今回お勉強してきたのは時間と空間の哲学。
まさに形而上学の超王道。時間、空間、世界、その中で生きる我々とはどのような存在者なのか、考える。哲学勉強したてのころからずっと興味のあった分野です。
普段はこういうゴリゴリの形而上学ではなく分析美学が専門なのですが、芸術を考える上でも「時間」や「空間」は無視できない。とりわけ本稿で主題的に扱う「通時的同一性」の問題は、芸術の存在論や芸術の定義においても、重要なヒントを与えてくれる。
入門的な内容です。
ということで、以下目次。
現代時空論小史
古代から多くの哲学者がこの哲学的問題に取り組んできたが、現代(20世紀〜)における時空の哲学は、その多くをジョン・マクタガート(John McTaggart)に負っている。
「時間の非実在性」(1908)でマクタガートが提唱するのは、「時間は実在しない」というなんともショッキングなテーゼ。細かい議論は割愛するが、マクタガートはだいたい以下のようなことを言っている。
「今日という一日は、昨日から見たら[未来]で、今日から見たら[現在]で、明日から見たら[過去]だけどさ、今日という一日が[未来]でありかつ[現在]でありかつ[過去]であるって、これ矛盾してね???」
すなわち、「未来である」「現在である」「過去である」というのは互いに排他的な特性であって、ある一日がそれら3つ全てを持ちうるのは矛盾している、とのこと。
だから……
「時間は実在しない…………」
これに対し、「んなわけねーだろ」と立ち上がったアカデミズム。
マクタガートの放った一言は、人々を学会へ駆り立てた……!
世はまさに、時空大論争時代……!
そもそも何が問題なのか:「変化のパズル」
一体全体、何が楽しくて「時間」やら「空間」やら考えなきゃならないのか。
誰もが3次元の空間内で、時間的変化を被りながら生きてる、ってことで問題なくね??? 直観としてはもっともな反応だ。
しかし、やはり問題はある。
通称「変化のパズル」。
①昨日(8/31)の彼と、今日(9/1)の彼は、同一人物「山ちゃん」である。
②昨日まで山ちゃんはヒッピー風のロン毛をトレードマークにしていた。
(しかし、昨日の夜に彼は散髪をしたので)
③今日の山ちゃんはつるつるのスキンヘッド。
④8/31の山ちゃんと9/1の山ちゃんが"同じ"山ちゃんである、ならば、8/31の彼と9/1の彼が「あらゆる性質を共有して」いなければならない。なのに、昨日の彼と今日の彼とでは、髪型に関する性質を共有していない。
⑤8/31の彼と、9/1の彼は、"同じ"「山ちゃん」ではない。
一見すると④は馴染みがないかもしれないが、これはライプニッツの法則(同一者不可識別の原理)という、ちょっとやそっとじゃ否定しがたい原理なのだ。
ライプニッツの法則
・XとYが同一なら、Xが持つ性質のリストとYが持つ性質のリストは全く同じである。
・XとYが全く同じ性質のリストを共有するなら、XとYは同一である。
・XとYどちらか片方にしかない性質や、どちらか片方だけが欠いている性質があるなら、XとYは同一ではない。
どう考えても、「ロン毛である」かつ「スキンヘッドである」ことはできない。それらは非両立的な性質であり、無矛盾律に抵触する。
ということで、①〜⑤の矛盾をどうにかするために、言葉遣いをパラフレーズしたり、世界観を切り替えたりしないといけない。
どうすれば「8/31の山ちゃん」=「9/1の山ちゃん」であることが証明できるのか。*1
永久主義と現在主義
時間と空間の哲学には、世界のあり方に関する2つの対極的な立場がある。はじめにこれを確認しておこう。
永久主義
- 過去、現在、未来のあらゆる時点が、等しく存在しているとする立場。現在のみが特権的な時間なのではない、と。
- 永久主義とは決定論にも似た世界観である。世界は誕生の瞬間から消滅の瞬間まで、氷漬けされたみたいに決まっている。*2
- 詳しくは「ブロック宇宙」などを調べていただくとイメージしやすい。
- 基本的に、「四次元主義」と相性がいい。
現在主義
- 現在のみが存在しており、過去はもはや存在しておらず、未来はまだ存在していないとする立場。現在以外の時間は、端的に存在しない。
- 「時間の流れ」という直観的な捉え方を支持する一方、「時間を俯瞰する視点」はありえないと考える。
- 時間相対的な性質例化のみを認める。
- 基本的に、「三次元主義」と相性がいい。*3
さて、これを踏まえて本題に入る。
以下では「過去」や「未来」についても、俯瞰した視点から扱いたいので、ひとまず永久主義を前提とする。
四次元主義:時間的部分を認める
「対象は時間的に変化しながらも、同一のものとして存在する」ことを証明するには、どうすればよいのか。
大きく2つのソリューションがあるが、その一つが四次元主義と呼ばれるものだ。
四次元主義は、対象の捉え方に関して、直観の修整を要請する。
直観的に「山ちゃん」といえば、次のような対象が想像される。
これはロン毛のときの「山ちゃん」。
これはスキンのときの「山ちゃん」。
山ちゃんは他にもいろんな姿をしているが、ともあれみんな「山ちゃん」なのだと。
しかし、四次元主義者曰く、これはどれも「山ちゃん」ではない。
上の画像は「ある時点t1においてロン毛である山ちゃん」で、下の画像は「ある時点t2においてスキンヘッドである山ちゃん」なのだ。そう、両者は同じ対象ではない。
山ちゃんは分離してしまった……。しかし、四次元主義は「あらゆる瞬間に個別の対象が存在する」といって開き直るだけの立場ではない。数的に一である「山ちゃん」は、やはり存在する。
では、「山ちゃん」とはどのような対象か。四次元主義における「山ちゃん」は以下のような姿をしている。
実際には、もっと細かく刻んだあらゆる瞬間の山ちゃんがズラリと並んでいる。
この金太郎飴みたいな「時空ワーム」こそが、「山ちゃん」なのである。
一番左端にいるのは、「生誕した瞬間の山ちゃん」。右から三番目が「昨日ロン毛だった山ちゃん」で、右から二番目が「今日スキンヘッドになった山ちゃん」である。
一番右端にいるのは、「明日不幸にも心臓発作で死んでしまう瞬間の山ちゃん」である。R.I.P.
四次元主義において、対象は時間から独立して3次元空間に存在するものではない。あらゆる対象は時間的部分を持つ。
すなわち、「山ちゃん」という人物が「山ちゃんの右手」や「山ちゃんの左膝」や「山ちゃんの首のほくろ」を(空間的)部分として持つのと同様に、「乳幼児のときの山ちゃん」「中学生の山ちゃん」「8/31の山ちゃん」を(時間的)部分として持つ、ということだ。身体があなたの一部であるように、過去と未来もあなたの一部なのだ。
四次元主義に立てば、山ちゃんが時間的変化を被りつつも同一性を保つことが説明できる。
「ある時点tにおける対象Xは、性質Iを"端的に持つ"」というのが四次元主義の回答だ。
- [山ちゃん]というのはたった一人の人物である。[山ちゃん]は時空ワームとして存在している。
- [山ちゃん]の一部である[8/31の山ちゃん]は<ロン毛である>という性質を持つ。
- [山ちゃん]の一部である[9/1の山ちゃん]は<スキンヘッドである>という性質を持つ。
これであれば、全く問題はない。
「8/31の山ちゃん」と「9/1の山ちゃん」が互いに両立不可能な性質を持つことは、十分に可能である。それは、「山ちゃんの右手」と「山ちゃんの左膝」が異なる形状をしているのと同じように、全くもって問題ないのだ。
どちらにせよ、同一性を持った存在としての「山ちゃん」は無傷でいられる。山ちゃんとは、生まれてから死ぬまでのあらゆる瞬間をつなげた芋虫のような生き物。そういうものだ。
これが大雑把な四次元主義の見取り図だが、四次元主義には当然批判もある。
四次元主義への批判
その一つが、四次元主義に伴う奇妙な事実に関するものだ。
もし対象の時間的部分を認めるならば、目の前にいる山ちゃんは「山ちゃん」として”余すところなく現れている”わけではない、ということになる。
なぜなら、過去や未来における山ちゃんの時間的部分は不可視であり、見えているのは「現在の山ちゃん」というスライスされた一部分に過ぎないからだ。これはちょうど、「山ちゃん」と対面しているつもりで、「山ちゃんの首のほくろ」とだけ対面しているようなものだ。これは奇妙だ。
一部の四次元主義者にとって、それは「別によくね?」な問題だろう。そもそも、直観のほうが錯覚なのだと四次元主義者は考える。
しかし、目の前にいるのは、やはり余すところなく全体として現れた「山ちゃん」なんじゃないか……?という懐疑が生まれるのももっともだ。そこで登場したのが、「山ちゃん」は「山ちゃん」なのであって、時間的部分は存在しない!とする三次元主義だ。
三次元主義:時間相対的な性質
三次元主義は、対象は時間的部分を持たない、と論じる。*4
「山ちゃん」といえば、やっぱりこいつであり、あの奇妙な時空ワームはお役御免ってわけだ。この点で、三次元主義はより直観に沿った理論であろう。
それなら「変化のパズル」をどう説明するか。三次元主義は、対象をいじくり回す代わりに、性質をパラフレーズする。
- [山ちゃん]というのはたった一人の人物であり、[山ちゃん]は時間的部分を持たない。
- [山ちゃん]は<8/31においてロン毛である>という性質を持つ。
- [山ちゃん]は<9/1においてスキンヘッドである>という性質を持つ。
「対象Xは、時点tによって相対化された性質Iを持つ」というのが三次元主義のテーゼだ。
「山ちゃん」は性質を"端的に持つ"のではなく、時間相対的に持つ。山ちゃんが持っているのは、「ロン毛である」「スキンヘッドである」みたいな"端的な"性質ではなく、時間的に相対化された「8/31においてロン毛である」「9/1においてスキンヘッドである」といった性質なのである。そして、いかなる時点における「山ちゃん」も、それらの性質を全て持っていることから、山ちゃんの同一性を説明される。
見ての通り、8/31の山ちゃんと9/1の山ちゃんは全く同じ性質のリストを共有しているので、同じ「山ちゃん」だと言える。ライプニッツの法則。
生まれた瞬間の「山ちゃん」であっても、中学生時代の「山ちゃん」であっても、「ある時点t1において―ロン毛である」や「ある時点t2において―スキンヘッドである」といった性質を矛盾なく兼ね備えることができるから。
「ロン毛である」かつ「スキンヘッドである」ことはできないが、「ある時点t1において―ロン毛である」かつ「ある時点t2において―スキンヘッドである」ことに問題はない。両者は両立可能な性質なのだ。*5
三次元主義への批判
しかし、三次元主義はたちまちある批判にさらされる。
それは、「認めなきゃいけない性質のリストが膨大すぎて、倹約的じゃなくね?」というものだ。*6
時点によって相対化された性質を認めるなら、細かく刻んだあらゆる瞬間に個別の性質が存在することになり、その数は膨大なものになる。四次元主義であれば、「ロン毛である」「スキンヘッドである」の2つで済んだ世界が、膨大な数の時間相対的性質たちによって溢れかえってしまう。
一部の三次元主義者は「しょーがなくね?」と言い、一部はさらに言葉遣いをパラフレーズすることで、なんとか頑張っているらしい。本稿は概略を紹介するものなので、この批判についての返答はオープンなものに留めておこう。
簡単なまとめ
以上、時空と、対象変化にまつわる議論を見てきた。
時間が経過すると、対象は変化するのに、それにもかかわらず変化前の対象と”同じ”だと言えるのはなぜか?というのが問題であった。
四次元主義は対象の時間的部分を認め、その時間的部分が性質を持つのだ!と主語をパラフレーズすることで、対象の同一性をキープする。これは我々の直観や世界像に修整を要請するものであったが、対象の変化に関してミニマルな性質のリストを用いて説明できるメリットがあった。四次元主義は永久主義とセットで、決定論的な世界像を提案する。
三次元主義は対象が時点に相対化された性質を持つのだ!と述語をパラフレーズすることで、対象の同一性をキープする。これは膨大な性質のリストを認めるリスクを抱えていたが、我々の直観に沿った理論であるというメリットもあった。対象の時間的部分や、時空芋虫みたいなわけわからんものを要請する必要もない。
コメント:
僕を四次元主義に引きずり込んだのは、ルイスでもサイダーでもなく、アメリカの作家カート・ヴォネガットだった。
学部生のころに『スローターハウス5』や『タイタンの幼女』を読んだが、あそこで描かれていた世界観は、いま思えばまさに四次元主義/永久主義だった。*7
「ビリー・ピルグリムが変えることのできないもののなかには、過去と、現在と、そして未来がある。」『スローターハウス5』
自分でも不可解だが、この世界観にどっぷり浸かってしまった僕は、学者を名乗るにはやや不適切なぐらい決定論を信じている。
ので本稿の議論においても、四次元主義の方に深いシンパシーを感じてきた。
以下はほぼ素人目線からの私見。トンチンカンなことばっかり言っているだろうが、その都度ご指摘いただけると大変勉強になって心身ともにテカテカと潤うので、お待ちしております。
非中間サイズの時空論
今回紹介した議論の多くは、いわゆる「中間サイズ」の対象を扱うものであった。「山ちゃん」や「この椅子」や「地球」などの具体的な対象の同一性条件が、ここでは考えられている。
より概念的な対象であれば、どうだろう。カテゴリーやジャンルとしての「ジャズ」など。
しかし、具体的なトークンの時間変化と「ジャズ」概念の時間変化は、性格を大きく異とするものだろう。ならば、具体的な音楽作品ぐらいがちょうどういいかもしれない。
トークンとしての彫刻作品は、時間的な性質変化を被るが、(演奏)トークンとしての音楽作品って、性質変化があるのか? そもそも時間的部分を持つ音楽作品にとって、それとは別であると言えるのだろうか? 音楽作品は時空のどこに位置するのか。ここまできたらただの「音楽作品の存在論」かもしれないが、時空絡みで検討するのも面白そうだ。
「存在しないものはどこに存在するのか」
最近ずーーーーっとこの問題に取り憑かれている。時空に関する議論も、そのヒントを探して読み始めた。
四次元主義は対象の時間的部分を認めるが、時間的部分の外部では、対象は「存在しない」と言うだろうか。「生成した瞬間」というが、瞬間の内実も不明だし、生成の内実も不明だ。「創作」は可能なのか、全部「発見」ではないのか。僕は後者だと思う。
それから、
対象は生成以前から「存在する」と思う。また、消滅以後も「存在する」と考えている。
未名のオブジェクト
「存在しない」と「まだ存在しない」を区別したい。
「存在しない」:あらゆる実在的な意味において、時間、空間、様相、のいずれにも決して「存在しない」ものである。*8
それから、四次元主義を拡張する形で以下のことも言えないだろうか。
「まだ存在しない」:未来において存在するが、現在はまだ存在していない状態、あるいは性質。個人的には「未名性(unnamed)」と呼んでいる。
四次元主義や永久主義のような決定論が認められるならば、"存在しないもの"のリストから「未来において存在するもの」を救い出す意味で、「未名性」を使える、というのが僕の提案だ。万有引力もエルビス・プレスリーも『田園に死す』も、かつては「未名のオブジェクト」であった。
おそらくは一階の話と二階の話を混同してしまっているので、この辺りはあらためて勉強したい。
参考文献
倉田剛『現代存在論講義II 物質的対象・種・虚構』(2017), 第一講義
西條玲奈「時間的内在性質の問題と四次元主義ステージ説」(2008)
鈴木生郎「四次元主義と三次元主義は何についての対立なのか」(2017)
*1:論者の中には、開き直って「8/31の山ちゃん」≠「9/1の山ちゃん」だと認めてしまう人もいる。あらゆるものはあらゆる瞬間において個別のものなのだ、と。ヘラクレイトス曰く「万物は流転する」。
*2:永久主義の中には、過去と現在までが決定論で、未来だけは未決定だという、穏健な立場「成長ブロック宇宙論」もあるとのこと。
*3:というか、鈴木さんの論文にもあるが、四次元主義とは両立不可能らしい。
*4:ただし、三次元主義者の中には対象の時間的部分を認める立場もある。対立の定式化は本稿の主要な関心ではないので、単純化した。詳しくは鈴木さんの論文を参照。
*5:まだその時点が到来しておらず、まだ実現されていないだけであって、性質自体は常に持ち歩いているようなものだ。
*6:前提として哲学は一般的に、より倹約的な理論を目指している。
*7:『スローターハウス5』に出てくるトラルファマドール星のトラルファマドール人たちは、決定論的な時空ワームを生きている。彼らはあらゆる時点を俯瞰できるところにおり、宇宙消滅の瞬間も含めて全てを受け入れている。