レジュメ|キャサリン・エイベル「画像の含み」(2005)

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Abell, Catharine (2005). Pictorial Implicature. Journal of Aesthetics and Art Criticism 63 (1):55–66.

 

今回はキャサリン・エイベル(Catharine Abell)の描写論。画像、写真、視覚芸術に強い美学者です。*1

「画像表象とリアリズム」と言いつつ写真論がメインだったので、ストレートに描写を扱ったものははじめて。以下、概説です。

 

❐ 描写(depiction)あるいは画像表象(pictorial representation):絵画、写真、その他の画像(pictures)が、特定の対象を表象する(represent)とは、どういうことなのか/いかにして可能か/文字や音による表象とどう違うのか/表象される対象はいかにして決定されるのか、といった問題群を扱う。伝統的な「類似説」から、「錯覚説」、「経験された類似説」、「うちに見る説」、「構造説」、「ごっこ遊び説」、「再認説」など、いろんな人がいろんなこと言っている分析美学の人気分野。

 

その他の概説および、超重要文献Goodman 1968の紹介については、松永さん(@zmzizm)のスライドをご参照ください。

 

入門文献については、森さん(@conchucame)の公開されている「分析美学邦語文献リーディングリスト」に「画像と描写」の項目があります。

 

とりわけ近年国内の批評界隈においては、アニメ批評マンガ批評に便利なツールが転がっていることから、注目されている分野です。

 

エイベルは描写理論における類似説の擁護者として有名。ただし、伝統的な「画像と対象が(文字通り)似ている」説の問題点を指摘し、これを組み直そうとする立場。エイベル説の全体像としては以下を参照。

Abell, Catharine (2009). Canny resemblance. Philosophical Review 118 (2):183-223.

今回取り上げる「画像の含み」(2005)は、ポール・グライスの「会話の含み」理論を援用しつつ、「作者の意図」の役割を擁護したもの。エイベル説のコアに当たる議論だと言えるでしょう。

 

1.イントロダクション

画像がなにを描写(depict)しているかは、画像がどう見えるか(how it looks)に基づく。

類似説:画像の見え方・知覚され方は、それが描写している対象の見え方・知覚され方と、なんらかの仕方で似ている。

当論文では、類似説を踏まえ、これに付随する問題を検討する。

 

類似説の問題点①:画像の見え方は、「それが何を描写しているのか」を決定する上で、十分とは言えない。➡「画像なのに類似していないものがある」

例えば、白黒写真は〈白黒の対象〉を描写しているわけではなく、棒人間のイラストは〈巨大な頭を持つ、やせ細った生物〉を描写しているわけではない。多くの場合、前者が描写するのは〈色を持った対象〉であり、後者が描写するのは〈普通の体型の人〉である。*2

しかし、このような解釈(interpretation)を、画像の見え方だけから得ることは難しい。

類似説の問題点②:見え方に基づいて画像的に解釈するからと言って、解釈の対象が画像である(being a picture)とは限らない。➡「類似しているのに画像じゃないものがある」

例えば、不注意にも泥のついた足で紙を踏んで出来た足跡は、その視覚的性質についてなにかしらの解釈をされうるが、画像であるとは言い難い*3。あるいは、月のクレーターがうさぎに見えたとしても、月はうさぎの画像とは言えない。

 

以下の区別を踏まえよう。

  • 「視覚的内容(visible content)」:類似性に基づいて、我々が画像に帰属する内容。
  • 「描写的内容(depictive content)」:我々が実際に、画像に帰属させる内容。

画像でないものも、視覚的内容を持ちうる。足跡、月、石の割れ目、雲とか。

ここで、「それが画像かどうか」「画像であるとすれば、どんな描写的内容を持つのか」について、「正しさの基準(standard of correctness)」に訴えるのが定石である。*4

 

次節以降では、以下2つの問題を主に扱う。

  • 画像の作者の意図(intentions)は、適切な「正しさの基準」となりうるのか:作者の意図は、「それが画像かどうか」「画像であるとすれば、どんな描写的内容を持つのか」を決定しうる要因なのか。➡結論としては「しうる」
  • 我々は、そのような「正しさの基準」をいかにして適用しているのか:作者の意図について、いかなる独立した知識も持たないとき、いかにして作者の意図を知りうるのか。➡結論としては「コミュニケーション的なモデルにおいて解釈されている」

 

2.「正しさの基準」

2.1.「正しさの基準」は何を説明すべきか

作者の意図は、「正しさの基準」において重要なものとされてきた。描写と非描写はいずれも視覚的内容を持つが、両者の違いは、「なにかを描写しよう」という作者の意図の有無にある。

ゆえに、不意に出来てしまった足跡は、「画像を作る」という意図の不在から、画像ではない、と言える。

難点:しかし、意図に基づく(intention-based)「正しさの基準」では、不意に撮影されてしまった写真=不慮の写真を説明できないように思われる。猫がカメラを机から落としてしまい、偶然シャッターが切られたことで撮影された「キッチンストーブの写真」には、猫の意図もなければ私の意図もない。しかし、それが「キッチンストーブの写真」という描写であることは否定し難い。

 

すなわち、適切な「正しさの基準」は、不慮の写真(accidental photographs)を「描写」に含め、不慮の足跡を「描写」から除外するようなものが望ましい。

ここで、因果的プロセスにおける違いに訴えることで、2つの事例を区別できる。

設計意図(エイベルが用いた用語ではなく、僕の補足):写真の因果的プロセスには、「特定の効果を生み出そうと意図的に設計された(intentionally designed)要素=カメラ)」が介在している。

足跡の生成プロセスには、意図的に設計された要素が介在しない。もちろん、意図的に「足跡」を制作しようとして、故意に踏んづけることはできる。例えば、気に入らない隣人のカーペットに、泥だらけの足でわざと踏んづけるなど。しかし、この場合も「描写を制作しようとする意図」がないため、画像とは言えない。

 

2.2.写真における意図

写真のメカニズムには、「シャッターを押すことで、レンズの前にある事物を写真にするという意図」が組み込まれているだけではないレンズの前の被写体は、それ単独で描写的内容や視覚的内容を決定しうるものではない

フォーカスが甘かったり、露光不足だったならば、馬を前にした写真であっても「馬の写真」にならない。カメラの位置だけでなく、レンズの選択や、フォーカス、シャッタースピードなど、様々な可変的な要因が関与しており、これらは通常写真家が意図的に選択する。➡選択によって、作者意図も関与している。*5

また、多くの機能が自動化されているインスタントカメラであっても、そこには「目の前の対象を描写的内容とするように」という設計意図に加え、「しかじかの仕方で対象を描写するように」という設計意図が含まれる。*6

不慮の写真に話を戻すと、そのような写真は設計意図によって、描写的内容を持つ「画像」である。

例:通常の写真の描写的内容は、①撮影者の意図に依存するだけでなく、②カメラの前になにがあるのかにも依存する。ハインリヒ・ホフマンが1914年に撮影した写真は、①作者意図に基づけば〈ドイツの群衆〉の描写だが、後に②設計意図に基づいて〈ヒトラー〉の描写とされるようになった。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/en/d/d6/Hitler_in_the_Odeonsplatz_Munich_2_August_1914_by_Heinrich_Hoffmann.jpg

「正しさの基準」に基づいて、これを「ヒトラーの写真」と言うには、①「作者の意図」だけでなく、②メカニズムに含まれた意図にも注目しなければならない。

写真における「正しさの基準」:写真が他の描写手段と異なるのは、その描写内容の決定において①作者意図だけではなく、②設計意図も関与するという点。不慮の写真においては、②設計意図だけが関与する。

 

2.3.作者内容と視覚的内容の一貫性

ここで、作者が意図した内容を「作者内容(maker content)」と呼べば、意図に基づく「正しさの基準」は、視覚的内容と作者内容に一貫性(consistency)をもたせる必要がある。*7

類似説に訴えるならば、画像は現に対象と似ていなければ、その対象の画像とは言えない。ニレの木を描こう意図しても、結果としてカシの木っぽくなったら「ニレの木の絵」ではないだろうし、同様に、走る馬を撮影しようと意図しても、ブレまくったら「馬の写真」とは言えない。*8

しかし同時に、意図に基づく「正しさの基準」は、画像の視覚的内容が、何らかの点で作者内容と異なることも許容できなければならない。棒人間を描く際、作者内容(意図された内容)としては〈通常の人物〉を描いているが、実際に描かれた画像の視覚的内容としては〈巨大な頭でガリガリののっぺらぼう〉に似ている。

作者がその描写的意図を首尾よく実現できた場合のみ、作者内容と描写的内容は一致する。両者を一致させるためには、少なくともいくつかの性質を共有する必要がある。棒人間であれば、少なくとも[頭がある][対になった手足がある]あたりを共有している必要があるが、あらゆる性質を共有する必要があるわけではない。

では、作者内容と視覚的内容の一貫性において、どのような性質を共有する必要があるのか。➡解釈(interpretation)によって、画像の描写的内容へと到達しうる程度の性質を共有しなければならない。

では、解釈はいかにしてなされるのか。次節では画像の解釈において「正しさの基準」がいかに使われているのかを見ていく。

 

3.「正しさの基準」を使う

実際に画像を解釈する場合、作者の意図がほとんど/まったくわからなくても、画像 の描写的内容にたどり着けるケースが多い。*9

これは①「画像を見るだけで作者の意図を知りうる」、あるいは②「描写的内容がなにか/それが画像かどうかを決定する場面において、作者の意図は関与しない」のいずれかであることを示している。

意図に基づく「正しさの基準」を擁護する立場は、もちろん①を採用する。観者は作者の意図を直接知らなくとも、様々な情報源(resources)からそれを間接的に知りうるのだ、と。*10

Hopkins, Robert (1998). Picture, Image and Experience: A Philosophical Inquiry. Cambridge University Press.

例えば、Hopkins 1998は情報源の例をリストアップしている。これに従えば、我々は大まかに3つの(広範で一般的な)背景知識を持っている必要がある。

  1. 現実世界に含まれる事柄についての知識:「現実世界にある対象は、基本的にモノクロではない」など。
  2. 一般的に描写される事柄についての知識:「一般的に描写される対象は、現実に存在する対象と似ている」など。
  3. 画像を生み出す様々な手段についての知識:「彫刻刀で彫ったスケッチは、対象の色を表現しない」など。

ホプキンスは、この3つの知識さえあれば、十分に作者の意図へとたどり着けると論じている。*11

しかし、エイベルは不十分だと言う。アーティストは変(eccentric)な奴らなので、これらの背景知識では特定できないような意図を持ちうる。アーティストの意図のあり方については、より一層の精査が必要。次節ではグライスの議論を援用する。*12

 

4.グライスの非自然的意味

Grice, H. Paul (1957). Meaning. Philosophical Review 66 (3):377-388.

ポール・グライス(Paul Grice)は、意味を2つに区別している。

  • 自然的意味(natural meaning):「あの雲は雨を意味する(those clouds mean rain)」意味の伝達において、人間の意図は関わらない。
  • 非自然的意味(non-natural meaning):「あのサイレンは、我々が建物から避難しなければならないことを意味する(That siren means that we have to evacuate the building)」意図に気づいてはじめて、意味が伝達される。この場合、サイレンが「危険時に知らせる」という設計意図を持っていることを、予め知っていないといけない。

画像においても、特定の意味内容を受け取ってもらおうという意図によって、しかじかの色や形といったしるし(marks)が配置される。では、意図(作者内容)としるし(視覚的内容)のズレをどう説明する?

ここでは、グライスが言語において展開した「会話の含み(conversational implicature)」の議論を、画像的なコミュニケーションに応用する。

 

5.会話の含み

Grice, H. Paul (1975). Logic and Conversation. In Maite Ezcurdia & Robert J. Stainton (eds.), The Semantics-Pragmatics Boundary in Philosophy. Broadview Press. pp. 47.

字義通りの意味だけでは説明できないような、コミュニケーション言語。わかりやすい例としては、京都人の「ぶぶ漬けでもどうどす?」とか。字義通り、「ぶぶ漬けでも召し上がりますか?」という提案なのではなく、「そろそろ帰ってほしい」という催促が意図されている。

このような会話コミュニケーションにおいては、まずもって、ルールとしての協調原理が存在する。

協調原理(cooperative principle):参加している会話で受容されている目的や方向が、その段階で求めていることに従って、発話を行え(wikiより)。

具体的には以下のようなガイドラインが存在する。

  • 真であると信じていることだけを話すべし・根拠あることのみを話すべし
  • 求められているだけの情報を必要十分に話すべし
  • 関連していることのみを話すべし
  • 順序立てて、簡潔に、曖昧・多義的にならないように話すべし*13

    グライスは「字義通りの意味においては協調原理を破るような表現であっても、字義通りでない意味において協調原理を守っている」と考える。これが会話の含み

    会話の含みは、字義通りの意味を補完する場合と、もとの意味を完全に改定する場合がある。「昼食なに食べた?」に対して「サラダを食べた」と言われれば、「サラダ“だけ”を食べた」と受け止められるのが、前者のケース。京都人の例は後者のケース。

    ここで、協調原理はたんなる慣習ではなく、「合理的な会話」の合理性に基づくもの。ゆえに、合理的な存在者同士の会話において、一般的な特徴として会話の含みがある。

    そして、「協調原理ー会話の含み」理論は、言葉を使った会話だけでなく、その他のコミュニケーションにも拡張できる。

     

    6.画像の含み

    「画像の含み(pictorial implicatures)」:画像表象も、一種のコミュニケーションとして理解する。「字義通りの意味ー発話の意味」=「視覚的内容ー描写的内容」。画像製作者も、一種の協調原理に従っている。

    では、作者内容および描写的内容はいかに特定できるのか。

    例:女性用トイレのマーク「🚺」。協調原理において考えると、作者が〈肩から頭が切り離された人のシルエット〉を描いたとは考えづらい。作者が、そのような対象の存在を信じていたり、存在の根拠を持っているとは考えづらいから。

    もちろん、変な意図を持って〈肩から頭が切り離された人のシルエット〉を描いた可能性はあるが、その場合は、それ相応の理由がなければならない。このような理由が見当たらない限り、画像は協調原理に従って〈普通の女性〉を描写していると考えられる。

    • 対象がフレームから見切れた画像も、〈切断された対象〉ではなく、〈フレームの外まで拡張されている対象〉を描いたものだと言える。同様に、対象を平面上に描いた画像も、〈平べったい対象〉ではなく、〈膨らみと、様々な観点から見られうる対象〉を描いたものだと言える。
    • 「正面だけが見えている男性の絵」が、〈後ろにケーブルをいっぱい繋がれたアンドロイド〉を描いたものでないのも、協調原理に従って理解される。そうであるならば、少なくともケーブルを描くべきだから(必要な情報を描いていない違反)。

    協調原理をもとに「🚺」を理解するのは、ホプキンスが論じたような「世界あるある」「手法あるある」の背景知識において理解するのと似ている。しかし、「画像あるある」に訴える必要はない。いずれにしても、協調原理の説明はホプキンスの説明よりもうまくいく。

     

    ここまで、「🚺」の目的は「女性用トイレの所在を伝達すること」であると前提してきた。しかし、そうではない可能性もある。デザイナーは、それがどこで使われるかを知らず、ただ女性をデフォルメして描いたのかもしれない。この場合、協調原理は役に立たない?

    作者が変な意図を持っている場合でも、協調原理が役に立つ根拠は以下。

    1. 正確かつ能率的に伝達することは、近代以降の絵画はともかく、前近代や自然主義の絵画においては主要な目的だったと言える。そうでない象徴的な表象を含め、我々による描写内容の解釈に依存している。
    2. 協調原理からズレた意図を持って描写するにしても、あらかじめ、「我々一般的な観者は協調原理に基づいて画像を解釈する」という事実を踏まえなければならない。➡「自らの意図に気づいてもらおう」という意図を持つ。

     

    7.「画像の含み」の説明能力

    ある発話の含みが正しく解釈されるかは、文脈(contexts)に依存する。

    画像にとって特徴的なのは、製作者(画家や写真家)と解釈者(画像の観者)が時間的空間的に隔たっていること。よって、画像の含みは、会話の含みとは異なり、画像に内在的(internal)な性質の一つだと言える。

     

    👻あとは細かい話なので割愛!!!!😉

     

     

    ✂ コメント

    1.まとめ

    議論が緻密で、なかなか難しいと思うので、カジュアルな一問一答にしてみました。

    • (「Q.画像の描写内容はなにによって決まるの?」「A.類似しているものを描写しているよ」
    • 「Q.類似してないのに描写してたり(キュビズム絵画)、類似しているのに描写していない(ウサギ状の雲)ようなケースがあるじゃん!」「A.じゃあ、“意図されている”ってのも条件に組み込もう」
    • 「Q.意図されてないのに描写しているケース(不慮の写真)もあるじゃん!」「A.そら、カメラ設計者の意図なんじゃ」
    • 「Q.意図された内容と、類似してる内容がズレてますけど?(棒人間とか)」「A.正しく解釈すれば、その辺は補完できる」
    • 「Q.解釈なんてできんわ。作者の意図わからんし」「A.“協調原理”と“画像の含み”を踏まえれば、正しく解釈できるよ!」

    おおむね、こういう議論です。

     

    要は、類似説単体だけではうまく行かないので、「意図」を組み込んだ上で、意図に伴う諸問題については「画像の含み」で対処する、という戦法。

     

    2.評価ポイント

    この議論がどこで役に立つかというと、例えばアニメやマンガのキャラクターを考える際に、その「デフォルメ」をどう扱うかに関わってくる。

    例えば、視覚的性質として「鼻がない」キャラクターが、実際に〈鼻がないキャラクター〉として描かれているわけではないというのは、画像の含みによって説明できる。

    その他、風刺画のメッセージを読み取る、といった実践にも適用可能な理論となっている。

    で、語用論モデルで画像を考えるというのは、ベタながら建設的なアプローチだと思う。ちなみに、「画像×コミュニケーション」の話については、松永さんのスライド(その2)が勉強になります。

     

    あとは、「描写的内容」というぼんやりとした項に加え、「作者内容」「視覚的内容」を整備したことで、議論が精緻化されているのも評価ポイント。図解してくれれば💯だった。気が向いたら僕がまとめてツイートなりします。

     

    3.懸念ポイント

    一方で、個人的には「意図かぁ……」という気持ちもある。意図というのはたいてい、まるで数量化できるものではなく、起源が定めづらく、しかもころころ変わるような不確定要素だからだ。(もちろん、部分的には数量化でき、起源が定まり、かっちり固定しうるものだというのは否定しない)

    20世紀の思想史的に見ても、シュルレアリスム構造主義、意図の誤謬、ニュークリティシズム、作者の死、ポストモダンと、「作者の意図」はむしろ引き下げられる方向に進んできた。控えめとはいえ「作品の意味内容は、作者の意図によって決められる」という言説自体、わりと保守的なものだ。そういえば、ノエル・キャロル『批評について』も作者の意図を重視する議論だった。

    無論、意図の役割を整理し、位置づけるべきところに位置づけるのは必要な作業だと思う(とりあえず切り落せばいい、というものではない)。ただ、批評や作品理解のコアとして位置づけられるべき要因なのかと言われれば、ちと懐疑的だ。とはいえ、これは問題意識と関心の違いなので、エイベル論文そのものの欠点というわけではない。

     

    あと、「写真においては設計意図がある」という議論は屁理屈だと思う。仮に正しいとしても、写真作品の帰属先をはじめ、いろいろと問題が湧いてくるだろうと。

    いっそ円グラフ化して「30%はカメラ設計者の意図!」「40%は撮影者による選択の意図!」「10%は現像した暗室作業員の意図!」「20%は展示したキュレーターの意図!」➡「みんなの作品です!!👩👨👵👴」ということにしちまえばいいのでは。まぁ、森羅万象は創造主の意図によるものなので、ささいな問題なのですが。

     

    ところで、エイベル(を含む多くの論者)はウォルハイム的な「seeing-inできる」事例から「足跡」や「岩の割れ目」や「雲」を除外した上で描写を理論化しているが、これらを除いた人工物だけを扱う動機がよく分からない。センの直観として、「ウサギに見える雲とウサギの関係」と、「ウサギの絵とウサギの関係」に、表象としての本質的な違いはないような気がする。(みたいな話をしたら、ボスに「その認識はヤバくね?」と言われたことがある)

    おそらく、「pictureといえば人工物だよね」という前提があって、これがいまだに飲み込めていないのだろう。描写の哲学については、もうちょい整理が必要だ。要勉強。

     

     

    *1:国内でも、割と紹介されている論者で、日本語で読める論文ノートとしては以下のものがあります。

    *2:注4:もっとも、白黒写真が描写するのは「特定の色を持った対象」ではない、とエイベルは言う。写真が描写する対象の色は不確定(indeterminate)とのこと。

    参考:Lopesの用語に従えば、暗黙的非コミットメント

    Lopes, Dominic (1996). Understanding Pictures. Oxford University Press.

    *3:補足:エイベルは狭い意味で、「描写」を行う表象的「画像」に話を絞っている。この限定によって、エイベルは「画像(picture)」と「描写(depiction)」をほぼ同義で使っている。

    *4:補足:「画像pは対象xを描写している」というのを真にするようなxは、いかにして決定されるのか問題。古典的なWollheim 1987など。ウォルハイムは「作者によって意図されたx」を推しており、エイベルも基本的にはこれを支持している。

    Wollheim, Richard (1987). Painting as an Art. Thames & Hudson.

    *5:参考:この線で「写真の非自動性」を強調した議論としては、以下など。

    Snyder, Joel & Allen, Neil Walsh (1975). Photography, Vision, and Representation. Critical Inquiry 2 (1):143-169.

    *6:補足:勝手にディープフォーカスになるとか、そういう設計の意図を指している。

    *7:補足:いわゆる「ハンプティダンプティ問題」を回避する必要がある。作者の意図が意味内容の決定において重要だからといって、作者が好き放題に意味を決定できるわけではない。

    *8:補足:まとめると、ここでエイベルは「画像pが対象Oを描写している(対象Oを描写内容として持つ)」の必要条件として、①意図条件:画像pの作者が対象Oの描写を意図している②類似条件:画像pは現に対象Oと似ている、と考えているっぽい。

    *9:補足:🐶という絵文字を見て、この絵文字を考案した作者の厳密な意図を知らなくとも、これが〈犬〉を描写した画像だとわかるように。

    *10:補足:厳密に言えば、「画像を見る」+「観者が持っている背景知識と照らし合わせる」によって知りうる、というもの。

    *11:補足:雑にまとめると、「世界あるある」「画像あるある」「手法あるある」を踏まえてジョウシキテキに考えれば、作者の意図は分かるよ、って話。

    *12:補足:以下で見るように、本論文はおおむねホプキンスの基準を再検討しつつ、拡張しようとする試みだと言える。

    *13:参考:詳細はwikiで読める。