Make me feel goodなもの

いい気分だ 分かってんだぜ

──── I Got You (I Feel Good) - James Brown

 

先日の応用哲学会で、美的価値論に関わる発表をしてきた。

趣旨としてはこの文脈でモンロー・ビアズリーを読み直す、というものだったが、コメントの多くはその前提、既存の反快楽主義に対する私の懸念に対する懸念として集まった。アフターフォローのいくつかは日記に書いたのだが、こちらでも考えをまとめておこう。*1

美的に良いものはなにゆえ良いのか

問題はこうだ。美的に価値のあるものは、行為や信念形成に理由を与えるが、なにゆえそうなのか。美的に良いものはなにゆえ良いのか

デフォルトの説明はこうだ。「快楽を与えるからさ。美しいものを見たり聞いたりするのは気持ちがいいからね」。これに対し、達成や自由や自律性に訴える反快楽主義が出てきている。美しいものに駆り立てられる人は、必ずしも快楽に駆り立てられているわけではない、というわけだ。

反快楽主義に対する私の懸念はこうだ。では、達成や自由や自律性が良いものだと言えるのは、なぜなのか。私の主張はこうだ。どれもつまるところ、快楽につながる(あるいは、そもそも快楽の一種である)からこそ、良いものだと言えるのではないか*2

村山さん(@Aizilo)からいただいたコメントはこうだ。では、快楽はなぜ望ましいのか。「快楽を価値にするものは何か、なぜ快楽を追求すべきか」。私が達成や自由や自律性に内在的価値を認めなかったのと同様に、村山さんは快楽にも内在的価値(究極的価値)は認められないのではないか、と懸念を示している。

村山さんによる代替案はこうだ。もし、なにか究極的価値が認められるアイテムがあるとすれば、それは快楽ではなく、形式的に定義された「幸福」にほかならないだろう。「原初主義が適用される唯一の価値とは、この形式的定義の観点から理解された幸福だ」「美は幸福の手段にすぎない」。

美的価値を価値にするものは何か、それは幸福に寄与する能力である。

幸福の手段にすぎない:美的価値の規範的源泉について - #EBF6F7

ここでの幸福は、内在的価値として形式的に定義された述語なのだから、内在的価値を持つのは自明だ。「では、幸福はなぜ望ましいのか」と問い続けることは意味をなさない。それ以上「なぜ望ましいのか」問い続けることが意味をなさないものこそ、「幸福」なのだ。*3

村山さんは続いて、幸福による美的価値の定義は実のところinformativeではないことを認め、美的価値と幸福の具体的な結びつき方」を示す、より個別の探求として、リグルのような反快楽主義を位置づけている。美的価値のあるものとは、幸福に寄与する能力のあるものであるが、美的自由へと至らせることは、幸福への寄与の一例というわけだ。

快楽か幸福か

村山さんによる主張の後半、すなわち、さまざまな反快楽主義は、より個別的な仕方で「美的価値と幸福の具体的な結びつき方」を示すものであるという主張に関しては、私は9割がた支持できる。ただ、それらは私にとっては、「美的価値と快楽の具体的な結びつき方」を示すものになる。達成すれば気分がいいし、自由なのも気分がいい。反快楽主義者たちはパイを取り合って対立しているわけではなく、さまざまな幸福ないし快楽のあり方を、それぞれの言葉で語っていることになる。なので、私が「それって要は快楽のことじゃん」と述べるとしても、反快楽主義の意義を否定したいわけではない。

一方、村山さんによる主張の前半、すなわち、究極的価値が認められるものがあるとすれば、それは形式的に定義された「幸福」のことであるという主張は、無害なトートロジーのようなもので、反論の余地はない。異論があるとすれば、それを「幸福」と呼ぶかどうかの、用語上の好みでしかないだろう。しかし、「美的価値を価値にするものは何か、それは幸福に寄与する能力である」という主張が、「美的価値を価値にするものは何か、それは究極的価値そのものに寄与する能力である」という主張でしかないのであれば、それは問題を言い直しただけであり、答えたことにはならない。

私には村山さんがそこに留まっているようには思えない。幸福論との接点を問題にするとき、村山さんは単なる形式的定義を手放し、よりinformativeな実質的定義を引っ張り出しているようにも読める。そうでなければ、「幸福」という語を用いることすら冗長なだけだ。その辺りは改めてうかがってみたい。

私は快楽を究極的価値の一種だと考えているだけで、究極的価値のことを単に「快楽」と呼ぼうとしているわけではない

私はこれまで、私から見た究極的価値のことを「快楽」と呼んできたが、これがややミスリードで、心配されやすい表現であることを自覚しつつある。それはただちに、マッサージとかギャンブルとかセックス・ドラッグ・ロックンロールを連想させてしまうのだ。実際、私が念頭においている究極的価値は、そういった狭義の快楽(いわばエクスタシー)とのアナロジーでしか理解できないようなものではない。pleasureとは単に、喜びや楽しみのことだ。

より無機質に「利得」などと呼んでしまうのもありだと思っていたが、この語はあまりにも広くて不正確かもしれない。私が訴えたいアイテムはあくまで、ポジティブな内的感覚のことだからだ*4feel goodであること。これが、美的価値の規範的問いに対する、それ以上追及される筋合いのない説明項だと思っている。結局、この立場をもっとも端的に表現するのは「快楽主義」だろう。

快楽という語は幸福という語よりもいくぶんinformativeだと考えている。すなわち、私は形式的に究極的価値を指すだけの語として「快楽」を持ち出しているわけではない

私の「快楽」は村山さんの「幸福」にはない、さらなるコミットメントがある。前述した、「ポジティブな内的感覚である」というのがそれだ*5。幸福は、幸福感として理解される限りで、私の快楽主義と矛盾しない。feel goodであることは幸福感そのものであり、幸福感とはまさにfeel goodであることではないか。make me happyなものとは、make me feel goodなもののことだ。ここで私は、幸福の形式的定義を手放し、快楽説に踏み込もうとしている。

もし、①幸福とは快楽と別個の究極的価値であり、②いかなるポジティブな内的感覚もない幸福(幸福感のない幸福?)が、美的価値を価値たらしめるケースがある、というのを村山さんが認められるようであれば、もっと実質的な対立点があるということになる。のだが、私には具体例がちょっと思いつかない。

快楽はおまけでしかないのか

美的行為の理由を与えているのは、快楽でも、ポジティブな内的感覚でもない。それらは、結果として伴うだけで、美的行為を駆り立てているわけではない、ただの副産物だ。というのが、私の理解では伊藤さん(@eudaimon_richo)の見解だ。*6

「個別の行為選択において、それがfeel goodにつながるかどうか、いちいち考えてない場面が多い」ということであれば、それなりに共有できる観察だと思う。

  • 例)アドリブソロを弾いている最中、私は「次に選ぶフレーズが私をfeel goodにしてくれるか」などと考える余裕もなく、曲やコード進行に即したフレーズをつなぎ続けるだろう。このような行為選択における理由は、快楽というより、達成で説明したほうがスムーズかもしれない。
  • 例)バイト先に着ていく服を先週とは違うものにするよう塩梅するとき、私はそうすることでなにか快楽を得られるはずだと期待しているわけではない。このような行為選択における理由は、快楽というより、個性の発揮や対人関係の構築を持ち出して説明したほうがスムーズかもしれない。

しかし、それらは微視的に見るか巨視的に見るかの違いでしかないようにも思う。結局のところ、ビシッとハマったフレーズやおろしたてのシャツは私をfeel goodにするだろうし、失敗は私を内的に「蹴る」ことになる。そして、私はそのことを意識していない瞬間にも、理解はしている。行為選択に先立って、私には選好と信念があるのだ。巨視的に見れば、私がセッションに出向かいアドリブに挑むのも、服を買い込んだりアイロン掛けしておくのも、いつかどこかでポジティブな内的感覚を得たいからだ(あるいは幸福になりたいからだ)。当のペイオフがまったくないと確信できるなら、私は楽器なんて弾かないし、服なんて着ないだろう。

あるいは、快楽がおまけだとしても、おまけが行為を駆り立てるというのはごくありそうな話だ。その場合、対象説に関して発表でちょっとコメントしたように、①美的価値がなんなのかという話は「対象側のこれこれです」でおしまい、②美的価値には規範性はなく、③付随する道具的価値(快楽もたらし価値など)に規範性が伴う、というのでも構わない。

たしかに、feel goodにさせる能力と美的価値の間に、単に因果的でない構成的関係を認めるのは、村山さんが述べるようにいくらか飛躍なのかもしれない。しかし、他の選択肢がもっともらしくないうちは、快楽主義にはやはり魅力がある。哲学者でもなければ、そもそも「喜びや楽しみは、なにゆえ良いものなのか」などと問うたりしないのだ。

「気分がいい」を最大化し、なるべく持続させること以外に、われわれを根源的に駆り立てる動機が、果たしてあるのだろうか。少なくとも、私を主語とした文のほとんどには、「to feel good」の副詞句を繋げてもらっても真理値は変わらない。*7

 

 

*1:2022/05/282022/05/31などを参照。

*2:これは高田さん(@at_akada_phi)から何度か指摘いただいたことだが、少なくともLopesの「達成」概念を、快楽の代替アイテムとして、目的論のもとで再構成することはいくらか不適切かもしれない。私の理解不足に基づく誤解がいくらかあるのは認めざるを得ないが、そうは言っても、それ以外の仕方でLopesの答えを規範的問いに対する答えとして構成する術が、私には思いつかない。広義の快楽がまったくない達成が、人を駆り立てることはあるのか。これに関しては、「○○分で分かるBeing for Beauty」を高田さんか森さんにお願いしたいところだ。

*3:もちろん、テクニカルタームでない幸福に関しては、「では、幸福はなぜ望ましいのか」と問うことは意味をなす。例えば、「それは進化論的に有利だからだ」というのはひとつの仮説としてありうるだろう。

*4:これが、知覚のような末端レベルの感覚なのか、より高次の感覚なのか、限定する必要はない。そうしたければ、美的問いに応える場面で、なにかコメントすればいいだろう。

*5:もし、内的感覚に絞ることでカバーできない美的価値があると言われれば、私としては「それはもう美的価値ではないのでは」といういつもの応答をするだろう。そもそものはじめから、われわれはaisthētikósを主題としていたのではなかったのか。

*6:伊藤さんは鋭く、独自の見解を持たれることが多いが、Twitterで断片的に表明されるより、ブログなり日記なりまとまった形で書いて欲しいなぁと思うことが多い。

*7:もちろん、「怪我をした」みたいなのは除かないと変な話になる。