ホラーとはなにか|ノエル・キャロル『ホラーの哲学』、ジャンル定義論、不気味論

ノエル・キャロル『ホラーの哲学』の邦訳が出版され、訳者の高田敦史さん(@at_akada_phi)より一冊ご恵贈いただきました。ありがとうございます。大好きな本がまたひとつ日本語で読めるようになったということでたいへんうれしいです。内容としてもキャッチーで面白いので飛ぶように売れてほしいところですね。

ラージャンルについての理解が深まるだけでなく、一般的に分析美学や、あるジャンルを哲学的に論じていくやり方について学べるよい本です。個人的には、ブログに載せたRed Velvet論や『ユリイカ』に書いたビリー・アイリッシュ論でも批評のとっかかりとして役立った本なので、「批評に使える分析美学」のレアな一例かもしれません。

かいつまんで論旨を確認した後、個人的に気になるふたつの論点についてかるく解説しましょう。ひとつはジャンル定義におけるキャロルのスタンスについて、もうひとつはより近年の展開としての「不気味なもの」論について。

危険で不浄なモンスター

キャロルは悲劇に関するアリストテレス詩学に触発されていて、主には、(1)ホラー作品が典型的に喚起する特別な感情を特定し、(2)それを喚起するためにホラー作品が採用しがちな手段(キャラクターやプロットなど)を特定する、という二段階の課題に取り組んでいる*1。その上で、(3)フィクションのパラドックス(現実じゃないのになぜ感情を抱くのか)、(4)ホラーのパラドックス(怖いのになぜ見ようとするのか)といった哲学的問いに答え、ついでに、(5)いつどういうときになぜホラーが流行るのかといった社会学的問題にも触れている。

 

キャロルは、ある種の情動喚起を意図されていることから、ホラーを定義する。ここで、「ホラー作品に喚起される感情って、そりゃ恐怖でしょ」というのは容易だが、キャロルの説明はもうひと捻り加えられている。

わたしが、何らかのモンスターX、例えばドラキュラによって顕在的にアートホラーをいだくのは、次の場合でありかつ次の場合にかぎられる。(1)わたしは何らかの異常な身体的興奮(震え、ぞくぞくすること、叫びなど)を感覚する状態にある。(2)それは次のような思考によって引き起こされている──(a)ドラキュラは存在することが可能である。また次のような評価的思考によって引き起こされている──(b)ドラキュラはフィクションで描かれている仕方で身体的に(おそらく道徳的にも社会的にも)危険であるという性質をもっている。(c)ドラキュラは不浄であるという性質をもっている。(3)この際、通常これらの思考にはドラキュラのようなものに触れることを避けたいという欲求が伴っている。(高田訳 p. 67, 原著 p. 27)

「アートホラー」というテクニカルタームはちょっとややこしい。キャロルにおいてこの語は、(1)ジャンルとしてのホラーのうちある種のものをカバーするサブグループの呼称と、(2)そういった作品たちが喚起する特殊な感情の呼称という、ふたつの役割を担っている(第1章の訳注1を参照)。上の定義に出てくる「アートホラー」は、(2)の意味で使われている。*2

ディテールは脇に置くとして、重要なのは、キャロルがモンスターの危険さだけでなく、不浄さを強調している点だ。死んでるのか生きているのか、人間なのか狼なのか、生物なのかロボットなのか不確かだったり、バラバラで不完全だったり、ドロドロの不定形だったりするものを、キャロルはメアリー・ダグラスの文化人類学を引きつつ「不浄[impure]」なものと呼ぶ。不浄な対象は、われわれが通常もっている事物のカテゴリーを逸脱したり、違反したり、混合させており、端的に言えば「キモイ」のだ。

(👆昔つくったスライド)

ホラーのモンスターは、攻撃してきてアブナイだけでなく、その存在のあり方自体がキモイもの、嫌悪感[disgust]を抱かせるものとして提示される*3。こういったモンスターおよびそれが活躍(?)するストーリーを設計し、鑑賞者に上述の「アートホラー」感情を抱かせるよう意図されている作品こそが、ホラー作品だということになる。

 

定義と反例と範例

キャロルの定義に対し、「モンスターが出てこないホラーだってあるだろう」「危険だが不浄ではないモンスター/不浄だが危険ではないモンスター/危険でも不浄でもないモンスターしか出てこないホラーだってあるだろう」「危険で不浄なモンスターが出てくる非ホラーだってあるだろう」といった反論・反例がぎょうさん提出されてきた*4

こういった反例による反論は、実際のところ、あまり盛り上がりようがない。たとえば、Brian Laetzは「危険だが不浄ではないモンスターしか出てこないホラー」としてデヴィッド・クローネンバーグの『スキャナーズ』(1981)を挙げている。念じるだけで人の頭を爆発させることもできる超能力をもった「スキャナー」たちは、危険だが、不浄とは限らない。特に、悪のスキャナーと戦うことになる主人公サイドのスキャナーに対し、鑑賞者が嫌悪感を抱くというのは変だ。

こういった反例を挙げられても扱いに困るのは、以下のような事情による。

  • 実際のところ、それが反例なのかどうかは見方の問題かもしれない。キャロルは、主人公サイドのスキャナーに関してもその描かれ方は不浄なもののそれであり、鑑賞者は嫌悪感を抱くことになると、正面から応答している。リーツは更に真正面から、それでは不浄とはいえないと再反論しており、堂々巡りになっている。
  • そもそも、その例がホラーの範例であり、中心的なものとしてカバーできないことが理論の欠陥になるほど大事な例だとも言い切れず、論者ごとに評価が異なる。『スキャナーズ』は慣習的にホラーとしてカテゴライズされるというだけで、より理想的な・コアを捉えたホラーの定義においては、周辺に追いやられる・省かれるべきなのかもしれない。*5

キャロルも、自身の「ホラーの定義」が、実践においてホラーとして扱われている作品すべてかつそれらだけをきっちりカバーするものだとは考えていない。なんの定義にせよ、誰もそんな厳密さを期待すべきではないだろう。例えば、『サイコ』や『ザ・フライ』といった作品は、キャロルのホラー定義ではカバーしにくい。実践において、ある個別作品がホラーとして扱われるようになるかどうかは、ある程度まで偶然的だということにキャロルは自覚的であり、私も同意する。

キャロルのプロジェクトとは、ホラージャンルの範例たちを(完全にではないにせよ)なるべく広くカバーし、さらなる探求や応用のためにジャンルの重要な特徴を捉えられる、言うなれば「芯を食った」枠組みを提示することである。実践において個別の作品を批評したり、創作の手引きとして使える、といった実用性を外延的な正確性よりも優先している点は、プラグマティスト的と言ってもいいだろう。キャロルはそれを一貫して「必要十分条件」による「定義」と呼んでいるが、細かいことが気になる人は、別のプロジェクト名をあてて理解したほうがいいかもしれない。

個別事例が多様であることは誰でも認めているにもかかわらず、定義論の熱心なアンチはキャロルの「定義」に対してもすぐちゃぶ台を返したくなるかもしれない。そうする前に、まずは芯を食った説明とそうでない説明の違いを認めるべきだろう。キャロルの説明が芯を食っていないと(ちゃんと)言うのであれば、それはそれでひとつの定義論だ。芯を食っているのかどうか分からないようであれば、そもそも当該の実践に十分親しんでいない可能性が高い。

ジャンル論一般については、以下も参照。

 

不気味なものと「テイルズオブドレッド」

キャロルは、厳密に言えばホラーとは似て非なるジャンルとして「テイルズオブドレッド(不安の物語)[tales of dread]」にちょっとだけ言及している。他で使われているのは見たことがないので、たぶんキャロルが命名したジャンルだ。

こうしたストーリーの骨格となる不気味な出来事は、居心地の悪さと畏怖、おそらくはつかの間の不安と不吉な予感を引き起こす。(高田訳 p. 93, 原著 p. 42)

キャロルによれば、ホラーは超自然科学的な対象(=モンスター)を中心としているのに対し、テイルズオブドレッドは超自然科学的な出来事を中心としている。化け物が出てきてキャーなのではなく、ちょっとゾッとするような不可解なことが起こる系の話のことだ。日本では、『世にも奇妙な物語』が典型例だろう。

こちらも訳者の高田さんによるまとめがあるが、このキャロルが軽く触れただけのジャンルをMark Windsorが取り上げて論じている。ウィンザーフロイトの「不気味なもの」に立ち返ることで「不気味[uncanny]」という感情を定義しつつ、これを喚起するジャンルとして「テイルズオブドレッド」を論じている。

ウィンザーによる、不気味さ感情の定義はこうだ。

私がxを不気味なものとして経験するのは、以下かつそのときに限る。

  1. 具体的[concrete]な対象/出来事としてxを経験しており、
  2. 私は、自身が可能であると信じている事柄に調和しない[incongruous]ものとして、xを経験しており、
  3. そのことが私に対し、xについての不確実性を生じさせ、
  4. それによってxへの直接的な感情[feelings]として、不安が生じる。(Windsor, 2019, p. 60)

ウィンザーはキャロルにおける対象志向/出来事志向の区別は気にしておらず、大筋としては、ホラーとは身体的脅威なのに対し、ドレッドとは心理的脅威なのだと考えている。なにがなんだか整理がつかず、自分の頭がおかしくなってしまったのではないかと不安になってしまう状態こそ「不気味さ」を感じている状態であり、これを感じさせるように設計されている作品が「テイルズオブドレッド」となる。

 

しかし、今回『ホラーの哲学』を読み返していて再確認できたのは、そもそもキャロルがホラーにおける不浄さを論じるに当たって、それが心理的脅威なのだと特徴づけていた点だ。

モンスターは、自然に関する文化の概念図式に相対的に、自然に反している。モンスターは図式に合致せず、図式に侵犯する。このように、モンスターは物理的に危険であるだけではなく、認知的に危険なのである。(高田訳 p. 79, 原著 p. 34)

なので、ホラーは身体的脅威/テイルズオブドレッドは心理的脅威という対比はうまくいかない。不浄なものの、カテゴリー逸脱的なあり方は、それを見るものの世界認識を脅かし、世界や自己に関する不確実性を意識させ、不安を生じさせる。よって、上の定義で行くと、不気味なものは不浄なものとおおよそイコールになってしまう。*6

改めて、「ホラー」とは異なる「テイルズオブドレッド」を特徴づけるために、対象志向/出来事志向の区別に立ち返るべきなのか。前者と後者には、それが喚起する感情において重要な違いがあるのか。これらはまだ未解決であり、興味深い問題圏をなしている。

 

トワイライト・ゾーン』における「テイルズオブドレッド」【2022/09/26追記】

キャロルが『トワイライト・ゾーン』を題材に「テイルズオブドレッド」を論じた論文を読んできたので、かんたんに紹介。

一言でまとめるならば、キャロルはこのジャンルを宇宙的な力による因果応報の物語として説明している。

私がこれらの物語を「テイルズオブドレッド(不安の物語)」と呼ぶのは、それらが観客に偏執的あるいは不安な想像[paranoid or anxious imaginings]を抱くよう強いるからだ。とりわけ、〈宇宙は全知全能の知性によって支配されていて、悪魔的な機知において正義を下している〉と想像させる。(pp. 26-27)

トワイライト・ゾーン』のなかでも、悪巧みをしていた人物が皮肉にも自分の企みによって破滅したり、罪を犯した人が呪われて、犯した罪にフィットした罰を永遠に受け続ける、みたいなエピソードをキャロルは「テイルズオブドレッド」の典型例として理解している。例えば「顔を盗む男」(1960)というエピソードでは、他人の顔に変身できる男がギャングを騙して金儲けしようとするが、ある男に変身して逃げている最中に、家庭の事情でその男を憎んでいる父親に間違われて殺されてしまう。

ただの因果応報ではなく、なんらかの意味で罪にふさわしいと思われるような手段によって罰がくだされる、というのがポイントだ。キャロルはトーマス・ライマーの古典的な概念を引いて、これを「詩的正義[Poetic Justice]」と呼ぶ。罰は、象徴的・寓意的な仕方で罰せられる。わかりやすい例として、ダンテの『神曲』「地獄篇」で罰を受けている罪人たちが挙げられている。貪食だったものはケルベロスにかじられ、貪欲だったものは永遠に重い金貨の袋を運ばされる、などなど、それぞれ犯した罪に即した罰を受けているのだ。こういった罰には、どこかユーモラスで皮肉なところがあるとキャロルは述べる。

「テイルズオブドレッド」は露骨なまでに首尾一貫していて、全知全能の宇宙的知性が正義を執行するという感覚を与え、次は自分の番ではないかという不安を駆り立てる。自然主義的な因果関係ではない、奇妙だが腑に落ちる因果関係を想像させる点は、精神分裂病や偏執病の患者が妄想する陰謀論と似たような構造を持っており、また、トリックスターな悪魔や妖精に騙される民話とも似ているとキャロルは言う。

どちらも超自然的な事物を扱う点でホラーと「テイルズオブドレッド」は似ているが、後者は前者のようには危険で不浄なモンスターをフィーチャーしない。この点で、キャロルは対象志向/出来事志向の区別を維持しているようだ(そんなには重視していないようにも読めるが)。「テイルズオブドレッド」において機知に富んだ正義を執行する宇宙的知性は、姿かたちを持たないので嫌悪感を喚起することもない。

また、ホラーはモンスターに襲われているキャラクターへの心配による利他的不安がメインだが、「テイルズオブドレッド」は宇宙的な正義の執行が自分にもくだされるのではないかという利己的不安がメインになるという。なので、登場人物との感情のミラーリングといった議論は、「テイルズオブドレッド」については考えていないのだろう。ホラーは正面からモンスターがやってきてギャーだが、「テイルズオブドレッド」はいまに自分が裁かれるのではないかという後ろめたさと結びついている。

改めて、キャロルによる「テイルズオブドレッド」の定義はこうだ。

  1. 物語的ファンタジーであり、
  2. あるキャラクターが罰を受ける出来事に関するものであり、
  3. 罰は適切な仕方(罪に見合う仕方)でくだされ、また、
  4. ちょっとだけユーモラスな仕方でくだされる(例えば、しばしば皮肉である)。(Carroll, 2009, p. 26)

こうして見てみると、キャロルの考えていた「テイルズオブドレッド」は、ウィンザーが引き継いで論じたそれよりも関心においてずっと厳密だったことが分かる。神秘的で宇宙的な力による因果応報をフィーチャーしていることが必要条件なので、ウィンザーのように「不気味さを喚起する」というのでは広すぎるのだ。

ちなみにWindsor (2019)は因果応報を持ち出すのは狭すぎてあれやこれをカバーできないと反論しているが、そもそも外延のはっきりしたジャンルではないので、”あれやこれ”をカバーすべきだという前提が広く共有されている/されるべきとは思えない。上にも出てきた、どこまでを有効な範例・反例として扱うかという点での見解の違いなので、キャロル理論を狭すぎるというのは不当だと思う。

ちなみに、キャロルは「ホラーのパラドクス」と同様、裁かれるかもという不安にもかかわらず「テイルズオブドレッド」を見たがるのはなぜなのか、という問題についても答えているが、こちらの説明はあまり魅力的でないと思う。キャロルによれば、そういう不安はあるものの、悪人がちゃんと裁かれるという因果応報の物語はわれわれを満足させる。しばしば快が不快を上回るからこそ、われわれは「テイルズオブドレッド」を楽しめるというわけだ。この説明は、「不快だけど(快もあるから)見る」と言っているだけで、「不快だからこそ見る」という説明にはなっていない。「テイルズオブドレッド」がある種の不安喚起をコアとしたジャンルなのだとすれば、その種の不安が持つ利点にもっと焦点を当てた説明であるべきではないか、と個人的には思う(代案は思いつかないが)。

 

その他いろいろ

ということで、読みやすく愉快な本なので、この機にホラーの哲学に入門しちゃいましょう。

 

 

*1:ここでは、芸術作品にとって重要なのはその目的と手段である、というキャロルの芸術観が、ジャンルレベルでも敷衍されているのだと思う。もちろん、西部劇やミュージカルのように、このやり方に適しているわけではないジャンルがあることにキャロルは気づいている。キャロルの芸術観については、以下を参照。

*2:そもそも英語のhorrorに、ジャンル名としての用法だけでなく、fearやterrorと同様にある種の感情を表す用法(e.g.「ホラーを感じる」)があって、日本語の「ホラー」上では後者が見えにくい、という問題がある。

*3:細かいところだが、「モンスター」の定義に危険さや不浄さが入っているわけではない。キャロルにおいて「モンスター」とは、ただ、その時代の自然科学では説明のつかないような、超科学的存在のことだ。この意味ではスーパーマンも「モンスター」になるわけだが、スーパーマンが他のキャラクターを怖がらせたりキモがらせることはないので、映画がホラー映画になるわけではない。

つまり、ホラーにとってはまずモンスターが出てくることが必要条件であり、モンスターがどういう感情を喚起するかがさらに別の必要条件となる。

*4:

ホラーの哲学全体のサーベイとしては、Smuts (2008)を参照。ちなみにAaron Smutsはキャロルの弟子で、キャロルと同じくマスアートの哲学で重要な仕事をたくさんしていた人なのだが、今年の3月に惜しくも亡くなっている。

*5:今日的な目線から言えば、『スキャナーズ』を見て怖がる人は(幼児を除いて)現代にはもはやいないだろう。

*6:

前にこの辺の不気味論を使って「Liminal Space」について論じたことがあるが、そこでも提示した代替的な「不気味さ」の定義は、認知的な抵抗によって特徴づけるという案である。ある不可解な対象/出来事に対して、自分の常識の範囲内で説明をつけようとし、それが絶えず失敗する時間こそ、不気味さを経験している時間として理解できるのではないか。この説明は、「テイルズオブドレッド」をホラーよりもサスペンスに接近させるものだと私は予想している。単に不浄なもの(排泄物、死体、虫)に対して、オエッという嫌悪感はあれども、それらを常識の範囲内で説明する切迫感が生じることはないだろう。