レジュメ|グレゴリー・カリー「視覚的痕跡:ドキュメンタリーと写真の内容」(1999)

Currie, Gregory (1999). Visible Traces: Documentary and the Contents of Photographs. Journal of Aesthetics and Art Criticism 57 (3)-285-297.

 

分析写真論としてはWalton 1984と並び、写真の「情動的能力(affective power)」「現象学的特権(phenomenological privilege)」に関する定番論文の一つ。映画関連のアンソロジーなんかにも収録されている。

 

レジュメ

1.イントロダクション*1

中心的な課題は、(主に)映画における「ドキュメンタリー(documentaly)」概念の定義。

「現実を映している」ぐらいのゆるい定義だと、実写映画はすべてドキュメンタリーということになってしまう。これはまずい。どうやって絞っていくか。

まずは写真的表象(photographic representation)=フィルムを使ったイメージ(film image)の二重性(duality)について整理している。写真論的にはこの辺が重要。

 

2.「痕跡」と「証言」

カリーいわく、写真の内容には二種類ある。

画像による内容の伝達は、「痕跡(traces)」として伝達する場合と、「証言(testimony)」として伝達する場合がある。法廷における情報源としての「痕跡」と「証言」をアナロジーにしているっぽい。

ざっと、前者は客観性ゆえに伝達される必然的な内容で、後者は意図や文脈依存的な内容。写真は対象の「痕跡」だが、絵画は頑張っても「証言」止まり。

痕跡はウォルトンが指摘したような信念独立性を持つ。写真は足跡やデスマスクと同じ痕跡である。

手が滑って写真が出来上がることはあるが、手が滑って絵画が出来上がることはない。

 

3.痕跡でもミスリードになりうる

とはいえ、写真が痕跡であることは、ドキュメンタリー映像がミスリードになりうることを排除しない。製作者がなんらか誤解していたり、観客を誤解させようとする意図を持っていた場合、映画は観客をあざむく。

ここで、誤解されうる内容は、「証言」として伝達されている。

「○○の写真(photograph of)」と「○○についての写真(photograph about)」を区別する。of対象はつねに現実のものであり、写真映像はof対象の「痕跡」である。一方、about対象は虚構的な対象でも可であり、写真はabout対象の「証言」となる。

 

4.痕跡であるがゆえの価値について

次に、痕跡であることはなにが特別なのか確認しておく。認識論的価値、情動的価値をめぐる節。

写真的映像は認識論的価値が高めケネディ暗殺の映像から、撃たれた回数についての知識を形成することができる。痕跡であるおかげで。

写真的映像は情動的価値も高め。写真で見るのは絵画で見るのよりも相対的にショッキング。もちろん、直接見るのが一番ショッキングだが。情動喚起パワーは、痕跡であることによって得られている。

ウォルトンは写真が透明であるとまで言っているが、カリーは痕跡であるというコミットメントにとどまりたいらしい。

 

5.ドキュメンタリーにおける物語

ようやくドキュメンタリーに戻ってくる。

痕跡であることはドキュメンタリーにとって必要そうだが、明らかに十分ではない。あらゆる実写映画はカメラを用いて撮影されている点で、「役者の演技」の痕跡だが、だからといってドキュメンタリーとは限らない。

また、ドキュメンタリーにも物語(narrative)がある。これが虚構的になってはいけない。ドキュメンタリーの物語は現実の事実に即している必要がある。

映像によって物語に意味を与えるのがドキュメンタリー映画、物語によって映像に意味を与えるのがフィクション映画、とのこと。

 

6.写真的内容は非概念的

なぜかまた寄り道。

フィルムイメージの二つの内容(痕跡=of対象=「写真的内容(photographic content)」と、証言=about対象=「物語的内容(narrative content)」)は、知覚の哲学的にも区別できる。

信念(beliefs)と知覚(perception)の区別として、前者は概念的内容(conceptual content)を持つが、後者は持たない。*2

ここで、写真的内容は非概念的だが、物語的内容は概念的だと言える。

写真Sの作者Xは、対象Pについての概念を持っていなくても(すなわち、見てもなんだか分からないとしても)、Pの写真を制作することができる。

 

7.ドキュメンタリーの緊張

物語としては一貫していながら、ミスリードな内容を含むドキュメンタリーには独特な緊張がある。

フィクションにおいてはこのような緊張はない。製作者が事実を誤認していたとしても、映画自体は誤った内容として一貫している。一方、ドキュメンタリーにおいては、物語的内容と写真的内容の間に齟齬が生じうる。

理想的なドキュメンタリー(ideal documentary)においては、それを構成するフィルムイメージが写真的な仕方のみで表象を行う。これを作業仮説とする。

 

8.部分と全体の問題

次に、部分と全体の問題を考えなきゃならない。

映画全体が真正なドキュメンタリーであったとしても、部分部分に非ドキュメンタリーなニセの素材が含まれている可能性がある。ワンシーンだけセット撮影、など。

ここで、「ドキュメンタリー部分(documentary parts)」が真にドキュメンタリー的であるのは、それが真正なドキュメンタリー映画の一部であることによって定められる。

しかし、「真正なドキュメンタリー映画」は、そもそも真正な「ドキュメンタリー部分」によって構成されていることを必要条件とする。

すなわち、ここには循環がある。部分が真正ではじめて全体は真正だし、全体が真正ではじめて部分は真正になる。このあたり、カリーは結構まじで苦戦している。

いろいろ調整した結果として↓

ドキュメンタリーの定義

部分Aは真正なドキュメンタリー映画Bの真正なドキュメンタリー部分であるiff

①AはBの部分である。

②AはフィルムによるPの痕跡であり、Bという(主張された)物語内においては、痕跡であることによってPに関する情報伝達に寄与する。

③Bのフィルム的部分は、そのたいていが、Aのような部分によって構成されている。

これで、フィクション映画もはじけるし、フェイクドキュメンタリーもはじけるし、伝記映画のような事例もはじける。

 

9.その他いろいろ①

痕跡でありかつ証言でもあるような面倒なケースを見ていく。

ヒトラーのドキュメンタリーにおけるナレーションは、ナレーターの声の痕跡だが、ヒトラーの痕跡ではない。ゆえに、映画においては痕跡としての映像と証言としてのナレーションが混在している。

このように考えると、ナポレオンについての(ナレーションによる)証言は存在しても、(映像による)痕跡は存在しないので、「ナポレオンのドキュメンタリー」は不可能ということになる?

カリーはこの帰結を認めた上で、ナポレオン-についての-ドキュメンタリー(documentary-about-Napoleon)は不可能だが、ナポレオンに関連するドキュメンタリー(Napoleon-related-documentaly)は可能だ、的なことを言っている。専門家のインタビューを集めた映像は後者。

こうなってくると、テレビのレクチャー番組や、スポーツ中継も、ドキュメンタリーということになるが、この辺はなぁなぁにしている。

最後に、芸術作品を「歴史的概念(historical concept)」とみなす立場についてコメントしている*3。「ドキュメンタリー」もその線でいけそうだが、カリーはそもそも芸術作品の歴史的定義に与しないので、ドキュメンタリーについても支持しないらしい。*4

 

10.ドキュドラマについて

事実に基づきつつ脚色を加えたドキュメンタリー・ドラマ(Docudrama)について補足。

たいていのドキュドラマはフィクション映画だと言ってしまってかまわない、とする。製作者の意図によって再構成された映像を多数含むため、信念独立ではなく、痕跡的なドキュメンタリーではない。

 

11.その他いろいろ②

残された課題について整理。

上の議論ではおよそショットを単位として考えていたが、単一のショットにおいてドキュメンタリーかどうか定かでないような事例がある。ディズニーランドのドキュメンタリーで、ディズニーランドを映像として映しつつ、画面端にミッキーのアニメーションを映しているようなショットなど。

これをどう考えればいいのかマジでわからん、的なことを書いている。

 

✂ コメント

必要十分条件云々の定義論に関しては、個人的にほとんど興味ないのでノーコメント*5。流石に議論が飛び散りすぎだろ、と思うがその辺の構成についても保留。

 

「痕跡/証言」「of/about」「非概念的/概念的」「写真的/物語的」と二項対立を連発しながら、写真的映像を特徴づけているのが、写真論的な見どころか。*6

実際、「痕跡ゆえの価値」というくだりがだいぶルーズなので、いまいち説得的ではない。大筋としては言っていること(痕跡なので、知識形成においては役立つし、特別な情動的経験を与えてくれる)には異議がないが、痕跡だから価値アリというナイーヴな議論はやや不安だ。

また、「痕跡かどうか」という別の定義論については、スクルートンやウォルトンに軽く触れているぐらいで、ほとんど扱っていない*7。「自然的な反事実的依存関係を持つ」ことは「痕跡である」ことにとって十分ではなさそうなので、この辺もうちょい詰めてほしかった(タイトル的にはむしろこっちを期待していたな)。*8

分析写真論ではPettersson 2011が「痕跡としての写真」説を打ち出して、カリーをフォローしている。カリーを読んでから考えるとそこまで目新しいことを主張しているわけではないと分かるのだが、痕跡かつ描写である画像の経験や、認識論的価値と情動的価値の絡み合いなど、カリーがサボっている論点を詰めてくれるので、真面目だなぁと思う。

 

*1:見出しは適時ぼくがつけています。

*2:知覚の哲学についてはそこまで明るくないが、概念的かどうかで信念と知覚を切り分ける議論は、たぶん古めのもの。ティム・クレーン(Tim Crane)の1992年の議論を参照しているらしいが、なんだか眉唾なくだりに思われる。知らぬけど。

*3:ジェラルド・レヴィンソンやノエル・キャロルの立場だったと思う。

*4:この節の終わりで唐突に「There may be more to documentary than I have been able to excavate, but I hope I have uncovered at least part of its structure.」というドロンをかましているが、突然言い訳されても困る。しかも論文はもうちょい続く。

*5:定義として成功しているかは置いといて、ドキュメンタリーの特徴づけとしてオモローかどうか聞かれれば、いまいちだとは思う。

*6:ちなみに、この手の区別としてはMaynard 1997の「の写真 (photograph of)」vs「の描写(depiction of)」が有名だが、カリー論文では引用されていない。うーむ。

*7:ウォルトンについても、「...photographs are not representations at all. Rather, they are like windows, mirrors, and telescopes: aids to sight」という立場として説明されているが、これは普通に誤り。ウォルトンは「写真は画像表象であり、かつ、視覚の補助である」という立場なので、「not only ~ but also」とすべきところ。同様の誤解(単純化されたウォルトン理解?)はカリーに限ったものではないので、修論ではこの辺めちゃめちゃ責めたつもり。

*8:例えば、「時刻を同期している二つの時計AとB」みたいな事例を考えたときに、時計Bは時計Aの痕跡か、と言われればノーと答えたくなる。