レジュメ|モンロー・ビアズリー「批評的理由の一般性について」(1962)

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分析美学第一世代をちゃんと読む会」(通称「ちゃん読[chandoku]」)という勉強会を始めました。最新のBJAやJAACをチェックしてバチバチの論争に参加するのもいいですが、たまには腰を据えて古典でも読んでみようじゃないか、という趣旨の会です。マニア向けですがだいぶ勉強になる会なので、ブログでも活動報告をしていきます。

第1回は、批評における理由付けの一般性を擁護するモンロー・ビアズリー論文を読みました。以下、私の切ったレジュメです。

次回(2月26日金曜19:30-)は本論文に対するフランク・シブリーの反論を読みます。だいたい隔週金曜の夜にZoomでやりますので、興味のある方は連絡ください。あと、これとは別に「描写の哲学関連の文献を読む会」もやっています。

 0.批評的理由付けは可能か

ある主張に理由を与えること=その主張を支持するために別の主張をすること。批評家は芸術に関する判断に理由を与えている

シェイクスピアのハイフン』の作者曰く「ハイフンが多ければ多いほど偉大な詩である」。しかし、「この詩はしょぼい。ハイフンが足りないから」みたいなのはぜんぜん理由付けになっていない。批評に関する懐疑主義[Critical Skeptic]によれば、この意味での批評的判断の「理由」についてまったくありえないか、理由にはなっても説得力のある良い理由にはなりえない。

【例】詩人ワーズワース[Wordsworth]による序文「読者がこれらの詩を賞賛してくれるように理由付けるなどという、利己的でばかげた望みはない」。>>>【応答】理由付けが利己的なのは確かかもしれないが、なぜばかげているのか。「賞賛」が単に「好むこと」を指しているなら、特定の詩を好きになってもらえるよう説得する[argued into liking]のはばかげているという懐疑主義の主張ももっともである。しかし、理由付けの目的は、詩を好きになってもらうことではなく、その詩が良いということに気づいてもらう点にある。問題は、挙げられる理由がこのような目論見に役立つかどうかである。

クリーンス・ブルックス[Cleanth Brooks] (1947)によれば、「詩は、そこに込められた考えの真偽ではなく、一貫性[coherence]、感受性[sensitivity]、深み[depth]、豊かさ[richness]、意志の強さ[tough-mindedness]によって判断されるべきである」。例えば、批評家が「この詩はしょぼい。首尾一貫していないから」と述べるなら、これは懐疑主義に反し、明らかに「良い理由付け」と呼びうるではないか。

しかし、このようなケースを「良い理由付け」と呼ぶのは、単なる言葉の誤用だと応答されるかもしれない。「“良い理由付け”について正当な仕方で語れるのだとすれば、正当な例がいくつかあるに違いない」と仮定しても、批評における理由付けが(法的推論や倫理学や核抑止に関するゲーム理論における理由付けとは異なり)どれひとつとして良い理由付けの例になっていない可能性がある。懐疑主義の主張をより細かく見ていく必要がある。

 

1.規準の一般性について

ビアズリーの主張】批評家は実際に価値判断をするし、ときには良い理由付けによってそれを適切に支える。理由として使われるのは作品の性質に関する記述的・解釈的命題(「この詩は一貫している」など)であり、こういった性質は価値の規準[criterion of value]とされる。参照される規準は、肯定的な判断を支持するならば利点[merits]であり、否定的な判断を支持するならば欠点[defects]である。例えば、批評家が「この詩はしょぼい。一貫していないから」と述べるなら、「一貫しないこと」は詩の欠点だとみなされている。批評の規準とは、作品を(より)良くしたり/(より)悪くするような特徴である。

一方、懐疑主義によれば、美的価値(詩や絵画や劇や音楽の良さないし悪さ)の規準は存在しない。ジョン・ウィズダム[John Wisdom] (1948)曰く、良い絵画に関する一般的な規則や規範を与えようとする言説はつまらない。

ある命題が別の命題を支持する理由になるなら、両者の間にはある種の論理的結びつきがなければならない。そして、論理的結びつきであるためには、一般的な概念を抽象的な仕方で関連付けなければならない。例えば、ある程度の鋭さを持つことがナイフにとっての利点であるならば、「あるナイフはある程度の鋭さを持つ」と述べることは、「良いナイフである」という結論をつねに支持するし、このことはあらゆるナイフに関して当てはまる。他に深刻な欠点があるかもしれないので、「良いナイフである」と証明するには満たないとしても、鋭さはつねにナイフの良さに貢献する。鋭さがナイフの欠点になることはないし、それ以外の点では全く同じナイフがあったときには鋭いほうがより良いナイフである。したがって、鋭さはナイフの一般的[general]利点となる。

この種の一般性が(論理的な意味での)理由付けにおいては重要である。そして、批評的規準が理由付けにおいて参照される特徴として定義されるならば、そういった規準も一般的だということになる。したがって、批評家の判断を支持する理由が存在することは、評価の一般的規準が存在することを伴う。これを一般的規準説[General Criterion Theory]と呼ぶことにする。

懐疑主義からの反論】ウィリアム・E・ケニック[William E. Kennick]「伝統的美学はそもそも間違っていたのか?」(1958):それだけで批評的評価を支持できるような、あらゆる芸術作品に当てはまる一般的規準はない。異なる作品は、異なる理由によって褒められたり貶されるし、ある絵画において褒められるべき理由が別の絵画においては貶されるべき理由になる。

【問い】批評的理由には、批評の原理を形成できるほどの、適用に関する一般性があるのか。もしないのだとすれば、①一般的な原理にコミットすることはないが、個別のケースに関しては理由付けができるか、②理由付けにはやはり一般性が大事なので、一般的規準がないのであれば批評的規準は(個別のケースにおいてすら)まったくない、ということになる。

ところで、他の哲学分野においても類比的な問題がふたつある。

  1. 倫理的判断の普遍化可能性問題:例えば、約束に遅刻した人を非難するとき、我々は暗黙的な規準を普遍化しているのか。「関与的な点で同じ状況にある人物なら、誰であれ非難に値する」としても、循環することなく「関与的な点」の規準を与えることは難しい。肌の色は関与的じゃないだろうが、トラックに轢かれていることは関与的だろう。
  2. 単一の因果的言明と一般的法則の関係についての問題:伝統的な見解によれば、単一の因果的言明「落としたせいで、水差しが割れた」は、(十全に定式化できるかはともかく)なんらかの普遍的法則「この種の水差しをこのような仕方で落とせば、つねに割れるだろう」を適用している。しかし、近年の見解によれば、我々はいかなる一般的法則にも頼ることなく、単一の因果的言明について知ることができる(歴史的説明など)(詳細には踏み込まない)。ビアズリーによれば、美的問題は、因果に関する問題の特殊ケースである。すなわち、ある芸術作品の美的良さは、ある種の望ましい性質を伴う経験を与える能力[capacity]から成り、この能力に対して貢献ないし妨害するような特徴が批評的評価の規準となる*1ビアズリーは、このような規準が一般的であるがゆえに、個別作品の価値にも関与的だと主張したい。

 

2.一般規準説への反論と応答

【一般的規準説への反論】「芸術作品は唯一無二である」:各芸術作品は、各ナイフや各タイプライターよりも高度の個別性を持っていそう。ゆえに、あらゆる芸術作品をまたいで望ましいとされる特徴はないように思われる。

しかし、ビアズリーによれば、美的対象の真正なクラスは現に存在し、そのメンバーが共有する重要な性質もちゃんとある。道徳に関わる場面が多種多様にせよ、「勇気」がつねに徳となるのに変わりはない。

関連して、「優れた批評家とは、個別の作品に独特の[peculiar]長所に気づく者である」と言うが、「独特の長所」とはなんなのか。仮に、(A)既存の作品にはない長所を指しているであれば、多くの作品は独特の長所を持つと言えるだろうが、このことは一般的規準説と矛盾しない*2。(B)目下の作品においては長所となるが、別の作品においては長所となりえない性質を指しているのであれば、そもそも「独特の長所」なるものがあるとは思えない。

 

ケニックの懐疑主義に戻る。ビアズリーによれば、ケニックの主張は四通りに区別できる。

1)良さの必要ないし十分条件となるような単一の特徴はないので、一般的規準説は間違っている。

【応答】ビアズリー的には、十分条件がないことには同意してもいいが、必要条件がないのは疑わしい。例えば、ある程度の一貫性[coherence]を持つことはそもそも詩であることの必要条件だし、さらに言えば良い詩であるための必要条件だと思われる。>>>【再反論】ある程度と言うが、良い詩であるために必要な一貫性の度合いは決まっていない。>>>【再応答】必要ないし十分条件がないことは認めてもいい。だからといって一般的規準説が間違っていることにはならない。

一般的規準となる特徴が、しょぼい詩にあったり優れた詩に欠けていたとしても、依然としてありさえすればつねに利点であり、作品の良さを引き上げるような特徴であるかもしれない。高潔ではないが良い人はいるし、高潔だが悪い人もいるが、このことは「高潔さ」がそれ自体徳であることを妨げない。同様に、あらゆる良い詩が(Brooksの挙げた)「深み」を持つわけでも、「深み」を持てば必ず良い詩であるわけでもないにせよ、「深み」はやはり詩にとってつねに良いものだと言いうる。

2)作品ごとに利点とされる特徴は異なるので、一般的規準説は間違っている。

【応答】ある絵画は詩的優美さゆえに良く、別の絵画は英雄的力強さゆえに良いことは、「詩的優美さ」と「英雄的力強さ」がともに絵画の良さにつながる特徴(一般的規準)だという事実と矛盾しない。勇敢ゆえに良い人や、感受的ゆえに良い人はいるが、勇敢かつ感受的ゆえに良い人は少ないのと同様、一枚の絵画においては両立しづらいというだけ。Brooksの挙げる「感受性」においては優れても「意思の強さ」においては劣った詩がありうる。

3)一部の作品にとっては利点だが、別の作品においてはまったく利点ではない性質(例えば「写実的である」)があるので、一般規準説は間違っている。

【応答】作品にはさまざまな性質があるが、そのなかにはそれ自体として価値に寄与するものもあれば、他の性質との組み合わせによってのみ価値に寄与するものもある。パンがなければバターはいらないし、バターがなければパンはいらないみたいに、連合[association]によってのみ望ましい性質の組がある*3。要は、バターが望ましいかどうかは、場合による(パンがあるならあったほうがいいし、パンがなければいらない)。

ある性質xがある詩において利点であるのは、その詩の他の性質yとの連合による良さかもしれず、性質yを持たない別の作品においては、性質xは中立かもしれない。汚い言葉がいっぱい出てくることが利点となるか中立かはケースバイケース。

 

3.一次的規準と二次的規準

4)一部の作品にとっては利点だが、別の作品においては欠点である性質(例えば「ちょっとしたユーモアがある」)があるので、一般規準説は間違っている。

【応答】従属的[subordinate]な規準がある。ちょっとしたユーモアは、ある作品においてははりつめた緊張感を高めるがゆえに利点であり、別の作品では緊張感を台無しにするので欠点である。ここで、ちょっとしたユーモアは一般的利点でないかもしれないが、かわりに「はりつめた緊張感」が一般的利点となる。ともかく、一般的規準説の擁護者はより一般的で基礎的な規準を挙げることで、容易に応答できる。

批評的規準はふたつの等級に区別できる。

  • 性質A/B/Cに関して、どれかを減らすことなくいずれかを加えたり増やすことが、つねに作品をより良くする場合、これらは美的価値の「一次的(肯定的)規準[primary (positive) criteria]」である*4
  • ある性質Xに関して、一連の別の性質が存在するとき、Xを加えたり増やすことが、つねに一次的規準のどれかないし複数を増加させる場合、性質Xは美的価値の「二次的(肯定的)規準[secondary (positive) criterion]」である。

いずれにおいても重要なのは「つねに[always]」という部分であり、どちらも一般的規準として定義されている*5。ただし、二次的規準は従属的かつ条件的[conditional]であり、例えば「優雅な変奏」が様式的な欠点となるのは、ごく一部の文脈のみである〔この例が謎〕。これに対して、一次的規準はありさえすればつねに価値を引き上げるし、ある一次的規準がないことは(他の利点で補いうるとしても)つねに欠陥である。ビアズリーはポール・ジフ[Paul Ziff] (1958)の説明「良い絵画の中には無秩序なものもあるが、それは無秩序にもかかわらず良いのであって、無秩序ゆえに良い絵画は存在しないし、多くの絵画は無秩序ゆえに悪い」に同意している。ゆえに、厳密な意味での「無秩序である」は、一次的(否定的)規準であるとする*6

 

 

*1:〔補足〕美的価値の能力定義[capacity-definition]というやつ。ビアズリーは「美的○○」の連鎖的定義をしている。ざっくり言えば、美的経験(美的満足/美的楽しみ)を与える能力を持つことが美的価値であり、美的価値を推し量ることが美的判断(美的評価/美的観点の適用)であり、美的価値を与えるよう意図されたものが芸術作品である、などなど。ここでは、美的経験を与える能力に寄与する特徴としてなんらかの規準が考えられており、その働きは因果的だとみなされている。

*2:〔補足〕やや説明不足な気がするが、おそらく、作品ごとに固有の長所があったとしても、それはともかく、作品をまたいで良さに寄与する一般的特徴が(別に)あるかもしれない、という線での応答。

*3:〔コメント〕ふと補完財の無差別曲線を連想したが、ビアズリーはこの連合ケースをどういう価値曲線で考えているんだろうか。ある性質xとyが連合的にのみ価値を引き上げるとして、ともに一定以上ある前提で、①xだけを引き上げても全体の価値は増すのか、②xとyを同時に引き上げる場合のみ価値が増すのか。普通にケースバイケースとは思うが、なんとなく①で考えている気がする。ここでの応答としてはどちらでもいいんですが、念頭に置いていたのはどっちだったんだろう、という話。

*4:ディッキー (1987)によれば、ビアズリーによる一次的基準の定義は、一次的基準同士の相互作用を排除していないので、結局ビアズリーの要請する独立的な一般性は満たせない。個人的には「どれかを減らすことなく」という条件で予防できている気もするが。

*5:〔コメント〕二次的基準の定義がゆるすぎる気がする。一次的規準がただひとつしかないにせよ、相互作用によってこれをもたらす組み合わせは(無限とは言わずとも)かなり多いはずなので、二次的規準もかなり多いことになってしまう。例えば、任意の色は、描かれているものとの組み合わせ次第で「統合性」をもたらすのでは(だとしても、あらゆる色性質が二次的基準だというのは明らかにおかしい)。

*6:ここでは「無秩序」が否定的な一次的規準だと示唆されているが、『美学』などを踏まえると、ビアズリーが推している肯定的な一次的規準は「統合性[unity]」「複雑性[complexity]」「強度[intensity]」の三つになる。シブリー (1983)は、この一次的基準を探す作業いらんのでは?という立場。

〔コメント〕シブリーは、「優美な」といった性質(ビアズリーが二次的基準にくくったものの一部)は、相互作用しつつも美的極性においてポジティブな性質なので、これを一次的基準と呼ばない理由はないと考える。個人的には、シブリーの「相互作用次第で欠点にも利点にもなるが、それ自体の極性としてはポジティブ」という理屈がもうひとつ分かっていない。シブリーは「ダジャレの多い」は極性として中立だが、「ユーモアのある」は極性としてポジティブだとするが、正確に言ってどういう振り分けなのか(直感的にそう“思われる”以上の根拠はあるのだろうか)。

〔全体コメント〕ビアズリーにおける記述と規範の兼ね合いが気になった。ポジション的には芸術批評の記述を目指した論者として認識しているが、規範的だと考えたほうが理解しやすい主張が多い+デューイらプラグマティストのフォロワーという側面もあり、正確なモチベーションが気になる。