ジェロルド・レヴィンソンと芸術に関する文脈主義

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ジェロルド・レヴィンソン[Jerrold Levinson]は現在メリーランド大学で卓越教授を務める美学研究者である。音楽の存在論における「指し示されたタイプ説」や、解釈と意図における「仮説意図主義」、芸術の意図的=歴史的定義など、さまざまなトピックにその後のスタンダードとなるような立場を提供しまくっている、キレキレの論者だ。*1

レヴィンソンの芸術哲学の中心をなすのは、「文脈主義[Contextualism]」という考えである。本稿では「美的文脈主義[Aesthetic Contextualism]」という2007年の論文をもとに、レヴィンソンという論者の思想的コアを手短に紹介する。いまや分析美学ではデフォルトといっていい立場である文脈主義の一般的なガイドでもある。

 

Levinson (2007)は、次のように文脈主義を説明している。

芸術作品とは特定の種類の人工物であり、特定の個人または個人たちによる、特定の時間と場所において人間が発明した産物たる物体または構造であり、その事実は、人が芸術作品を適切に経験し、理解し、評価する仕方に影響を与えるというテーゼ。
(Levinson, 2007, 4)

「特定の〜」がいっぱい付いているのがポイントだ。レヴィンソンによれば芸術作品とは本質的に歴史に埋め込まれた対象[historically embedded objects]である。それが生成する特定の文脈と切り離してしまっては、芸術という地位も、確定なアイデンティティも、明確な美的性質も美的意味も持ちえない、と述べる。

レヴィンソンは、芸術作品のこのようなあり方を、発話や行為や達成とのアナロジーから説明する。ある発話や行為や達成の意味や価値が、それがなされる文脈次第で左右されるように、芸術作品の意味や価値もまた文脈次第なのだ。

 

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文脈主義は、一方で①形式主義、経験主義、構造主義と対立し、他方で②相対主義脱構築主義と対立している。*2

前者との対立は明らかだろう。形式主義は作品の顕在的な形式[manifest form]だけが重要だと述べ、経験主義は作品を知覚することだけが肝心なのだと述べ、どちらも作品から外へ向かっていこうとしない。構造主義は、ある種の構造やパターンが時代を超えてある種の美的性質や力を持つ、という普遍主義にコミットする。

しかし、アーサー・C・ダントーが示したように、いまや日用品と見分けのつかない芸術作品はアートワールドにあふれている。レディメイドやポップ・アート以降、知覚だけでわかる形式や質ばかりに注目しても、その意味や価値はぜんぜん明らかにならない。端的な観察として、芸術の理解は見たり聴いたりするだけでは不十分なのだ

レヴィンソンは、芸術作品のアイデンティティを、特定の人物が特定の時代や場所において指し示したこととセットで理解する。つまり、文脈(作り手や作られた時代地域)が異なれば、視覚的・音響的には全く同一のものであっても、実際は違う作品なのだ。そういう、目に見えない文脈との結びつきを重視する点で、レヴィンソンによる芸術の定義・存在論は、ダントーのそれを直接的に引き継いだものと見ていいだろう。*3

また、この事実が鑑賞や作品理解をも左右する、というアイデアは、ケンダル・ウォルトンによる「芸術のカテゴリー」を引き継いだものだと言えるだろう。レヴィンソンは1970年代にウォルトンのもとで博士論文を書いていたので、ここには直接的な影響関係があると思っている。形式主義〜経験主義において、芸術作品が優美なのか繊細なのかけばけばしいのかはちゃんと見れば分かるとされてきたが、ウォルトンによればどんな美的質を持つかはそもそも作品をどういうカテゴリー(ジャンル、形式、スタイル、メディアなど)のもとで見るか次第なのだ。レヴィンソンは、このような鑑賞上の制約を、芸術作品そのもののあり方として、定義・存在論に敷衍した点がユニークだと言える。

 

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他方で、文脈主義は相対主義脱構築主義とも対立するものだった。文脈主義はわりと相対主義と混同して理解されやすいので、この違いをはっきりさせておくことは有益だろう。相対主義によれば、意味や内容や価値は、個々の知覚者や知覚者の集団に相対的なものでしかない。「なにが好きかは人それぞれ」というやつだ。脱構築主義はこれを一層過激化したものであり、あらゆる言説(ここにはテクストとしての芸術作品も入ってくる)には、安定した意味や一貫した意味が存在しないと述べる。

分析美学者らしく(?)、レヴィンソンはこれらのニヒリズムをほとんど相手にしておらず、文脈主義がうまくいく限り魅力のない立場だとして退ける。文脈主義は、「芸術かどうか、どう鑑賞すべきかは、人それぞれなので答えがない」という立場ではない。むしろ、特定の文脈を適切に踏まえて引き出される意味や内容を「正しい」ものとして認める、客観主義なのだ。

 

これは、芸術教育としていたってまともで望ましい考えのように思われる。興味深いことに、レヴィンソンも文脈主義をとるうれしさのひとつを、前衛芸術への悪口を鎮火できる点に置いている。「この作品と同じことが、前にも散々やられてきただろ」というのは、違う文脈において違うことを試みている点を見逃しているかもしれない。「うちの弟にもできるわこんなん」というのは、その文脈でその人がやっているのと厳密に同じことはできない、というのを見逃しており、「正確な贋作はオリジナルに劣らず芸術的に優れている」という反エリート主義は、形式だけ見ていて文脈を無視している。

余談だが、実際にモダンアートを教えていると、この「ちゃんと調べて、ちゃんと見よう」の前半部分が敷居を高くしている場面もたしかにある。誰だって、芸術鑑賞の入り口は見たり聴いたりして楽しむことであって、見たり聴いたりできない文脈について調べたり考えたりすることは、時間的には二次的にならざるをえない。だからこそ、対話型鑑賞などでは「とりあえず見て、感想を言ってみよう」というやり方(民間形式主義?)も推奨されるのかもしれない。これが悪い方向に突き進んだ先には、「芸術に関わる諸々に答えはなく、どう見るかは完全に自由、人それぞれだ」という開き直りがある。実際、ひとたびこういう思考のプリセットを形成した学生に、それとは別のものの見方を提示することは容易ではない。

レヴィンソンはほぼ間違いなく、「ちゃんと調べて、ちゃんと見る」経験が、「ただ見る」経験に対して質的・量的に上位、すなわちより大きく豊かな美的経験を与えると考えている。このような美的エリート主義に対して、私個人は賛成よりの中立だが、実践的に言って、これからアートワールドに入ろうとしている新参者にとって荷が重いのは間違いないだろう。芸術教育はその辺のバランスを取らなければならないので難しいとは思うが、そこにやりがいもあるのだと勝手に思っている。*4

 

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レヴィンソンに戻ろう。以上の文脈主義は、レヴィンソンの主要な仕事にも通底している。

芸術の定義における影響は明らかだろう。最大限噛み砕くと、レヴィンソンにとって芸術作品であるものとは、「先立つ芸術作品が受けてきた扱い・みなし[regard]を受けるよう、意図されている人工物」である。ここでは、歴史的な連続を意図されていることがポイントとなっている。この定義に対しては、「じゃあ一番最初の芸術作品はどうなるんだ」という反論が定番だが、また別の話だ。

芸術の存在論に対する影響もかなり顕著なものとなっている。

「t時点において-Xによって-指し示されたもの-としての-音/演奏手段の構造 (S/PM structure-as-indicated-by-X-at-t)」という奇怪な説明のポイントは、存在者としてのあり方のなかに時点や人物を組み込んでいる点だ。ハイフンによる連結は、文脈が作品と独立しつつ単に結びついているのではなく、文脈と作品がセットでひとつの存在者なのだと示す意図があるのだろう。

芸術解釈における仮説意図主義と文脈主義の関係性は意外と見えにくいかもしれない。レヴィンソンは、①作品の意味は現実の作者によって制約されるという立場(現実意図主義)を退けつつ、②作者はなんの関係もないから自由にテクストと戯れていいという立場とも距離をとるため、③仮説意図主義という中間的な立場を選ぶ。それによれば、芸術作品の正しい意味とは、文脈を適切に踏まえた鑑賞者が、合理的かつチャリタブルに作者へと帰属するような意図によって決まる

ここで、芸術作品が歴史という公的な「場」=文脈に埋め込まれていることが前提として機能している。そのような公的文脈に出てこない限りで、レヴィンソンは解釈において現実の作者の私秘的な日記や手紙を証拠として利用することに反対しているのだ。仮説立てというのも、前述の「ちゃんと調べて、ちゃんと見よう」のいち作業となっているわけだ。

 

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文脈主義という軸に沿ってさまざまなトピックが有機的にまとまっていく様はたいへんエレガントだと思う。日本ではわりと紹介されているほうの論者だが、こういった思想のコア部分を知ればもっと見通しがよくなるはずだ。

一般的に言って、文脈主義というものの見方は、前述した教育上の実践的困難がありつつもリターンの大きいものだと私は考えている。芸術作品を相手にすることは、美術史の一部を相手にすることにほかならず、(少なくとも個人的な手応えとして、)お勉強には確かに見返りがある。

私としては、そんなレヴィンソンが、芸術のカテゴライズという典型的な歴史化プロセスを語る段になって、カテゴリーの設定を現実の作者の意図に一任するくだりが相変わらず不可解でならない。

*1:ジェロルドかジェラルドかの表記ブレがあるが、いくつか見た動画ではジェロルドで紹介されているように聞こえるので、私=『分析美学入門』はジェロルドを推している。

*2:レヴィンソンの説明する立場が、いわゆるフランス現代思想における構造主義に相当するものなのかは、説明を見ただけでは定かではない。他方、あとに続く脱構築主義は明らかにデリダなどを念頭に置いている。

*3:Hans Maesのインタビュー集によれば、ダントーはレヴィンソンについて、「芸術の定義はおそらく正しいがあまりおもしろくない。音楽作品の論文は正しいかどうかはともかくとてもおもしろい」と述べているらしい。

*4:

趣味教育の問題はレヴィンソン自身が定式化している。森さんが前にロペスのネットワーク理論と照らしつつ検討されていた。