モーリス・マンデルバウム「家族的類似と芸術に関する一般化」(1965)

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Mandelbaum, Maurice. (1965). Family Resemblances and Generalization concerning the Arts. American Philosophical Quarterly, 2(3), 219-228.

 

「芸術の定義」に関する古典的な論文のひとつ。以下、論文に先立つあらすじ。

伝統的に、芸術は模倣/表象(プラトン)、感情の伝達(トルストイ)、表出(クローチェ)、重要な形式(ベル)といった点から定義されてきたが、いずれも狭すぎる=一部の芸術を芸術としてカバーできないか、広すぎる=一部の非芸術を芸術だとみなしてしまう、ということで一長一短であった。

1950年代のなかごろは言語哲学、とりわけ後期ウィトゲンシュタインの影響を受けた哲学者たちが、美学や芸術理論における反本質主義をごり押しする。「芸術の定義」というトピックにおいては、なんらかの本質的な特徴において芸術作品を定義しようとする(あわよくば必要十分条件を与える)プロジェクトへの疑いが一気に噴出していた時期だ。とりわけマンデルバウムが挙げているのは、

なかでもとりわけ重要なワイツ論文は、松永さんの翻訳(『フィルカル 1(2)』収録)(note販売版)もある。

ということで芸術の定義なんてムリムリやめとこムードが50年代後半から60年代前半にかけて支配的だったわけだが、70年代からはダントーのアートワールド論やら、ディッキーの制度論やらと、定義論がバックラッシュ的な盛り上がりを見せる。その後今日に至るまで、レヴィンソン、キャロル、デイヴィス、ステッカー、ゴート、ロペスらがわいわい議論しており、かつての反本質主義とはなんだったのか状態が続いている。『分析美学入門』第五章やSEP「芸術の定義」(ナンバさんのレジュメ)を参照。

マンデルバウムによる本論文は、定義論バックラッシュの先陣を切った一本である。ディッキーの制度論も、マンデルバウムを出発点としている。

 

レジュメ

マンデルバウムはまず、反本質主義たちがしばしば引き合いに出す、後期ウィトゲンシュタインの「家族的類似[family resemblance]」というアイデアを再検討し、その不備を指摘している。

ウィトゲンシュタインによれば、さまざまなゲームはさまざまな点において類似関係を取り結んでいる。卓球とサッカーは〈ボールを用いる〉点で似ており、サッカーと陸上は〈選手が走る〉点で似ており、卓球とチェスは〈テーブルを用いる〉点で似ている、といった具合に各ゲームは別のゲームとさまざまな特徴を共有するが、ここで「あらゆるゲームをまたいで共有される、そしてゲームたりうるものだけが持つ本質的な性質」はないとされる(ソリティアもボクシングもゲームだが、なんらかの点で似ているようには思われない)。それはちょうど、父と兄が目において似ており、兄と妹が口において似ており、妹と母が性格において似ているように、それぞれ部分的な類似の連関を取結びつつ、一家全体をまたぐような特徴がないのと類比的だ。

さまざまな活動が、類似関係の網目のもとで「ゲーム」として包括されているが、これらをまたぐ本質はない。この意味で用いられる家族的類似は、マンデルバウムによれば問題含みである。まず、家族集団には共有される本質がないという前提だが、「共通の祖先を持つ」という特徴はひとまずその家族の成員をまたいで共有されるだろう。一方で、父と目の似た赤の他人もいるのだから、似ているという関係だけで区切ろうとしても“家族的”類似は得られない。ここでの教訓は、「ある一家に関して共有される性質は目に見えて知覚可能な、顕示的[exhibited]特徴とは限らない」というだけであり、本質がないとは言えない。

同様に、「ゲーム」にも「実用的でない関心において参加者と観客を楽しませる、という目的を持つ」という本質があり、「ゲーム」によって包括されるあらゆる活動がこれを共有しているかもしれない。この定義の是非はともかく、こういった目に見えない特徴が共有されている可能性は大いにあるだろう。ウィトゲンシュタインはもっぱら目に見える特徴に限って“家族的”類似を主張したが、目に見えない特徴において本質が共有されているという可能性が見逃されている。

同様に、「芸術」概念に関しても、各芸術作品が家族的類似によって結びついているという主張や、芸術の本質に関する定義が不可能であるという主張は疑わしい。起源[origin]や使用[use]や意図[intention]に関する関係的性質こそが、あらゆる芸術作品をまたいで共有されている特徴であるかもしれないからだ。マンデルバウム自身はこの「関係的特徴」がなんなのかを探究していないが、その候補のひとつはディッキーが定義したような制度[institution]のシステムであろう(『分析美学基本論文集』参照)。

 

続く第二節、第三節では、それぞれポール・ジフの主張とモリス・ワイツの主張に対する反論がなされる。

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ジフはプッサン《サビにの女たちの略奪》の分析において、この絵画をとりまく言説には以下のものが含まれると整理した。

  1. 「絵画である」
  2. プッサンがその能力を用いて描いた」
  3. 「画家はそれが見られ、鑑賞されるような場所に展示するよう意図した」
  4. 「見て鑑賞できるような場所に置かれている/置かれていた」
  5. 「しかじかの主題を表象[represent]している」
  6. 「しかじかの複合的な形式的構造を持っている」
  7. 「良い[good]絵画である」

ジフによれば、これらの言説の間には結びつきがあったりなかったりする。例えば、絵画の良さ(7.)に関して、美術館などに置かれている(4.)ことや作者による能力の行使(2.)と関与的だが、なにを描いているか(5.)は良さと無関係だとされる。ジフの立場はどうも恣意的で問題含みだが、それはともかく重要なのは、この絵画の分析を通してジフがある特定の美学的立場に立っているという事実だ。例えば、表象内容は重要ではない、という主張は《サビにの女たちの略奪》のみに当てはまるものではなく、明らかに絵画一般における主張として読める。また、ジフの特徴づけには作者や鑑賞者や導入されており、この点でもなんらかの関係的性質が芸術の本質としてあるかもしれない、というマンデルバウムの見解をほのめかしている。ジフは一般的な美学理論を拒絶しているが、無自覚のうちに一般性にコミットしている。

ワイツは「芸術」概念が静的[static]なものではなく、開かれた概念[open concept]であるがゆえに、本質主義的な定義はできないと考えた。芸術は、全く新しい形式が出てきては拡張され、変わった事例が出てくるたびに変容する。ゆえに、閉じられた必要十分条件によって定義するのは不可能だし、それができると考えるのはばかげている。

だが、ワイツは新たな事例が出てくるたびに定義が揺るがされる、という主張に関してなんら根拠を示していない。「具象画」にはさまざまなもの(宗教画、静物画、etc.)があり、今後も見たことのない新規の事例が出現しうるが、このことは「具象画」に関する正確で十全な定義を妨げない。すなわち、新たに事例が出てきうるからといって、現段階で良い定義を与えることが絶対に不可能だ、ということにはならない。ワイツは芸術に関する閉じられた定義と、芸術において重要な新規性・創造性が両立不可能だと考えたが、マンデルバウムによればそんなことはない。ちゃんとした「芸術」の定義は、将来の芸術作品をもカバーしうる。

最後にマンデルバウムは、「芸術」概念の歴史的経緯を追うP・O・クリステラー[PaulKristeller]の論文「諸芸術の近代的体系」(1951, ナンバさんのレジュメ)にも応答している。クリステラーによれば、絵画、彫刻、建築、音楽、詩の五つを主要な形式とする「芸術」概念は、実は18世紀の産物であり、それ以前には存在していなかった。マンデルバウムによれば、芸術の分類に関して歴史的変容が見られるとしても、これは一般志向の美学理論にとって障壁にはならない。

 

✂ 感想

いつもながら「Xはもう死にましたので、議論は無益で〜す」というスタンスとは戦っていこうという気持ちなので、マンデルバウムの反-反本質主義には励まされた。一方で、慎重な反本質主義として取るべき態度に関しても学びがある(とりあえず、「家族的類似」みたいなパワーワードを並べればいいわけではない)。

ウィトゲンシュタイン詳しくないので、家族的類似に関する評価がどこまで妥当なのかはメタ評価しにくい。共有されているかもしれないのは顕示的性質だけじゃないという指摘はあまりにも「そりゃそうでは」感があるので、本当にウィトゲンシュタインがこれを見逃していたのか気になる。

あと、関係的な特徴を推しているという点では、マンデルバウムと同時期の反-反本質主義でありつつ形式主義を推すモンロー・ビアズリー[Monroe Beardsley]との対立点があり、そのあたりも考えてみたい。

 

 

*1:この論集の紹介を含む論文として、利光功「美学はわびしいか:分析美学の射程と限界」(1994)がある。ネタとして有名な論文だが、ここで最終的にわびしいとdisられているのは、50, 60年代の一部界隈に限定された狭義の「分析美学」(マンデルバウムも相手取っているもの)だというのは一応留意しておく。今日「分析美学」と言ったときのキャロルやらウォルトンやらレヴィンソンやらとはだいぶ時代もノリも違うので要注意。わびしいかどうかは知らない。