発表「駄作を愛でる/傑作を呪う」|応用哲学会年次大会あとがき

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2021年5月22日㈯の応用哲学会年次大会で発表してきました。発表スライドは以下です。

「駄作を愛でる/傑作を呪う」という題目で、分析美学の「批評の哲学」にカテゴライズされるだろう内容になっています。"だろう"というのは、実際にカテゴライズされるかどうかは私の一存では決まらない、という主張を発表内でしているためです。

アブスト付きのフライヤーは以下。

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簡単に各パートの結論だけ紹介すると、

  1. 批評的理由づけの基準としては、カテゴリー相対的な弱い一般的基準が有望である。
  2. 逆張りにはいろいろある。とりわけ注目するべきは、色眼鏡な逆張りによるカテゴリー選択。
  3. 作品にとっての「正しいカテゴリー」は、価値最大化を目指す制度の産物である。
  4. 制度に逆らうだけの逆張りは不適切だが、真剣な逆張りには制度を改善するという意義もある。

といったことを論じました。

当初は「逆張りという批評的行為の内実を明らかにする」ことをメインの目的としていましたが、不適切な逆張りへの応答を書き進めるうちに、作品にとっての「正しいカテゴリー」というアイテムに関心が移り、芸術作品のカテゴライズ(ジャンル、様式、運動など)を制度として説明するパートを中心とした構成になりました。

いつも通り論敵は意図主義で、今回だと「作品のカテゴリーは作者の意図によって決まる」とする立場と戦っています。面白いことに(奇妙なことに)、作品解釈に関して現実意図主義に対抗している論者たち(仮説意図主義のLevinsonや価値最大化理論のDaviesなど)ですら、作品カテゴリーを決める段になると現実の作者による意図を十分条件だと考えがちです。本発表は、作品にとっての正しいカテゴリーは、意図の手前(作品に内的な性質のみ)で決まるのではなく、意図で決まるのでもなく、意図の先(均衡したルールとしての制度)で決まる、と主張することで、反意図主義を擁護しています。

主要な参考文献は、ノエル・キャロル『批評について』(2006)、ケンダル・ウォルトン「芸術のカテゴリー」(1970)、フランチェスコ・グァラ『制度とはなにか』(2016)あたり。

グァラの制度理論を導入するために、ゲーム理論を基礎から勉強するなど、いつもより作業量の多い発表でした。ちなみに、発表者はかつて慶應経済にいたのですが、真面目な経済学部生ではなかったためミクロ経済は再履しています。

 

コメントもいただきましたが、「制度的な価値最大化」としての作品カテゴライズゲームは、もっと慎重に設計したほうがよさそう。本発表では、①(作者・鑑賞者問わず)プレイヤーごとに、作品が一番価値ある仕方でのカテゴライズを試み、②やがて均衡したルールとしての「正しいカテゴリー」が制度となる、ことを論じましたが、実際の鑑賞・解釈・評価は明らかに①ほど単純ではないでしょう(そもそも粗探し逆張りは①に反している)。理論的な抽象化とはいえ、カテゴライズゲームにはもっと別の要因が絡んでくるはずなので、細かく記述していく必要がありそう。

より大きな展望としては、美学・芸術哲学の諸問題を扱うのに、社会科学(ゲーム理論など)の道具立てが使えることを示したかったので、はじめの一歩としては及第点という自己評価です。Abellのフィクション論ともすり合わせつつ、批評を考えていきたい。

 

表紙のエピグラフトッド・ブラウニング『フリークス』(1932)から取ったもの。この引用がこの発表をどう要約しているのかは、映画を見ていただければ分かります。(Amazon Primeで見れます)

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