レジュメ|アーロン・スマッツ「『ピックマンのモデル』:ホラーと写真の客観的意味」(2010)

Smuts, Aaron (2010). 'Pickman's Model': Horror and the Objective Purport of Photographs. Revue Internationale de Philosophie 4:487-509.

 

分析美学の遊撃兵ことアーロン・スマッツ(Aaron Smuts)による写真×ホラー論。

昨年の若手フォーラムで発表した「不気味な写真の美学」には組み込めなかった一本。遅ればせながら目を通しました。

 

レジュメ

タイトルはラヴクラフトの小説より。青空文庫で読めます。

グロい怪物の絵を描く知人の家に行ったら、グロい怪物の写真が見つかり、なんと怪物は実在でした!という話。

 

このような物語が示唆するのは、「写真は写真ゆえに怖い」という仮説。

とりわけ、虚構的なホラー映画において、その怖さを効果的に引き出しているのは、写真が写真ゆえに持つ性質なのか?というのが本題。

 

写真の客観的意味(objective purport)

写真が“写真ゆえに”怖いとはどういうことなのか。

ナポレオンの弟の写真を見ていたロラン・バルトは、「かつて皇帝を見たその目が、私を見つめている!」と大興奮だったが、これはどういうことか。いろんな人がいろんな説を提唱している。*1

 

  • アンドレ・バザン「写真映像の存在論」(1945)によれば、①写真はそれを通して被写体を見ることができるし、②被写体の痕跡だし、③その経験は写真のメカニズムに関する我々の知識に基づくし、④なんなら写真は対象そのものである。

このうち、④は口が滑っただけなので無視してよいが、それ以外の三つについてはその後議論される論点がおよそ出揃っている。

  • ケンダル・ウォルトン「透明な画像」(1984は①を引き継ぎ、写真は鏡や望遠鏡や眼鏡と同じく透明なので、それを通して被写体を見れると主張する。

  • グレゴリー・カリー「視覚的痕跡」(1999)は②を引き継ぎ、写真は被写体の痕跡なので、特別な情動的経験を観者に与えると主張する。
  • バーバラ・E.サヴドフ「変化するイメージ」(2000)は③を引き継ぎ、写真の観者はどうしても写真を客観的なものとして見ちゃうと論じる。

いずれの論者も、写真が写真ゆえに持つ情動喚起パワーについて論じており、スマッツはこのような性質をまとめて写真の「客観的意味(objective purport)」と呼ぶ。訳は適当なので、以下ではOPと呼ぶ。

 

ホラー映画とOP

ホラー映画の怖さも、部分的にはOPに由来すると予想されるだろう。

ぼやぼやした、不鮮明な、ホームビデオ風の映像に映る怪物は、なるほどめっちゃ怖い。

 

具体的な事例として、スマッツは三つのホラー映画と、そこに見られるOPの役割について検討している。残念ながら僕はいっこも観てない。

 

ジョン・カーペンターパラダイム』(1987)

 

M・ナイト・シャマラン『サイン』(2002)

 

ダニエル・マイリック&エドゥアルド・サンチェス『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』(1999)

 

個別事例についての検討は割愛。

これらの事例を見ていると、なるほどOPはホラーの演出に一役買っているように思われる。しかし、それだけではない。

OPとは別に、ホラーにおいて重要なテクニックは、示唆(suggestion)である。

上に挙げた事例しかり、ラヴクラフトの小説しかり、怪物の正体は示唆されるだけで、鮮明には描かれない。これが露骨に出てきたり、説明的すぎる描写がなされると、作品は台無しになる。

不鮮明なビデオもまた、示唆のテクニックに含まれる。ぼやけて、よく見えないがゆえに怖い。

部分的な情報しか与えられない観客は、自らの想像力(imagination)によって空白を埋めようとする。これこそ、ホラー映画の怖さの肝心要にほかならない。

 

ホラー映画が効果的に描かれるかどうかは、示唆および観者の想像力にかかっており、OPにかかっているわけではない、というのがスマッツの主張。

 

なんで二者択一なん?

普通に考えて、OPも関与的だし、観者の想像力も関与的じゃね?というのはごく当然のツッコミ。

まず、OPは怖いホラー映画のための十分条件ではないスティーヴン・スピルバーグ宇宙戦争』(2005)にも写真的な映像を提示する場面があるが、全然怖くない。ここでは、OPが含まれているにもかかわらず、ホラー映画として失敗している。

また、OPベースの説明は、クリップとして部分的に切り取られてきたワンシークエンスが、それでも怖いことを説明できない。示唆&想像力ベースの説明であればできる。

さらに、示唆&想像力ベースの説明であれば、文学的ホラーについても説明できる。OPにはこれができない。

結果的に、OPを関与的だと考える積極的な動機はないと結論づける。

 

✂ コメント

僕は「不気味な写真の美学」でOPをもとに写真の不気味さを論じた(痕跡説)ので、スマッツとは対立する立場。

それでなくとも、「これはやばいだろ」なムーブがいくらか含まれており、ある意味ホラーな論文だった。

  • 後で「OPは関与的でない」ことを主張するのに、OPをもとにして個別事例三つを検討するというくだり(5ページ分)が迷走すぎる。なんのための作業?
  • 「写真的である(OPを持つ)ことがホラー効果に影響するどうか」という論点と、「不鮮明であることがホラー効果に影響するかどうか」という論点を、ごちゃまぜにしているのが心配。論点の切り分けがうまくいっていない。
  • 最終的に、OPを叩く論拠が個別事例(『宇宙戦争』)という大胆さ。
  • 最終的に、自説のメリットを示す根拠が文学的ホラー。え、映画の話だったのでは??
  • 示唆&想像力が関与的であることについては、普通に同意。その上でOPを切り落とそうとする動機は謎。なんで二者択一なん?*2

 

だいぶ間が空いてしまったが、落ち着いたら「不気味な写真の美学」についても書き直したい。そういう気持ちにさせられた点はよかった。

*1:分析美学系の写真論では、写真の「情動的パワー(affective power)」や「現象学的特権(phenomenological privilege)」と呼ばれて議論されている。

*2:示唆&想像力ベースの説明にしても、my solutionを豪語するほど新規性のあるものではまったくない。