レジュメ|キャサリン・エイベル「ジャンル、解釈、評価」(2015)

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Abell, Catharine. (2015). Genre, Interpretation and Evaluation. Proceedings of the Aristotelian Society, 115, New Series, 25-40.[PDF]

 

最近わりと関心のある「ジャンル[genre]」論。

『The Routledge Companion to Philosophy and Film』の項目はだいぶ入門的な内容だったので、もうちょっと突っ込んだ話をしているエイベル論文を読んだ。節題は私のつけたものです。

1.ジャンルが解釈と評価に与える効果

一般的に言って、作品があるカテゴリーに属することは、その解釈と評価に影響する。

解釈においてジャンルは、

  1. 作品のどの部分を表象的に関与的[representationally relevant]かを左右する:映画において俳優が歌いだしたとして、演じられているキャラクターは歌っていることになるのか。〈メロドラマ〉なら歌っているだろうし、〈ミュージカル〉なら歌っていない見込みが高い。肖像画で顔のパーツがなしている空間的位置関係は、〈写実的な肖像画〉なら関与的だろうし、〈キュビズム〉なら関与的でない見込みが高い。*1

  2. 表象的に関与的な特徴を、どう解釈するかを左右する:「彼女はよろこんで心臓を捧げた」は、〈SF〉だと文字通り心臓を提供した見込みが高く、〈ロマンス〉だと恋に落ちたことの隠喩である見込みが高い。
  3. 暗示的[implicitly]に表象される事柄を左右する:長いひげと杖を持った老人は、〈リアリズム文学〉だとその通りの老人でしかない見込みが高いが、〈ファンタジー〉だと魔法使いであることを暗示している見込みが高い。

 ジャンルは評価にも影響する。まず、解釈に影響するのだから、間接的に評価にも影響する。また、解釈が固定されていても、次のような点で影響する。

  • 笑えることは〈コメディ〉にとって利点であり、〈ホラー〉にとっては欠点である。矛盾を含むことは〈メロドラマ〉にとって欠点だが、〈ファンタジー〉にとってはそうとは限らない。
  • 作品はジャンルものとしても評価される。「良い〈ホラー映画〉である/〈悪いホラー〉映画である」
  • ジャンル自体が評価されることもある:「悲劇はメロドラマより優れている」「ホラーはくだらん」など。

 

2.ジャンルに関する説明要件

エイベルはジャンルに関する説明要件を4つ挙げている。

  1. ジャンルには歴史がある:どの特徴がそのジャンルにおいて関与的かは、制作された時代による。初期ホラーといえば「狂人、悪の医者、ヴァンパイア」、90年代ホラーは「サイコ・キラー」、現代ホラーなら「世界的な細菌戦争」など。
  2. ジャンルはメディアをまたぐ:ホラー映画、ホラー小説、ホラーコミックなど。
  3. 個別の作品は複数のジャンルに属しうる:ミュージカルかつコメディの映画、ホラーかつSFの小説など。また、西部劇でもスペース・オペラでもないかわりに、ハイブリッドジャンルである〈スペース・ウェスタン〉の作品もある。
  4. ジャンルには階層がある:〈犯罪もの〉のなかに〈警察もの〉〈ノワール〉〈法廷もの〉〈探偵もの〉などのサブジャンルが含まれる。ジャンルの階層は無限に細分化できるわけではなく、〈ハンフリー・ボガート主演のハードボイルド探偵もの〉みたいなカテゴリーは解釈的・批評的重要性をほとんど持たない点で、サブジャンルとは言いがたい。

ジャンルの定義は、こういった説明要件をカバーできるような定義でなければならない。

 

3.ジャンルに関するカリー説

続いて、グレゴリー・カリー[Gregory Currie](エイベルの先生)の定義をたたく。

Currie (2004)によれば、ジャンルは一連の特徴や性質によって決定される。どんな性質のセットでもジャンルを形成しうるので、潜在的には無数のジャンルがあることになる。が、このうち、「ジャンルに特徴的な性質群の一部を持つならば、同ジャンルの性質を他にも持つだろう」と期待[expectation]されるカテゴリーのみが、ジャンルとなる。

カリーにおいて、ジャンルが解釈上の重要性を持つのは、それが「ジャンルに基づいた含み[genre-based implicatures]」をもたらすから。〈ファンタジー〉ジャンルのおかげで長いひげと杖を持った老人は魔法使いだと推定できる、みたいな。

また、ジャンルものの評価は同ジャンルの他作品との比較においてなされるし、ジャンル自体の評価はそれに属する個別作品たちの評価によってなされる、とカリーは考えている。すなわち、ジャンルのもろもろは個別作品に依存しており、ジャンルによる分類は(規範的というよりも)記述的[descriptive]である、というのがカリーの立場になる。

エイベルによれば、カリー説の問題点は以下。

  1. ジャンルに関する期待から「ジャンルに基づいた含み」が生じる、というのが定かでない:〈ロマンス〉はハッピーエンドだろうと期待される。実際にはハッピーかもしれないしバッドかもしれないし、明示せずに終わる。ここで、明示されてない場合に、「〈ロマンス〉だからハッピーだろう」という期待を、「ハッピーエンドなのだ」という暗示的な物語内容とみなすことはできない。すなわち、ジャンルに関する期待がありつつ、ジャンルに基づいた含みが生じないケースがある。
  2. ジャンルの変化について説明しづらい:カリーによれば、異なるセットの性質集合は、因果的に結びついている限りで同じジャンルが連続している。しかし、これだとジャンル間の影響関係をぜんぶ変化で説明してしまう。〈フィルム・ノワール〉は〈ドイツ表現主義〉から影響されているが、連続したひとつのジャンルではない。
  3. ジャンルの特徴はメディアによってさまざまであることを説明しづらい:感情を表すような照明は〈フィルム・ノワール〉の特徴だが、〈ノワール文学〉の特徴ではない。両者が同じ〈ノワール〉に属すると言うためには、カリーは共通の特徴をかなり抽象化するしかない(「どんよりした感情的トーン」みたいな)。しかしこれだと、共通の特徴がジャンルごとに異なる効果をもたらす、みたいなのを説明できない。暗い照明が、〈フィルム・ノワール〉だとダウナーな印象をもたらし、〈ホラー〉だと恐怖をもたらす。

 

4.ジャンルに関するエイベル説

代替案として、エイベル自身の定義が出される。

  • ジャンルの定義:ジャンルとは、作品が制作され鑑賞される目的によって決定される作品カテゴリーであり、その目的を追求するための手段は、制作者と鑑賞者の共通知識(「当の作品群はその目的のために制作され、鑑賞されるものである」)に、少なくとも部分的に依存する。
  • ジャンル所属の条件:作品があるジャンルに属するのは以下のときかつそのときに限る。作品は、そのジャンルに特徴的な目的を特定の手段で実行することを意図して制作されており、かつ、これらの手段は、仮にそれらによって作品が当の目的を果たせるのだとすれば、それは部分的には制作者と鑑賞者の共通知識(「当の目的のために制作され、評価されるべきものである」)のおかげであるような手段である。(p.32)

中心をなすのは、「目的[purposes]」と「共通知識[common knowledges]」である。

あらゆるジャンルは広い意味での目的を持つ。コメディは笑わせること、ホラーは怖がらせること、ミステリーは誰がやったのか気になるサスペンスをもたらすこと。これは、ある種の効果をもたらすジャンルに限られない。SFは論理的に一貫した別世界を記述することを目的とするといえる。

共通知識に関しては、

  • どのような経路で得られるものでもよい:作品の特徴をもとに察するかもしれないし、作品外の情報(本屋で置いてある棚、映画の広告)から形成されるかもしれない。
  • 作者の目的がすべて共通知識になるわけではない:批評家にウケたい、家賃を払いたい、といった目的は、その達成に関して鑑賞者との共有を必要としない。むしろ、このような目的は、共通知識となるせいで達成しにくくなるかもしれない。一方、ジャンルの目的は、共通知識のおかげで達成されうる。
  • 共通知識とは、ある事柄に関して互いに知っているというだけでなく、互いに知っているということを互いに知っており、そのことも互いに知っており……という仕方で共有されている知識。「コメディは笑わせることを目的とする」というのを、作者が狙っていることを観客が知っていることを作者は知っている。
  • 共通知識がなければ目的を達成できないわけではない:笑えないコメディもあれば、笑える非コメディもある。が、笑えるコメディだとしたら、すなわち笑わせるというコメディの目的を達成していたとしたら、部分的には〈コメディ〉に関する共通知識のおかげである。*2

ジャンルへの所属が解釈に影響するのは、会話の目的に関する共通知識が発言の解釈を助けるのと似ている。Grice (1975)の「会話における協調[conversational cooperation]」によれば、会話の目的が共通知識として共有されていることは、話者の意味を特定するのを助けてくれる。会話に関する共通知識が会話コミュニケーションを助けるのと同様、芸術作品の目的に関する共有知識は芸術コミュニケーションを助ける。

Sperber and Wilson (1986)によれば、会話とは関連性のある情報のやりとりである。これが共通知識として共有されているならば、相手が意味不明なことを言ったとしても、関連性のあることを述べているはずだ、ということで推定できる。カリーの「ジャンルに基づいた含み」も、これでカバーできる。

 

これはジャンルに関する意図主義的説明だが、「ジャンル所属による解釈的・評価的効果」までもが作者によって意図される必要はない。
「この老人は魔法使いである」ということを作者が直接意図せずとも、ファンタジーにおいてしかじかの特徴の老人を描いている限り、ファンタジーの目的に関して共通知識を共有している読者は、「この老人は魔法使いである」と解釈する。この解釈は、作者の直接的な意図がなくとも正当化されうる。*3

 

ジャンル所属が評価にも影響するのは、作品の良し悪しがそのジャンルものとしての良し悪しとしても測られるから。ジャンルは規範的[normative]であり、ある作品がどのジャンルに属するか述べることは、その作品がどのような目的を果たすべきか述べることに等しい。

ジャンル自体の評価は、個別作品の評価ではなく、ジャンルごとに特徴的な目的に関する評価となる。「怖がらせる」という目的自体が無意味なので、〈ホラー〉はくだらない、みたいな。

あとはウィニングランとして、説明要件をそれぞれチェック。

  1. ジャンルには歴史がある:ジャンルの目的達成手段として、慣習的に固まった手段が変化していくから。ジャンル慣習の変化をもたらすのは、①マンネリ化(そろそろ別の手段を使ってみよう)、②テクノロジーや社会規範などの外的要因(禁じられてきた手段が使えるようになった)。
  2. ジャンルはメディアをまたぐ:ジャンルの目的は、メディアに限定されることなく達成されうるから。手段はもちろんメディアごとに異なる。
  3. 個別の作品は複数のジャンルに属しうる:目的が複数あるから。互いの目的を調整しあうような複数ジャンルの場合には、ハイブリッドジャンルとなる。
  4. ジャンルには階層がある:目的自体が階層的だから。

 

✂ コメント

相変わらずグライスっ子なのが微笑ましい論文だった。どうも「グライスを使って美学やろう」というのがエイベルのプロジェクトというか、基本路線らしい。カリーもフィクション論でグライス使う人なので、影響関係が分かりやすくてよい(ゼミとかで読むんだろうな)。

私が気になるのは、ジャンル所属の要件だ。まず、特徴ベースのカリー説より、目的ベースのほうがよいというのは説得的だろう。思うに、ここで言われている共通知識は、微修正すればいわゆる制度説になるのではないか。だが、そうなると、意図なしでもやっていける気がする。意図は、「めっちゃ笑える非コメディ作品」や「まったく笑えないコメディ作品」をカバーするためのアイテムだろうと予想するが、その辺も制度がどうにか振り分けてくれるか、どうにもならないんだったら、めっちゃ笑えるものは意図に反してコメディであるし、まったく笑えないものは意図に反してコメディではない、で不都合ない気もする。いずれも、気がするだけで詳細なコメントはできないが。

ジャンル含むカテゴリーが、意図に関わらずある種の集団的取り決めとして決まる、というのは直観的にも実践的にもそうだと思うのだが、どうだろうか。エイベルは、芸術の定義やフィクション論でも制度説を推していて、その点でも考えていることはそんなに相違しないはず(どちらも読んでいない)。

この話題に限らず、制度説が盛り上がっていく機運を感じるなどした。とりあえず生協でグァラを買ってきた。

あと、ジャンルにも関わるが、批評・評価・カテゴリーあたりの話を5月の応用哲学会で発表する予定だ。こうご期待。

*1:描写理論でもそうだが、エイベルは「描かれている」「表象されている」を、what is said的なレベルよりも語用論的なレベルで考えている(スネ夫のイラストは口が異常にとんがった人物を"描いていない"、と言いたい)。いつもの話なので割愛するが、言葉上の問題として、私はこういう仕方で「描かれている」「表象されている」を用いるのに賛同していない(スネ夫のイラストは口が異常にとんがった人物を"描いている"、と言いたい)。村山さん論文へのコメントなどを参照。

*2:笑えないコメディや笑える非コメディをカバーするために、エイベルは意図主義にコミットしている。あるジャンルXが意図されており、かつもしその映画がXの目的を達成するとしたら、それはXの目的に関する共通知識のおかげである、という定義。笑えないコメディもこの限りで〈コメディ〉に属するし、笑える非コメディは意図されていない点ではじける。

*3:エイベルは「別世界を論理的に描くという目的を意図しつつ、その結果として、ファンタジーを生み出した小説家」として例示しているが、ここがよく分かっていなくて混乱している。「別世界を論理的に描く」という目的は、前述の箇所だと〈SF〉の目的であり、〈ファンタジー〉の目的ではなかったからだ。これは、単にエイベルが書き間違えているのか、あるいは「SF目的を意図して書いたが、ファンタジーになった」というケースがあることを認めているのかわからない。後者を認めるなら、より許容的な意図主義ということになるが、上の定義でどうカバーされているのか読みとれない(意図されていないなら、どうにしても〈ファンタジー〉には所属しえないのでは)。