文学解釈における価値最大化理論|スティーヴン・デイヴィス「作者の意図、文学の解釈、文学の価値」(2006)

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Davies, Stephen (2006). Authors' Intentions, Literary Interpretation, and Literary Value. British Journal of Aesthetics 46 (3):223-247. [PDF]

 

ティーヴン・デイヴィスによるBJAの論文「作者の意図、文学の解釈、文学の価値」のまとめです。*1

「作者の意図と文学解釈」というホット・トピックにおいて、「価値最大化説」を定式化した重要論文です。同様の立場はそれ以前のDavies (1982)でも提唱されているが、その後出てきた諸ライバル理論を踏まえて書かれたのが本論文。この手の話題で参照されないことはない程度には定番の一本です。

〜〜ここまでのあらすじ〜〜

ウィムザット&ビアズリー(1946)「作者の意図はいりませーん!」【反意図主義】

バルト「作者は死んだ」「テクストと戯れるのだ……」デリダ「そうだそうだ!」【ポストモダン

ハーシュ(1967)「いや、意図も大事でしょ……」【意図主義リバイバル

⚔90年代〜00年代の論争へ🏹

キャロル、イスミンジャー、ステッカー、リビングストンほか「ほどほどに作者の意図使っていきましょうや」【穏健な現実意図主義】

レヴィンソン、トルハースト、ネハマス、カリーほか「〈理想的鑑賞者によって仮説される意図〉ってのがいいぞ」【仮説意図主義】

デイヴィス「🙋‍♂<価値最大化!」

関連する邦語文献だと、レヴィンソンの仮説意図主義については『分析美学基本論文集』に論文が収録されており、穏健な現実意図主義については『批評について』のキャロルと『分析美学入門』のステッカーが擁護している。いちおう『分析美学入門』でもデイヴィスの立場は引かれているのだが、詳細に検討されているわけではないので原典をあたってみました。

「芸術作品の解釈において作者の意図は関与的なのか、関与的だとすればどのように/どの程度関わるのか」という話題にご関心の向きであれば、面白くためになる議論のはずです。ライバル理論についても頁割いて検討しているので、トピック全体のサーベイとしても◎です。*2

*補足の一部と感想コメントは注に回しています。ところどころ本文中にも補足を付けている&主張を噛み砕いているので、デイヴィスの正確な記述が気になる方はお気をつけください。/*中見出しも、僕のほうで適時付けています。/*その読みはおかしい、というご指摘は随時募集。

 0.イントロダクション

0.1.文学解釈に関するみっつの理論

虚構的な文学作品の解釈実践は多様である。作者の心理や価値観の現れとして解釈されるときもあれば、別分野で論じられている理論の説明として文学作品が使われることもあるし、脱構築されることもあれば、古典としての位置づけに関心を向けられることもある。

分析美学は、文学作品に関して大きくみっつの理論に注目してきた。

  1. 現実意図主義 [actual intentionalism]:首尾よく実現された作者の意図が、作品の適切な解釈を決定する。
  2. 仮説意図主義 [hypothetical intentionalism]:解釈者は、仮説された作者であればどのような意味を意図するだろうかと推測する。
  3. 価値最大化理論 [value-maximizing theory]a.k.a.慣習主義 [conventionalism]):作品は、作品としての価値を最大化する仕方で解釈されるべきである。

いずれの理論も共通して、文学作品の存在論に関する文脈主義を取っている。すなわち、作品は、言語実践に加え、作者性、文学慣習、様式やジャンルを含む「創作の環境 [the circumstances of their creation]」からそのアイデンティティを得ている、と考える。文学作品の解釈は、作品の使用言語において文や語が指し示す事柄を検討するだけでなく、書かれた時代における慣習や伝統を踏まえて作品の意味を検討しなければならない。また、文学解釈の目標についても合意があり、いずれも「作品を文学作品として理解し鑑賞すること」を目指している

0.2.本論文の射程

このような合意によって、文学作品の解釈実践のうち多くは議論から除外される*3。しかし、このことは正当化できる。これらの理論が提示する解釈的アプローチは、文学の生産と消費にとって基礎的 [fundamental] なものであり、ゆえに特別な重要性を持つ。作者を相手にしないような解釈実践がデフォルトだったとしたら、苦労して作品を生み出す理由がなくなる。あるいは、仮に基礎的だと言えないにしても、広く用いられてきた解釈的アプローチであるのは確かなので、これを検討するのは興味深い試みである。*4

0.3.本論文の目的と主な主張

本稿では、上に挙げた各理論の間の関係および緊張について考える。実際の解釈実践ではしばしば全てのアプローチが組み合わされているのに、哲学的議論においては対立する諸理論だとみなされがち。現実意図主義者は作者の意図によって認可されていない解釈を拒絶する。仮説意図主義および価値最大化理論は、「解釈は作者の意図した意味のみにフォーカスすべきである」という見解を拒絶する。また、文学解釈の目的についても見解が相違する*5価値最大化理論は作品の良さを明らかにしたいが、仮説意図主義は作品の意味を明らかにしたい。

当の議論は、基本的に「現実意図主義vs仮説意図主義」になっているが、デイヴィスが推しなのは価値最大化理論。以下で主張したいのは、

  1. 現実意図主義では、いくらかの(正当な)解釈の正当性を認められず、あるいは、仮説意図主義価値最大化理論の提起する懸念に対して主張を弱めざるを得ない。
  2. 仮説意図主義は、より正確でクリアな理論である価値最大化理論で還元できるか、あるいは(そうでないと仮説意図主義者が考える場合には)実際には現実の意図しか持ち得ない種の力を誤って仮説的な意図に付与してしまう問題がある。

 

1. 現実意図主義

1.1.極端な意図主義と穏健な意図主義

一見すると、現実意図主義は強力な候補である。理由のひとつとして、コミュニケーションの目的は情報の交換である。いろんな仕方で解釈できる発話に対し、話者は話し手がなにを意味・意図したのかを引き出そうとする*6。話者がなにかを誤って述べた場合にも、「発話の意味 [the utterance meaning]」よりも「話者の意味 [the utterer’s meaning]」に関心を向けられる。現実意図主義者によれば、芸術作品もまた作者による伝達だとみなせる

現実意図主義はまた、文学テキストこそが作者の意図の最大の証拠となる、と考える。すると、意図によってテキストの意味が決まる&テキストによって意図が分かる、という循環を回避するため、作品における意図の反映はときに失敗することを認めなければならない。失敗ケースに関して、現実意図主義がとりうる道はふたつある、

  • 極端な立場:たとえ意図の実現に失敗していたとしても、なにが意図されていたのかを考えるべきだとする。作品の意味は、作品から読み取れないだけで、依然として意図された意味であるとみなす。
  • 穏健な立場:このような場合には、意図された意味と作品の意味はもはや一致していないとみなし、後者の意味を考えるべきだとする。

よりもっともらしいのは穏健な立場だろう。とはいえ、留意しておきたい事実として、極端な立場は「文学解釈は、通常の言語コミュニケーションにおける理解と似通っている」という見解に忠実だが、穏健な立場はすでにそこから幾分か後退している。

1.2.意図の実現に関するふたつの基準

作品の意味に関して、自らの意図を実現しようとする作者の試みは、どのような場合において「成功した」と言えるのか。基準はふたつ考えられる。

  • 厳しめの基準(ステッカー):作者の意図した意味が、適切な読者に受け入れられる可能性が最も高いもののひとつである場合、作者の試みは成功している。
  • ゆるめの基準(キャロル):適切な読者にとってのよりもっともらしい解釈があるにせよ、作者によって意図された意味に従って(整合的に)読める場合、作者の試みは成功している。*7

1.3.どこまで「証拠」として使ってよいのか

作品内で意味されていることに関して、作品外のなにが証拠として認められるのか現実意図主義は、個人的な日記や手紙などを含む、潜在的な証拠のすべてを情報源として認めがち。そのような外的証拠から引き出される意図が、作品においてもっともらしい意味/整合的な意味のひとつと一致する場合、それが作品の意味となる。意図の実現に関してどちらの基準をとるにせよ、現実意図主義をとるなら、外的な証拠と内的な読みの照合が必要になる。これに対し、仮説意図主義および価値最大化理論は、作品はもっと自律的で自己充足的であり、作品の意味は作品内において明らかになっているはずだと考える。ゆえに、個人的な日記や手紙といった情報源は認められないと考えがち。もしその種の情報源を参照する必要があるのだとすれば、作者は意味の伝達に失敗しているのだ、と考える。

しかし、現実意図主義に強く反対する論者であっても、「作品内容の一部(後述の皮肉や暗示)は、作品に内的な要素と作品を超えた事柄の間の関係によって決定される」という事実については認めざるを得ない。問題は「作品外の情報は作品解釈に使えるかどうか(イチかゼロか)」ではなく、「証拠として認められるものとそうでないものの線引きはどこにあるのか」である。現実意図主義は、作者の望みや意図を示唆するものだったらなんでも証拠として使っていいと考え、その反対者は、作品制作時において公的に利用可能だった [in the public domain] 情報源しか認めない。

1.4.現実意図主義では広すぎる

さしあたり、現実意図主義に対する第一の反論として、「あらゆる言語的コミュニケーションは失敗する」という見解に基づいたものは、自己論駁的 [self-refuting] だとして退けられる。学部生が提起しがちな「他人の意図は原則として知り得ない」という見解も同様。*8

第二の反論は、作品が私秘的な意味の担い手であるとするのはおかしい、と考える。例えば、作者が仲間内だけで通じるような暗号を使っているケース。この場合、作者が意図した意味は親しい友だちにしか読み取れないが、現実意図主義はこのような意味も作品の一部だと考える。反論者によれば、これを許容するのは作者の意図を過度に重視しており、あまりにリベラルである。

このような反論に対し、現実意図主義は「でも読者は、作品の明示的な内容だけでなく、秘められたメッセージや意味にも関心を抱くでしょ?」と応答する。*9

デイヴィス曰く、この反論はもっと深刻だし、現実意図主義からの応答にももっとマシなものがある。現実意図主義には、暗号やその意味に関しては解釈から除外することを認めた上で、「作品は公的なものであり、適切な読者に向けられたコミュニケーションのみが解釈の対象である」とする線がある。

たとえば、州憲法の作者が、妻だけに分かる暗号を用いて「大統領はみな弾劾されるべきである」という意味を仕込んだとする。バレたとしたら、このようなメッセージに関心が向けられるのは間違いないが、当のメッセージが州憲法におけるその他の条文と同じ仕方で明記されているわけではない。このようなプライベートな伝達は、法的文章としての憲法のいち解釈(「大統領はみな弾劾されるべきである」)を正当化するものではない。文学作品もまた、作者の知人の輪に限定されるものではなく、一般の人々にとって利用可能なものとして読まれ、解釈されなければならない。(暗号のケースなど、)首尾よくなされた伝達だからといって、そのすべてが文学作品の解釈対象として平等であるわけではない。*10

1.5.現実意図主義では狭すぎる

私秘的意味に関する上述の反論によれば、現実意図主義は解釈として許容する範囲が広すぎる。これとは別に、許容する範囲が狭すぎる、という反論もある。作者が首尾よく意図した意味を知り尽くしても、明らかに正当である解釈の一部を説明できていない場合がある。(デイヴィスは明らかに、広すぎることよりも狭すぎることのほうがより深刻な問題だと考えている。)

もっとも、現実意図主義だからといって、正しい意味はただひとつだと考える必要はない。作者が、作品を曖昧だったり複雑なものとして意図している場合は、解釈も広がりを持つ。(つまり、意図されている範疇にとどまったとしても、解釈の広がりは確保できる、と現実意図主義者は応答できる)

しかし反論者によれば、文学作品は作者の意図した範囲を超えるような解釈をも許す。これに対する現実意図主義からの応答はふたつ、

  • 強気:このような(作者の意図を超えた)解釈は、なされるべきではないとする。デイヴィスによればこの線は魅力がない。文脈や制作状況を踏まえたちゃんとした解釈を、このような基準で排除するなら、それは線引きが恣意的である。
  • 弱気:現実意図主義の主張を弱め、作者によって明示的に意図されていないが正しい解釈があることを認める。作者はしばしばこのような解釈を後から許容するし、またそもそも、自らの作品が多様な仕方で解釈されうることをも意図していると言える。

弱められた立場は、「解釈は、意図されたものだけに関心を持つべきである」を諦め、「解釈は、作品のなかで明らかになっている意味のうち、著者が否定していないもの(否定しないであろうもの)も対象とする」という立場へ転換している。作者が否定したり否定しうる意味だけを除外する立場であり、作者の意図はある解釈を不当にするもの [defeater] として使われ、正しい意味の特定に寄与するものではないとする。*11

1.6.弱い現実意図主義

デイヴィスはこのような立場を「弱い[weak] 現実意図主義と呼ぶ。ここから得られる観察として、

  • 否定の証拠とは?:作者がどのような解釈を否定しようとしたのかに関する証拠は、どのような意味を意図したのか関する証拠よりも、一層ややこしい。よって、確かなことが言いづらい。
  • 話者の意味よりも発話の意味を優先?:出発点であった通常のコミュニケーションモデルからだいぶ遠ざかっている。通常の会話で、「話者によって否定される/されうる意味以外の意味ぜんぶ」が考慮されることはまずない。会話において注目されるのは発話の意味ではなく、話者の意図に基づく話者の意味である。一方、弱い現実意図主義は文学作品の話者というより発話に注目している。作者が全く考慮していない意味も、作品に含まれることを許容しているため。

通常のコミュニケーション理論から離れた分だけ、別の理論で補う必要があるが、デイヴィスによれば、提示されている案はいずれも仮説意図主義ないし価値最大化理論でカバーされているようなものしかない。 たとえば、以下で見るカテゴリー的意図は、仮説意図主義であっても認められる。

1.7.カテゴリー的意図

意図によって決まると思われるものはいろいろある。まず作者は、(A)作品のカテゴリーやジャンル、タイトルなど、作品のアイデンティティに関わる要素を決定できそう(悲劇か喜劇か、散文か俳句かなど)。ほかにも、(B)作品のある箇所/全体が皮肉、暗示、引用であることも決定できそう。これらの存在は明らかに現実意図主義を支持している。

(A)について。現実意図主義の反対者は、強気に「カテゴリーやタイトルも意図によって決まらない」とも言いうる。しかし、より説得的なものとしては「意図が作品アイデンティティの重要な側面を定める」と認めつつ、一方でしかし「作品がどう解釈されるべきかについては、意図は決定的な役割を持たない」とする線がある。レヴィンソンはこの線をとっている。

あるテクストTの内部で、あるいはそれによってなにかを意味しようとする作者の意図(「意味論的意図 [semantic intention]」)と、Tがある特殊な仕方で、あるいは一般的な仕方で分類され、受け取られるようにする作者の意図(「カテゴリー的意図 [categorial intention]」)は、まったく別のものである。……意味論的意図は、……意味を決定するわけではない。しかし、カテゴリー的意図は、たとえば文学制作者が自分の制作したものがなんであるかについてどう考えているかに関わる意図がそうであるように、一般にあるテクストがそもそもどのように概念化され、扱われるべきかを決定するのであり、それゆえ間接的に、それが結局なにを伝え、なにを表現しているのかということに影響するのである。

――――Levinson, Jerrold (1992). Intention and Interpretation: A Last Look. In Gary Iseminger (ed.), Intention and Interpretation. Temple University Press. pp. 221-56. (和訳pp.259-260『分析美学基本論文集』、〔範疇的意図〕は〔カテゴリー的意図〕に変更)

 レヴィンソンによれば、カテゴリー的意図は作品の内容とアイデンティティを決定するため、解釈はこれを踏まえないといけない。一方で、カテゴリー的意図さえ正しく踏まえられているのであれば、意味論的意図によって解釈が制限されるいわれはない。

(B)について。作品における諸特徴(表象、引用、皮肉、暗示、寓意、象徴など)も、作者の意図を要請するのだろうか。現実意図主義は、それぞれに関与的な作者の意図は、現に作品の意味論的内容に影響をするため、意図にしたがって適切な作品解釈を制限すべきだと考える。これに対する反論はみっつ考えられる。

  1. ともかく意図は使わん:強気に、上のような性質たちも、意図には依存していないとする。デイヴィスによれば、この線は皮肉を説明できないのでダメ。
  2. ここでもカテゴリー的意図を使う:それらの諸特徴がつまるところ作品アイデンティティにとって肝心なのであれば、意味論的意図ではなくカテゴリー的意図に基づいて考えればよいとする。同一のテキストがかたや寓意を持ち、かたや持たない場合、これを左右しているのは作者のカテゴリー的意図であって、意味論的意図ではない。しかし、デイヴィスによれば、引用や暗示といった諸特徴のすべてが作品アイデンティティに寄与するわけでもないのがネック。(カテゴリー的意図だけでは説明しきれなさそう)
  3. 意図によって決まることを認めた上で開き直る:作者の意図はたしかにこれら諸特徴を決定しうるとしても、そのことが解釈に制限を設けるいわれはない。そういった特徴が意図されていたとしても、これを無視した解釈が許容されうるし、そういった特徴が意図されていなかったとしても、これを読み込んだ解釈が許容されうる。*12

1.8.反意図主義と現実意図主義の対立点

最後に、「作品において意図が首尾よく実現されているときに、意図を示す外的証拠を真っ向から否定するのは変だ」という常識的見解も、現実意図主義を支持しているように思われる。しかし、反対者は現実意図主義を受け入れることなく、この見解をカバーできる。というのも、最も強硬な反意図主義でさえ、作者の意図の証拠を調べることに反対するわけではないからだ。首尾よく実現されており、かつ公言されている証拠を、作品と照らし合わせてもよい、ということについてはビアズリー(強めの反意図主義者)でさえ認めている。すなわち、反意図主義であっても「作者の意図に関する情報は作品解釈にとってほとんど常に関与的である」ことを認められる現実意図主義と反意図主義の違いは、後者が「作者の意図が本質的に無関係である」とする点ではなく、後者が「ある解釈に対する作者からの承認は、その解釈に特別な権威を与えるものではない」し、「ある解釈に対する作者からの拒絶は、その解釈の是非に関する検討を禁止するものではない」と考える点にある。

1.9.現実意図主義への評価まとめ

つまるところ、現実意図主義は文学解釈とふつうの言語コミュニケーションのアナロジーから出発するが、前者において「作者が意図し実現した意味を超える(しかし正当な)解釈」があることに困っている。意図された範疇に固執するのもしんどいし、主張を弱め、意図されていない範疇についてもちょっと認めるなら、意図主義を部分的に諦めることになる。「作者の明示的で首尾よく実現された意図に関しても、関与的でない場面がある」ことを認めるのだとすれば、弱い現実意図主義はもはや意図主義とは呼べないものとなる。結局、強気でも弱気でも現実意図主義はうまくいかない。

結局はうまくいかなかったが、弱い現実意図主義への移行は十分に動機づけられている。このムーブは、やがて仮説意図主義価値最大化理論へと至ることになる。*13

最終的に、現実意図主義が認めざるを得ないのは「文学解釈には、意図された意味に関する探求以上のものがある」という事実だ。

 

2.仮説意図主義

2.1.現実の作者から引き剥がす

仮説意図主義によれば、読者は作品の作者と「作者が意味に関して持っていた可能性が高い意図」を仮定する [hypothesizing] ことで、作品を解釈する。このような、解釈における想像的戦略の目的について、仮説意図主義内にも対立がある。結果として、なにがどのような制約のもとで仮説されるべきか、についても見解が相違する。①ポストモダン流の仮説意図主義者は作品を、現実の作者やそれが作られた美術史的文脈から切り離そうとする。この場合、読者は作者によって意図された読者である必要もないし、解釈が制作時の背景に基づく必要もない。②より保守的な仮説意図主義であれば、性格や知識や美術史的位置づけなどにおいて現実の作者とよく似た作者を仮説し、制作時の慣習なども踏まえて解釈することを要請する。③中間的な仮説意図主義であれば、制作時の慣習は大事だが、仮説の作者が現実の作者と似ている必要はないよね、と考えたりする。*14

ポストモダン流の仮説意図主義は作品解釈に関してかなり自由だが、その解釈対象はもはや作者と紐付けられた作品ではないという点で、これによってなされる解釈を作者の作品に帰属できるかは疑わしい。この線の支持者は開き直りそうだが、本論文で一貫して問題にしているのは「作者を持つ作品」をその対象とする解釈である。(なので、この線は検討しないことにする)

②③はともに、作者と紐付けられたものとしての作品 [the work as authored] のアイデンティティを尊重すべきだと考える。これらの仮説的意図主義は、作者の作品を、そのアイデンティティの原因となっている文脈からは引き剥がさないが、現実の作者から作品を十分に引き剥がすことで、現実意図主義が許容するよりも幅広い解釈に対応できるようにする。

2.2.現実意図主義に対する仮説意図主義の利点

聞き手はしばしば、話者の意図に関する明確な証拠が不十分であることから、相手の言ったことがなにを意味しているのか推測することになる。例えば、それまでの話と合理的に一貫しているとか、少なくとも関係しているはずだという前提のもとで推測がなされる。このように、現実意図主義をとる場合にも、発話の意味に関して仮説立てが伴うことはありふれているが、現実意図主義の場合、もし直接的で確かな証拠さえ得られるなら(仮により仮説のほうがもっともらしいものだったとしても)仮説は棄却される。例として、Aさんが「聖書は史上最高のnovelだ」と発言し、これに困惑したBさんがAさんの意図を推測するケース。Bは、Aが「聖書はフィクションだ」と冗談を言っているのだろうと仮定する。矛盾はないし妥当な解釈だろうとBは納得するが、その後、Aが実はnovelで単にbookを意味していたとか、Aがnovelの意味を十分に理解していなかったことが判明すれば、Bの関心はAの発言の意味を知ることであるという限りで、先程の仮説(Aが冗談を言った)は放棄すべきである。

一方、仮説意図主義が行うような仮説は、現実の意図さえ分かればただちに棄却されるようなものではない。ここで、意図を仮説される作者は、彼・彼女の存在自体が仮説される*15。現実の作者と仮説的な作者は、いくら似通っていても区別されるため、前者の意図が分かったところで仮説立てが終わることはない。仮説における関心とは、「現実の作者によってなにが意図されたのか」ではなく「仮説的な作者によってなにが意図されうるのか」である。これによって、仮説意図主義現実意図主義よりも、広範な解釈を許容しうる

もちろん、現実の作者に似た作者を仮説する②保守的な仮説意図主義は、そうでない仮説意図主義よりも許容する範囲が相対的に狭い、みたいなことはある。仮説される作者が現実の作者とかなり似ている場合、現実の作者がその意図を実現できている限り、現実意図主義者による解釈と仮説意図主義者による解釈は一致する可能性が高いだろう。しかし、この後に別の意図の証拠が出てきて仮説が間違っていたことが分かったとしても、(その証拠を踏まえた解釈よりも仮説のほうがもっともらしい場合、)仮説意図主義はもとの解釈を変更しないだろう(現実意図主義は変更する)。 

現実意図主義では不当に排除されてしまう解釈の正当性を担保できる点が、仮説意図主義の利点であった。仮説意図主義にもいくらか問題があるのだが、これを検討する前に、仮説意図主義価値最大化理論の関係を考える。デイヴィスによれば、仮説意図主義は、意図主義のいちバージョンとして誤って理解されていない限りで、価値最大化理論に等しい [equivalent] と言えるような立場である。 

 

3.仮説意図主義と価値最大化理論

3.1.仮説意図主義も価値最大化をしている

複数の競合する解釈に対し、仮説意図主義はどのようにして最良の仮説を決めるのか。レヴィンソンは以下のように提案している。

第一に、最良の帰属とは、認識の上で [epistemically] 最良なものである――すなわち、理想的な読者の立場にある者に利用可能なすべての証拠を考慮し、最も正しいと思われるものである。しかし第二に、最良のやり方で意図を作者に帰属することは、著述がなされた際の全文脈を考慮して作者に帰属するのが妥当と見なしうるかぎりの意図に関して、なおそこに選択の余地がある場合に、どの意図を作者に帰属するのが最善かをきめるには、寛容の原理をふまえて、作品を芸術的に [artistically] より良くする解釈を選ぶことが必要となる。言い換えれば、より巧みで、より魅力的で、より想像力豊かな作品をその作者が創りえたといえるならば、しかもそれが、われわれに利用可能なテクストや文脈に関わる証拠すべてによって確証されている、作者の全作品のイメージを壊さないならば、われわれとしては、作者はまさにそのような作品を創作したのだと見なすべきである。

――――Levinson, Jerrold (1992). Intention and Interpretation: A Last Look. In Gary Iseminger (ed.), Intention and Interpretation. Temple University Press. pp. 224-5. (和訳pp.248『分析美学基本論文集』)

レヴィンソンは「最良」であるための条件をふたつ挙げており、そのふたつ目には、仮説意図主義価値最大化理論の接点が見て取れる。しかし、レヴィンソンは、価値最大化が二次的で副次的なものであると考えている。レヴィンソンにとってより重要なのは、解釈が「理想的な読者の立場にある者に利用可能なすべての証拠を考慮し、最も正しいと思われるもの」になっていることであり、価値最大化を伴わずともこの条件を満たしうることを示唆している。レヴィンソンにとって、価値最大化はもっぱら(最良の仮説同士の)同点決勝において役割を果たすだけである。

しかし、デイヴィスによれば、仮説意図主義は文学的価値の検討をより基礎的なものと見なさざるを得ない。というのも、認識論的妥当性に関する評価は、価値の問題から独立ではなく、後者を前提としているからだ。

読者が作家について仮説立てする際には、その信念・価値観・意図だけでなく、より深い動機や目的についても考えなければならない。これを通して、読者は作品のうちに洞察力に富んだもの、喜ばしいもの、肯定的なもの、愉快なもの、興味深いもの、広く「価値のあるもの」を発見することになる(そのなかには、人生を変えてしまうようなものも含まれているだろう)。すなわち、読者は文学に価値を求める存在 [value-seekers] としてアプローチしている

これを踏まえると、仮説意図主義において仮説される作者については、「文学的に価値のあるものを作ろうとしており」「そのような意図を実現するための能力を持っている」ことを前提しなければならない。すると、解釈が「理想的な読者の立場にある者に利用可能なすべての証拠を考慮し、最も正しいと思われるもの」になっているかどうかの検討に先立って、作品の長所や短所に関する検討がなされることになる。換言すれば、ふたつの解釈が等しく説得的であるにもかかわらず、一方が他方よりも価値に関して優れている、ということはありえない。というのも、この場合、作者は作品価値をより高くするほうの意味を意図したと考えるのがつねに妥当であるため、認識論的に説得的である解釈も一方に決まるからだ。

このように、仮説意図主義には(その支持者が思っている以上に)価値最大化理論と似通った部分があり、デイヴィスは両者が本質的には異なるものではないと考える。しかし、各理論の支持者がそれを提示する仕方はまったく似ていない。

3.2.仮説意図主義はどこまでちゃんとした意図主義なのか

価値最大化理論は、文学作品に対する解釈モードが、通常のコミュニケーションにおける解釈モードとは、目的と戦略においてだいぶ異なることを前提としている。というのも、文学解釈において肝心なのは、「作品によってなにが意味されたか」ではなく、「作品がなにを意味しうるのか」であるからだ*16。「昔むかしあるところに……」と「僕の考えでは……」とでは、それぞれに求められる解釈ゲームが異なる。価値最大化理論は、文学解釈に関して、「作者の意図した意味」ではなく、「それが作られた社会歴史的な文脈を踏まえ、作品が意味しうるもの」にフォーカスする。

一方、仮説意図主義は、現実意図主義から離れつつも、依然として意図主義のいち形態として提示されている。通常の発話コミュニケーションモデルは、不十分な証拠から、文脈や暗黙の慣習や発話に先立つ歴史を踏まえて話し手の意図を目指すわけだが、仮説意図主義も明らかにこれと同じ仕方で進行する。加えて、現実の意図に基づいた解釈よりも、仮説的な意図に基づいた解釈のほうが優れているというケースが比較的まれであるため、現実意図主義仮説意図主義の違いはしばしば明白ではない。結局のところ、仮説意図主義現実意図主義の問題を回避しつつ、意図主義のうまみを引き継ごうとする立場だと言える。しかし、デイヴィスによればこのような仕方で仮説意図主義を打ち出すのはミスリーディングである。

デイヴィスによれば、仮説的な作者はまったくもって作者ではないし、仮説的な意図はまったくもって意図ではない*17仮説意図主義者が持ち出す作者やその意図は、現実の発話者やその意図が持つような本性や力 [nature or force] を持たないのだ。(よって、作者や意図の役割をアピールすることで価値最大化理論と差別化することはできない)

以上の理由から、デイヴィスは仮説意図主義価値最大化理論と等しい立場であると考える。よって、両理論は多かれ少なかれ同じ反論を受けるべきである。

 

4.価値最大化理論(および仮説意図主義)への反論

ここまで、作者の意図には様々な役割があることを見てきた。作者の意図は、①作品のタイトルやジャンルを決定しうるし、②皮肉や暗示や寓意といった特徴を決定しうるし、③読者を価値のある解釈へと導きうる。仮説意図主義価値最大化理論は、現実意図主義に訴えずともこれらの事実を説明できると考えているが、これには異論があるだろう。(特には検討しない)

別の反論(ステッカー)として、「作品は、その芸術的価値の鑑賞だけでなく、理解を要請する」という考えに基づくものもある。これに対しては、価値最大化理論は受け入れた上で、「それでも価値最大化を通して理解するはずだ」と言って反論を回避できる。(特には検討しない)

4.1.価値最大化理論では広すぎる?

さらに別の反論がある。現実意図主義はそれが許容する解釈の幅が狭すぎることを問題にされていたが、現実意図主義者からすれば、仮説意図主義価値最大化理論のほうが広すぎるのだ。キャロルは映画『プラン9・フロム・アウタースペース』を例に、次のように述べる。エド・ウッドによる本作は低予算のB級映画で、映画史上最低の出来と言っても過言ではない駄作だと評価されるのが普通である。しかし、ポストモダン的な態度で読み解くなら、(ハリウッド的な文法の撹乱であるといった解釈から)ウィットに富んでいて素晴らしい作品だと評価されうる。キャロルによれば、この第二の解釈はウッドの失敗や意図に関して明らかに間違っているのだが、仮説意図主義価値最大化理論ではこちらを優先してしまう。

仮説意図主義および価値最大化理論からの応答として、

  • カテゴリー的意図に訴える:ウッドの映画が「ポストモダン的な風刺」としてカテゴリー的に意図されていたとしたら、作品のアイデンティティは変化し、受け取られ方も変わることになる。仮説意図主義価値最大化理論も、作者のカテゴリー的意図が作品ジャンルを決定することについて認めるため、ウッドの正しいカテゴリー的意図を尊重する限り、上述の間違った解釈は回避できる。
  • 解釈の合理性・一貫性に訴える:仮説立てや価値最大化をする場合も、作品を精査することによって、駄作とみなしたほうが合理的だとちゃんと判断できる。「芸術的によりよい解釈」といっても、その他の競合する解釈と比べて同程度に一貫したものでない限り、価値最大化理論であってもこのような解釈は支持しない。

4.2.価値最大化理論では狭すぎる?

さらに、価値最大化理論が言語慣習を重視する点にも反論(シェリー・アーヴィン)がある。作者を持つものとしての作品を尊重する際、価値最大化理論は許容されうる奇妙な意味をいずれも無視し、制作時の文脈を踏まえた上でのテキストの「デフォルトの」意味を優先する(defeaterがない限り)。しかし、デフォルトの意味を優先する限り、作品の価値を最大化することはできない。なぜなら、この場合、作品の意味は曖昧でなく明確なものになるからだ。*18

反論者の指摘はおおむね正しい。しかし、文学解釈が焦点を当てるのは、(テキストの意味だけでなく)作品全体と、そこに含まれるキャラクター、行為、出来事である。「オセロとデズデモーナの結婚生活は円満だったのか」「コンラッド『闇の奥』は人間の条件についてなにを語っているのか」「ベケットゴドーを待ちながら』が明らかにするのは、人生が悲劇であるということか、茶番であるということか」といった問いはいずれも文学解釈における重要な問いであり、(言語慣習上のテキストの意味が明確だったとしても)このレベルにおいては複雑さと柔軟さに関してかなりの余地がある

4.3.価値最大化理論における解釈の多様性

それでも、価値の"最"大化を希求する限り、価値最大化理論解釈に関する多元主義ではなく一元主義だという反論(アーロン・メスキン)が続くかもしれない。価値最大化に訴えない慣習主義は原理上、解釈の多様性を伴うのだが、価値最大化理論はそのうちに単一の“勝者”を求める。芸術的「良さ」への執着によって、多くの解釈を不当に排除してしまうのではないか。

しかし、デイヴィスによれば、ここで文学の豊かさを過小評価しているのは反論者のほうだ。デイヴィス曰く、価値的に最大化された解釈はひとつになるとは限らず、価値最大化理論はこのような複数の競合する解釈の正当性を認められる。例えば、「ハムレットは躊躇している」「ハムレットは断固とした態度で行動する」というように、解釈者は異なる前提から出発する(その結果、それぞれにとっての価値最大化された解釈にたどり着く)ことができる。作品において、なにが価値的に重要なのかは、解釈者の採用する前提に左右される。一定の前提のもとで価値を最大化する解釈が得られたとしても、前提が変われば解釈も変わりうる。もし作品が多元的で複雑なものであれば、前提の異なる複数の解釈が生じるのがふつうだし、明らかに“勝者”と呼べる解釈が得られないのも珍しくない。

優れた文学作品は、解釈のための肥沃な土壌を提供する。このとき、価値最大化理論は、多元的な作品において多元的な解釈があることと両立できる。これを踏まえると(単一の“勝者”たる解釈を志向しそうなニュアンスを回避するために)、価値最大化理論ではなく「価値充足理論 [value satisficing theory]」と呼んだほうがいいかもしれない。

 

5.まとめ

ここまで検討してきたみっつの立場は、いずれも「解釈の対象は作者を持つものとしての作品であり、それは特定の美術史的条件のもとで執筆されたものである」「解釈はその作品をそれ自体として理解し、鑑賞することに向けられている」ことを前提として共有している。このもとで、解釈の目標は「①(現実の作者によって)なにが意味されたのかを探る」ことなのか、「②(仮説的な作者によって)なにが意味されうるのかを探る」ことなのか、「③文学としての価値を最大化する」ことなのかを巡って対立している。

現実意図主義の問題点は、文学解釈が通常の発話解釈とパラレルだとみなす点にあった。「作者がなにを意味したのか(話者の意味)」を重視する限りで、作品アイデンティティや鑑賞の目的に沿った重要な解釈(「作品がなにを意味しうるのか(発話の意味)」や、作品の長所に関わるもの)を見逃してしまう。また、弱い現実意図主義をとる場合には、その説明能力が仮説意図主義価値最大化理論に勝るものではないことを認めざるを得ないし、この線はもはや通常の発話解釈モデルでもなければ、文学的な解釈モデルでもない。さらに、ここまでしても、一部の正当な解釈を許容できない問題がなお残る。

仮説意図主義については、前提として「作者が価値的に劣った作品を書くよりも、より優れた作品を書こうと意図していた」と仮定する方が常に妥当であることから、価値最大化理論とそう違わない立場だと主張してきた。仮説意図主義者は、仮説的な作者や意図に訴えるが、これらを持ち出すのはたんにミスリーディングである。

結論はふたつある。

  1. 文学作品の解釈に関するこれらみっつの理論は、各支持者がそう主張しているほどには、それほど極端に対立しているわけではない。弱められた現実意図主義はほぼ仮説意図主義だし、仮説意図主義はほぼ価値最大化理論である。
  2. 価値最大化理論がもっとも望ましい現実意図主義では狭すぎ。仮説意図主義価値最大化理論に還元できる。

 

文献一覧

(元論文の注4,5からコピペ。)

現実意図主義

  • Robert Stecker, Interpretation and Construction: Art, Speech, and the Law (Oxford: Blackwell Publishing, 2003).
  • Robert Stecker, Aesthetics and the Philosophy of Art (Lanham, MD: Rowman & Littlefield, 2005).
  • E. D. Hirsch, Jr, Validity in Interpretation (New Haven, CT: Yale U.P., 1967).
  • Steven Knapp and Walter Benn Michaels, ‘Against Theory’, Critical In- quiry, vol. 8 (1982), pp. 723–742 and ‘Against Theory 2: Hermeneutics and Deconstruction’, Critical Inquiry, vol. 14 (1987), pp. 49–68.
  • Annette Barnes, On Interpretation: A Critical Analysis (New York: Blackwell, 1988).
  • Noël Carroll, Beyond Aesthetics (Cambridge: Cambridge U.P., 2001).
  • Gary Iseminger, ‘An Intentional Demonstration?’ in G. Iseminger (ed.), Interpretation, Intention, and Truth (Philadelphia: Temple U.P., 1992), pp. 76–96 (hereafter Iseminger 1992),
  • Gary Iseminger, ‘Actual Intentionalism vs. Hypothetical Intentionalism’, Journal of Aesthetics and Art Criticism, vol. 54 (1996), pp. 319–326.
  • Paisley Livingston, ‘Arguing Over Intentions’, Revue Internationale de Philosophie, vol. 4 (1996), pp. 615–633.
  • Paisley Livingston,’Intentionalism in Aesthetics’, New Literary History, vol. 29 (1998), pp. 831–846.
  • Paisley Livingston, Art and Intention: A Philosophical Study, (Oxford: Oxford U.P., 2005).
  • William Irwin, Intentionalist Interpretation: A Philosophical Explanation and Defense (Westport, CT: Greenwood Press, 1999).

 

仮説意図主義

  • William Tolhurst, ‘On What a Text Is and How it Means’, British Journal of Aesthetics, vol. 19 (1979), pp. 3–14.
  • Kendall L. Walton, ‘Style and the Products of the Processes of Art’, in B. Lang (ed.), The Concept of Style (University Park: Pennsylvania State University Press, 1979), pp. 46–66.
  • Alexander Nehamas, ‘The Postulated Author: Critical Monism as a Regulative Ideal’, Critical Inquiry, vol. 8 (1981), pp. 133–149.
  • Alexander Nehamas,’What an Author Is’, Journal of Philosophy, vol. 83 (1986), pp. 685–691.
  • Alexander Nehamas,’Writer, Text, Work, Author’, in A. J. Cascardi (ed.), Literature and the Question of Philosophy (Baltimore: John Hopkins U.P., 1987), pp. 267–291.
  • Jenefer Robinson, ‘Styles and Personality in the Literary Work’, Philosophical Review, vol. 94 (1985), pp. 227– 247.
  • Daniel O. Nathan, ‘Irony, Metaphor, and the Problem of Intention’, in Iseminger 1992, pp. 183–202.
  • Gregory Currie, ‘Interpretation and Objectivity’, Mind, vol. 102 (1993), pp. 413–428.
  • Jerrold Levinson, ‘Intention and Interpretation: A Last Look’ in Iseminger 1992, pp. 221–256.
  • Jerrold Levinson,’Messages in Art’, Australasian Journal of Philosophy, vol. 73 (1985), pp. 184–198.
  • Jerrold Levinson,’Intention and Interpretation in Literature’, in The Pleasures of Aesthetics (Ithaca, NY: Cornell U.P.), pp. 175–213.
  • Jerrold Levinson,’Two Notions of Interpretation’, in A. Haapala and O. Naukkarinen (eds), Interpretation and its Boundaries (Helsinki: Helsinki U.P., 1999), pp. 2–21.
  • Jerrold Levinson,’Hypothetical Intentionalism: Statement, Objections, and Replies’, in M. Krausz (ed.), Is There a Single Right Interpretation? (University Park: Pennsylvania State U.P., 2002), pp. 309–318.

 

価値最大化理論

  • David Davies, ‘The Aesthetic Relevance of Authors’ and Painters’ Intentions’, Journal of Aesthetics and Art Criticism, vol. 41 (1982), pp. 65–76.
  • David Davies, Definitions of Art (Ithaca, NY: Cornell U.P., 1991)
  • Alan H. Goldman, ‘Interpreting Art and Literature’, Journal of Aesthetics and Art Criticism, vol. 48 (1990), pp. 204–214.
  • Alan H. Goldman,’Response to Stecker’, Journal of Aesthetics and Art Criticism, vol. 49 (1991), pp. 246–247.

 

*1:【参考】Stephen Davies:1950年5月28日生。ニュージーランドオークランド大学名誉教授。前アメリ美学会会長。JAAC、Philosophy Compass、SEPの編集に携わるなど、分析美学の中心人物のひとり。音楽美学、芸術の定義関連で本を出しまくっているほか、近年は美学的問題に関する進化論的アプローチを試みていることでも有名。

*2:【参考】すでにあるサーベイとしては、松永さんのブログ記事と、

河合さんの論文、

その他、日本語で読める文献については、森さんのリーディングリストをご参照ください。

*3:【補足】これらのコンセンサスによって排除されているのは、「文学作品は自由に解釈していい(文脈無視)」とか「自然科学的に不正確だから駄作だ(“文学作品として"ではない評価軸)」といった見解。芸術作品は制作時の文脈と結びついており/に依存しており/から構成されており(個人的には、文脈に「アンカーされている [anchor]」という言い回しを使っていこうと思っている)、作品解釈はこれを踏まえるべきだ、というのは分析美学で広く受け入れられている見解。

*4:【補足】少なくとも、歴史的・文学慣習的に標準的だったり広くなされているのは、文脈主義的な解釈でしょ?というのを根拠に、議論射程の限定を正当化しているくだり。「作品解釈はもっと自由だろ!」「テクスト論こそ正当な文学解釈だろ!」という見解への予防なんだろうが、その手の人をいっそう焚き付けている気がしなくもない。ともあれ、恣意的だとしても、ここまで限定した「解釈」について考えていきます、ということでここはひとつどうだろうか。

*5:【補足】先程の「目標に関してはコンセンサスがある」という話と整合的でない気がするが、おそらく水準の異なる複数の目標・目的があって、「作品を文学作品として理解し鑑賞すること」レベルでは合意しているが、別のところで対立しているということかと。

*6:【コメント】文学解釈の話題で、通常の発話によるコミュニケーションが言及されるときにありがちなことだが、やや単純化しすぎているのではないかという思わないでもない。「対面コミュニケーションではともあれ相手の意図を正しく知ることが至上の目的であり、文学解釈はそうとは言い切れない」という対比をしたいんだろうが、前者は必ずしもそうではない気がする(たとえば差別的な発言は、意図さえ特定できれば是非が問える、というものではないだろう)。相対的にこのような対比ができる、ということであればぜんぜん同意するが、言語哲学のほうにもコミュニケーション上の意味を巡ってそれ相応の議論があるはずだろう(グライス周辺など)。

*7:【補足】よりもっともらしいのは「解釈p:主人公は死んだ」だが、「解釈q:主人公は生きている」でもなんとか無理なく読める作品のケースを考えよう。いずれの基準をとっても、作者がpを意図していれば作品の意味もpになるわけだが、ゆるめの基準は作者の意図がqである場合に作品の意味はqであることを許容する一方、厳しめの基準はこれを許容しない。

*8:【補足】self-refuting [wiki] の正確なニュアンスは分かっていないが、「その主張が真であるとすれば、まさにそのことによって、その主張が真ではなくなる」ような事態を指していると思われる。相対主義の「絶対なんて絶対にない」みたいなヤツ。

*9:【コメント】この辺りで改めて実感したことだが、当の論争、ひいては分析哲学的な論争に通底する懸念として、「その直観、ちゃんと反例になってんの?」問題がある。ある理論をとった場合、「ある“正当だと思われる”解釈がカバーできない(必要条件になっていない)」か、あるいは「ある“正当とは思えない”解釈までカバーしてしまう(十分条件になっていない)」という仕方で、当の理論に対する反例を挙げていくのはこの手の議論の定石なわけだが、このとき、実践あるいは直観上、反例が反例だと“思われる”以上に、反例である根拠が挙げられないことが少なくない。①もとの理論の支持者が、「それは反例になっていない」と応答すればある種の直観バトルに落ち込む恐れがあり、また、②実験哲学において指摘されるように、いずれの直観にも哲学者特有のバイアスがかかっていることは珍しくない。この辺の方法論的問題についてもおいおい考えていきたい。

*10:【補足】暗号を用いてある意味pを伝達する意図を実現しているが、だからといってテキストの意味がpだとは思われないケースとして挙げている。

*11:【補足】defeater [wiki] は認識論のタームで、「阻却要因」「阻却事例」「阻却理由」などと訳される模様。「正当化された真なる信念 [JTB]」を知識とする場合、正当化 [Justified] を妨げる事実や認識などがdefeaterに該当する(それが成り立っているなら、知識が成り立たない)。

*12:【補足】ちょっと分かりづらい線だと思う。おそらく、寓意を無視して『動物農場』を読んだり、逆に、しょうもない現代アートに思弁的実在論を読み込んだり、といった解釈を許容する立場(戯れの解釈に近い?)だと思われる。デイヴィスがどこまでこの線を有望だと考えているのかはよく分からない。皮肉や含みを説明できることは意図主義にとっての強いサポート&動機であるはずなので、これに関してはせいぜい引き分けだと思う。(「文学作品における皮肉」問題は、これ単品で論文になるぐらいには面倒なケースだろう)

*13:【コメント】振り返ると、現実意図主義に対するデイヴィスの攻撃は巧妙かつエレガントだったことが分かる。はじめに現実意図主義の最も強気のバージョンからはじめ、反例を出しつつ相手に譲歩を求め、弱気のバージョンまで切り詰めたところで、「それで説明できることでしたら、こっちでも説明できますよ。ならこっちでよくない?」といって仮説意図主義ないし価値最大化理論に織り込むという流れ。勉強になる。

*14:【補足】中間的な立場としてネイサンとカリー、保守的な立場としてトルハーストとレヴィンソンが挙げられている。また読者について、トルハーストは作者が意図した読者であるべきだとするが、レヴィンソンはある種の理想的鑑賞者であればよいとする点にも対立がある。

*15:【コメント】有識者からのコメントを期待しつつ、前からよく分かっていない疑問を書いておく。ここで仮説意図主義とは、理想的観察者としての読者を仮定するだけでなく、「内包された作者」みたいな作者をも仮定する立場だと紹介されている。この話は、Irvin (2006)の整理における仮説意図主義の区別を踏まえていないように思われる。以下、松永さんのレジュメから引用。

実際の作者の仮説的意図主義(以下AAHI)によれば、作品の意味は、注意深くかつ適切な知識を持つ読者が実際の作者に帰属させるであろう仮説的意図によって決まる。

仮定された作者の仮説的意図主義(以下PAHI)によれば、作品の意味は、注意深く適切な知識を持つ読者が仮定された作者に帰属させるであろう仮説的意図によって決まる。この仮定された作者は、多くの点で実際の作者と似ているものの、同時に、完璧な言語能力といった追加の特性も持つものとして想定される。

ここで、アーヴィンが「実際の作者の仮説的意図主義」として挙げているレヴィンソンが、ほんとうにこの立場なのかよく分かっていない。ちょっと前にもある通り、デイヴィスは「②保守的な仮説意図主義:現実の作者とよく似た作者を仮説する」「③中間的な仮説意図主義:仮説される作者は現実の作者と似ていなくてもよい」という区別において、前者にレヴィンソンを含めているが、「作者を仮説しないような仮説意図主義(作者の意図だけ仮説する?)」には言及していない。『分析美学入門』のあとがきでも、西村清和ははっきりと以下のようにまとめているし、

レヴィンソンは、文学コミュニケーションを成り立たせている者として、一方にウェイン・ブースに由来する「内包された作者」を配し、他方にウィリアム・トルハーストがいう「意図された読者」を配する。(p.425)

レヴィンソン論文の全体を見ても、ひとまずこのまとめが間違っているようには思われない。ちょっと怪しいのは、レヴィンソンがブース説に言及するのが、第Ⅹ節で「『戦争と平和』や『魔の山』におけるエッセイ部分」を論じている箇所だけであり、自身の仮説意図主義全体に組み込んでいるわけではなさそうだという点だ。すると、アーヴィンかデイヴィス=西村、どちらかのまとめが間違っていることになるが、結局レヴィンソンがAAHIなのかPAHIなのかは、そもそもそんな区別ができるのかがよく分かっていない。換言すれば、ブースの「内包された作者」に対するレヴィンソンの態度が判然としない。全体として使うならPAHIだし、使わないならAAHIということになるだろうが、「使わない」と明記している箇所が見つからなかった。

 

【補足2020/11/02】

Twitterより@ma_condo_100さんから情報をいただきました。ありがとうございます。

Levinson (2010)によれば、「作者を仮定する」という整理はネハマスの仮説意図主義には当てはまるが、自分の仮説意図主義には当てはまらない、とのことです。レヴィンソンの考えでは、意図を仮説されるのは(似ているというより端的に)現実の作者であり、仮説的な主体ではない、とのこと。

なるほど、レヴィンソンはAAHIだとするアーヴィンの整理に軍配が上がるようだ。AAHIである限り、「現実の作者にしか持ち得ないパワーを仮説的な作者に不当に持たせている」というデイヴィスの批判はひとまず回避できる。

もっとも、『分析美学基本論文集』収録の1996年論文では現実の作者志向とも仮説の作者志向とも明記していない気がするので、AAHIだというのは後に反論を踏まえて修正していった結果なのかもしれない。

ところで、上の批判回避の他に「仮説的な作者ではなく、あくまで現実の作者志向なのだ」というスタンスをとる旨みはよく分かっておらず、仮説意図主義の保守的なバージョン(現実の作者とよく似た作者を仮説する)と帰結上の違いもほとんどないのでは、と思った。この辺は、もう少しストイックにPAHIをとっているらしいネハマスを読みつつ考えてみたい。

*16:【コメント】主張に関しては同意したいところだが、この箇所は論点先取な気がしないでもない。

*17:【補足】この辺、どういう根拠があるのかいまいち汲み取れていないのだが、デイヴィスの主張はざっくり次のようになる。現実意図主義は、発話によるコミュニケーションモデルをすっかり受け入れ、作者とのその意図を、発話者とその意図とのアナロジーにおいて使おうとする。しかし、仮説意図主義は当のモデルから中途半端に離れようとしたばかりに、仮説的な作者とその意図を持ち出したが、これを現実の発話者とその意図とのアナロジーにおいて使うのは不当だ、ということ。

*18:【コメント】冒頭で、デイヴィスが「価値最大化理論a.k.a.慣習主義)」と称しているところも含め、この反論がどこから出てくるのかは分からなかった。言語慣習に照らし合わせた場合のデフォルトの意味を重視する、という方針は価値最大化理論に関してとくに明記されていたわけではないし、言語慣習の尊重と作品の価値最大化がどうつながるのかもよく分からない。とりわけ、この後の話も含めて整合的に考えられるのは、価値最大化理論は慣習主義のいちバージョンであって、価値最大化に訴えない慣習主義が別にあるという整理だろう。アーヴィンのサーベイもこのように整理しているのだが、逆に「慣習主義ではない価値最大化理論」は考えられないのだろうか。おそらく、本論文に先立つDavies (1982)ではもっとストレートに慣習主義的な立場を取っており、デフォルト云々の話が出てくるのはこの名残ではないかと予想している。そちらも読んだら改めて補足したい。