
規範的理由について、ちょっと前に読んだ論文が面白かったので軽く紹介。ドイツのビーレフェルト大学でポスドクをされているエリオット・ワトキンス(Eliot Watkins)という方の論文で、『Australasian Journal of Philosophy』にて近刊。
まずは問題の所在について。
世界には、「である」だけでなく「すべき」とか「良い」と言われるような、規範的なもの(the normative)が含まれている(っぽい)。現代メタ倫理学における定番アプローチのひとつとして、「理由」概念を中心として規範的なものを考えようというのがある(T. M. Scanlonが代表)。とりわけ、説明理由や動機づけ理由とは区別される、規範的理由が注目されている。
- 規範的理由(normative reason)「主体Sはφすべきだ」という結論に一歩推し進める(加算される)ような考慮事項p。あるふるまいをする/しない方へと、私たちを押したり引いたり事実たちのこと。
例えば、空腹であるということは、なにかを探して食べることの規範的理由である。これは「空腹だったのでパンを食べた」みたいに行為の動機を事後的に説明しているのではなく、空腹であるという事実と、なにかを探して食べる行為との間に、もっともらしい正当化関係があることについて述べている。
ワトキンスによれば、規範的理由(以下単に「理由」)をめぐって、多くの論者は次のような見解を受け入れている。
- エージェント主義(Agentalism):Sがエージェントでない限り、pがSにとってφする理由にはなりえない。
- エージェント:ざっくり、心ないし精神を持つもの。人間、エイリアン、一部の動物など。植物や無機物はエージェントではない。
要するに、あれこれする理由というのは、人間(および人間に準ずる存在)とそのふるまいに関わるものであり、その他の存在には無縁だということだ。たしかに、「あの火山には噴火する理由がある」とか「この岩には転がっていく理由がある」などと述べるのは奇妙だ。
しかし、ワトキンスによればエージェント主義は間違っている。なぜなら、一部の非エージェントにもあれこれする理由が帰属できるからだ。ワトキンスは次のような例を挙げている。
- カーナビ:「前方に渋滞があるという事実は、アランのカーナビにとって、アランに左折を指示する理由である」
- 煙探知機:部屋が煙で満たされていたのに鳴らなかった煙探知機について、「ベティの家の煙探知機には鳴る理由があった」
- ハエトリソウ:虫に表面を刺激されたのに罠を閉じなかったハエトリソウについて、「このハエトリソウには罠を閉じる理由があった」
ワトキンスによれば、「前方に渋滞がある」「部屋が煙で満たされている」「虫に表面を刺激された」という事実は、それぞれカーナビ、煙探知機、ハエトリソウにとって特定のふるまいをする理由である。つまり、そのような事実が成り立っていることは、そのようなふるまいを正当化し、そうする「べき」という結論へと一歩推し進めている。
問題は、こうして道具や植物に関して指摘される「理由」が、人間のあれこれする理由とほんとうに同類のものなのかである。ワトキンスは、想定される反論に応答することで、非エージェントにも真正な理由を帰属できることを擁護している。
- 反論1:パラフレーズすれば人間にとっての理由になる。例えば、「ベティの家の煙探知機には鳴る理由があった」というのは、「ベティの家の煙探知機が鳴るだろうと(人々が)信じる理由があった」に言い換えられる。
部屋が煙で満たされていたという事実は、私たちエージェントにとって煙探知機が鳴るだろうと信じる証拠にすぎない、というわけだ。しかし、ワトキンスによれば、この認識論的診断には反例がある。水蒸気で誤作動している最中の煙探知機については、「いまこの煙探知機にとって、鳴っている良い理由はない」と言えるが、これは「いま煙探知機が鳴っているだろうと信じる理由はない」にはパラフレーズできない。信じるもなにも、現に鳴っていることは聞こえている。したがって、最初の文は私がなにかを信じる理由ではなく、まさに煙探知機にとっての理由を問題にしていると考えるべきだ。
- 反論2:「にとっての理由(reason for)」は多義性であり、forエージェントかfor非エージェントかで意味が異なる。なので、エージェントにとっての理由と同じ意味で「理由」と言っているとは限らない。
一般的に、表現が多義的であることは、別々の意味を持つ同じ表現をひとつの文に含めた場合の奇妙さによってテストできる。例えば、「ジョアンはbankに預金し、ジョンはbankで釣りをした」。預金できるし釣りもできる場所があるというのは奇妙なので、第一のbankは銀行、第二のbankは土手という多義語になっていることが分かる。
しかし、ワトキンスによれば、「にとっての理由」はこのテストにかけても奇妙にはならない。「ハエが刺激したことは、ハエトリソウにとって罠を閉じる理由(reason forハエトリソウ)であり、あなたにとって指をどけておく理由(reason forあなた)である」という一文になにもおかしいところはなく、二箇所の「にとっての理由」は同じ意味で使われているっぽい。したがって、多義性に訴えても、エージェントには真正な理由はないとは言えない。
- 反論3:非エージェントの「理由」というのは誤った擬人化にすぎない。「このカーナビは、私に変な指示を出して楽しんでいる」「煙探知機は、なにかが焦げていると考えている」「ハエトリソウが閉じるのに二回以上の刺激を必要とするのは、エネルギーを節約したがっているからだ」みたいなのと同じ。
たしかに、挙げられている擬人化はどれも文字通りには偽である。非エージェントは、なにかを楽しんだり考えたり欲したりしないからだ。しかし、ワトキンスによれば非エージェントにとっての「理由」には、これらとは異なる点がある。
文字通りには偽である擬人化は、会話に協調的でない(空気読めない)やつにマジレスされたときには、「言いたかったのはさ……」という訂正でもって応じるのがふつうだ。例えば、「カーナビがなにかを楽しむことなんてないだろう」と言われれば、「そうなんだけど、言いたかったことはつまり……」と訂正する。しかし、「カーナビにとっての理由なんてないだろう」と言われれば、「いや、前方が混んでいることがまさにカーナビにとっての理由でしょ」と応じるのが自然だ。マジレスされても文字通りの主張を引っ込めないからには、擬人化しているわけではなさそう、というわけだ。
こうして、カーナビや煙探知機やハエトリソウにとっての理由を否定するみっつの反論が退けられた。その他の反論が出ないうちは、それら非エージェントにとっての理由は、エージェントにとっての理由とまさに同類なのだと考えてよさそうだ。以上がワトキンスによる論証である。
だからなんだ話として、非エージェントにも理由があるのだとすれば、理由についての推論説という結構支持されている立場が間違っていることになる。これによれば、ある事柄が理由であるとは、それが良い推論の前提になるということだ(つまり、「良い推論」を使って「理由」を定義する)。しかし、非エージェントは推論したりしないのに特定の仕方でふるまう理由がある。したがって、推論という心的状態を使って理由を定義することはできない。
関連して、いわゆる理由についての内在主義(実際にエージェントを動機づけられるような事柄だけが規範的理由になる)も間違っていることになる。非エージェントには信念も動機もないのに特定の仕方でふるまう理由があるからだ。
じゃあ理由ってなんなの話として、ワトキンスは最後に目的論的アプローチを示唆している。カーナビや煙探知機やハエトリソウみたいな対象がエージェントではなく、心的状態を持たないにもかかわらずしかじかの理由があるのは、それぞれが定まった機能を持っているからだ。機能というのは定義上、果たされるべきものであり、果たせないことが欠陥にカウントされるようなものだ。非エージェントが特定の仕方でふるまう理由は、究極的には、それが持っている機能に訴えて説明される、というわけだ。
逆に言えば、機能を持っていない非エージェントには、しかじかの仕方でふるまう理由もない。火山に噴火する理由がなく、岩に転がっていく理由ないのは、それらにこれといった機能がなく、そうふるまわなかったからといって欠陥は生じないからだ。
✂ コメント
ワトキンスが示唆しているアプローチは、いわゆる道徳的自然主義の一派、すなわち、人間だけでなく人工物や自然物も含めて広く規範的なものを捉えようとする一派に与している(有名どころだとPhilippa FootやJ. J. Thomsonなど)。私は自然的規範性という考えの大ファンなので、都合の良いオチだった。今後、引く場面の多い論文になりそうだ。
一方で、話運びはちょっとピンとこないところがいくつかあった。この手のメタ倫理学は、どうしても英語の言語的直観に訴えてなにかを論証する場面(こういう表現するよね、あの文は不自然だよね)が多く、ついて行くのも大変だし、なかなか日本語に置き換えて考えにくいのだ。「reason」周りのメタ倫理学は英語圏では超ホットなのに、日本でそんなに流行らない理由はこれな気がする。
まず、自然な表現だと前提しないと話が進まない「カーナビにとっての理由」という日本語自体、そこまで自然ではない気がする。「reason forカーナビ」がどこまで自然な英語なのかもいまいち分からない。「カーナビ has a reason」は不自然だけど「there is a reason for カーナビ」は自然だよね、みたいな話になってくるとさらに分からない。
この障壁をどう乗り越えて紹介していくかが課題という気がしてきた。私ではなく、メタ倫理学をやっている人たちにとっての。