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「画像表象とリアリズム」#5:スコット・ウォールデン「透明性と二要因による写真鑑賞」(2016)

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Walden, Scott (2016). Transparency and Two-Factor Photographic Appreciation. British Journal of Aesthetics 56 (1):33-51.

 

久々の「画像表象とリアリズム」。春休みの間は写真と関係ない論文ばかり読んでいたのですが、ぼちぼち修論執筆マシーンにシフトしていきたいです。

今回は、ケンダル・ウォルトンによる写真の「透明性テーゼ」を整理し、それよりも倹約的な説として「デフレな理解(deflationary understanding)」を導入する論文。ウォルトン論文については以下。

さすがにウォルトン論文から30年も経っただけあって、議論がだいぶ整理されているのが分かる。デジタル写真の台頭も踏まえ、射程の広い理論を目指している点は、近年ロペス、コステロアベルらが展開している「写真のニュー・セオリー」*1とも通ずるところがある。

 

要約はすでにツイートしていますので、先にスレッドを見ていただけると議論が追いやすいかと。本記事も飛ばし飛ばしでいきます。

1.イントロダクション

Walton 1984透明性テーゼ(transparency thesis)」:写真は透明なので、観者は写真を通して(実際に)対象を見ることができる。絵画など手製の画像は不透明なので、それができない。

ウォールデンによれば、「透明性テーゼ」は、4つのアイデアから構成されている。2つの根拠となる主張があり、それをテーゼへと結びつける橋渡しがさらに2つ。(1)(2)が主張、[3][4]が橋渡し。

(1)「自然依存テーゼ(natural-dependence thesis)」:写真は作者の信念が介入しないかたちで、機械的に画像を生み出す。被写体表面が変化すれば、それを撮影する写真も必然的に変化する。絵画は作者の信念に依存するので、機械的ではない。

(2)「結びつきの現象(contact phenomenon)」:写真の現象学的経験には即時性(immediacy)があり、観者は被写体とのあいだに特別な結びつきを経験する。このような特別なリアリズムは、手製の画像にはあまりない。

[3]「基礎テーゼ(grounding thesis)」:写真を通して対象を見るためには、作者の信念に依存しない仕方での視覚経験が必要である(=自然依存は透明性テーゼの必要条件である)*2

[4]「知覚的結びつきテーゼ(perception-contact thesis)」:視覚を含む「知覚する」ということは、一般的に、対象となんらかの結びつき(contact)を持つことであり、知覚された対象に対して親密(intimate)になることである。

 

これを整理すると、ウォルトンの主張は「中核の主張」と「補助的な主張」に分けられる。

  • 「中核の主張(central argument)」:[4]-「実際に見る」ことは対象との結びつきの感覚(sense of contact)を生じさせ、(2)-「写真を通して見る」こともまた対象との結びつきの感覚を生じさせる。どちらも結びつきの感覚を生じさせるのであれば、「写真を通して見る」ことは「実際に見る」ことの同類なのではないか。すなわち、我々には写真が透明であると信じるだけの理由がある
  • 「補助的な主張(auxiliary argument)」:「実際に見る」ことと「写真を通して見る」ことの共通点とはなにか。(1)&[3]-それはいずれも自然依存に基づいている点であり、両者は同じ知覚的な自然種(natural kind)に属すると考えられるから。

 

透明性テーゼに対する批判者たち(Currie 1995、Warburton 1988、Cohen & Meskin 2004)の多くは、「実際に見る」ために必要な条件を提示し、「写真を通して見る」はその必要条件を満たしていないと主張する。

このような批判はうまくいかない、とウォールデンは考える。一つには、これで叩けたとしても、せいぜい「補助的な主張」の方であり、「中核の主張」自体を否定できるわけではない*3

また、「見ること(seeing)」の概念分析に終始するのはナンセンス。Walton 2007にもある通り、美学はお互いの直観をぶつけ合ってわちゃわちゃするより、経験を現象として説明できるような理論構築を目指すべき。このような方法論において、ウォールデンはウォルトンを支持する。

 

よって、ウォールデンはウォルトンの「中核の主張」の方に目を向け、これを叩く。

「実際に見る」ことと「結びつきの感覚」の関係をどう考えるかによって、ウォルトンの主張は二通りに解釈ができる。

  • 例証:「実際に見る」ことは、「結びつきの感覚」が生じるための必要条件である。「実際に見る」ことなしに「結びつきの感覚」が生じることはできないので、(結びつきの感覚が生じている)「写真を通して見る」ことは、「実際に見る」ことの同種であることが導かれる。
  • 推論:「実際に見る」ことは、「結びつきの感覚」が生じるための十分条件である。「写真を通して見る」ことからも結びつきの感覚が生じているのは、「実際に見る」ことと同種だから、というのが最良の説明として推論される。

必要条件として考える場合、誤った前提があるので、それを指摘する(第2節)。

十分条件として考える場合、より良い説明を与えることで、「透明性テーゼ」は最良の説明ではない、ということを示す(第3節)。

 

2.中核の主張を「必要条件」で解釈する

  1. 「実際に見る」ことは「結びつきの感覚」にとっての必要条件である
  2. ゆえに、「結びつきの感覚」が生じるのは「実際に見る」ことの十分条件である
  3. 「写真を通して見る」ことは「結びつきの感覚」を生じさせる
  4. ゆえに「写真を通して見る」ことは、「実際に見る」ことである;写真は透明である

この例証において、1~2には誤りが含まれている。

反例:ウォルトンによれば絵画は「不透明」なので、実際に見ているわけではない。しかし、めちゃ写実的なスーパーリアリズム絵画を見れば、観者はそこに「結びつきの感覚」を生じさせるだろう。つまり、絵画であっても「結びつきの感覚」は生じる*4

絵画から「結びつきの感覚」のようなものが生じてしまう、という問題について、ウォルトンはなにかしら説明を加えなければならない。

 

ウォルトンによる説明は、「錯覚(illusion)」に訴えるというもの。

  • 始めは写真だと思っていたスーパーリアリズム絵画が、実は絵だということを発見すると、観者は衝撃(jolt)をうける。「クロースの写真を通してクロースを見ている」かと思いきや、実は見ていなかったことが分かる一方で、画像が依然として写真のように見えることは変化せず、ここに錯覚が生じる。

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チャック・クロースのスーパーリアリズム絵画
  • これは「長さが同じだと分かっても、依然として違うように見えてしまう」ミュラーリヤー錯視と同じ。観者の知識および信念が変化しても、現象は変わらない。
  • つまり、スーパーリアリズム絵画が与えるのは、錯覚としての「"結びつきの感覚"」であり、「"実際に見ている"」かのような錯覚である、と主張することで、ウォルトンは批判を回避する。絵画は真の「結びつきの感覚」を与えず、写真は与えると言える。

 

しかし、ウォルトンの応答はアドホックに思われる。すなわち、批判を回避するために、後付けで「錯覚」を導入するのは無理筋なのでは? リトマス紙で青と出たのに、酸性だと主張したいがために「みんな錯覚で青に見えているだけ」と言っているようなもの?

また、現代においては画像加工ソフトなど、写真の自然依存を毀損するような技術があちこちで使われている。これらの画像経験に対して、広範な錯覚(widespread illusion)に訴えるのは、うまくいきそうにない。我々はどう考えても、騙されまくっているわけではない。

そもそも、ある種の絵画が与える「結びつきの感覚」は、錯覚などではなく本物のように思われる。絵画は「不透明」であるにもかかわらず「結びつきの感覚」を与える、という点から考えるべき。

➡やはり、ウォルトンの中核の主張を「必要条件」として考えることは難しい

 

3.中核の主張を「十分条件」で解釈する

  1. 「実際に見る」ことは「結びつきの感覚」にとっての十分条件である
  2. 「写真を通して見る」ことは「結びつきの感覚」を生じさせる
  3. ゆえに「写真を通して見る」ことは、「実際に見る」ことである;写真は透明である(と考えても問題ない)

この推論自体はとくに問題ないのだが、十分条件である限り、「写真は透明ではない」と考えて“も”いい*5

すなわち、「透明性テーゼ」よりもシンプルで、より幅広い説明に使えるものがあれば、「透明性テーゼ」を採用する必要はない

 

「結びつきの感覚」は、典型的に写真から生じ、絵画からは生じない。まずはこのことを、「透明性テーゼ」に訴えることなく説明できなければならない。

ウォールデンは「類似性(similarity)」に訴える。

  • 画像表象(🐶)と言語表象(「犬」)はいずれも対象を表象するが、前者はなにかしらのかたちで対象との間に類似性を持っている。これはひとまず画像表象の特徴と言えよう。
  • 結びつきの経験をもたらすのは、より対象と類似した網膜刺激を与える画像なのではないか*6。すなわち、「結びつきの感覚」は、つまるところ写真が対象と「めちゃ似ている」から、単に写実的だから生じるのではないか。
  • このことは、写実的な部分と抽象的な部分を同時に含む画像が良い例になる。

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ピカソによる自身の肖像画とともに写るガートルード・スタインの写真(1930)。論文より抜粋。
  • 左下にいるスタインの写真から「結びつきの感覚」が生じ、右上にあるスタインの絵画からは生じないのは、つまるところ写真のほうがスタインに似ているから。

 

「結びつきの感覚」に関する類似説は、画像の出自(自然依存かどうか)に訴えず、そのような出自に関する(観者の)知識および信念の有無にも訴えない。

類似説に訴える限り、スーパーリアリズム絵画から「結びつきの感覚」が生じるのは当然であって、問題にならない。ウォルトンのように「錯覚」を導入して無理する必要はない。

ウォールデンは自説を「画像的結びつきに関するデフレな理解(deflationary understanding of pictorial contact)」と呼ぶ。

また、「デフレな理解」は写真と絵画の違いを説明するために、自然依存テーゼに訴えること“も”できる。両者は排除しあうものではない。「透明性テーゼ」にとって自然依存は不可欠だが、「デフレな理解」においては、実利的な目的に合わせて使っても使わなくてもいい。これによって、「デフレな理解」は「透明性テーゼ」よりも広い射程を持ちうる

 

さて、「デフレな理解」は自然依存の有無に訴えない。であるならば、別の問題として、次のことを説明しなければならない。

  • デジタル写真の時代においては、「結びつきの感覚」を弱めるような画像修正も存在する。例えば、画像の色を反転させると、「結びつきの感覚」は薄れるように思われる。

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色を反転させたガートルード・スタイン。論文より抜粋。
  • 一方で、白黒だったり、ピントのあっていない写真からは、ある程度「結びつきの感覚」を得られる。「結びつきの感覚」を毀損する歪みと、そうでない歪みの違いはなにか?
  • 「透明性テーゼ」であれば、自然依存の有無に訴えることで、ある程度説明できる。すなわち、白黒やピンぼけは自然依存をキープし、色反転は修正した人の信念依存である、みたいな。「デフレな理解」はどう説明する?

 

ウォールデンは、必要条件としての「類似性」に例外を設けることで、問題を解決する。

  • 白黒やピンぼけといった歪みは、我々にとってありふれた(familiar)歪みである。暗い場所で桿体細胞を用いる際には実質モノクロの世界だし、乱視状態は実質ピンぼけの状態に当たる。
  • 一方で、色が反転するような状況は、日常生活ではほとんどありえない。
  • 前者のような歪みに限り、写真が生じさせる「結びつきの感覚」は毀損されない。そのような歪んだ知覚経験が、観者にとってありふれた経験だから。
  • ほかの例として様々なエフェクトを検討している。「ocean ripple(水中っぽい歪みを加える)」はセーフ、「add noise(デジタルなノイズを加える)」はアウト*7

 

さて、画像表象の類似説に対しては様々な反論がある。「どこが類似していればいいのか」「どれだけ類似していればいいのか」「似てるかどうかは考え方次第じゃね?」etc...

ただし、本稿は画像表象の仕組みを説明したいのではなく、あくまでも「デフレな理解」を通して写真実践を説明するもの。(その限りで類似説に訴えるので、「類似」の詳細には踏み込まない、ということ)

➡以上より、「デフレな理解」には「透明性テーゼ」以上の理論的メリット(シンプルで倹約的、より多くの現象を説明できる)があると言える。

 

4.認識論的検討と「二要因」によるアプローチ

さて「デフレな理解」は、つまるところ画像表面の「しるし(marks)」 が「結びつきの感覚」をもたらすのだと考える。

であれば、写真の出自に関する知識の変化が、画像経験の変化をもたらす、ということを、いかにして説明するのか?(背景知識が変化しても、しるしが変化しなければ、画像経験は変わらないはずでは??)

すなわち、認識論的な問題を検討しなければならない。これは、ウォルトン論文でも十分に検討されていない問題。

 

ウォールデンはAbell 2010、Hopkins 2012を通して、写真の認識論的価値を検討する。

  • いずれの論者も、写真の認識論的な価値が、なんらかのしかたでその自然依存的な出自に由来していると考える。ウォールデンもおおむねこれに従う。
  • その上で、Hopkins 2012は、写真メディアにおける「規範(norms)」を指摘する:伝統的な写真プロセスは、適切に機能している限り、被写体についての叙実的(factive)な画像経験を観者に与えるものである*8

➡ここから導かれるのは、「写真であれば、そこに写っている事物は現実のものだろう」という二階の信念(second-oder beliefs)が、一階の知覚的信念を保証する(warrant)というシナリオ*9

 

すなわち、①「結びつきの感覚」は画像の「しるし」に依存し、知識には左右されない一方で、②「認識論的価値」は、画像の出自に関する二階の信念に左右されるという、2つの側面が写真経験には指摘できる*10

 

ウォルトンは、知識の変化によって「結びつきの感覚」が絶たれることからスーパーリアリズム絵画の正体発覚時に「衝撃」が生じると説明するが、ウォールデンは上記の二要因(two-factor)から、別様の説明を行う。

  • 知識の変化によって、「結びつきの感覚」が消滅することはない。これは、クロースのスーパーリアリズム絵画の例からも明らか。ここで知覚的要因(画像の「しるし」)は不変であるため、知識獲得の前後で「結びつきの感覚」は変化しない。
  • 一方で、認識的要因(画像の出自についての二階の信念)がある。かつて、一階の知覚的信念(クロースがこちらを見ている)を保証していた二階の信念(写真だから信用できるはず)が、実は違った(絵画だから信用できないはず)のが発覚する。
  • 知覚的要因は恒常性を保とうとするが、認識的要因はそれを否定するため、ここに不調和(dissonance)状態が生じる。これこそ、スーパーリアリズム絵画の正体発覚時に生じる感覚の正体。(やはり、ウォルトンのように「錯覚」に訴える必要はない)
  • ウォルトン説との違いは、以下の例によって際立つ。スーパーリアリズム絵画の正体発覚とは、真逆の例として、レンブラントフェルメールらが実は鏡の補助を用いてトレースしていたという話*11
  • ウォルトン説に則るならば、この場合「結びつきの感覚」が増加しないとおかしい。しかし、そのような知識の獲得によって対象との「結びつきの感覚」が増すようには思われない。

 

5.「二要因」によるアプローチの応用

最後に「二要因」によるアプローチを用いて、芸術写真の鑑賞を考えてみる*12

デュシャンの《泉》やDanto 1980(松尾大訳『ありふれたものの変容:芸術の哲学』慶應義塾大学出版会2017)の議論をはじめ、現代芸術は「日常的な事物を、知覚的要素としてはそのままで、異なるコンテクストに置く」ということをやってきた。

すなわち、知覚的要因だけではなく、認識的要因が芸術鑑賞においても重要となる。

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Walker Evans, Sharecropper Bud Fields and his Family at Home, Hale County, Alabama (1936)。論文より抜粋。

鑑賞においては、「結びつきの感覚」と「認識論的価値」がともに組み合わさる。「ベッドの足元にある黒い影は、床のシミではなく、痩せこけた猫であり、自然依存の写真はそれを確かに捉えている」みたいな具合に。

 

✂ コメント&感想

写真の認識論的価値について。

先日、『フィルカル』誌に載せていただいた拙稿で、「虚構的な透明性」という議論をしている。

デジタル時代において出会うたいていの画像は、写真なのか絵なのか修正されているか否かがわからない画像(=「身元不明な画像」)であるにもかかわらず、おおむね問題なく運用されているのはなぜか、という問題を扱った。詳しくは買って読んでいただけると😆🍻🎉です。

その中で、スーパーリアリズム絵画の経験を取り上げたが、僕の説明は「スーパーリアリズム絵画は透明ではないが、虚構的に透明だとみなされる」というもの。知覚と認識における不調和から、ある種の感覚(ウォルトンが言うところの「衝撃」)が生じるというのは、ウォールデンの説明(認識を左右する「二階の信念」と、知覚を左右する「類似性」)とも重なる部分がある。

ただし、認識の源泉とされている「二階の信念」(僕の場合「虚構的な透明性」)に対しては、それ自体がどこに由来するのかを考えなければならない。僕は、ぼんやりと「三階の信念」を想像している。すなわち、「[三階]ここは東京都写真美術館なのだから、目の前にある画像は写真に違いない➡[二階]写真であるならば、そこに写っている出来事は現実のものに違いない➡[一階:判断]写真に写ったしかじかの人がしかじかの行為をしていた」というステップが必要。そして、「三階の信念」は、観者の経験やら鑑賞の状況に対して相対的。

もっとも、信念の正当化うんぬんについては、原理的にキリがない*13。四階、五階と言っているうちに高層マンションができ上がってしまうので、なにか別のアプローチを取りたいところ。

 

そもそも日常的な写真実践は、そこまで複雑な信念正当化のプロセスを踏んでいるというよりも、なんとなくの直観による無思慮なものなのではないか、とも思っている。すなわち、カエルがBB弾をハエだと思って舌でキャッチするのと同様に、我々も「写真っぽい画像」を「写真」として扱っているだけなのではないか。

そうなってくると、ウォールデンの擁護する「類似性」は改めて重要なものになるのではないか。アフォーダンスの原理については要勉強だが、ある種の類似性が画像経験においては柱となるように思われる。近年のアップデートされた類似説(Abell 2009など)についても、読んでみよう。

ニンゲンは複雑な文化体系を持っているように見えて、実は結構いい加減なのではないか。最近はどんどんと露悪的な論調に染まりつつあるので、そちらも修論には織り込んでいきたい。

 

*1:

*2:これは化学とのアナロジーにおいて、「特定の分子による運動エネルギーは、特定の温度であるための必要条件」みたいなもの、らしい。透明性は自然依存に基づき(be grounded in)、温度は分子エネルギーに基づく。

*3:「写真は(写真家の選択や、修正加工によって)自然的依存を満たしていない」とか、「通時的に変化するという必要条件を、写真を通して見ることは満たしていない」みたいな仕方での批判は、いずれにせよ「写真を通して見ることと直接見ることは、いずれも結びつきの感覚を生じさせる(=中核の主張)」を否定できるわけではない。

*4:絵画(=「実際に見る」ではない)からも「結びつきの感覚」が生じるのであれば、「実際に見る」ことは「結びつきの感覚」にとっての必要条件ではない!

*5:つまり、「写真を通して見ることで実際に見ている➡実際に見ていれば結びつきの感覚が生じる➡だから写真から結びつきの感覚が生じる」という説明のうち、最初のものを採用しなくても、別の仕方で「写真から結びつきの感覚が生じる」ことを説明できるはずだ、ということ。

*6:この辺り、「対象と画像の類似性」ではなく、「対象の経験と画像の経験の類似性」に訴えるタイプのように思われる?

*7:ところどころウォールデン本人の体感で喋っている部分があり、いかがなものかとは思う。

*8:「叙実性(factivity)」に関するホプキンスの議論はやや入り組んでいるため、ここでは割愛。Hopkins 2012も重要な論文なので、いずれまた取り上げたい。

*9:厳密にそうだとは言っていないが、ここで言われている「二階の信念」(写真であれば信用できるはずだし、絵画であれば信用できないはずだ)というのは、ほとんど慣習的なもののように思われる。これは「写真のニューセオリー」派が写真の認識論的価値について社会規範に訴える、という戦略とおおむねパラレルなものではないだろうか。

*10:もちろん、Pettersson 2011のように、「結びつきの感覚」と「認識論的価値」が不可分であり、相互に結びついていると考える論者もいるが、ウォールデンはひとまず両者を切り離して議論できると考えているらしい。

*11:Hockney 2001というのが唱えている説らしいが、真偽不明。いずれにせよ、「信念依存」かと思いきや「自然依存」の側面があることを知ったという、スーパーリアリズム絵画とは逆の事例。

*12:この章はだいぶ短く、議論も荒いので、話半分に読んでいただければよいかと思う。

*13:また、ここで「三階の信念」を形成するさい「類似性」が噛んでいるように思われてならない。すなわち、知覚と認識は、やはり切り離せないのではないか(当たり前?)。