描写の哲学ビギナーズガイド

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絵、写真、映画、アニメ、広告、ポスター、地図、ビデオゲーム、デザイン……。画像[picture]ないし画像的[pictorial]なものは、生活のいたるところにある。

本記事は、近年ますます盛り上がりを見せている「描写の哲学[philosophy of depiction]」についてのまとめです。

そもそも画像はなんなのか、なにをしているのか、なにがそんなに面白いのか。

「描写の哲学」とは、画像にまつわるあれこれを紐解こうとする、哲学・美学分野です。

 

今回はビギナーズガイドということで、哲学・美学が専門でない人にも①どんなトピックが争われていて②どの論者がなにを主張しているのか、なんとなく分かっていただける内容を目指しています。

「描写の哲学」の紹介は割に進んでいて、日本語で読める文献も少なくない。よって、本記事はまとめのまとめ、サーベイサーベイとしても使える。もっと踏み込んだ内容が知りたい方は、ぜひ引用先の論文をあたってみてください。

(「取りあげられてないけど、このトピックはこの記事・論文がいいぞ」というのがありましたら、ご一報ください)

 

先に宣伝ですが、2020年1月25日(土)大妻女子大学千代田キャンパスにて、「描写の哲学研究会」という催しがあります。本記事はなにより、当イベントの予習をかねている。

松永伸司さん(@zmzizmの主催で、難波優輝さん(@deinotaton村山正碩さん(@Aiziloと一緒に、セン(@obakeweb)も研究発表をさせていただく予定です。それぞれ異なる切り口から、画像についてあれこれ言い合うイベントになるそうです。こちらもぜひ。

 

1.描写の本性:描写とはなにか? 画像とはなにか?

「描写の哲学」において中心的な問いとは、特定の画像Pが、それとは別の対象Oを「描写する[depict]」とき、当の関係はいかにして成り立っているのか、というものだ。ここで、「描写する」とは、ある特定の仕方で「表象する[represent]」ことだとされる。順を追って説明する。

まずは、「表象[representation]」 について確認しておこう*1。表象にはさまざまなものがある。「犬」という文字、「inu」という音声、「🐶」という画像は、それぞれ犬という動物種を表象している。ここで、「犬」「inu」「🐶」は、いずれも現実に犬だというわけではない。現実の犬は、四本脚でワンと吠えるが、上に挙げた三つの記号はいずれも四本脚ではないしワンとは吠えない。すなわち、各記号は犬そのものではないが、犬の代わりとなっており、犬を表している。記号の生産者は、いずれかの記号を用いることで犬について伝達し、記号の消費者は、記号に目を向けることで、犬という内容を読み解く。

なんだかしょっぱなから難しそうな雰囲気だが、たいしたことは言っていない。

「🐶→犬」という図式は、誰にでも直感的に理解可能なものであろう。「表象する」とは、🐶から犬たちへと飛んでいる矢印だと理解しておけば、さしあたりなんとかなる。

 

ここでようやく「描写[depiction]」の登場だ*2前述の通り、表象にはいろんなものがあった。そのうち、画像が画像特有の仕方で、すなわち画像的に[pictorially]行う特殊な表象を指して、「描写」と呼ぶ。どういうことか。

画像「🐶」は犬を表象する。同様に、「犬」という語もまた犬を表象する。ここで、両者はそれぞれ別様の仕方で犬を表象しているように思われる。であるとすれば、その他の表象から区別される、画像に特有の仕方でなされる表象とはなにか。

ネルソン・グッドマン[Nelson Goodman]が言うように、画像は画像に特有でない仕方で表象することもできる。《モナリザ》を丸めて球打ち遊びに使うならば、丸められた絵画はバットを表象する。しかし、このような仕方でバットを表象することは、明らかに《モナリザ》が画像特有の仕方でなしている表象ではない。《モナリザ》が画像特有の仕方で表象している、すなわち描写しているのは特定の女性(すなわちモナリザ)である。(Goodman 1968=1976)

 

さて、冒頭の問いに戻ろう。特定の画像Pが、それとは別の対象Oを「描写する」とき、当の関係はいかにして成り立っているのか。

 

この問いに対するアプローチには様々なものがあり、描写の◯◯説みたいなのがそれはそれはたくさんある。 以下では主要なものを確認しよう。サーベイについては、Kulvicki (2006); Rollins (1999); 清塚 (2002)などを参照。

 

まずは、知覚[perception]説としてまとめられるグループ。知覚説はいずれも「画像は、それを見る観者によって、特殊な仕方で知覚される」という考えを出発点にする。

  • エルンスト・ゴンブリッチ[Ernst Gombrich]「錯覚[illusion]説」:対象Oの画像Pを見る観者は、実際に対象Oを見ていると錯覚する。作者は、このような錯覚を与えられるよう、画像Pの表面を設計する。(Gombrich 1960)

➡錯覚説:特定の画像Pが、それとは別の対象Oを描写するのは、「画像Pが、対象Oを見ているような錯覚を与えるから」

  • リチャード・ウォルハイム[Richard Wollheim]「うちに見る[seeing-in]説」:錯覚説への反論。「対象Oの画像P」を見ている観者は、決して対象Oを見ていると“錯覚”しているわけではない。観者は、画像Pがただの絵画や写真であることに気づいており、その上で、画像のうちに対象Oを見ている。画像が与える経験には、画像表面と描写対象を同時に見るという「二重性[twofoldness]」が含まれる。(Wollheim 1980)

➡うちに見る説:特定の画像Pが、それとは別の対象Oを描写するのは、「画像Pが、画像Pを見ながら、そのうちに対象Oを見るような、二重の経験を与えるから」*3

  • ケンダル・ウォルトン[Kendall Walton]ごっこ遊び[make-believe]説」ウォルトンは、いろんな芸術形式をまとめて扱えるような理論を構想している。小説の物語や映画の出来事は現実ではないが、それを見たり聞いたりする鑑賞者はあたかも現実の物語や出来事を見たり聞いたりしているかのように想像する。同様に、「画像Pを見ること」は現実に「対象Oを見ること」ではないが、そのような視覚的ごっこ遊びに使われる。(Walton 1990)

ごっこ遊び説:特定の画像Pが、それとは別の対象Oを描写するのは、「画像Pを見ることを“対象Oを見ること”として想像するような視覚的ごっこ遊びにおいて、画像Pが使われるから」*4

  • フリント・シアー[Flint Schier]ドミニク・ロペス[Dominic Lopes]「再認[recognition]説」:人は対象Oを見るとき、あらかじめ持っている認知的リソースによって、「あっ、Oだ」と分かる。対象Oの画像Pは、対象Oを見る際と同じ認知的リソースを動員するので、画像Pを見ても「あっ、Oだ」と分かる。(Schier 1986; Lopes 1996)

➡再認説:特定の画像Pが、それとは別の対象Oを描写するのは、「画像Pが、対象Oを見るのと同じ認知的リソースを観者に使わせるから」*5

 

 

次に、知覚ベースでない説を見てみよう。

  • 古典的な「類似[resemblance]説」:対象Oの画像Pは、なんといっても、対象Oと似ている。以上。

➡古典的な類似説:特定の画像Pが、それとは別の対象Oを描写するのは、「画像Pが、対象Oと似ているから」

 

しかし、古典的な類似説はめちゃめちゃ叩かれている。ネルソン・グッドマンによれば、

  1. 「似てるって、どこが?」問題:「似ている」を、「同じ性質を持つ」として理解するならば、たいていのものはたいていのものと似ている(僕と木星は、いずれも「宇宙にいる」「体積を持つ」といった点で似ている)。類似説は、少なくとも、画像と対象のどこが似ているのか言わないとダメ。
  2. 「“AとBは似てる”と“AはBを描写する”は、いろいろ違う」問題:「似ている」という関係において、AとBが似ているなら、当然BはAと似ている。すなわち、類似関係は対称的な関係である。これに対し、画像Pが対象Oを描写するとしても、対象Oが画像Pを描写しているわけではない。/また、Aは、自らが持つあらゆる性質を持つので、AはAと似ている。すなわち、類似関係は反射的な関係である。これに対し、画像Pは画像Pを描写しているわけではない。すなわち、類似は描写の十分条件ではない。
  3. 「対象O1を描写する画像P、よく見たら対象O2と似ている」問題:モナリザの女性にクリソツな友人がいたとすれば、ダヴィンチの《モナリザ》はその友人と似ている。しかし、ダヴィンチの《モナリザ》は、明らかにその友人を描写しているわけではない。そもそも、画像は三次元の事物よりその他の画像と似ているが、画像を描写する画像はそんなにない。
  4. 似ていないのに描写する問題:こちらはやや悪名高い主張だが、グッドマンによれば「あらゆるものはあらゆるものを表象しうる」。全然似ていないが、その対象を描写する画像が存在する。すなわち、類似は描写の必要条件でもない。

よって、古典的な類似説(画像Pが対象Oを描写するのは、対象Oと似ているから)だけでは解決にならない。

 

類似説をアップデートしたキャサリン・エイベル[Catharine Abell]の説については、以前obakewebでまとめた。以下を参照。

エイベルは、類似説をベースにしながら、問題点については、作者の意図に訴えたり語用論モデルを援用することで解決しようとする。「作者によって意図された類似」に訴えることで、グッドマンの批判はわりかし回避できる。(Abell 2005; 2009)

 

さて、類似説アンチ代表のグッドマンは以下の立場で有名。

  • ネルソン・グッドマン[Nelson Goodman]「構造[structure]説」:グッドマンもウォルトンみたいに、いろんな現象をまとめて扱える理論を構想している。グッドマンの枠組みによれば、画像、言語、楽譜、ダンスなどはいずれも記号的な構成を持っており、特定の記号表現と特定の記号内容が慣習的に[conventionally]結びついている。「犬」という文字が犬を指すのと、「🐶」が犬を指すのは、記号的な指示[denotation]関係としては同じである。/ただし、画像による記号システムには、他のシステムにはない独自の特徴がある。/「①統語論的に稠密:画像による記号表現はアナログなので、ある表現と別の表現の間に、もう一つ別の表現がつねにありうる」/「②意味論的に稠密:画像による記号内容もアナログなので、ある内容と別の内容の間に、もう一つ別の内容がつねにありうる」/「③相対的に充満:水銀温度計もアナログだが、統語論的に関与的な要素がメモリの高さぐらいしかない(たとえば、水銀の色は関係ない)。これに対し、画像は統語論的に関与的な要素が、相対的に多い」(Goodman 1968=1976)

➡構造説:特定の画像Pが、それとは別の対象Oを描写するのは、「画像Pが、画像的な記号システムにおいて、対象Oを指示する記号だから」

なんか難しそうなことをたくさん言っているが、ようは「画像は記述[description]と同じく、慣習的に作られる&読み解かれる記号だが、記述にはないような特徴もいくつかあるよ」ということ。

 

ジョン・カルヴィッキ[John Kulvicki]は構造説のフォロワーで、画像の記号システムについての特徴づけを修正しつつ、新たに「④透明性」を挙げている。それによれば、「「対象Oの画像P」の画像P'」は、画像という記号システムにおいて、画像Pと統語論的に同じ表現であり、画像Pと意味論的に同じ内容を持つ*6。犬の写真をぴったり撮影した写真'は、犬の写真である。これに対し、「犬」という文字について文字で説明したもの(「人に横棒を加え、右上に点」)は、犬を表す記号ではない。(Kulvicki 2006)

カルヴィッキの立場については、高田さんとシノハラさんの論文ノートがあります。

 

以上、駆け足だが有名どころを概観してきた。とりわけ、ゴンブリッチ、ウォルハイム、グッドマンあたりが何を言っていたのかは、必須でおさえておきたい。

その他、「描写なんでだろう問題」については、日本語で読める文献が結構あるので、以下をご参照ください。

 

ロバート・ステッカー『分析美学入門』第9章「再現2――描写」, 森功次訳, 勁草書房(2013).

松永伸司(2012)「画像的再現のサーベイ論文 (1)」ほか, 9bit.

松永伸司(2015)「言語としての画像」, 東京芸術大学美術学部論叢, 11, 27-34.

清塚邦彦(2002)「絵画的な描写について:哲学的分析」, 山形大学紀要(人文科学), 15(1), 41-74.

清塚 邦彦(2004)「ネルソン・グッドマンの記号論(2):Pictorial Representationの分析を中心に」, 山形大学人文学部研究年報, 1, 37-64. 

清塚邦彦(2010)「絵を見る経験について:R・ウォルハイムとK・L・ウォルトンの論争を手がかりに」, メディアの哲学の構築:画像の役割の検討を中心として(平成19年度~21年度科学研究費補助金 基盤研究C 研究成果報告書 研究代表者:小熊正久), 12-21.

 

2.描写の構成:描写内容はどのような構成を持つのか?

画像Pが、なんらかの要因によって、それとは別の対象Oを「描写する」。狭義の「描写の哲学」とは、この「なんらかの要因」を探る分野だと言えよう。

しかし、画像については他にもキニナルことが多い。

たとえば、描写される対象Oとはどのようなものか。すなわち、画像が持つ描写内容[depicted content/depictive content]とはどのようなものか。これがふたつ目の問いである。

描写内容の理論については、松永さんが優れたサーベイを書いてくださっている。

ひとまず、大事な論点としては以下。

  • 棒人形のイラストは、でかい頭とガリガリの身体を持つ人物のように見えるが、多くの場合、そのような奇形の人物を模写したイラストではない。白黒写真に写った人物は白黒に見えるが、カメラの前に白黒の人物がいたわけではない。
  • このように、画像のうちに見える内容と、画像の描写内容には、ギャップがある
  • この種のギャップをどう整理するか? このギャップがあることで画像実践はいかなる影響を受けるか? 描写内容の理論はこれらの問いを扱う。

 

ロバート・ホプキンス[Robert Hopkins]は、当のギャップを「分離[separation]」の問題として扱っている。画像の描写内容には不確定な部分がある(白黒写真における被写体の色は不確定)ので、ウォルハイム的な「うちに見られる内容」は、画像の「描写内容」とは限らない。(Hopkins 1998)

ホプキンス説と「分離」周辺の議論については以下を参照。

清塚邦彦(2015)「絵の中に見えるもの――見えるものと描かれたもの」, 『画像と知覚の哲学: 現象学と分析哲学からの接近』, 東信堂.

 

ホプキンスは、「うちに見られる内容」をもとに「描写内容」を正しく解釈するための基準を挙げたりしている(ざっくりまとめれば、「外的な常識を踏まえて、空気読もうぜ」といった感じ)。こちらについても、上述のエイベル論文が検討しているので、拙記事を参照。

 

ちなみに、似た論点については、先立ってドミニク・ロペスも扱っている。

ロペスは、特定の内容について①画像がコミットするかどうか、②いかにコミットするか/コミットしないかを整理している。 (Lopes 1996)

  • リンゴの写真は、リンゴの形や色を描写している(コミットメント)
  • リンゴに隠れて見えない部分については、描写していない(明示的非コミットメント)
  • モノクロ写真であれば、リンゴの色は描写していない(暗黙的非コミットメント)

ロペスによれば、記述もコミットメントや暗黙的非コミットメントをしうるが、明示的非コミットメントは画像に独自な特徴らしい。

非コミットメントは、ただちに別のコミットメント(「リンゴはモノクロである」)というわけではない。ここにも、画像のうちに見られる内容と、画像がコミットする内容の間にギャップがある。

 

同じく分離の問題を扱っているジョン・H. ブラウン[John H. Brown]については、高田さんの論文ノートがあります。

描写内容の理論や「分離」の問題は、要注目トピックのひとつ。

とりわけ、このあとで見るサブカルチャー批評への応用において、キャラクターの「デフォルメ」なんかを議論する際にヒントとなる。

 

3.主張と倫理:画像を使って、なにかを主張する? 画像のわるさとは?

画像は、ただ特定の描写内容を持つというだけで終わりではない。それはしばしば、コミュニケーションにおいて用いられる。

たとえば、僕が飼い犬のかわいさを自慢したいとき、言葉にせずとも、「飼い犬がかわいく写っている写真」をメール送信することで、コミュニケーションとしては自慢が成立する。

このような画像使用において、画像はなにかを主張[assert]している。特定の場面において使われている画像は、特定の主張内容を持つ。

 

前節では、画像のうちに見える内容と描写内容のギャップを扱った。ここで、主張内容と描写内容にもギャップがあるように思われる。

再度、自らの行動を図解するときに棒人形のイラストを書くケースを考えよう。当のイラストを提示することによって、「僕はしかじかの行動をした」という事実が主張されるのに対し、「僕はしかじかの見た目をしている」ことが主張されているわけではない。

この辺の議論を俯瞰するためには、「描写内容(描写対象, 描写性質)」「主張内容(指示対象, 述定性質)」といった概念群が必要。松永さんの発表資料を参照。

松永伸司(2017)「絵の真偽: 画像の使用と画像の内容」, 草稿, 現代美学研究会.

 

画像が主張に使われるんだとしたら、画像が嘘[lying]に使われることもあるよね? ということで、画像嘘の問題を扱った論文については、以下でまとめた。

フィーバーンは、「画像がどうやって嘘をつくか」にはほとんど触れてなくて、「画像は嘘をつけるっぽいので、嘘の定義を考え直さなきゃね?」というのが論点なので、留意されたい。

 

画像が嘘をついたりするんだとしたら、「わるい」画像使用があるはずだよね? ということで、画像実践と倫理的な問題を接続する議論もある。

この辺については、難波さんがご専門。今年の哲学若手研究者フォーラムでされていたご発表「ポルノグラフィをただしくわるいと言うためには何を明らかにすべきか」を参照。

言語行為論や社会存在論を援用して、ポルノグラフィの「わるさ」を議論するための前提を検討されている。

今回の「描写の哲学研究会」で予定されているご発表「これは人間ではない:キャラクタの画像の何がわるいのか」も、画像による言語行為および倫理的な問題を扱ったものと予想されます。

 

もちろん、この辺の議論は分析フェミニズムにも接続されている。

昨今、アニメキャラクターをはじめとする女性表象の是非を巡って界隈が魑魅魍魎の阿鼻叫喚地獄となることが多いですが、画像を専門に扱う「描写の哲学」も、健気に頑張っていきたいところです。

以下は小宮友根さんによる分析。分析美学者アン・イートン[Anne Eaton]の議論なんかを参照されています。この辺の記事もよう燃えた。

 

4.情動の表出:画像を使って、悲しみを表出する?

さて、画像はなんらかの要因によって描写内容を持ち、描写内容は分離していて、しかも描写内容とは必ずしも一致しない主張内容を持ちうる……。

ぼちぼちドロンしたいところですが、次に表出[expression]の話をご紹介。情動表出は、しばしば「音楽の哲学」において議論されている。「悲しいメロディ」みたいな。

前節では、画像がコミュニケーションにおいて使われることを確認した。しかし、画像によるコミュニケーションは、特定の事実を伝えるだけでなく、別の側面として、特定の情動[emotion]を伝えるのにも使われる。

いわゆる「青の時代」にピカソが描いた絵は、あの鬱屈とした色使いによって悲しみや憂鬱を表出している。

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…青の時代…

 

ここで、画像による情動表出を巡って、いくつかキニナル点がある。

  • 画像表出の本性:画像は、いかにして情動を表出するのか? そもそも情動を表出できるのか? 画像のどの部分が表出しているのか?
  • 情動の帰属先:表出される情動は、だれのものなのか? 作者、それとも描かれている人物、それとも全く別の誰か? 
  • 表出性と真正の表出:「青の時代」の作品は、「悲しい」といった感情用語が適用されるような絵画であるだけでなく、文字通りピカソによる感情表現だと思われる。これらの事態をどう区別するか?

表出のトピックについては、藍白さんこと村山さんがお詳しい。

村山さんの整理によれば、たとえば、ムンクの《叫び》は、ふるまいの模倣によって不安が表出されており、当の情動は描かれている人物に帰属される。

今回のご発表「描写内容と画像内容の差:エル・グレコからアボガド6まで」では、描写内容の分離と表出周辺の議論を扱われる模様。いずれも、「単になにかを描写する」ものとしての画像を、より多角的に見るためのヒントになりそうです。

 

その他、ネルソン・グッドマンは『芸術の言語』第2章で、例示と隠喩的所有によって画像表出を論じている。

画像 × 表出について日本語で読める文献としては、

 

松永伸司(2018)「例示としての表出: ネルソン・グッドマンの立場から」 , レジュメ, 科学基礎論学会2018年研究例会 ワークショップ「芸術における感情表現」.

清塚邦彦(2007)「絵画における感情の表現について」, 山形大学人文学部研究年報, 4, 1-32.

 

5.リアリズム:リアルであるとはどういうことか? 

美学・芸術哲学において、「リアリズム[realism]」は長いこと議論されてきたトピックです。

絵画や彫刻のリアリズムはしばしば問題となる。リアリズムはしばしば写実主義を意味し、対象のあり方を忠実に再現しているかどうかが問われる。 ある絵はよりリアルであり、ある絵はよりリアルでない、といった具合に。

しかし、この種のリアリズムに対する懐疑主義がある。

登場しまくりのネルソン・グッドマンは、「こっちの絵があっちの絵よりもリアルに見えるのは、慣れているというだけでは?」と考え、「対象に類似しているかどうか/イリュージョンをもたらすかどうか/対象についての情報を多く持っているかどうかは、いずれもリアリズムにとって独立した基準にならない」とする。結局、グッドマンは写実性・類似性について慣習相対主義をとる。リアルかどうかは、慣習的な植えつけ[inculcation]でしかないのだ、と。(Goodman 1968=1976)

これはこれでトガッた主張であり、文化と慣習が異なれば、ピカソキュビズム絵画が「めっちゃ写実的!」ってことになるし、明らかに下手くそな似顔絵が「めっちゃ似てる!」ってことになる。ので、リアリズムに関する議論はグッドマンをたたき台にするものが多い。

 

ジョン・ハイマン[John Hyman]は、リアリズムを区別している。(Hyman 2004)

  • 主題[subject-matter]のリアリズム:現実世界を舞台にしたり、現実の出来事を描いた絵画は、SF的世界を舞台にしたり、虚構的な出来事を描いた絵画よりもリアル。
  • 技術[technique]のリアリズム:画像が伝達する情報の質、量、確かさ、幅、などなど。写真撮影>トレースで写す>想像で描く、みたいな。

ハイマンによれば、リアリズムを特徴づける三大要素は「正確性[accuracy]」「活力[animation]」「様式[modality]」である。「正確性」は正しく忠実に描くことに関わり、「活力」は情動・キャラクター・思考の表現に関わり、「様式」は作者が利用できる技術的リソースと関わる。

以下は高田さんによる論文ノート。

 

ジョン・カルヴィッキもリアリズムを区別することで整理している。こちらは松永さんが以下でまとめてくださっている。

カルヴィッキは、「内容」「描きかた」「種類」にそれぞれのリアリズムがあるという整理をしている。とりわけ、「種類の写実性」ということで、記号システムに即す程度を問題にしているあたりが構造説フォロワーっぽい。

 

キャサリン・エイベルはリアリズムの理論に必要な制約条件を羅列している。(Abell 2007)

  • 写実的な画像の持つ認識論的重要性を説明する。
  • 正確であり詳細であることがなぜリアリズムにおいて顕著なのかを説明する。
  • 描写一般についての正しい説明と矛盾しないこと。
  • 画像的リアリズムの特徴を説明する。

エイベルは、リアリズムについて6個ほど特徴づけしたのち、画像的リアリズムについては情報伝達ベースの説明を推している。曰く、リアリズムの特徴とは、

  1. 画像的リアリズムは、画像の性質であると同時に、描写スタイルの性質である:この特定の画像がリアルである、というだけでなく、この特定の描き方がリアルである、みたいな。
  2. リアリズムは、一部の画像および一部の描写スタイルのみが持つ性質である:あらゆる画像や描写スタイルがリアルなわけではない。
  3. リアリズムは、程度問題である:よりリアルなものと、よりリアルでないものがあり、一かゼロの問題ではない。
  4. 異なる画像や異なるスタイルが、等しくリアルであることもありうる:例えば、リンゴを撮影した写真と、人物を描いた肖像画が、程度においては等しくリアルであることもありうる。
  5. 画像的リアリズムの判断については、正当性がある:主観的に人それぞれなのではなく、リアルかどうか議論したり合意したりすることが可能。
  6. 同じスタイルに属する画像でも、リアリズムにおいて異なる可能性がある:一人の画家が単一のスタイルで描いた絵であっても、リアルな作品とそうでない作品がある。

 

ドミニク・ロペスも画像のリアリズムについて論文を書いている。高田さんの論文ノートは以下。

 

画像的リアリズムの問題について僕はそこまで明るくないのですが、ほかにも面白そうな論文がいろいろ。

様式[style]の問題と深く結びついた分野なので、描写内容の分離や情動表出とも接点がありそうな予感。リアリズム関連でいい論文があれば、ぜひ教えて下さい。

 

6.写真の特性:写真のなにがそんなに特別なのか?

一口に「画像」といっても、その中にはいろんなものが含まれる。

とりわけ、写真や、これを用いた映画のような画像は、手描き[hand-made]の画像となんか違うんじゃないか

こうして、写真の本性をめぐるスピンオフドラマが始まる。

 

分析写真論は僕の専門で、これまでいくつか論文を紹介してきました。

さしあたりおさえておきたいのは、ケンダル・ウォルトンが80年代なかばに提唱した「写真の透明性[transparency]」と、これをめぐる議論*7

ウォルトンによれば、写真はちょうど眼鏡や望遠鏡や鏡のように「透明」であり、ゆえに、観者は写真を通して文字通り被写体を見ることができる。見ているような印象ではなく、マジで見ているんだ、と。

これに対し、絵画は、見ているかのような想像に使われるだけ(描写のごっこ遊び説を参照)。だから、写真はいろいろすごい。例えば、被写体と結びついているような感覚[sense of contact]を与えるのは、写真が透明であるおかげ。

 

透明性テーゼをめぐる論争は、それはそれは大盛りあがりで、近年でもウォルトン理論の見直しを図る論文が出ている。

ジョナサン・コーエン[Jonathan Cohen]アーロン・メスキン[Aaron Meskin]は、「被写体がどこにあるのか教えてくれないので、写真は透明じゃない」と反論し、

スコット・ウォールデン[Scott Walden]は「写真って、ようは対象にめっちゃ似てるだけじゃね?」といって反論している。

 

結局のところ、透明性テーゼが間違っているとしても、写真はなんかいい感じの情動的経験を与えるし(現象学的特権)、証拠や報道において重要な情報源となる(認識論的特権)。

じゃあ、結局のところ、写真はなんで特別なの? ということで、ウォルトン説に対するオルタナティヴがたくさん出されているのも、この分野の面白さ。

 

より過激な立場として、ロジャー・スクルートン[Roger Scruton]は、写真の芸術性を否定している。写真は本質的には対象をそのまま写すだけなので、写真が芸術的に見えるのだとしたらそれは被写体が芸術的なのであって、写真が「写真ゆえに」芸術たりうることはない!という懐疑を訴えている。(Scruton 1981) 

近年だと、スクルートンに反して写真の芸術性を認めようとする「ニュー・セオリー」がホットです。

村山さんがまとめてくださっている。

ドミニク・ロペスらのニュー・セオリーは、「写真は客観的!っていうオーソドックスな写真観に縛られているといろいろ不都合なので、写真も人為的な操作を含むもの、ってことにしない?」と提案する。

しかし、なんでもありだと困るし、写真の認識論的価値も捨てがたい……。追加の条件を加えるべきか? どんな条件が必要か? 一周回って写真はやっぱ客観的なんじゃね? ということで、美学者たちが今日も頭をひねっています。*8

 

分析美学の写真論については、つい先日、修士論文「写真を見ること、写真を通して見ること:ケンダル・ウォルトンによる「透明性テーゼ」の理論的射程をめぐって」を提出させていただきました。首尾よく行けば、なんらかのかたちで公開できるかもしれません。

【2020/04/19追記:UTokyo Repositoryにて公開しました】

 

その他、分析写真論の邦語文献としては、

 

清塚邦彦(2003)「写真を通して物を見ること:K・L・ウォルトンの透明性テーゼをめぐって」, 山形大学紀要(人文科学), 15(2), 19-50.

清塚邦彦(2008)「写真のリアリティと演技的な態度」, 視覚表象における「リアル」の研究:平成16年度~平成18年度科学研究費補助金(基盤研究(C)(2)), 研究成果報告書, 研究代表者:阿部宏慈, 7-19.

内野博子(2009)「アンドレ・バザンからケンドール・ウォルトンへ――写真的リアリズムの系譜」, 『写真空間3  特集 レクチャー写真論!』, 青弓社編集部.

日本記号論学会(2008)『写真、その語りにくさを超えて』第Ⅱ章「「写真を見る」ということ」, 慶應義塾大学出版会.

 

7.文化と批評:描写の哲学 × ポピュラー・カルチャー

気の利いた問いを立て、用語を整備し、理論的な枠組みを構築する種の分析美学は、文化批評への応用が期待される。「描写の哲学」は、個別事例の研究や批評といかに接続できるのか?

 

とりわけ、描写の構成にまつわる議論を、アニメやマンガのキャラクター研究に活かした論考を見かけることが多い。

 

まずは高田敦史さん(@at_akadaによる論文。 

高田敦史(2015)「図像的フィクショナルキャラクターの問題」, 『応用哲学』, 6, 16-36.

  • 前半では、画像のうちに見られる内容と描写内容の分離を扱っている。スネ夫の口は異様にとんがっているように見えるが、『ドラえもん』に含まれるスネ夫の絵が、「口が異様にとんがっている人物」を描写しているとは思えない。スネ夫が、相対的に口が突き出た顔を持つのは間違いないが、まさにあのままの形状の人物が描写されているわけではない。いたとしたら、他のキャラが「お前、その口大丈夫?」とツッコんでいるはず。
  • 一方で、「スネ夫」は思い思い自由に描くわけにもいかない。スネ夫を描くなら、あの「口が異様にとんがっている人物」を描写しなければならないという風に、キャラクターの描き方には正解・不正解がある。
  • 後半では、フィクショナルキャラクターに対する美的判断が、分離によっていかに影響されるかを扱っている。分離の説明が正しいとすれば、キャラクターが本当はどういう姿をしているのか、鑑賞者には見てもわからない。マンガには鼻の描かれていないキャラクターがしばしば出てくるが、どういう鼻かわからない人物に対して「かっこいい」「かわいい」と判断するのは、どういうこっちゃ、という問題。
  • 高田さんのアイデアは、「分離している内容(口が異様にとんがったたスネ夫)」に対する美的判断を、「描写内容(スネ夫。たぶん口はそんなにとんがっていない)」に対する判断として流用してOKというもの。

 

高田論文の議論を踏まえ、松永さんが書いた論文は、『フィルカル』で読める。

松永伸司(2016)「キャラクタは重なり合う」, 『フィルカル』, 1(2), 76-111.

  • 物語の中にいる「Dキャラクタ」と、それを演じている「Pキャラクタ」を区別する。前者が描写内容(そんなに口がとんがっていないスネ夫)に対応し、後者がうちに見る内容=分離している内容に対応する。
  • 松永さんのアイデアは、Dキャラクタが属する物語世界とは別に、Pキャラクタが属する「キャラクタ空間」を設定するというもの。ゆるキャラなどは、特定の物語世界にいないが、キャラクタ空間にいる。
  • 一方、キャラクタに対する美的判断については、高田論文に反対し、Pキャラクタにのみ帰属させる。すなわち、Pキャラクタに対する判断をDキャラクタに対する判断として流用する部分に反対している。

 

松永論文に対する高田さんの応答は以下。対立点の確認など。

 

より個別事例の批評に焦点を置いたものとしては、シノハラユウキさん(@sakstyleによるアニメ評論がある。

シノハラユウキ(2016)『フィクションは重なり合う: 分析美学からアニメ評論へ』.

ウォルトンごっこ遊び理論や、分離の議論などを引きながら、アニメ・小説作品を分析している。

 

VTuberのキャラクター構造を分析したものとして、ナンバさんの批評文。

「パーソン」「メディア・ペルソナ」「フィクショナルキャラクタ」という三層を指摘し、倫理的問題への接続を試みている。

ユリイカに再録されています。

難波優輝(2018)「バーチャルYouTuberの三つの身体––––パーソン、ペルソナ、キャラクタ」, 『ユリイカ 2018年7月号 特集=バーチャルYouTuber』, 青土社.

 

「描写の哲学」へようこそ!

以上、「描写の哲学」を概観してきた。

これを読んで「描写とか画像とか、面白いじゃん!」と思っていただけたなら、ぜひ来年の研究会にも遊びに来てください。ディスカッションがたっぷり二時間もあるので。

遅ればせながら、僕は「イメージを切り貼りするとなにがどうなるのか」と題し、コラージュやモンタージュによる描写について発表します。ちょっとした変わり種なので、どうぞご期待ください。

 

以下引用です🦉

2019年度「描写の哲学研究会」

日時:2020年1月25日(土)13:00–最長18:00(開場12:30)

場所:大妻女子大学 千代田キャンパス 大学校舎H棟 H215

主催:松永伸司

協力:森功

後援:フィルカル

参加費:無料

プログラム

13:00–13:10 趣旨説明など

13:10–14:00 銭清弘「イメージを切り貼りするとなにがどうなるのか」

14:10–15:00 難波優輝「これは人間ではない:キャラクタの画像の何がわるいのか」

15:10–16:00 村山正碩「描写内容と画像内容の差:エル・グレコからアボガド6まで」

16:10–18:00 ディスカッション

 

【2020/12/04追記:こちらの研究会をもとにした特集が、夏の『フィルカル』5(2)で組まれました。是非!】

 

 

参考文献(リンク載せていないもののみ)

  • Gombrich, E. H. (1960). Art and Illusion. Phaidon.
  • Goodman, Nelson (1968). Languages of Art. Bobbs-Merrill.
  • Wollheim, Richard (1980). Art and its Objects: With Six Supplementary Essays. Cambridge University Press.
  • Schier, Flint (1986). Deeper Into Pictures: An Essay on Pictorial Representation. Cambridge University Press.
  • Walton, Kendall L. (1990). Mimesis as Make-Believe: On the Foundations of the Representational Arts. Harvard University Press.
  • Lopes, Dominic (1996). Understanding Pictures. Oxford University Press.
  • Hopkins, Robert (1998). Picture, Image and Experience: A Philosophical Inquiry. Cambridge University Press.
  • Rollins, Mark (1999). Pictorial representation: When cognitive science meets aesthetics. Philosophical Psychology 12 (4):387 – 413.
  • Hyman, John, (2004). Realism and Relativism in the Theory of Art. Proceedings of the Aristotelian Society 105 (1): 25–53.
  • V. Kulvicki, John (2006). On Images: Their Structure and Content. Oxford University Press UK.
  • Kulvicki, John (2006). Pictorial representation. Philosophy Compass 1 (6):535–546.
  • Abell, Catharine (2007). Pictorial realism. Australasian Journal of Philosophy 85 (1):1 – 17.
  • Abell, Catharine (2009). Canny resemblance. Philosophical Review 118 (2):183-223.

 

更新履歴

2019/12/20 公開

2019/12/20 リンクなど追加

2020/12/04 表記や言葉づかいを修正、リンクなど追加

*1:「表象」という語は、「表象する」と言われるように、ある特定の関係を指すこともあれば、「AはBを表象する」という関係のうち、Aの側にあたる(すなわち表象をする側の)対象や出来事を指すこともある。以下で見る「描写」に関しても同様。ちょっとだけ煩雑だが悪しからず。

*2:「描写」の言い換えとして、「画像表象[pictorial representation]」という語も使われる。

*3:ところで、石や雲といった自然物のうちにも、それとは別の対象を見ることができる(月のクレーターのうちにうさぎを見る、とか)。このような、うちに見ることができて、しかし画像ではない事例について、ウォルハイムはおよそ「作者の意図」に訴えることで除外している。

*4:厳密に言えば、これは必要条件だが十分条件にはなっていない。うちに見る説と同じく、自然物もまた視覚的ごっこ遊びの小道具となりうる。ウォルトンは、「公式のごっこ遊び」と「非公式のごっこ遊び」を区別することで、作者の意図や鑑賞実践によって公的に指定されたごっこ遊びを持つことも、画像の条件としている。

*5:Lopes 1996はかなり重要文献。論文ノートについては以下。

*6:厳密に言えば、画像Pと画像P'は、一部の内容を共有する。カルヴィッキによれば、共有されるのはミニマルな「骨ダケ内容」であり、よりリッチな「肉ヅキ内容」は共有されない。例えば、画像P' は画像Pを内容として持つ(なんせ、画像Pの画像なのだから)が、画像Pは画像Pを内容として持つわけではない。

*7:前述のカルヴィッキが挙げる透明性とはほぼ関係ないが、カルヴィッキは関係あると思っている節もあり、ややこしい。

*8:最近だと、「Journal of Aesthetics and Art Criticism」のVolume 77, Issue 3にディスカッションが収録されていた。