本記事は、「スタンフォード哲学百科事典 Stanford Encyclopedia of Philosophy」収録「ビアズリーの美学[Beardsley's Aesthetics]」の意訳&抄訳である。
モンロー・ビアズリー(1915-1985)は20世紀英語圏を代表する美学者のひとりであり、分析美学においてはフランク・シブリー[Frank Sibley]と並ぶ巨人とみなされている。2005年のJAAC 63(2)号では「美学におけるビアズリーの遺産」としてシンポジウム特集が組まれているが、名だたる寄稿者たちが次のように紹介している。
もしビアズリーの『美学』が出版されていなければ、美学がなんであるのか私が理解することは決してなかっただろうと思う。出版に先立ち、私はすでに二年間も美学教員をしていたにもかかわらず、である。/ビアズリーの本の出版は、20世紀の分析美学において、最重要な出来事のひとつであった。(ジョージ・ディッキー[George Dickie])
「ビアズリーの『美学』は、現代の分析芸術哲学にとって、根本的な貢献を果たした。(スティーヴン・デイヴィス[Stephen Davies])
ビアズリーは、その後の20世紀において花開く分析芸術哲学の草分けとなった栄誉に浴している(ニコラス・ウォルターシュトルフ[Nicholas Wolterstorff])
ビアズリーの主著である『美学』は、いまでも英語圏の美学教科書として使われるような大著である。分析美学という分野の紹介としては最優先の一冊だが、残念ながら和訳はまだない(いかんせん、原著600ページ超という大作だ)。*1
また、本文中でも言及されるが、ビアズリーの名がもっともよく知られているのは、文学批評におけるニュー・クリティシズムを牽引した論文「意図の誤謬」である*2。『美学』には「意図の誤謬」を発展させた議論も含まれており、文学研究・批評理論研究にとっても重要な文献だ。*3
ということでぜひ訳されてほしいので、本記事にはささやかなプロモーションとしての意図もある。ご検討いただけると幸いです。
0.概要
モンロー・ビアズリー[Monroe Beardsley]はアメリカの美学者。1915年にコネチカット州ブリッジポートで生まれ育ち、1939年にイェール大学で博士号を取った。スワースモア大学で22年間、テンプル大学で16年間教鞭をとった。
美学研究でよく知られているが、歴史の哲学、行為理論、近代哲学史の分野でも論文を発表している。
三冊の著作のうち、『美学:批評哲学の諸問題[Aesthetics: Problems in the Philosophy of Criticism]』(初版1958、第二版1981)がもっとも包括的で影響力を持っている。分析的伝統に連なる美学としては、最初期の体系的な文献とされている。20世紀の分析美学書としてはもっともimpressiveでimportantだと言われることも多い。
『批評の可能性[The Possibility of Criticism]』(1970)は文学批評に焦点をあわせたもので、四つの問題を扱っている。①文学テキストの「自給自足性」、②文学的解釈の本性、③文学テキストの判断、④悪い詩。
『美的観点[The Aesthetic Point of View]』(1982)は既発表論文と書き下ろし論文を集めた論集。美的経験、芸術の定義、価値判断、芸術批評における理由、作者の意図と解釈、芸術と文化などのトピックを扱っている。
1.背景
『美学』における芸術哲学は、以下三つのポイントに焦点をあてている。①芸術そのものと、人びとの芸術に関する前哲学的な関心と見解、②芸術に関する批評家の判決、③哲学上の発展、とりわけ(それだけではないが)分析的伝統に連なる発展。これらの背景として、(1)ビアズリーが芸術哲学を学んでいた1940年代後半〜1950年代初頭は、音楽、絵画、文学において新しい形式の芸術が生まれる一方、十分に確立されたカノンのほうが美的に優れており注目に値するのだと、ほとんど普遍的に考えられていた時期にあたる。(2)芸術批評が産業となり、マルクス主義、形式主義、精神分析、記号論、歴史学、伝記学などさまざまな学派が栄えていた。(3)哲学もまた、急速かつ予期せぬ仕方で変貌を遂げていた。具体的には、言語を重視し強く実証主義的な傾向を持つ分析哲学が、20年ちょいでアメリカ学内では優勢となり、哲学界を席巻していた。
(1)に関して、ビアズリーは芸術の発展に関しては「オープンマインドな中庸」と表現されるべき立場を取っている。新しい流行やムーブメントを歓迎しつつも、なんでもありではなく、あくまで作品からなにかを得ることを目指す。
(2)に関して、ビアズリーはいわゆる「新批評/ニュー・クリティシズム[New Criticism]」の立場を取った。ニュー・クリティシズムは文学批評に関して、「作品の出自に関する関連事実」「個々の読者に与える影響」「個人的・社会的・政治的影響」といった要因を否定ないし低く評価した。批評家に求められるのは精読であり、作者の伝記や、作品が書かれた当時の社会状況や、創作に関する心理学的データや、社会に与える影響の予測や、批評家自身の反応を記した自伝を提供するのが本分ではない。芸術作品はそれ自体特別で、自律的で、重要なものだと認識されるべきであり、芸術批評が目指すべきなのは、その機能や意味や美的特性を理解することであり、批評的判決をテストするには客観的で公的にアクセス可能な方法や基準に依拠するべきである。
(3)に関して、ビアズリーは当時の主流であった論理実証主義にも日常言語学派にも偏らないような、分析哲学の一般形式を採用した。ビアズリーにとって、芸術哲学への分析的アプローチとは、芸術や芸術批評の根底にある基本的な概念や信念を、批判的に検証することにほかならない。この種の哲学をするには、明晰さ、正確さ、議論を見きわめ・暴露し・評価するための観察眼が求められるが、これを美学において体系的に試みた先例は少なかった。
2.美学の本性
『美学』は600ページを超える長大な本だが、あらゆる芸術を網羅するのは無理だったので、もっぱら文学、音楽、絵画の話にしぼっている。ビアズリーは美学をメタ批評[meta-criticism]だと考えた。美学の本性に関するビアズリーの見解は、「哲学は化学や宗教や歴史に関する一階の言明を対象とした、メタ水準の、本質的に言語的な活動である」という当時の(また、今なお広まっている)見解を反映している。
もし誰も芸術について語らないならば、美学の問題はなにもないだろう。……取り扱うための批評的言明を手にするまで、美学をすることはできない。(『美学』, pp.1,4)
〔美学が関わるのは〕批評の本性および基礎であり、……批評それ自体が芸術に関わるのと同じ仕方で〔美学は批評に〕関わる。(『美学』, p.6)
ビアズリーによれば、批評的言明には三種類ある。
第一に、記述的[descriptive]言明は、芸術作品の規範的でない性質に関わるものであり、なんらかの仕方で作品に内在する。また、十分に敏感で・注意力があり・経験のある、ふつうの視力や聴力を持った人であれば利用可能なものである。「絵画の右上に小さな赤い斑点がある」は典型的な例だが、「ハイドンの交響曲23番はダイナミックな緊張感に満ちている」も記述的。ビアズリーの考えでは、記述的言明に関する哲学的問題は、「形式[form]」の概念に関わっている。
第二に、解釈的[interpretative]言明もまた非規範的なものであるが、こちらは芸術作品の「意味」に関わる。意味は、作品とその外にあるなにかの間の意味論的関係(少なくとも意味論的関係とおぼしき関係)を指している。解釈的言明例の例として、「それは公証人ソヤクの画像だ」「それはユニコーンの画像だ」「この一節はシーザーに対するブルータスの裏切りに言及している」「『マクベス』のテーゼは非常に単純だ。それは“汝、殺してはならない”である」など。
第三に、評価的[evaluative]言明とは、主に芸術作品の良し悪しについて述べるような規範的判断である。例として、「モーツァルトの《トルコ行進曲》は、短いピアノ曲としては優れたものである」「『酒場の床の顔』は悲惨な詩だ」など。「これは美しい」という判断は、カントによれば趣味判断の典型例だが、とりわけ後期のビアズリーにおいては(ときに批評的評価だと考えられるものの、)多くの場合、記述的判断として扱われる。それ自体が評価というより、評価の基礎となっている(記述:美しい⇒評価:良い)。
3.芸術の存在論
『美学』第一章は、芸術作品、ビアズリーの用語では「美的対象 aesthetic objects」の存在論に割かれている。芸術作品の語を避けたのは、いわゆる「芸術の定義」問題に巻き込まれたくなかったから、らしい。
まずは物理的対象と知覚的対象の区別。あるものが「6×6フィートの大きさであり、静止している」と述べるとき、われわれは物理的対象について語っており、「ダイナミックで、恐ろしい」と述べるとき、われわれは知覚的対象について語っている。知覚的対象とはわれわれが知覚する対象であり、ビアズリー曰く、
〔知覚的対象の持つ〕性質の少なくとも一部は、直接感覚的に気づくこと[direct sensory awareness]ができる。(『美学』, p.31)
美的対象は、知覚的対象の部分集合であるが、必ずしも物理的対象ではないわけでもない。区別通り知覚的対象である場合もあれば、物理的対象であり、そこに物理的側面と美的側面が含まれる場合もある*4。対象として考えるか、側面として考えるかは、ビアズリー的にはたいした違いはないらしい。
ビアズリーの存在論は、より物理主義的な解釈もできうるが、おおむね現象学的な傾向を持っている。美的対象の「提示/プレゼンテーション[presentation]」は、特定の人物が特定の場面において経験された対象として定義される。提示は本質的に、美的対象の感覚与件/センスデータである。しかし、美的対象は提示と同一視できない。同一視すると、美的対象が人・場面それぞれで膨大な数になるし、批評がカオスになる。また、美的対象と提示のクラスを同一視することもできない。美的対象は少なくともいくらかの知覚的性質を持たなければならないが、抽象的存在であるクラスは、そのような性質を持たない。しかし、ビアズリー曰く、
美的対象についてなにかを述べたいときには、われわれはいつでもその提示について話すことができる。(『美学』, p.54)
〔このような方針は、〕美的対象を提示に還元するのではなく、提示についての言明をもとに、美的対象についての言明を分析するに過ぎない。(『美学』, p.54)
これは事実上、言語的現象主義の態度であり、美的対象についての言明を提示についての言明(すなわち、対象の経験に関する言明)に翻訳した場合の意味の保存にコミットしている。
これだけでは満足しなかったようで、ビアズリーは以下四つのものを区別している。
(a)人工物/アーティファクト[artifact]:書き留められた劇作品それ自体。
(b)ある特定の制作物/プロダクション[a particular production]:マルケット大学演劇部の制作物ではなく、オールド・ヴィックの制作物、みたいな。
(c)ある特定の上演/パフォーマンス[a particular performance]:ハエルファー劇場での昨夜の上演。
(d)ある特定の提示/プレゼンテーション[a particular presentation]:昨夜の上演を見に行ったポーター・アレリュウナスの経験のなかに現れた戯曲作品。
同様の区別は芸術形式をまたいで当てはまるが、芸術形式によって異なるし、自然に当てはまるものとそうでないものがある。(a)ベートーベンの《交響曲第9番》というアーティファクトがあり、(b)フィラデルフィア交響楽団による特定のプロダクションがあり、(c)昨夜わたしが家で再生した際の特定のパフォーマンスがあり、(d)昨夜わたしと友人が体験した特定の提示がある。多くの場合、ひとつのアーティファクトに複数のプロダクションがあり、ひとつのプロダクションに複数のパフォーマンスがあり、ひとつのパフォーマンスが複数の提示を生み出しうる。このような区別が該当しないケースもある。詩を黙読する場合、プロダクションは同時に提示でもある(おそらくパフォーマンスでもある)。建築においては、建築計画がアーティファクトであり、完成した建物はプロダクションである(し、おそらくパフォーマンスでもある)。一点物の絵画と彫刻において、アーティファクトとプロダクションの区別はほとんど消滅する(パフォーマンスとの区別もおそらく消滅する)。
【問い】美的対象/批評的注目の対象とはなにか?:前述の通り、提示や提示のクラスとは同一視できない。また、アーティファクトとも同一視できない。様々な《第九》の録音はそれぞれ異なる、場合によっては共存不可能な性質を持つ(〈60分以上〉〈60分未満〉など)。美的対象をアーティファクトと同一視するなら、それは〈60分以上、かつ、60分未満〉であるみたいな仕方で矛盾する。ビアズリーによれば、美的対象ないし批評的対象となるのは(2)プロダクションであり、批評家はプロダクションを記述・解釈・評価するのが仕事である。
存在論に関する初期ビアズリーの見解は、言語的現象主義か、あるいはいまいち体系的ではない多元主義であった(一部のプロダクションは物理的対象であり、一部は心的対象であり、一部は物理的出来事である、みたいな)。ビアズリーの存在論は、芸術批評に関する彼の仮定と並べると理解しやすい。
- 美的対象は知覚的対象である。すなわち、提示を持つことができる。
- 同一の美的対象の複数の提示は、異なる時間に異なる人に対して生じうる。
- 同一の美的対象のふたつの提示は、互いに相違しうる。
- 美的対象の諸性質は、いかなる特定の提示であれ、完全に出し尽くされる[exhaustively revealed]ことはない。
- 提示は正しくなされうる[veridical]。すなわち、提示の諸性質は、美的対象の諸性質と対応しうる。
- 提示は誤ってなされうる[illusory]。すなわち、提示の諸性質の一部は、美的対象の諸性質と対応しない場合がありうる。
- もし、同一の美的対象のふたつの提示が、両立しない性質を持つならば、少なくともどちらか一方は誤ってなされた提示である。
ここで、「美的対象」を「芸術作品」として理解するならば、基礎となっている存在論はセンスデータ存在論でも混合カテゴリー存在論でもない。仮定2,4,6(おそらく3,7も)はセンスデータ存在論と相なれない。1から7が示すのは、芸術作品は物理的対象であるということだ。物理的対象は、1.知覚可能であり/2.時空をまたいで公的ないし間主観的に利用可能であり/3.異なる観点や時点において異なる仕方で現れうるものであり/4.特定の場面のみで理解し尽くすのは無理であり/5.6.正しく知覚されたり誤って知覚されるような性質を持ち/7.性質の帰属が排中律に従うような対象にほかならない。
やがて、ビアズリーは非還元的な唯物論へと接近するが、このような存在論は絵画のような単数[singular]芸術作品をうまく扱える一方、音楽や詩といった複数[multiple]芸術とは相性がわるい。後にビアズリーは、再び存在論的多元主義に向かう。多元主義であれば、芸術作品は物理的対象(対象は広義であり、出来事を含む)であるか、あるいは、物理的対象の種である。
4.芸術の定義
『美学』においてビアズリーは「芸術作品」という語を可能な限り避けていたが、『美的観点』では芸術の定義をしている。驚くべきことに、それは新ロマン主義的で、意図主義的な定義であった。
〔芸術作品とは、〕きわだった美的性格を伴う経験を与えることを意図した諸条件の設え[arrangement]、あるいは、このような能力を持つことが典型的には意図されているようなクラスないしタイプに属するような設えである。(『美的観点』, p.299)
ここでは、美的な性格を持った経験を与えるよう意図されて創造された人工物(諸条件の設え)こそが、芸術作品だと定義されている。ただし、成熟しきった美的経験の提供を要求しているのではなく、「きわだった美的性格を伴う経験」さえあればよい。また、芸術作品が日常的な意味での実用的機能を持たない、というわけでもない。ふつうに座れる椅子でも、芸術作品たりうる。最後に、創造における主だった意図が美的な意図である必要もない。宗教的象徴を創造するメインの意図は、信者を神に近づけることかもしれない。
「あるいは」以降は、機械的な組み立てラインで作られたような人工物をカバーしている。以上の定義をとる理由として、ビアズリーは以下のように述べている。
美学理論において役割を果たすために選ばれる定義は、美学理論にとって重要であるような差異を示さなければならない。(『美的観点』, p.299)
美学理論において重要な用語を選ぶさいには、語のふつうの用法に可能な限りとどまるべきである。(『美的観点』, p.300)
〔自身の定義は、〕前衛的な発言や書き物ないし前衛的なものについての発言や書き物を除けば、何世紀にもわたってよく知られており、いまなお広く受け入れられている用法を適切に捉えている〔ところにメリットがある〕。(『美的観点』, p.300)
〔芸術作品の定義は、〕美学以外の分野〔美術史や人類学〕の研究者に対して最大限の有用性を持つべきである。(ときに)美学は、そのような分野のサポートないし下支えだと考えられるべきである。(『美的観点』, p.304)
〔芸術作品の定義は、〕芸術と美的なものを、……概念的に結びつけるようなものでなければならない。(『美的観点』, p.312)
5.芸術家の意図
ビアズリーの仕事でもっともよく知られているのは、彼が美学について初めて書いた論文である。ウィリアム・K・ウィムザット[William K. Wimsatt]との共著で1946年に発表された「意図の誤謬[The Intentional Fallacy]」では、「芸術作品の意味とは、芸術家が意味すると述べたこと、ないし意味しようと意図したことである」という新ロマン主義的な見解に反論している。意図主義によれば、
(1)芸術家は作品wにおいて、pを意味するものとして、xを意図している。[The artist intended x to mean p in work w.]
(2)作品wにおいて、xはpを意味する。[x means p in work w.]
E・D・ハーシュ[E.D. Hirsch]によれば、少なくともwが文学作品ならば、(1)は(2)を含意する。xの意味とは、芸術家がxによって意味しようとする・意図した事柄である。すなわち、極端な意図主義者は(1)ならば(2)と考える。
ビアズリーは対照的に、芸術家の意図は芸術作品の解釈にとってまったく関与的ではないと考える。(1)は(2)を含意しないだけでなく、それ自体として、(2)を支持するような直接的な証拠を提示するものですらない。作品の意味する事柄にとって、芸術家の意図はなんの関係もないのだ。
さらに、ビアズリーによれば、
(3)芸術家は、wが記述的な性質pを持つことを意図した[The artist intended w to have descriptive property p]
という事実は、
(4)Wは記述的性質pを持つ W has descriptive property p,
を支持する直接的な証拠をなにも提示していない。また同様に、
(5)芸術家は、wが評価的な性質eを持つことを意図した[The artist intended w to have evaluative property e]
という事実は、
(6)Wは評価的性質eを持つ。[W has evaluative property e.]
を支持する直接的な証拠を提示していない。ビアズリーによれば、芸術家の意図は記述的性質・解釈的性質・評価的性質のいずれにとってもまったくの無関係である。*5
「意図の誤謬」に加えて書かれた共著「感情の誤謬[The Affective Fallacy]」(1949)では、芸術作品に対する鑑賞者の感情的反応もまた、作品の記述的性質・解釈的性質・評価的性質とは無関係であると主張される。
ビアズリーはさまざまな仕方で意図主義を攻撃している。ビアズリーによれば、芸術家の意図は参照可能[available]でも望ましい[desirable]ものでもない。芸術家の意図は、いつでもアクセス可能なわけではなく、望ましいものであることは決してない。われわれはしばしば作者についての知識を持つことなく、芸術作品を正しく解釈できている。加えて、作者の意図がいつでもアクセス可能でないのだとすれば、(1)から(2)を導くハーシュの立場は間違っていることになる。
詩について判断することは、機械やプリンについて判断することに似ている。ひとはそれがうまく働くことを求める。ある人工物がうまく働いているからこそ、われわれはそこに職人の意図を推測するのである。……詩は、その意味によってのみ存在することができる……のだが、詩は存在する、単純に存在するのである。それは、どの部分が意図され、意味されているのかを尋ねることに、なんの根拠もないという意味においてである。(「意図の誤謬」, p.368 / 河合大介訳, p.166)
すなわち、詩はプリンや洗濯機のようなその他の人工物と同様、制作者から独立しているのだ。プリンや牛乳や卵といった材料からなり、洗濯機はドラム缶やパッキンなどの部品からなるように、詩は言葉からなる。部分は制作者とは無関係にそれとして存在しているため、人工物への判断や解釈は、それが持つ性質に基づいてなされるべきである。制作者を持ち出す必要はない。
『美学』ではもう少し別様の攻撃を加えている(pp.18-19, 21)。ねじれた彫刻によって作者が〈人間の運命〉を象徴しようと意図しても、そこに象徴的意味を見て取ることはできない。ここにある哲学的問題とは、「われわれは単に象徴的意味を見逃しているのか」ということと、「そもそも物体に、ハンプティ・ダンプティ的な仕方で〈人間の運命〉を意味させることなどできるのか」ということである。ビアズリーは後者に関して懐疑な立場をとる。「誰であれなんであれ、意図したものを象徴できる」とか「まったく同じ彫刻によって〈1938年、パームビーチの精神〉を象徴できる」というのはおかしい。
テキストの意味についても同様である。誰かがなにかを述べるとき、それについて①話者はなにを意味したのか?と、②文はなにを意味したのか?が問える。①と②への答えはふつう一致するが、別々の場合もある。文の意味は、使用される共同体やその公的慣習と結びついている。これに対し、話者の意味はまったく別ものであり、話者自身の、ことによると特異な意図と結びついている。したがって、作者は自らの作品が意味することについて間違えうる。A・E・ハウスマンは、自らの詩「1887」が皮肉なものではないと主張したが、これはおそらく間違っていた。
『批評の可能性』では、意図主義に対する反論を三つ提示している。第一に、作者の行為から形成されたものではなく、ゆえに作者の意味を持たないが、有意味なものとして解釈可能なテキストがある。出版社やコンピュータによる誤植が念頭に置かれている。「ジョンセンは義理のある消化不良に満たされた男のごとく議論した[Jensen argued like a man filled with righteous indigestion]」みたいな文章(憤り[indignation]の誤植)は、だれもその意味を意図していないにもかかわらず、意味を読み取って解釈することが可能である。
第二に、テキストの意味は作者の死後に変わることがある。作者は、死後の意味を左右することはできない。例として、1744年に書かれた「彼は柔らかい腕[plastic arm]を挙げた」という一節は、20世紀になって新しい意味(プラスチック製の腕)を獲得している。
第三に再び、テキストはその作者が意識していない意味を持ちうる。よって、作者が意図していないものを含むテキストの意味は、作者の意図した意味と同一視できない。
意図の誤謬の是非を判断するには、「w(なんらかの広義の対象)が、pを意味するために必要なものはなにか」に答える意味の理論が求められる。ビアズリーも『美学』で意味の理論を提案しているが、これはかなり複雑な理論で後に却下している。しかし数年後には、ウィリアム・オールストン[William Alston]の言語行為論を採用し、これによって意図の誤謬を擁護している。
オールストンによれば、文の意味とはその文が持つ言語行為のポテンシャル[speech act potential]、すなわち、その文を使用することで実行可能なあらゆる言語行為を実行可能にしている潜在性である。このような立場は「意味は使用である」というスローガンに与しており、文の意味こそが一次的であり、語の意味は二次的・派生的だと考える。なぜなら、語の意味はあくまで文における貢献から定義されるからだ。*6
『美的観点』収録の「意図と解釈」では、詩を作るとき、詩人は言語行為を実行しているのではなく、言語行為の実行を表象しているのだとされる。ワーズワースが「Milton! Thous shouldst be living at this hour: / England hath need of thee—」と書くとき、詩は表向きは亡くなった詩人に向けられているが、これによってなんらかの発話内行為を実行するためには、文および実行された言語行為に関する理解を確保する必要がある。ワーズワースはミルトンが死んでいることを知っているため、彼に向かって話しかけるような発語内行為を実際には行っていない。しかし、ワーズワースは「ミルトンに対する発語内行為の実行」を表象している。ビアズリーによれば、詩人やその他文学の作者がしていることは、発語内行為の実行を表象することであり、発語内行為それ自体を実行することではない。*7
ビアズリーの主張は、以下のようにまとめられる。
- 文Sの意味は、発話内行為のポテンシャルの総和である。すなわち、言語行為{I,J,K}を実行するための能力の総和である。
- 文Sを用いた言語行為{I,J,K}の実行は、それと対応する「文Sを用いた言語行為{I,J,K}を実行する意図」を必要としない。
- したがって、Sの意味は、「Sの意味を構成しているような(潜在的に実行可能な行為としての)言語行為を実行しようとする話者の意図」から独立している。
- 換言すれば、Sの意味は、「Sが実際に意味する事柄を意味させようとする話者の意図」から論理的に独立している。
- したがって、文Sがpを意味するという話者の意図は、文が実際にpを意味するかどうかとは論理的に無関係である。
- しかし、もし前提4が誤りであったとしても、すなわち、文学作品には含まれない非文学的な文の意味Mが、部分的には「Mを意味するという作者の意図」によって機能するとしても、文学上の文に関して同じことは言えない。その証拠として、
- 作者は、Sを発話する・書く・口述する・署名するなどによって、発話内行為{I,J,K}を実行しているのではない。
- むしろ、作者はSを発話することで、発話内行為{I,J,K}の実行を表象しているのだ。
- ある発話内行為を表象することは、その行為の実行を放棄・保留・宙吊りにすることを含む。
- したがって、発語行為{I,J,K}の実行を表象することは、発語行為{I,J,K}を実行する意図を要請しない。
- 結果として、非文学的な文に関して前提4が誤りだったとしても、前提4は文学的な文にかんして真である。なぜなら、Sの意味は、「Sが実際に意味する事柄を意味させようとする話者の意図」から論理的に独立しているから。
6.内的なものと外的なもの
作者の意図問題より広い議論として、外的[external]な証拠と内的[internal]な証拠の区別がある。
内的な証拠とは、対象を直接観察することで得られる証拠である。ビアズリー曰く、
内的なものは公共的なものである。それは、詩の意味論と統語論を通じて、言語に関するわれわれの習慣的な知識を通じて、文法、辞書、そして、辞書の典拠となっているあらゆる文学作品を通じて、一般的には言語と文化を構成しているものすべてを通じて発見される。(「意図の誤謬」, p.373 / 河合大介訳, p.176)
一方、外的な証拠とは対象をとりまく心理学的・社会的背景から得られる証拠であり、それをもとにわれわれは対象それ自体についてなにかを推論する。
外的なものは私的で独特なものであり、言語的事実としての作品の一部ではない。それは、詩人がなぜ、どのようにして詩を書いたのか――どういった女性に向けて、どういった芝生の上に座って、あるいはどういった友人や兄弟の死に際して――について明らかにすること(例えば、日記や手紙や会話の記録において)からなるものである。(「意図の誤謬」, p.373 / 河合大介訳, p.176)
加えて、
中間的な種類の証拠もある。それは、作者の性格について、あるいは作者や彼が属するグループによって語やトピックに付与された私的あるいは半私的な意味についての証拠である。(「意図の誤謬」, p.373 / 河合大介訳, pp.176-77)
ビアズリーは、批評において外的な証拠への参照は禁止されていると考える。しかし、少なくとも「意図の誤謬」において、中間的な証拠は認められていた。ただし、中間的な証拠と外的な証拠の線引きは曖昧である。
内的な証拠に関心を持ち、中間的な証拠にもある程度関心を持っている批評家は、最終的には、外的な証拠とそれ近い中間的な証拠に関心を持っている批評家とは異なる論評をおこなうだろう。(「意図の誤謬」, p.373 / 河合大介訳, pp.177, 一部改定)
『美学』以後、ビアズリーが中間的な証拠に言及することはなく、この種の証拠は外的な証拠にまとめられたと思われる。結果として、批評において認められる証拠の線引きはよりシャープになっている。
参考文献
一次文献
Beardsley, Monroe. Aesthetics: Problems in the Philosophy of Criticism, 2nd ed. Indianapolis: Hackett Publishing Company, Inc., 1981.
Beardsley, Monroe. The Possibility of Criticism. Detroit: Wayne State University Press, 1970.
Beardsley, Monroe. The Aesthetic Point of View. Ithaca, New York: Cornell University Press, 1982.
Beardsley, Monroe and William K. Wimsatt. “The Intentional Fallacy.” Reprinted in Joseph Margolis, ed., Philosophy Looks at the Arts, 3rd ed. Philadelphia: Temple University Press, 1987. W・K・ウィムザット&モンロー・ビアズリー「意図の誤謬」河合大介訳、『フィルカル』2(1)、株式会社ミュー(2017)。
Beardsley, Monroe and William K. Wimsatt. “The Affective Fallacy.” Reprinted in Hazard Adams, ed., Critical Theory since Plato. New York: Harcourt Brace Jovanovich, 1971.
二次文献
Davies, Stephen, 2005, “Beardsley and the Autonomy of the Work of Art,” Journal of Aesthetics and Art Criticism, 63: 179–83.
Dickie, George, 1965, “Beardsley's Phantom Aesthetic Experience,” Journal of Philosophy, 62: 129–36.
–––, 1987, “Beardsley, Sibley, and Critical Principles,” Journal of Aesthetics and Art Criticism, 46: 229–37.
–––, 2005, “The Origins of Beardsley's Aesthetics,” Journal of Aesthetics and Art Criticism, 63: 175–8.
Dickie, George and W. Kent Wilson, 1995, “The Intentional Fallacy: Defending Beardsley’” Journal of Aesthetics and Art Criticism, 53: 233–50.
Feagin, Susan L., 2010, “Beardsley for the Twenty-First Century,” Journal of Aesthetic Education, 44 (1): 11–18.
Fisher, John (ed.), 1983, Essays on Aesthetics: Perspectives on the Work of Monroe C. Beardsley, Philadelphia: Temple University Press.
Goldman, Alan, 2005, “Beardsley's Legacy: The Theory of Aesthetic Value,” Journal of Aesthetics and Art Criticism, 63: 185–9.
Hirsch, E.D. Validity in Interpretation. New Haven, CT: Yale University Press, 1967.
Iseminger, Gary, 2004, The Aesthetic Function of Art, Ithaca: Cornell University Press.
Wolterstorff, Nicholas, 2005, “Beardsley's Approach,” Journal of Aesthetics and Art Criticism, 63: 191–5.
Zangwill, Nick, 2001, The Metaphysics of Beauty, Ithaca: Cornell University Press.
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【2021/08/19】表現、表記などをいくつか修正しました。
*1:絵画の表象に関わる第6章「視覚芸術における再現」だけは、『分析美学基本論文集』に収録されている。こちらも面白い。
*2:こちらは青の『フィルカル』2(1)号に訳があり、本稿の訳文もそちらからお借りした。
*3:余談だが、数年前に大学院の講義で読んだ思弁的実在論×批評理論の文献では、結論として「最も思弁的実在論的な批評とは、ニュー・クリティシズムだ」と言われていた。評価の是非はともかく、今日においても再考する価値のある運動だと言えよう。
*4:実体二元論か性質二元論か、という話っぽい。
*5:たとえば、作者が「この絵画のこの箇所は赤い」と意図したからといって、その箇所が実際に赤いという記述的性質を持つとは限らず、「これはユニコーンの絵画だ」と意図したからといって、ユニコーンを描くという解釈的性質を持つとは限らず、「この絵画は優美だ」と意図したからといって、優美だという評価的性質を持つとは限らない。
*6:後期ウィトゲンシュタイン、ストローソン、オースティンらのいわゆる「使用説」。
*7:ちょっとややこしいので補足。「発語内行為 illocutionary acts」は、文の使用によって実行されるなんらかの行為を指している。例としては結婚の誓いにおける「I do」が〈約束〉を実行している、など。これは、真偽の判断できる記述的な用法ではない。ビアズリーによれば、ワーズワースによる詩は、一見するとミルトンに向かってなんらかの言語行為を実行しているみたいだが、実際にはミルトンは亡くなっていることを作者は知っているため、真正な意味での発語内行為をしているわけではない。詩はむしろ、発語内行為を表象している(シミュレートしているといったほうがいいかもしれない)。これはウォルトンのメイクビリーブと似た発想だと思われる。
【追記】松永さんからいただいた補足です。
注8、ごっこ説と発想が似てるというのはそうだと思うけど、ウォルトン自身はビアズリーを攻撃している(同じく似てると言えば似てるサールのふり説も攻撃してるので、似てる発想内でのバトルということだろう)
— matsunaga (@zmzizm) 2020年7月14日