レジュメ|ベリズ・ガウト 「芸術を解釈する:パッチワーク理論」(1993)

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Gaut, Berys (1993). Interpreting the Arts: The Patchwork Theory. Journal of Aesthetics and Art Criticism, 51(4):597-609.

 

ベリズ・ガウト[Berys Gaut]による、芸術作品の解釈と評価に関する論文。意図主義まわりの議論で頻繁に引かれるわけではないが、割といいことが書いてある。

大筋としては、作品解釈に関する意図主義[intentionalism]の問題を指摘した上で、「パッチワーク理論[the patchwork theory]」と呼ぶ立場を提唱するもの。

 

 1.ふたつのパラダイム

意図主義とは、「作品の正しい解釈とは、現実の作者が持った/持ちえた意図の一部によって定められる」とするような立場である。具体的にはWollheim (1987), Savile (1982), Nehamas (1981), Hirsch (1967), Knapp and Michaels (1985)などが挙げられている。

 

ガウトによれば、意図主義をサポートするパラダイムがふたつある。

  • 意味論的パラダイム[semantic paradigm]:作品解釈とは、その意味[meaning]を発見することである。意味とは言語的性質である。作品解釈の理論は言語的意味を理解するためのモデルを経由するのがよい。言語的意味は意図によって固定されるので、解釈者は意図の特定を目指すことになる。よって、作品解釈もまた、作者の意図の発見を目指すことになる。

この帰結として、(1)意味の透明性:芸術作品の意味は、芸術家本人およびその同時代人にとって把握できるようなものでなければならない、(2)意味に関する絶対主義:いろんな仕方で解釈されうるからといって、意味が複数あるわけではなく、作品の正しい意味は意図によって確定される。

  • 評価/解釈二分法[interpretation/evaluation dichotomy]:作品解釈は作品評価から独立している。

これは意図主義にとって好都合である。意図主義者であっても、「作者が傑作として意図してたら傑作である」とは言いたくない。例えばWollheimは評価の問題をまったく扱わず、Savileは解釈と評価で別々の説明をしている。

ガウトによれば、意味論的パラダイムと評価/解釈二分法はそれぞれ問題を抱えている。

意味論的パラダイムに関して言えば、芸術作品の解釈と呼ばれる営みは、言語的な意味の特定よりも、ずっと広く多様なことをしているように思われる。詩のリズムや韻などは意味ではなく統語論的な性質だが、これを考えることは詩を正しく理解する上で重要であり、ガウトによれば「作品解釈」の範疇に入る。他にも、キャラクターの行動の理由や、メタファーや、虚構的存在の特徴帰属など、作品解釈は色んなことをしている。すなわち、「意図をもとに発話の意味を探る」ような営みとのアナロジーは、成り立たないのではないか、というのが意味論的パラダイムに対する懸念である。さらに言えば、言語モデルが比較的使いやすそうな文学作品ですらこうなのだから、絵画や音楽に関して意味論的パラダイムを持ち出すのはいっそうしんどそうだ。

評価/解釈二分法に関して言えば、第一に、解釈における価値の役割を無視してしまっている。小説の読み手はふつう、快楽だけでなく、認知的な洞察や、感情的な深みなど、ひろく「価値ある体験」を求めて小説を紐解く。純粋にテキストの意味内容を知るという意味で調査[research]するのではなく、鑑賞[appreciate]するのだ*1。「退屈、無意味、一貫性に欠けている」と思われた作品が、ある解釈のもとで読んだところ、「生き生きとして、深みがあり、活力に満ちている」ように感じられたとしたら、その解釈はより良い(ここではより「正しい」と言えそうな)解釈だと考えられるだろう。もちろん、これは唯一の基準ではないが、基準のひとつだろう。また、第二に、そもそも解釈と評価の二分法は成り立たないかもしれない。解釈は広く作品が持つ性質の特定を目指すのだろうが、ここで価値もまた作品の持つ性質である。二分法を支持するなら、解釈の対象となるような性質だけを切り出さなければならないが、これはしんどい。ガウトによれば、ある絵画に「大胆な筆致が含まれる」というのは、解釈であり評価でもある〔ある種の文脈において、美的性質は記述的でもあり評価的でもある、という話〕。ガウトはこれに関連して、バーナード・ウィリアムズ[Bernard Williams]の「厚い概念」/「薄い概念」なんかも参照している。事実と価値の二分はしんどい、というわけだ。

 

2.いくつかの意図主義

よって意図主義のふたつのサポートはどちらも疑わしいのだが、第二節では改めて、既存の意図主義がレビューされている。

  • 極端な意図主義(HirschおよびKnapp and Michaels):意図された解釈であることを、正しい解釈であることの必要十分条件だと考える。【反論】ハンプティダンプティ的ななんでもありになってしまうのでしんどい。
  • 実現された意図主義:ちゃんと実現された意図であれば必要十分条件になる。【反論】作品には意図されていない特徴がたくさんある。意図せぬ押韻やリズムもまた、解釈の対象である。
  • 意図を「制作をコントロールするあらゆる心的状態」まで拡張した意図主義(Wollheim):制作に因果的に影響したあらゆる心的状態にまで拡張すれば、自覚的でなかった押韻やリズムも意図主義のもとで説明できそう。【反論】この意味において意図されていないが、作品が持つ特徴がまだある。いかなる意味でも曖昧にしようとしていないが、曖昧な作品など。

また、この手の意図主義は、芸術家には利用不可能な(後世の)概念を用いた解釈をぜんぜん許容できていない。具体的にはハインリヒ・ヴェルフリン[Heinrich Wölfflin]の「線的」/「絵画的」を用いたルネサンス美術とバロック美術の比較など。

  • 作者が意図しえた意味まで認める意図主義(Nehamas、いわゆる仮説意図主義):直接的に意図した証拠がなくとも、意図しえた意味であるなら、そこまで認めてよいだろう。【反論】「〜と意図しえた」は曖昧。論理的必然性とかで考えると、あまり多くの意味をカバーできない*2

さらに、「〜と意図しえた」まで認める意図主義は、他作品への言及=暗示[allusion]を考える上で不都合である。作品Aが同時代の作品Bをほのめかしている(パロディとか)とき、上のタイプの意図主義であれば、「AはBに言及している」と仮説立てできる。しかし、これはまったく偶然の類似であり、言及になっていない可能性がある。すなわち、文学上の言及を考える上では、現実意図主義に訴えるほかなく、「〜と意図しえた」意図主義では無理がある。

  • 意図された規約[convention]のもとで読み解くべきだとする意図主義:作品をデコードするための規約はいろいろあり、そのうち意図された規約のもとで得られるのが正しい解釈である。【反論】リテラルな意味を定める言語的規約や、ジャンルに関する規約、イコノグラフィック的な意味を取り出す規約を除けば、利用可能な規約がほとんど存在しない。たいていの作品はイコノグラフィーじゃないし、ジャンル逸脱的であることを目指している。解釈にとっては、一般的な規約よりも、作品ごとに個別の文脈のほうが大事そうだ。
  • 意図された観客に訴える意図主義:想定読者がちゃんと読み取れるような意味の特定こそが、正しい解釈である。【反論】後世の分析ツールを用いる読者は想定できないので、ヴェルフリンとかフロイト精神分析とかマルクス主義みたいな解釈をカバーできず、狭すぎる。また、「傑作だと認めてくれるような読者」を作者が想定していたとすれば都合が良すぎるので、広すぎる。

ということで意図主義は退けられるのだが、だからといってWimsatt and Beardsley (1946)みたいな形式主義が正しい、というわけではない。形式主義は「意図は決して関与的ではない」とするが、これはこれで間違っている。強い形式主義を認めるなら、文学作品はまったく翻訳できない、ということになるが、これは疑わしい。また、前述の言及=暗示みたいに、たしかに現実の作者の意図で決まるような作品性質もあるように思われる。

 

3.パッチワーク理論

ここに至ってガウトは、一般的でグローバル[global]な解釈理論はない、とする立場を選ぶことになる。包括的な意図主義も包括的な形式主義も間違っている。

というのも、繰り返してきた通り、作品解釈は「ラディカルに異なるさまざまな性質を、さまざまな根拠のもとで作品に帰属させる営み」だと考えられるからだ。ガウトは、作品性質の多様性と、それぞれに関連する解釈理論の多様性を認める立場を、「パッチワーク理論」と呼び、支持する。

ガウトが挙げるところでは作品解釈上の関心には、①テキストのリテラルな意味、②音響的性質、③表出的性質、④テーマやモチーフ、⑤美的性質、⑥様式的性質、⑦言及=暗示、⑧メタファーなどの象徴、⑨オリジナリティや評価的性質などが含まれる。例えば、①テキストのリテラルな意味を考える上では意図ないし意図された規約が必要十分だと言えるかもしれないが、⑥スタイルや⑨オリジナリティなどは意図では決まりそうにない。

また、③表出的性質の帰属「この音楽は悲しい」など、おそらくクラスター理論[cluster theory]でしかとらえられないような解釈もある。すなわち、(1)作者が意図した、(2)聞き手がそう感じる、(3)そういう慣習的手法がある、などといった、それぞれ関与的な条件が複数あり、全部ないし多くを満たしていれば「この音楽は悲しい」と言えそうな一方で、どれも単独として満たさなければならない条件というわけではない。ちなみにガウトは芸術の定義に関してもクラスター理論を推している。

前述の通り、意味論的パラダイムは疑わしい。パッチワーク理論を認めるならば、解釈は相対主義になる。「ハムレットが殺人を先送りにした理由」は、採用する心理学ごとに異なる解釈ができる。意図主義だと、シェイクスピアと同時代の心理学を用いて説明することが“正しい”とされるが、後世のより精緻化された心理学を用いることが直ちに“間違っている”とされるのもおかしい。解釈は、心理学Xのもとでは(1)、心理学Yのもとでは(2)みたいに相対化するしかない。とはいえ、この限りでの相対主義は、鑑賞者の主観に基づくなんでもあり相対主義でもない。ともかく、「唯一の正しい解釈はどれだ」みたいなミスリーディングな問いは回避できる。

パッチワーク理論は、作品が持つ性質だけでなく、作品に投影される性質も、正当なものとして認める。《モナリザ》は微笑んでいるのか悲しんでいるのかは、見る人の投影による。作品が持つ性質としては「不確かな表情である」というので話は終わりだが、作品自体が持たない確定的性質を帰属させることも解釈として正当化されうる。実際のところモナリザが微笑んでいるのか悲しんでいるのか気になることは、作品への反応として正しいものであるとされる。〔ここの話についてはコメントでも触れる〕

ガウトの言葉では、作品性質の検出[detection]だけでなく、構築[construction]も解釈として大事である。例えば、フィクションのキャラは感情やら見た目やらが不特定だが、鑑賞者は想像力を駆使することで、確定的な性質を帰属させうる。この点において、文学作品の読者がやっていることは、楽譜をもとに演奏家がやる”解釈”や、台本をもとに役者がやる”解釈”と似ている。ガウトによれば、アカデミックな作品解釈と、アーティストによるパフォーマンスを通した解釈は、実のところあまり違わない。

また、メタファーに関しても構築的に解釈される。メタファーとは要は比較であり、さまざまな類似のなかから鑑賞者がある程度の裁量を持って選択できる。

 

まとめとして、意図主義にせよ形式主義にせよ、こういった多様な営みを包括的に説明しようとするグローバルな解釈理論は考え難い。ローカルな解釈理論であれば立てることができるかもしれない。あとは、主に意図主義からの想定反論にいくつか応答している。

 

✂ コメント

「パッチワーク理論」はよく言えば現実的、わるく言えば元も子もない、いずれにしても示唆に富んだ立場だろう。「解釈」でまとめられている営みの多様性を強調する点で、この手の議論の方法論的反省を促すものになっている。映画批評の「グランドセオリー」に対するキャロルらの攻撃みたいに、「あまりに包括的な一般理論は無理があり、中間サイズ(ジャンルとか)の理論=ローカルな理論を目指したほうがよさそう」というのにはかなり共感できる。

 

もともとこの論文を読もうと思ったきっかけは、先日のちゃん読での雑談だ。「もののけ姫のサンはエボシと後醍醐天皇の娘」説(?)が話題になったときに、高田さんが挙げられていた疑問だ。

  • 一方で、解釈は虚構的真理の特定を目指すことがある。すなわち、作品世界内の、明示的に描かれていないところでなにがなにしたのか、なにがどんななのか、なにがなんなのか式の説明をするような「解釈」がある。『タイタニック』の木片は二人乗りできたのか、『インセプション』のコマは止まったのか、『シャッターアイランド』はどこからどこまで妄想なのか、など。
  • 他方で、作品のテーマやモチーフ(ガウトの挙げる④)に関する「解釈」がある。作品の教訓はなにか、風刺・メタファー・象徴の意義はなにか(ガウトの挙げる⑦⑧)、といった問いに関する説明がこれに当たる。

高田さんの疑問は、前者の意義に関するものだ。作品に明示されておらず、不確定である部分は、内的性質として「AかBか不確定である」に過ぎず、それを一鑑賞者が「私の考えではAです」というのもおかしな話ではないか、と。

さしあたり、ガウトの考える広義の作品解釈では、前者も後者も「解釈」の営みだろう。言語的直観として、われわれは現に前者も「解釈」と呼んでいるし、上述の後醍醐天皇娘説でも、前者のレベルで反論と応答(?)がなされていた。少なくとも、日常的な意味において「解釈」は前者的なことを(ことによると後者よりも)気にしている*3

こちらは後者の、主題・テーマに重点を置いた感想記事だが、上述の後醍醐天皇と違い、炎上という感じではなかった(マウントはずいぶんされていたようだが)。主張のラディカルさおよび反論への対応が違うので、比較としてイマイチかもしれないが、「アシタカの"呪い"は病気のメタファー」といった、前者後者がオーバーラップするような話題に関しては、「いや、穢れのメタファーである」として噛み付くコメントが目立っていた様子だ。

 結局のところ、後醍醐天皇娘説は、実質的な作者の意図に相当する公式設定を挙げることで、おおむね鎮火された模様だ。少なくともこのことは、「明示的でない虚構的真理に関する解釈の正しさは、作者の意図によって定められる」とする直観の強固さを再確認したかたちになる。他方で、作品内のセリフや描写と整合的でないことから、後醍醐天皇娘説を退ける反論もあった。意図に訴えるにせよ訴えないにせよ疑わしい説、という意味では事例としていまひとつだったのかもしれない。「作品の内的性質とは整合的だが、主流の解釈とは競合し、意図に訴えるとかでないとどうにもならない」ような事例のほうが見どころある*4

 

ところが、ガウト論文に戻ると、読者による「構築」に対してガウトが認めている権利は、上述の後醍醐天皇娘説を許容してしまうのではないか、という懸念もある*5。上述の炎上もそうだが、われわれはどこかで「その解釈は間違っている」と言えるだけの規範を持っているし、少なくとも欲している。「構築」に関しても、どこまでがなにゆえに正当なのか考える必要があるだろう*6

つまるところ、作品解釈や作品評価の問題は、無尽蔵な相対主義と包括的な絶対主義の間で、よい塩梅を探すしかないのだろう。

 

 

*1:ここは、文学作品の読者をvalue-seekersとして考えるDavies (2006)の前提に近い。実際、この段落で述べられていることはほとんどそのまま価値最大化理論の考えである。

*2:意図の仮説立てがなにによって正当化されるのか(最良の仮説はなにをもって最良なのか)問題。なるべく作品を面白く鑑賞できるような解釈を仮説するなら、仮説意図主義は実質として価値最大化理論に回収されるだろう、というのがDavies (2006)の見解。

*3:キャロルは『批評において』で「解明」と「解釈」を区別している(第3章の5節6節)。解明の方に、ひろく記号関係(言語のリテラルな意味だけでなく、イコノグラフィーなども)を明らかにする作業を含み、解釈の方に、主題的意義や物語的意義を含めている。おおむね、上の前者後者に対応しているが、メタファー解読なんかが前者に入るのと、単純に言葉遣いとしてややこしいかもしれない。

*4:説の提唱者はその後、反意図主義・形式主義を徹底するような方針に回ったが、その割に、作品の内的性質と説が整合的でないことへの応答ができなかった点こそ、いちばん問題だろう

*5:ほかにも、ガウトは明らかに「精神分析マルクス主義といった道具立てのもとでの解釈は(中身はともかくやり方として)正当である」という前提に立っているが、各アンチはそうは考えないだろう。曰く、「分析ツール自体が完全に正しい必要はなく、精神分析マルクス主義に理論的欠陥があるとしても、特定のケースに関しては洞察を得ることができる」とのことだ。やはり、ガウトの立場は優しすぎ・許容的すぎな気がしないでもない。「精神分析映画理論はすべからくいい加減」みたいな立場も、個人的にはアリだと思う。

*6:ちなみにちゃんと読めていないが、ガウトの『A Philosophy of Cinematic Art』では意図主義と並べて、ボードウェル&トンプソンの認知的構築主義〜ネオフォルマリズムにも攻撃が加えられている。