Dretske, Fred (1984). Abstract of Comments: Seeing through Pictures. Noûs 18 (1):73 - 74.
情報理論で有名なフレッド・ドレツキ(Fred Dretske)によるWalton 1984への短文コメントをご紹介。*1
コメント先になっているウォルトン論文については、以下にノートを挙げています。
フレッド・ドレツキ「コメント要約:写真を通して見ること」
ドレツキによれば、ウォルトンのテーゼには二つの主張が含まれる。
- 写真は、伝統的な仕方で描かれた画像(絵画)が持たない、ある種のリアリズムを持っている。
- この特権的なリアリズムは、写真が新しい仕方での「見ること(seeing)」を提供する点から説明されるのがよい。すなわち、画像を通して被写体を見る(seeing through picture to the object)という新しいseeingを、写真は可能にする。
ドレツキは(1)に同意するが、(2)は否定する。
まず、ウォルトンは写真と手製の画像の違いについて、いくつか重要な差異を指摘している。
- 対象について:写真は常になにかの(of something)写真である。絵画は必ずしも常になにかの絵画とは限らない。*2
- 中立性について:写真は対象を中立的に意味するが、絵画はそうではない。[航海している人の写真]は〈航海している人〉を意味するが、[航海している人の絵画]はそうとは限らない。
- 機械性について:写真による表象の成功や失敗は、そこに介入する人の認知的“レンズ”がちゃんと情報を伝達できたかどうかに依存しない。絵画は画家に依存している。
これらの差異は認識論的に重要であり、十分に写真の特権を擁護しうるものだとドレツキは考える。
しかし、これらを根拠に「我々は対象を実際に(actually)見ることができる」と結論づけることはできない。
写真はその他の中立的な記号(signs)、例えば足跡やゲージの目盛りや雲の形と同じように、情報に関して透明(informationally transparent)だが、知覚に関して透明(perceptually transparent)ではない。
例えば、私は[ベルの音]によって、〈インターホンが押された〉という情報を得ることができるが、だからといって「インターホンが押された音を聞いた」わけではない。[ベルの音]は情報に関して透明だが、知覚に関して透明ではない。
写真やテレビの映像や映画は、鏡や眼鏡や望遠鏡とは異なる。後者は知覚に関して透明である(=それを通して別のものを見る、という経験を可能にしている)。
両者の違いは、対象についての情報が、メディウムや装置についての情報に埋め込まれている(embedded in)かどうか。
例えば、テレビでサッカーの試合中継を見るとき、私は「テレビ画面上で起きていることについての情報」を得ることで、「試合についての情報」を得ている。これは、「ガスメーターの目盛りの位置についての情報」を得ることで、「ガスタンクについての情報」を得るのと同じである。目盛りを通してガスタンクを見ているわけではないため、テレビを通して試合を見ているわけでもない。
観客席から望遠鏡で試合を見る場合、試合についての情報は望遠鏡についての情報に埋め込まれているわけではない。「レンズ上で起きていることについての情報」は、見る必要がない。ゆえに、望遠鏡は真に透明であり、文字通り試合を見せてくれる。
✂ コメントへのコメント
ウォルトン論文に対する最初期の応答であり、とりわけ目新しい点はないが、「あるメディアが知覚に関して透明である」ことの条件として「対象についての情報が、メディアについての情報として埋め込まれていない」ことを挙げている点が独特か。
争点は、「埋め込み(embedded in)」という概念がいまいちクリアでない部分にあるだろう。一つの解釈としては、「媒体が持つ性質を通して、対象が持つ性質を知る」といったところか。情報が埋め込まれている場合、ひまわりが[黄色い]という性質を持つことは、ひまわりの写真が[黄色い]ことを通して知られる。情報が埋め込まれていない場合、ひまわりが[黄色い]ことは、それを眺める人がかけている眼鏡のレンズが[黄色い]ことを通して知られるわけではない。ゆえに、後者のみが透明であり、それを通して(through)ひまわりを見る(see)ことができる。
しかし、後者の情報伝達において「特定の時点における眼鏡のレンズは[黄色い]という性質を持っている」ことは、割と直観的に認められるし、写真やテレビ中継との決定的な差異になるとは考えづらい。また、「非埋め込み」を必要条件にすると、テープレコーダーの録音で誰々の演説を聞くことは、情報が埋め込まれてしまっているので「誰々の演説を(文字通り)聞くことにはならない」。これは割と受け入れがたい帰結のように思われる。*3
知覚と情報伝達について、ドレツキがどう考えているのかは勉強不足なので、その辺を掘ってみたい。
その他、写真の認識論的価値については、ドレツキの情報理論も援用したCohen & Meskin 2004がかなりクリアなので、おすすめです。コーエン&メスキンも、写真が特権的な情報源であることを認めつつ、知覚的な透明性については否定する立場。