グルーヴとはなにか

「グルーヴ[groove]」という音楽用語がある。ファンクやソウルを聞く人ならお馴染み、EWFの「Let's Groove」やFunkadelicの「One Nation Under A Groove」で歌われているアレや、JBの『In the Jungle Groove』やMaceo Parkerの『Life on Planet Groove』に掲げられているアレのことだ。

ヒップホップでサンプリングするためにdigられる、あまり知られていないファンクやソウルのレコードなんかはレア・グルーヴ[Rare groove]とも呼ばれる。スウィング[swing]と並んで、ジャズ発の用語らしいが、ブラックミュージックに限らず、ロックやパンクの楽曲・演奏に対しても使われる用語だ。

グルーヴとはなにか。無難な前提として、グルーヴとは音楽作品(楽曲、演奏、録音)の持つ特定の性質である。問題は、グルーヴィーな音楽とはどういう音楽なのかだ。

 

グルーヴはなかなか実態のはっきりしない概念であり、その用法も人によってかなりブレがあるように思われるが、大きくふたつのかなり異なる意味がありそうだというのはなんとなく直感していた。最近、エヴァン・マローン[Evan Malone]による論文「Two Concepts of Groove: Musical Nuances, Rhythm, and Genre」のドラフトを読んで、これに相当する区別を見つけたので、紹介しておきたい。

ふたつの「グルーヴ」概念

マローンは「フィールとしてのグルーヴ」「ムーブメントとしてのグルーヴ」と呼び分けている。

  • 「フィールとしてのグルーヴ[groove-as-feel]」:音楽が、マイクロタイミングにおける絶妙なニュアンスを持っていること。例えば、ほんの少し打点の早いパンクのドラムが「プッシュ[push]」していると言われたり、ほんの少し打点の遅いファンクのドラムが「レイドバック[laid-back]」していると言われたりするアレのこと。楽曲やプレイヤーごとに独特な「フィール」。
  • 「ムーブメントとしてのグルーヴ[groove-as-movement]」:リスナーに対し、踊りたくなるような情動・欲求・気分を喚起する性質を、音楽が持っていること。いわゆるノリ。

マローンによれば、音楽理論家や哲学者や音楽学者が好んで論じてきたのは前者であるのに対し、音楽心理学者が実験を通して探求してきたのはもっぱら後者である。順を追って説明しよう。

 

フィールとしてのグルーヴ

分析美学におけるグルーヴの研究はそんなに多くないが、まとまった著作としては2014年に出版されたタイガー・C・ロホルト[Tiger C. Roholt]のGroove A Phenomenology of Rhythmic Nuanceがある。ロホルトは、前述したようなマイクロタイミングにおけるニュアンスとしてグルーヴを定義しつつ、その聴取(グルーヴを掴む[get]こと)においては、実際に身体を動かし音楽と相互作用する必要があることを、メルロ=ポンティの「運動志向性[motor intentionality]」を援用しつつ論じている。

マローンは他にも、このような「マイクロタイミングにおけるニュアンス(=フィール)」としてグルーヴを定義している研究として、音楽理論家によるIyer (2003)や、民族音楽学者によるKeil (1995)を挙げている。いずれも、楽譜では表せない、絶妙な打点の早さ・遅さを指している。

実際、音楽理論としてしばしば言及されるような「グルーヴ」とは、この意味でのマイクロタイミングにおけるニュアンスのことだ。YouTubeでぱっと「What is groove?」で調べても、この意味での「打点をやや早くしたり遅くすること」としてグルーヴを説明している動画がたくさん見つかる。[例1][例2]

クライド・スタブルフィールドのドラムはグルーヴィーだ」とか言われるときのgroovyは、まさしくこういったニュアンスを肯定的に評価していることになるのだろう。一方で、EWFが誘っているような「Let's Groove」は、明らかにこのマイクロタイミングにおけるニュアンスのことではない。それは、基本的に「ダンス」のことだ。

 

ムーブメントとしてのグルーヴ

マローンによれば、心理学者はどんな楽曲がグルーヴの感覚を与えるのか調べる上で、グルーヴをあらかじめ理論的に決めておくことはほとんどない。むしろ、マイクロタイミングにおけるニュアンスも含め、音楽が持つどのような性質が「グルーヴ」という高次の性質を創発するのかに関心がある。

そこでは、調査されるグルーヴというのは単に「身体動作を誘発する感覚」と定義し、話を進めることが多い。これがふたつ目の「ムーブメントとしてのグルーヴ」だ。具体的な実験としては、シンコペーションの異なるメロディパターンを用意し、「身体を動かしたくなる感覚の有無」を質問したSioros et al. (2014)や、BPMの異なる複数のドラムパターンを使って同じような質問をしたEtani et al. (2018)、ジャンルの異なるさまざまな音楽を聞かせて、「踊りたければ踊ってもらっていい」と指示したBurger et al. (2012)などが挙げられている。それぞれの結果として、適度なシンコペーションを含み、BPMが100~120で、とりわけ低周波数の拍が明瞭で、パーカッシヴ度合いの強い音楽が、とりわけ「グルーヴを感じる=踊りたくなる」と報告されている。

また、ロホルトらの論じたマイクロタイミングにおけるニュアンスは、この意味での「グルーヴ=踊りたくなる感覚」にほとんど影響しないか、むしろ低減させることをDavies et al. (2013)Janata, Tomic, and Haberman (2011)らが報告している。

実際、第二の意味でのgroovyは、ダンサブル[danceable]であることとほとんど同義だ。ところで、第一の意味でのグルーヴが第二の意味でのグルーヴ(ダンサブルさ)を必ずしももたらさないというのは、結構気がかりな話だ。とはいえ、マローンによれば、それは「心理学的なグルーヴの研究が、音楽理論や哲学におけるグルーヴを否定した」ことにはならず、両分野は異なる意味で「グルーヴ」という語を用いているだけなのだ。

 

ジャンルごとの「グルーヴ」の違い

ジャンル(どちらかというと「界隈」)による用法の違いについても、マローンは面白い指摘をしている。前述のDavies et al. (2013)によれば、マイクロタイミングにおけるニュアンスの導入は、ほとんどのジャンルにおいて「グルーヴ=ダンサブルさ」の報告に影響しないか否定的な影響を与えたが、唯一、ジャズは例外だったらしい。このことを、マローンは、ジャズが演奏を主体とした音楽ジャンルであり、その参与者は理論的な術語としての「グルーヴ=マイクロタイミングにおけるニュアンス」概念に精通していたからだと解釈している。すなわち、ジャズをジャズとして鑑賞する上での「グルーヴ」とは「フィールとしてのグルーヴ」であり、そのほか、ポピュラー音楽などの鑑賞で気にされる「グルーヴ」とはもっぱら「ムーブメントとしてのグルーヴ」なのだ。*1

「グルーヴ」という美的概念がジャンル次第で異なる内実を持ちうる。このことを根拠として、マローンは最後に、美的概念に関する説明はコミュニティごとの美的実践における機能・役割に注意を払うべきだと述べ、Riggle (2022)Nguyen (2019)Kubala (2021)共同体主義的な理論がふさわしいという話に持っていくのだが、当初の目的からするとやや唐突な話運びで、ちょっとイマイチなオチではある。それはともかく。

 

ちなみに、「グルーヴ」の用法としては、上に挙げたふたつのほかにも、ドラムパートの一部分を指す「グルーヴ」(ギターの“あるリフ”や、歌の“あるフレーズ”に相当する)や、没入しフロー状態にあるプレイヤーを指して言う「in a groove」がある。このように、概念は多義的であり、文脈ごとに異なる意味で使われやすく、界隈ごとに定番の用法がある、というぐらいの話であればマローンの結論はかなり説得的だ。

 

✂ コメント

最後に読後感をいくつか。

まず、心理学研究におけるグルーヴが実のところダンサブルさのことでしかないのであれば、はじめから「踊りたくなる感覚」「ダンサブルな質」などと言えばよいのであって、そこにグルーヴという概念を介在させる必然性がほとんどないのではないか、と思った。グルーヴという現象にならではの話をするなら、まずは一旦「マイクロタイミングによるニュアンス」みたいな定義(別のものでもよいが)を事象に対して認めた上で、それに対するリスナーの反応を調べるという順序がもっともらしいように思われる。紹介されているDavies et al. (2013)なんかはこの手順を踏んでいるように(紹介では)読めるし、結論として「グルーヴはそんなに楽曲をダンサブルにしない」というのが出てくるのも含めて面白そうだった。

これは、事象の定義をする役割を音楽理論家や哲学者に認める点で、少なからずそちらを贔屓するものだが、「踊りたくなる感覚」を「グルーヴ」と呼んで探求するのは、たとえそのような用法が日常的に広く見られるとしても、グルーヴにならではの話になりようがないだろう。*2

とはいえ、「グルーヴはそんなに楽曲をダンサブルにしない」という結論は、音楽理論や哲学のほうにも一定の見直しを促すはずだ。というのも、グルーヴ=マイクロタイミングにおけるニュアンスの導入は、傾向的には、曲をダンサブルにしようという意図(リスナーの身体運動を喚起しようという意図)と結びついているように思われるからだ。「クライド・スタブルフィールドのドラムはマイクロタイミングにおけるニュアンスが絶妙でグルーヴィーだが、オンタイムで叩いたほうがよりダンサブルになっただろう」というのは、なんだか倒錯した記述のように思われる。JBにせよP-FunkにせよMetersにせよ、ファンクにおけるグルーヴと身体動作の喚起は、ほとんど常に正比例で理解されてしかるべきだとさえ思う。マイクロタイミングにおけるニュアンスという定義が、この正比例を捉えられないのだとしたら、それは「グルーヴ」の定義が不十分であることをいくらか示しているように思う。これはマローンのように「両分野が単に異なる意味で語を用いている」というので済ませるのではなく、心理学的探求が理論的・哲学的探求をいくらか導く可能性を認めるものだ。

例えば、「適度なシンコペーションを含み、BPMが100~120で、とりわけ低周波数の拍が明瞭で、パーカッシヴ度合いの強い」楽曲に対して人は身体を動かしたくなる、という実験結果は、理論的・哲学的定義を見直す場面でも役に立つだろう。というのも、私が(願わくばほとんどの人が)groovyだと感じている楽曲は、これらの特徴にそれほど矛盾するものでもないからだ。だとすれば、十全な定義によってカバーすべき事例は、上記の要件にマイクロタイミングにおけるニュアンスという要件を加えたり加えなかったりして得られる、クラスターによってカバーするしかないだろう。結局、「この曲に感じるグルーヴの正体はなんだろう」という問いに対しては、クラスターを提示することで答えるのが、もっとも適切なように感じられる。

ところで、ロホルトのグルーヴ本にはまだ当たれていないが、グルーヴと身体の相互作用なんかはかなり面白そうな話だ。一般的に、美的経験の議論はもっと身体を気にするべきだろうとは思っていたので、メルロ=ポンティを使っている箇所も気になる。これはそのうち読もう。

*1:ファンクはポピュラー音楽に括られているが、私の実感ではジャズ寄りの意味で「グルーヴ」をとるプレイヤーがかなり多い。もっとも、これは私がセッションなどに出入りしていて、ジャズ的なファンクをやる人に囲まれていたというだけの話かもしれない。

*2:いや、むしろ「グルーヴ」の第一義として生き残っていくべきなのはダンサブルさと常に交換可能なほうの意味であって、音楽理論家や哲学者のほうこそ、実はプロパーなグルーヴの話をしていないのだ、というのはかなり無理があるように思う。しかし自信はない。概念は棲み分けるべきだという前提を、私が強く取りすぎているだけかもしれない。