難波優輝「キャラクタの画像のわるさはなぜ語りがたいか:画像のふたつの意味と行為の解釈」|『フィルカル』vol.5 no.2「特集描写の哲学」レビュー

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『フィルカル』vol.5 no.2「特集:描写の哲学」収録の論文、難波優輝「キャラクタの画像のわるさはなぜ語りがたいか:画像のふたつの意味と行為の解釈」のレジュメとコメント(青字)です。

1.問題を共有する

本論文は、画像の倫理的問題を考える上での枠組みづくりを目的とする。特定の虚構的キャラクター画像(ポスター、マンガ、アニメ、ゲームほか)に対し、「性差別的だ」「暴力的だ」「反道徳的だ」といった倫理的価値づけをするとき、話し手はなんらかの理由・根拠を一緒に提示すべきだろう。難波論文は、①このような倫理的評価に伴う理由付け・根拠付けの構造(難波が「画像提示行為ダイヤグラム」と呼ぶもの)を明らかにし、②この手の倫理的問題を議論することの難しさを訴える。

難波は、倫理的価値づけの対象が典型的には文や画像の「意味」ではなく、これらを特定の文脈において提示するという「行為」であることを指摘した上で、画像を用いた行為の内実に迫る。

 

2.1.ふたつの意味と行為

まず、意味の水準について「画像の意味 [meaning in picture]」「使用の意味 [meaning in use]」という区別がなされている。言語と対応づけるならば、これはそれぞれ「文の意味」と「発話の意味」に対応するだろう。前者は、言語だったら特定の言語慣習に基づいて、画像だったらなんらかの描写原理(類似やら再認やら)に基づいて得られる、それなりに安定的な意味である。一方、後者は、言語の場合も画像の場合も、ひろく文脈と呼ばれる要素(話者・作者の意図、発話・画像使用の状況、日時、場所ほか)を加味した上で得られる、文脈可感的な意味である。*1

  • 難波さんの区別については、用語上の不満がある。意味に関する上述の区別は、明らかに、「画像の画像の意味と画像の使用の意味」といった言葉づかいを許すものである(実際、このような言い回しがp.95に出てくる)。しかし、こうなった場合、「画像の画像の意味」という言い回しは、冗長な上、難波さんがこの語によって拾いたい事柄(文脈安定的な意味、文の意味と対応づけられるような意味)をほとんど拾えていないように思われる。
  • また、参照のために付けている英訳、meaning in picture / meaning in useにも問題があり、これをそのまま使うなら「画像の画像の意味と画像の使用の意味」は「meaning in picture in picture / meaning in use in picture」みたいな話になる。せめて、前置詞句を使わず、meaningの前にそれぞれ形容詞ひとつ付ける方針で行くべきだろう。
  • ともあれ、難波さんが念頭に置いている区別については、描写の哲学内に反論者もいるだろうが、個人的には必要なものだと思う。ちなみに、Lopes (1996)の「sense」「meaning」という区別におおむね対応するが、こちらはフレーゲ=ハイマンの云々を連想させる上に、ニュアンス的にいまいちピンとこないので、あまり使わないようにしている。大事なのは、ロペスも同様の区別をしている、ということだ。
  • 「画像の意味」というので、「一定の描写原理に基づいて引き出される、安定的な意味内容」というのを念頭に置いているのであれば、「描写の意味 [depictive meaning]」というのが無難な気がするが、これはもちろん、描写原理がそもそも文脈可感的なのだという一連の立場を脇においた上で使える表現だ(注1も参照)。もっとも、この場合「使用の意味」に対して使える形容詞がなかなか思いつかないのがネックだろう。ちょっとニュアンスが変わる&あまり自信ないが、practicalというのでひとつどうだろう。

 

2.2.解釈の手がかり

このように、画像の「意味」をふたつに区別した上で、難波はこれらとは別の水準として、オースティン的な言語行為論へと向かっていく。それは、画像を提示する行為によって「構成される行為 [constituted act]」があるという話で、特定の会話の流れにおいて「笑っているラインスタンプを送る」という行為が「感謝」という行為を構成したり、別の文脈では「挑発」という行為を構成する、という事態に代表される。ここでは、「画像を提示する行為」と「それによって構成される行為」という区別が、オースティンの「発語行為 [locutionary act]」と「発語内行為 [illocutionary act]」に対応付けられている。

予告された通り、画像に対する倫理的価値づけは、それを提示する行為によって「構成される行為」に向けられるのが典型的である(例えば、それが「性的モノ化」や「劣位化」を構成しているなど)。しかし、ここに至る手前で、「画像の意味」「使用の意味」に関する解釈がなされており、最終的な倫理的価値づけはこれらにも依存する、というのが難波の見込みである。すなわち、倫理的価値づけの前提として、三段階の画像解釈がなされている。

このような画像解釈に関して、理由付け・根拠付けが求められるのは言うまでもない。難波は解釈に関わる要素として、(a)提示者、(b)意図、(c)文脈、(d)ジャンルを挙げている。すると、「画像提示行為ダイヤグラム」の全貌は以下のようになる(添付画像3枚目)。

  • 各ファクターの説明については本文に委ねるが、難波さんの「画像提示行為ダイヤグラム」に関しては、ふたつの不満がある。第一に、「提示者」「意図」「文脈」「ジャンル」という四項目が均等に並置されているが、包含関係を踏まえたとき、これはあまりクリアな整理ではないだろう。具体的には、「意図」は明らかに「提示者」の一部として論じることができるだろうし、言いようによっては「提示者」も「意図」も「ジャンル」も一種の「文脈」であるはずだ(少なくとも僕はこの広い意味で「文脈」という語を使う)。さしあたり、(c)文脈の説明を見る限り、そこで念頭に置かれているのは、マクロには歴史的背景であり、ミクロにはTPOらしいので、「歴史」「状況」といった項目を立てるほうがまだベターだったように思われる。
  • 包含関係でないにせよ、各項目には明らかに依存関係・影響関係がある。例えば、作品のジャンルに関してはWalton (1970)が論じているように、部分的には作者の意図によって左右される、という見方が妥当であろう。難波さんのダイアグラムでは、ファクターからファクターへの線も引かれているが、本文中では言及されておらず、単に図の装飾的に過ぎないように思われる。
  • 第二の不満は、図のデザインに直接関わるものである。「画像提示行為ダイヤグラム」はそこで引かれている線によって、様々なファクターが様々な水準の画像解釈に影響することを示唆するものだが、その一部は、難波さんが「画像の意味」と呼ぶ水準は文脈不変であるという上述の話と矛盾している。すなわち、四つのファクターが影響する先は、「使用の意味」および「構成される行為」であるはずで、その手前に対する影響は(少なくとも上述の区別を前提するなら)ないはずなのだ。とりわけ、「画像の意味」よりさらに手前の「画像」が、「文脈」および「提示者」というファクターと線で結ばれているのはほとんど意味をなしていない。全体として、「画像提示行為ダイヤグラム」は図のオシャレさ(左右上下の対称性)を重視するあまり、本文の議論にとってあまり助けとならない(むしろ混乱させる)きらいがある。

  

3.キャラクタの画像のわるさはなぜ語りがたいか

「画像提示行為ダイヤグラム」を踏まえると、倫理的価値づけの難しさも見えてくる。難波によれば、そこにはふたつの困難がある。

第一に、ファクターに訴えても、解釈が確定することはほとんどない。たとえばある単一の画像が、(解釈A)女性を「男性に比べて劣っており、軽視されてしかるべき存在として」描いている・使われており、これによって倫理的に問題のある行為を構成しているか、あるいは(解釈B)「自立的であり堂々とした存在として」描いている・使われており、これによって倫理的に問題のない行為を構成しているか、論者の見解が相違することは珍しくない。各ファクターに関する経験的な検証にはブレがあり、評価も論者によって可変的である。

第二に、各ファクターの重要度に関して重みづけがなされたり、一部ファクターが除外されたり、ということがありうる。提示者の意図がなんであれ、文脈によって倫理的問題が指摘されるようなケースもあるだろう。このとき、どのファクターをどの程度優先的に手がかりとするかに関して、客観的な基準は得られない。

  • 【全体の感想】画像の意味階層および、解釈に関わる要因の整理に関してはいくらか不満があったが、動機も手順も共有しやすい論文だった。とりわけ、第3節で『宇崎ちゃんは遊びたい』ポスターを事例に、各論者の言説を分析するパートは実践的であり、学んでいくべき点だと思われた。
  • ところで、本論文は『宇崎ちゃんは遊びたい』を事例としている以外に、虚構的キャラクターの「虚構性」を問題にしているところはなかった。「所詮、フィクションじゃん→わるくないだろ」みたいなムーブは(ふつうにおかしいんだが)よく見られるものなので、表象の倫理的問題を考える上で大事な話題だと思う。具体的には、「現実の人物を撮影した写真ポスター」と「虚構的なキャラクターを用いたイラストポスター」になんらかの差異があるのか/あるとしたらどういう差異がどの程度あるのか、という方向で論じていくのも面白いと思う。修士論文も楽しみにしています。

*1:意味論的水準と語用論的水準と呼んでもよいだろうが、ここで、両者の区別はそこまで自明なのかという問題がある。具体的には、「言語慣習も一種の文脈である」とか、「私、ここ、といった指標語に加え、多くの語の意味はそれ自体として文脈可感的である」ことを理由に、使用に先立つ意味はない、とする立場が考えられる(意味の使用説)。また、言語においては当の区別が成り立つとしても、画像においては成り立たない/言語における区別と厳密には対応しない、という線もあるだろう。例えば、エイベルやブラムソンといったグライス意味論のフォロワーは、描写内容一般に関して作者の意図を持ち出すため、上述の線引きが成り立たなくなる。