変われば、[室温計]の目盛りも変わる。
  • このようにして情報伝達を理解する場合、信念の有無は問題にならない。
  • ここから、ウォルトンに対する反論を作れる。すなわち、真に見ている(/透明である)と言えるためには、(自己中心的な空間的位置情報についての信念は問題にならないが、)その視覚的プロセスにおいて、自己中心的な空間的位置情報がちゃんと伝達されていなければならない
  • ゆえに写真は透明ではない:写真は自己中心的な位置情報を伝達しない。写真を見る主体が移動しても、見られる対象は変化しない。
  • 以下、補足。
  1. 「自己中心的な位置情報を伝達する」ことは、「見ること」の十分条件ではない
  2. 情報伝達とは、まずもってトーク同士の関係(個別の事例において、情報が伝達される)。しかし、ここではある種の視覚的プロセスのタイプについて論じている(写真や鏡を通して見ることが、それぞれ一般的に情報を伝達するかどうか)。ここでは、そのトークンが典型的に情報を伝達するさい、それらが属するタイプもまた情報を伝達する、と考えている。
  3. 関連して、一般的に情報を伝達するようなタイプのプロセスであっても、個別のトークンにおいて、情報伝達に失敗するような事例は存在する。この場合でも、プロセス一般が(タイプとして)「情報を伝達しない」とまでは言えない。
  4. なぜ、観者相対的な「自己中心的な情報」に訴え、「絶対的な位置情報」には訴えないのかというと、後者に訴えても本論文が引きたいようなボーダーを引けないから(写絵画や写真/鏡や望遠鏡や直接視)。*4
  5. ここでの主張は、見ることに関する信念の有無とは独立している。伝達された情報が知識や信念を形成しうるか以前の議論にとどまる。
  6. ウォルトンは、カリーやキャロルによる反論がつまるところ「見ること」を巡る言葉上の問題に過ぎない(ゆえにしょうもない)、と批判している。一方で、本論文の立場はウォルトン説よりもいろいろ説明できて、おまけに直観的なので、少なくともそこには理論的メリットがある。
  • 直接視、メガネ、鏡、望遠鏡などで見るさいには、いずれも自己中心的な位置情報が伝達されている。また、この種の情報伝達は、複数枚の鏡を隔てて見るさいにもなされている。おそらく観者は空間情報についての信念を持ち得ないが、そのことは情報伝達する鏡の能力(capacity)を毀損するものではない。いずれのケースにおいても、観者が動けば、対象の見え方も変わる(反事実的依存)。
  • 大事なことなので何度でも言う:写真や映画は、被写体に関する自己中心的な空間情報を伝達しない。観者が動き回っても、写真や映画は変化しない。
  • 同様に、生中継のビデオも、透明とは言えない。観者がいろんな場所から見ても、ビデオに移る対象はそれに従って変化するわけではない。この点で、生中継のビデオも自己中心的な位置情報を伝達しない。
  • 精密に描写した写実的な絵画は、被写体についての情報をたくさん伝達しうるが、やはり(写真と同じく)自己中心的な位置情報を伝達しない(ので、もちろん透明ではない)。

 

5.写真の認識論的価値

  • 前節までの議論をまとめると、①写真は自己中心的な位置情報を伝達せず、ゆえに透明ではない、②写真は透明ではないので、写真が持つ(絵画にはない)認識論的価値を説明するのに、透明性テーゼは使えない。
  • あらためて問い:ある描写のタイプ(写真)が、別の描写のタイプ(絵画)よりも、認識論的価値を持つと言えるのはなぜか。
  • まずは、伝達される情報を二通りに区別する。
  1. 表象される対象が持つ、視覚的にアクセス可能な性質についての情報
  2. 表象される対象の、自己中心的な位置についての情報
  • 直接視を始めとするふつうの視覚的プロセスは、多くの場合(1)と(2)の両方を伝達する。どちらかだけ、という場合はむしろ少ない。鏡を通して見る場合もしかり。
  • ただし、写真は例外的に(1)を伝達し(2)を伝達しないような、「空間について不可知な情報源(spatially agnostic informant)」である。そして、このような情報源であるがゆえに認識論的価値を持つ。
  • 写真の認識論的価値①:まず明らかなこととして、(1)視覚的性質についての情報は、認識論的に有益なものである。「写真」タイプは一般に(1)の情報を伝達し、「絵画」タイプは必ずしも(1)の情報を伝達しない、という点で、まずは写真に認識論的優越が指摘できる(もちろん、個別のトークンにおいて、(1)の情報を伝達するような絵画が存在することは否定しない)。
  • しかし、(1)だけを見れば、写真は必ずしも優れた情報源とは言えない*5
  • 写真の認識論的価値②:すでに見てきたとおり、鏡や直接視のプロセスは、(1)の情報を伝達するさい、不可避的に(2)の情報も伝達してしまう。しかし、(2)を抜きにして(1)の情報だけにアクセスしたい場面もある。このようなとき、「空間について不可知な情報源」である写真は認識論的価値を持つ

 

6.トークン、タイプ、証拠としての地位

  • 上で見てきた通り、写真は絵画にはない認識論的価値①があり、また、鏡にはない認識論的価値②がある。
  • しかし、ほかのタイプの表象であっても、超写実的絵画法定画などは、認識論的価値①②を持つようなトークンが属している。では、「超写実的絵画」は「写真」と同じぐらいの認識論的価値を持つと言えるのか?
  • まずもって、本論文の試みとは「写真」タイプの認識論的価値を擁護すること。「写真」以外の表象タイプが、そのトークにおいて(写真に匹敵する)認識論的価値を持つことと両立可能である。*6
  • 問い:しかし、個別の事例トークンが集まって、一つのタイプを形成しうるならば、それは写真の認識論的特権に対する反例となりうるのではないか。以下ではこの問題を検討する。具体的には、「現実に即した肖像画(veridical portrait paintings)」タイプがあるとして、そのようなタイプは「写真」と同じく、空間について不可知な情報源となりうるのではないか。➡この場合も「写真」に認識論的特権がある、と論じる。
  • ここで、「写真」タイプは顕著な(salient)タイプであるのに対し、「現実に即した肖像画」はそうではない、という点が重要な違いとなる。
  • 写真トークンの観者は、しばしばそれを「写真」タイプの事例としてカテゴライズする。一方で、現実に即した肖像画トークンの観者は、それを「現実に即した肖像画」タイプの事例としてはカテゴライズせず、単に「絵画」か、せいぜい「肖像画」にカテゴライズする*7
  • 観者が持つ相対的な背景信念(relevant background beliefs):「「写真」タイプは(1)の情報を伝達する」「「絵画」タイプは(1)の情報伝達に失敗しうる」という信念。
  • 急ぎ付け加えなければならないのは、「鳥類の博物画」みたいなタイプは、それなりに顕著な(観者が、そのトークンを「鳥類の博物画」としてカテゴライズするのがデフォルトであるような)ものであって、ゆえに「写真」と同様の認識論的価値を持ちうる。また、バードウォッチングなどにおいては現に認識論的価値を持っている。

 

7.写真が持つ特性の偶然性

  • ここまで、写真の認識論的特権を論じてきた。しかし、最後に見た通り、「写真」が持つこのような特性は、歴史的な使用を通して生じてきた、ごく偶然的(contingent)なものである。写真が、それ自体の物質的本性として持っているような特権ではない
  • 事例トークンがカテゴライズされる表象タイプの顕著さ(saliency)や、そのようなタイプについての背景知識については、いずれも偶然的なものに過ぎない。すなわち、その歴史的実践が異なれば、それぞれのタイプに対する扱いも変わっていたはず。
  • [注47]たとえば、デジタル写真とデジタル加工技術の出現・普及は、写真の認識論的地位を変容させうる。写真の加工は、デジタル以前にもあったが、標準的な使用実践においては例外的で、どちらかと言えば悪しきものとみなされてきた(ゆえに「写真」タイプの認識論的価値を毀損していなかった)。デジタル加工は、ごく容易く、高頻度でなされるため、いずれ「写真」の認識論的特権を引き下げていくかもしれない。同様の指摘については、Savedoff 1997も論じている。写真と絵画の認識論的価値は、やがてフラットになる……かも?

 

8.結論

本論文の主張をまとめると、

  1. ウォルトン説に反し、写真は透明ではない。鏡や望遠鏡とは異なり、「空間について不可知な情報源」であるから。
  2. しかし、「写真」タイプは「絵画」タイプにはない認識論的価値を持つ。前者は被写体の(1)視覚的にアクセス可能な性質についての情報を伝達するのに対し、後者は伝達しない。
  3. さらに、「写真」タイプは「現実に即した肖像画」タイプにはない認識的価値を持つ。観者にとってのタイプの顕著さと、観者が持つ背景知識において、前者のタイプのほうが優位だから。
  4. ただし、ある種の現実に即した肖像画(鳥類の博物画など)は、写真と同じような認識論的価値を持つ。
  5. 写真とその他の画像表象の、認識論的価値における差異は、ごく偶然的なものであり、それぞれ表象が持つ必然的な性質ではない。

 

✂ コメント

 おおむねメイクセンスな論文だと思う。

とりわけ、ドレツキを援用して非信念的な観点から写真タイプを擁護したあと、タイプの顕著さに関する扱いのところで信念に戻ってくるのは、なかなかアクロバット。タイプの話とトークンの話を区別して、細かい反例をかわすあたりも真似していきたい。

噛みつきどころとしては、「生中継のビデオを見ている場合も、文字通り被写体を見ていることにはならない」と論じている部分だろうか。「地点別の変化」は反映せずとも、「時点別の変化」を反映するような視覚的プロセスは、どうも(文字通り)「見ている」と言いたくなるような気がする、少なくとも、監視カメラごしに相手を見ているのが、文字通り「見ている」ことにならない、というのは、ウォルトンが「写真を通して見ることは、文字通り見ていることになる」というのとは、真反対のベクトルでやはり反直観的に思われる。

ウォルトンも指摘しているように、語の使用が直観的かどうかはほとんど「言葉上の問題」に過ぎないだろう。しかし、直観との齟齬を差し引いて、それぞれの理論的利点を比較するのは難しいなぁ、と最近あらためて思う。

 

写真の認識論的価値を巡る問題は、かなり盛り上がっていて、有名どころだとAbell 2010などがある。

エイベルは、①「「写真ネガ」タイプは顕著なタイプだけど、あまり認識論的価値がないよね」②「情報量についての議論がないと、「法廷画」タイプと「写真」タイプの差異を説明できないぞ」という二点から、コーエン&メスキンに反論している。しかし、「写真は使用実践によって認識論的価値を(偶然的に)付与されている」という大筋には同調しているように思われる。個人的には、この線ではあまり遠くまで行けないのでは?という懸念もある(「そういう慣習です!」と言っちゃえばおしまいな気がするので)。*8

また、エイベル、コーエン&メスキン、その他多くの論者が「デジタル時代において、写真の諸特権はやがて無くなるかもよ」と言っているなか、センは割と特権を擁護したい立場にいるので、改めて修論の作戦を練っています。が、場合によっては別の立場を支持するような修論になるかもしれません。臨機応変に。

「こういう議論もあるぞ」という方は、いつでも情報お待ちしております📮🙏

 

 

 

*1:写真の認識論的価値:写真は絵画よりも、客観的(objective)で、正確(correct)で、信頼できる(reliable)ような情報を与える。あるいは、豊富で(rich)で、詳細(detailed)な情報源となる。なぜこのように言えるのか?何が写真にこのような特権を与えているのか?を巡る論争。

*2:見かけるたび、しっくりこない訳語だなと思っていますが、ほかに候補もないのでしかたがない。

*3:おまけに、実証的な問題として、あらゆる動物が対象を見るさいに自己中心的な情報に関する信念を持っているかというと、怪しい。

*4:いまいち理解できていない部分ですが、大筋とは関係なさそうなので省略。

*5:言及はされていないが、おそらく白黒写真やブレなどによる情報の欠如が念頭におかれている。

*6:写真ではないのに写真並の認識論的価値を持つようなトークがあったからといって、「写真」タイプの認識論的特権は毀損されない、ということ。

*7:このようなカテゴライズの要因としては、背景知識などを挙げているが、詳細については言及していない。

*8:エイベルを含む「ニューセオリー」一派には、外的な慣習や規範の存在によって、写真の認識論的価値を延命させている論者が多い。というか、「ニューセオリー」にとってメインの目的は芸術的価値の擁護なので、認識論的価値についてはどうもアドホックな印象を拭えない。引き続き、要勉強。ちなみに、最新の議論はJAACの新刊(77-3)に収録されています。