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インターネットと美学研究

食の美学入門:作ること、食べること、感じること

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我々は、ときに美しく盛り付けられたフランス料理を見て「芸術的だ」と言う。

また、華麗な手さばきでピザ生地を広げたり、魚をさばくシェフの姿に、創意に満ちた芸術家の姿を重ね合わせる。

すぐれた料理の味や香りがもたらす感動や快楽は、映画や音楽のそれにも劣らない。

さて、食はアートと言えるのか食の美学は可能だろうか

 

今回は二部構成となっている。

前半には、アーロン・メスキンによる短い論考「食品の芸術」(2013)のレジュメを載せた。食品(料理)はアートとなりうるのか、なるとすれば、いかなる意味でアートと言えるのか、という問題をざっと概観したい。

後半は、これを踏まえ、食の美学が検討すべき問題群を整理する。食を取り巻くさまざまなトピックを紹介し、これらの美的な可能性を探っていきたい。

 

あらかじめ目的と意義を明らかにしておこう。なぜ、食の美学を問わなければならないのか

第一に、食文化とは人間存在にとって身近どころでない重要性を持ちつつ、哲学的にはあまり注目されてこなかった対象であるからだ。しかしそこは、衣食住の中心である。我々は、ただ必要に迫られて空腹や乾きを満たしているだけではない。食文化とはそれ以上のなにかであり、哲学的考察に値する対象なのだ。

第二に、食の美学についての考察は、翻って美学の諸理論に対する反省を促す。「芸術」「作者」「創造性」「作品の存在論」「作品の意味」「美的経験」といったトピックは、食文化の実践に合わせて再考される必要がある。

 

僕の専門は写真だが、思うに、食のありかたは写真のありかたと似ている。いずれも、我々にとって身近な実践であり、そこでは実用性と芸術性が拮抗している。写真が、芸術史における異物として諸美学の反省を促すようなものであるならば、同じような異物として、食もまた位置付けられるはずだ。

 

Aaron Meskin (2013) The Art of Food

食品はアートなのか?

食品*1の芸術性に対して、多くの懐疑論者がいる。Poole 2012Deresiewicz 2012など。

この問いに対する答えは、「アート(art)」という概念の定義による。

これを「技能や技術」という意味で「術(arts)」一般として捉えるなら、食品(料理)はアートと言える。しかし、この意味では、釣りや自転車のメンテナンスもアートとなる。

問題は、絵画、彫刻、演劇、映画、詩、音楽と同じ意味で、食品がアートと言えるかどうか。

ここで、「美しさ(beauty)」「創造性(creativity)」は、いずれもアートであるための条件とはならない。食品はときに美しく、創造的だが、それだけを理由にアートと言えるかどうかは定かでない。

 

食品はアートとなりうるのか?

この問いはあまりに簡単なものであり、答えは明らかにイエスだ。あらゆるものはアートとなりうる

デュシャンレディメイドによる《泉》は、男性用小便器をアートとして提示した。同じように、一塊のパンがアートとなりうるのは当然だ。ダントー『ありふれたものの変容』。

食品は、ときにメディウムとなる:リクリット・ティーラワニットのインスタレーション作品は、鑑賞者にタイ料理を振る舞う。

ほかにも、Viviane Le Courtoisによるインスタレーションは、キャンディーやお菓子でできた彫刻や、食事や調理のビデオを含む。現代アートは、どんな素材(materials)でも芸術的メディアになりうることを示してきた。マーク・クインなんかは、自分の血を冷凍させて彫刻にしている。

「食品を用いた彫刻」として、氷の彫刻はやや際どいところだが、砂糖の彫刻やバターの彫刻は明らかに含まれる。

➡とにかく、食品は(それを用いた)アートとなりうる

 

芸術性の帰属先について

しかし、上に挙げた例はいずれも、食品が食品であることによってアートとなっているものではない。それは、(食品を用いた)インスタレーション作品や、彫刻であることによってアートとなっている。

Telfer 1996は「食品(料理)はそれ自体として、美的に検討されることを意図して作られることがあるので、アートと言える」と主張するが、これは不適切。宗教的/政治的作品には、美的な検討が意図されていないアートもある。

 

反論①食品ははかない(transience)のでアートじゃない?

応答:第一に、パフォーマンス、即興演奏、ハプニングなど、はかないアートはいくらでもある。それらは一過性のもので、やがて消滅するが、やはりアートである。

応答:第二に、作られた料理そのものははかないかもしれないが、レシピは音楽の楽譜と同じように、長く残るものである。

➡ゆえに、はかなさはアートであることを否定する要因ではない

 

反論②食品には意味がない(lack of meaning)のでアートじゃない?

物語的でもないし、表象的でもないし、情動の表出でもないから、アートじゃない?

応答:まず、物語的かどうかは関係ない。音楽や建築、俳句や抽象表現主義は、物語的でないアート。

応答:また、端的に表象的でないとも言えない。恐竜の形をしたケーキなどの明確な事例だけでなく、あらゆる料理は表象的に機能しうる。

Korsmeyer 1999曰く、食品はネルソン・グッドマン的な意味で記号的に機能しうる。すなわち、特定の性質に言及(refer)しつつ、その性質を持つ(possess)という意味で、「例示(exemplification)」する。しょっぱさをreferしつつ、現にしょっぱさをpossessする。

また、食品(料理)はメタファー的な例示によって、情動を表出することもできる。この意味で、チキンスープは思いやりを表出しうる。

➡よって、食品は意味を持ち、上記ような仕方で芸術的な表象となりうる

 

過度な一般化には気をつけるべき

模倣説、表出説、美的経験説による芸術の定義は、いずれもそうでないアート作品を反例として失敗してきた。

同様に、表象かどうかだけでアートかどうかは決定しがたい。抽象的な音楽、絵画、建築などは、表象的でない。

 

芸術形式のハイブリッド

Levinson 2012曰く、「ハイブリッドな芸術形式」がある。散文詩や、ランドアート、ビデオインスタレーションなど。

フェラン・アドリアやヘストン・ブルメンタールによる「分子ガストロノミー」は、まさにハイブリッドな料理芸術と言える*2

このようなハイブリッドなアートは、先に挙げた砂糖の彫刻や食品を用いたインスタレーションとは異なり、彫刻やインスタレーションであることによってアートとなっているわけではない。分子ガストロノミーは彫刻ではなく、食品(料理)それ自体としてアートとなっている

 

食品の美学とは?

食品は美的経験を与えうるのか?これは難しい問題で、美的経験の定義についても論争がある。

いずれにせよ、「アートかどうか」と「美的経験を与えうるのか」は独立した問題であり、後者がノーだったとしても前者についてはイエスであると言える。

まず、我々は味だけでなく、食品(料理)の見た目も美的に経験しうる。問われるべきは、食品や飲み物の味や香りを美的に経験することはできるのか、という問題。

美的経験の定義として古典的な、カントによる「無関心性の美学」:欲望から独立した美的判断。

カント自身は「美的(aesthetic)」なものを広義で捉えており、ワインの評価といった事例も美的にとらえている。しかし、カント以降のフォロワーは、狭い意味での「無関心性」に基づくものだけを美的ととらえる。

ゆえに、彼らは味や香りを美的経験から除外しようとする。それは明らかに欲望と結びついた経験だから。

➡よって、「美的経験には無関心性が不可欠」という前提を否定すれば、食品の経験は美的であると言える。チョコレートや紅茶の香りを、我々は美的に経験する。

 

結論:食品の芸術性

食品(料理)は、①芸術メディウムとして用いられるだけでなく、②ハイブリッドな芸術作品となりうるものであり、③食品の味や香りは美的経験の対象となる。

 

食の美学:作ること、食べること、感じること

以下では、メスキン論文で深掘りされていない論点を、いくつか挙げてみよう。

1.作者性の問題

いわゆる大文字の「芸術作品」は、作者(author)による創造物を指す。ボードレールという才気に満ちた詩人が『悪の華』を綴ったのであり、ゴッホという情緒豊かな画家が《ひまわり》を描いたのだ。

作者は唯一無二の個性を持ち、その表現は独自のスタイル(style)を通してなされる。

このようにして「芸術作品」を理解したとき、そこに料理を位置づけることは難しい。まず、食における作者とは、誰なのかという問題がある。

もちろん、調理に携わるコックであろう、と言われるかもしれない。しかし、これは必ずしも自明ではない。一つの料理には、生産、加工、管理、流通、調理、配膳、広告といったさまざまなプロセスが含まれ、多くの人による行為を通してはじめて「創造」される。この点で、料理は映画に似ている。

自家菜園で取れた食材をそのまま調理し、提供するシェフであれば、そこに作者性を帰属させることは難しくない。しかし、新鮮な有機野菜を仕入れ、これをカットして提供するオーガニック・レストランのシェフは、はたして料理の「作者」と言えるだろうか。また、厨房における分担作業は、料理の作者が複数でありうることを端的に示している。

いずれにおいても、料理におけるこのようなありかたは、「単一の作者」という近代的幻想を否定する。

その他、作者性や集団制作の問題については、ヒューストン大のChristy Mag Uidhirが詳しそう。

 

2.前衛と規範性の問題

メスキン論文にもあったように、アートは「ありふれたものの変容」を通して、その定義を拡張させてきた。そこには《泉》のように生理的嫌悪をもたらすものから、マリーナ・アブラモヴィッチによるパフォーマンス作品のように、身体的危険を伴うものまでが含まれる。

料理は、あえてまずいものを作ったり、体に害を与えるようなものを作ることによって、その定義を拡張しうるだろうか。一見すると、そのような反省的・前衛的なあり方は、料理にとって一般的ではないと思われる。料理においては、より美味でより栄養のあるものを提供するという実用的側面に重きが置かれる。換言すれば、そのように実用的な目的は、食の実践における規範として機能している。致死量の青酸カリが入ったスープを、「料理」と呼ぶのは難しい。

ただし、より広い目で見たとき、人類は数多くの失敗と挑戦を乗り越えて、現在の食文化を築いたとも言えるだろう。我々はパクチーという悪臭の草を食べ、毒を恐れずフグを食べる。ウニや猿の頭蓋をこじあけ、生の卵を白米にのせ、麦芽をアルコール発酵させてビールにする。その歴史は、信じがたいほど前衛的な試みと、失敗による苦痛と死者の怨念に満ちている。

より美味でより栄養のあるものを、という食の実践における規範は、前衛的な料理の可能性を否定するものではない。料理もまた、芸術のように、拡張され、進化してゆくものである。

 

3.レシピと料理の存在論

存在論における料理と音楽の共通点、という論点は面白く、より一層掘り下げる価値がある。 

食品や料理の「創造」は、いかにして成し遂げられるのか。シェフの頭にアイデアが降りてきた瞬間なのか、試行錯誤によって最初の事例(トークン)が生成された瞬間なのか、それをレシピとして記述した瞬間なのか。それとも、ある種の料理は、人間がそれを作り出す以前から存在していた“組み合わせ”を「発見」しているだけなのか。おそらく、人間がどうこうする以前から、オオカミは馬刺しを食べていたのであろう。

料理における「同じ」とはどういうことなのか。厳密に言えば、使われる食材や、調味料の量は毎回異なり、全く同じ料理は原理的に存在し得ない。一方で、ファストフードチェーンが提供するような料理は、画一化され、世界中どこでも「同じ」ものが食べられるように思われる。

音楽の存在論において提唱されている、ジェラルド・レヴィンソンの「指し示されたタイプ」説や、ジュリアン・ドッドの「曖昧なタイプ」説は、料理の存在論についても参照に値する。

 

4.道徳と倫理の問題

昨今のヴィーガン論争を見れば明らかなように、食は時として非道徳的なものとみなされうる

我々は自らの食のために、動物を屠殺し、遺伝子を改造し、生態系をも傷つける。かたや、このような営みを自然のものとみなして擁護する立場もあれば、食にともなう「悪」を根絶させるためには、我々自身が絶滅するしかないとする立場もある。

ハシヅメユウヤ、ろくでなし子、荒木経惟会田誠と、芸術の倫理を巡る論争は枚挙にいとまがない。オマージュと盗用に違いはあるのか、わいせつ物を描くことは許されるのか、創造的な作品のためであれば非人道的な搾取も許されるのか。同様の問いは、食文化にも降りかかる。また、食の倫理を考える上で、その美的価値は改めて関与的な要因となるであろう。

食の道徳的な問題については、メスキンによる別論文を含む、以下の教科書がある。

 

5.料理の批評

芸術に対して批評するように、料理に対して批評することはできるのか。それは、どのような基準のもとで、いかにしてなされるのか。

とりわけ、ワインやウイスキー、コーヒーや紅茶といった、飲み物のテイスティング・カッピングは、極めて批評的な営みと言えよう。そこでは、繊細な違いに気付く審美眼と、これをうまく表現する文体が求められる。料理の鑑定における「批評家」の営みに注目するだけでも、そこには豊満な美学的土壌がある。

芸術作品における作者の意図と解釈、作品における真と虚構の問題も、食に関連しうる。シェフが意図しない仕方で食べること、例えば、マヨネーズを掛けまくった唐揚げを「美味しい」と評価するのは、正しい批評と言えるのか。スープの前に高菜を食べることは許されないのか。これらは、食の倫理的問題ともリンクする。

今年の始めごろに出た、三浦哲哉『食べたくなる本』は、料理本・料理エッセイの批評という興味深い試みであり、こちらの分野も今後もりあがることが期待される。

 

6.食べない料理の美学

もはや食べることすらせず、食について美学することも可能だ。我々は、たとえ自分が飲食行為の当事者でなくとも、料理を作ったり食べたりすることに関心を向けうる。

グルメ漫画と呼ばれるジャンルは、そのような「食べない料理の美学」の一旦を担うコンテンツと言えよう。味わうことや、栄養を摂取することから切り離された、調理・食事そのものを美的に経験しているように思われる。

同様のコンテンツとしては、YouTubeのグルメ動画・料理動画も挙げられる。「きまぐれクック」は軽快なトークと爽快感あふれる魚さばきを披露し、「今日ヤバい奴に会った」に出てくるインドのおじさんたちは万能ふきんですべてを拭く。

このような動画を楽しむことは、味わい、栄養を摂取するという食の目的から明らかに逸脱している。それは、特異な技術を鑑賞するという点でパフォーマンスやダンスの鑑賞に近く、また、「料理の物語化」によってこれを芸術作品に昇華させるという興味深い実践でもある。やはり、YouTubeはおもしろいコンテンツの宝庫だ。

近年の、注目にあたいする料理系動画投稿者としては、やはり「inliving.」が挙げあられるだろう。かならずしも巧みとは言い難い調理に、起伏に飛んでいるわけでもない動画編集は、丁寧な暮らし系とも呼ぶべきニューエイジを代表している。彼女らは、「◯◯をやってみた」という仕方で、鑑賞者が普段できないようなことを提示する代わりに、パッケージ化された「暮らし」そのものをコンテンツとする。真似できそうで、なかなか真似できない彼女の生活は、絶妙なバランス感覚でもって我々を魅了し、時に女子たちを怒り狂わせる。また、「本棚食堂(世界の皿さんぽ)」「こんびにこ」といった投稿者たちは、inliving.的なルーズさを形式としてシミュレートしつつ、パロディ的なユーモアを加えることで、新感覚な料理系エンターテイメントを提示している。

上に挙げたのような動画たちは、技巧や達成に感嘆するような、従来の料理動画と全く異なる。それはいわば「ゆるい料理動画」であり、独自の美学を持つ。構図はそろいもそろってロベール・ブレッソン的で、アキ・カウリスマキ的だ。ここでは、食や料理に対する、新たな美的経験が提示されていると言っても、過言ではないだろう。

僕はすでにこういったコンテンツの虜となっており、毎日のように料理動画を見てはインターネット上で時間を溶かしている。

 

 

ということで、最後は完全に趣味の話になってしまったが、食を取り巻くさまざまな美的実践を、部分的にでも伝えられたのであれば幸いです。

料理を食べるのも、料理を作るのも、YouTube上でへらへらと料理動画を見るのも、すごく楽しいことです。美学は楽しさを解剖し、楽しさは美学を刺激する。

よい食生活を。

 

 

*1:「food」の訳に関しては基本的に「食品」を採用し、ところどころ「食品(料理)」と表記している。メスキン自身は、両方の意味で用いているっぽい。

*2:2019/05/25追記:

「分子ガストロノミーはなにをハイブリッドしたものなのか」については、「フランス料理」「彫刻」「さまざまな化学的技術」さらには「舞台芸術」などを融合したもの、との記述がありました。