アントワープ大学の売れっ子ブンセキ哲学者といえば、ベンス・ナナイ(Bence Nanay)。ホストっぽい見た目とは裏腹に、知覚・心の哲学から、美学、存在論、倫理学まで、あちこちの分野で活躍する秀才です。
Nanay, Bence (2012). The Macro and the Micro. Journal of Aesthetics and Art Criticism 70 (1):91-100.
そんなナナイによるアンドレアス・グルスキー(Andreas Gursky)論。
グルスキーといえば、デカい+幾何学的+超高画質な作品で有名な写真家。いまでは、ドイツのみならず世界を代表するアーティストの一人です。
グルスキーの美学を解剖しつつ、それを描写の哲学における「二重性(twofoldness)」の議論に接続した一本。Journal of Aesthetics and Art Criticismの70巻1号「写真メディア特集」に収録されたものです。
0.イントロダクション
ナナイによれば、グルスキーの作品を巡っては「スナップショット的でない視覚の提示*1」「抽象的なアイデアの表象*2」「崇高さ」といった議論がなされてきたらしい。
ナナイは、①マクロな構造(macrostructures)、②ミクロな構造(microstructures)、③両者の関係性、という観点からグルスキー作品の美学を分析する。
結果として、グルスキー作品においては、巨大なプリント、高解像度、デジタル加工といった技術的側面が大きな役割を果たしていると論じる。
1.マクロな構造
グルスキーの写真は、遠くから見た場合(マクロな構造)と近づいて見た場合(ミクロな構造)で、異なる美的鑑賞をさせる。ここで、鑑賞者は、近づいたり離れたりを繰り返す。
‘The Rhine II’, Andreas Gursky, 1999
マクロな構造としては、抽象絵画のようなコンポジションが見られる。およそ左右対称で、中心に長方形を置くような構図は、マーク・ロスコやバーネット・ニューマンを思わせる。
このようなモダニズム的構図は、初期の作品から見られる。しばしばベッヒャー派(ベッヒャー・シューレ)の客観主義的写真家とされるグルスキーだが、オットー・シュタイネルト(Otto Steinert)のような表現主義的写真家や、ミシェル・シュミット(Michael Schmidt)のようなモダニスト的写真家に師事していた時期もあり、大きく影響を受けている。
後に、モダニズム写真のようなモノクロをやめカラーへと移行するが、カラーでモダニズム写真のような整った構図を得ることは難しい。そこで、デジタル加工を用いて不要な要素を削ったり、色合いを調整することで、コンポジションを整えるようになった。
2.ミクロな構造
遠くから眺めると、モダニズム的なコンポジションを持つグルスキー作品だが、近くで見ると、そこに左右非対称な要素を見つけることができる。
'Shanghai', Andreas Gursky, 2000
《上海》においては、左下の人物と真ん中右の人物が、それぞれシンメトリーを崩しつつ、バランスをとっている。このような細部の描写は、高解像度のプリントによって実現されている。
また、グルスキー本人がインタビューで「偶然による細部は一つもない」と言っている通り、余計な要素は徹底的に除去されている。このような細部の修正は、もちろんデジタル加工によって実現されている。
3.マクロとミクロの関係
グルスキーの作品鑑賞において重要なのは、決してマクロな構造とミクロな構造を同時には見れないという点だ。ゆえに、鑑賞者は写真から近づいたり離れたりする。
遠くから見ると、そのモダニズム的な構図に気づくが、何が描写されているのか、何の写真なのかよく分からない。そこで、近づいてよく見ると、実はなんだったのか分かり、もう一度離れて見てみる、といった鑑賞を促す。
'Pyonyang III', Andreas Gursky, 2007
青と黄色のつぶつぶ。実はピョンヤンの人間アートを捉えたもの。
もし写真のプリントが小さかったならば、近づこうが遠ざかろうが大きな変化はなく、また、鑑賞のための正しい観点(vantage point)がある。
グルスキーの写真は、壁一面の巨大プリントによって、マクロな鑑賞とミクロな鑑賞という、二通りの見方を可能にしている。
まとめとして、
①マクロな構造においては、モダニズム的な整ったコンポジションを得るために、撮影後のデジタル加工を施し、
②ミクロな構造においては、シンメトリーを崩したり、余計な要素を除去するために、高解像度と撮影後のデジタル加工を用いており、
③両者の関係性においては、近づいたり離れたりすることで二通りの見方を可能にする、極端に大きなプリントの使用、
が核となっている。
3.二重性(twofoldness)
グルスキー作品は、画像経験の二重性に関しても、重要な示唆を与える*3。
ここでナナイは、ハインリッヒ・ヴェルフリン(Heinrich Wölfflin)の古典的な議論を参照する。
- ヴェルフリンによれば、16世紀から17世紀にかけて、適切な画像鑑賞の仕方が変化した。
- 16世紀の線的なスタイルにおいては、鑑賞者による様々な見方が前提されていたのに対し、17世紀の絵画的なスタイルにおいては、唯一の統合された視点が前提された。もっとも、これは描写内容の見方に関する問題であり、二重性の問題(画像表面と描写内容は同時に見られるのか)とはややずれる。
これを踏まえると、グルスキーの写真は明らかに線的なスタイルをとっている。距離によって、二通りの見方が可能。では、グルスキーの写真はどのような二重性を持つのか?
遠くから見た場合、ミクロな構造は画像表面のデザイン的性質となることで、マクロな構造の鑑賞を可能にしている。
しかし、近づいて見た場合、全く同じ細部が、今度は写真の描写内容となる。このような細部のあり方は、特殊な二重性の経験をもたらす。
二重性の議論とは、「画像表面と描写内容は同時に意識される(aware)」というものであった。すなわち、「描写内容(depicted objects)」と「デザイン(design)」という異なる存在者が同時に意識されている。
だが、グルスキーの作品において、我々は同一のミクロな構造を、(近づくことで)描写内容としても見るし、(遠ざかることで)デザインとしても見ることになる。
もちろん、グルスキーはこのような鑑賞の仕方を提示した、最初のアーティストではない。先駆として、ジュゼッペ・アルチンボルド(Giuseppe Arcimboldo)や、16世紀の「人物像的風景画(anthropomorphic landscapes)」など。いずれも、近くで見たら「描写内容」となる野菜や地形が、遠くから見ることで人物像の「デザイン」となる。
'Vertumnus, porträttet av Rudolf II', Giuseppe Arcimboldo, 1590-1591
グルスキーの写真において特徴的なのは、巨大プリントによって、鑑賞者が近づいたり離れたりすることが肝心であるという点。アルチンボルドの写真は、視点を固定したまま注意をシフトすることで、野菜と人物を行き来できるが、グルスキーの写真においては、プリントに寄ったり離れたりすることが必要。
グルスキーと同様に、巨大プリントを用いて二重性の画像経験を提示するアーティストとしては、アンゼルム・キーファー(Anselm Kiefer)。
結果として、グルスキーの写真は、ゴンブリッチとウォルハイムの立場が、画像経験においていずれも部分的に正しいことを示している。
ウォルハイムは、二重性を指摘した点で正しい。ただし、この二重性の経験は、異なる二つの存在者を意識することではない。正しくは、ミクロな構造という同一の画像的要素である。すなわち、画像経験の二重性とは、ミクロな構造が二通りの仕方で経験に寄与する、という意味での二重性である。
また、近づき、かつ離れて見ることは不可能なので、この点でゴンブリッチは正しい。別様の仕方で見るためには、鑑賞者が立ち位置を変えなければならない。二通りの仕方は、同時に経験できない。
✂ コメント
前半はわりと無難なグルスキー評。より注目すべきなのはウォルハイムの「二重性」を読み替えようとする後半部か。
グルスキーの写真を通して、ナナイが示している立場は、(厳密に言えば)ごくゴンブリッチ的なものだ。「描写内容」と「画像表面のデザイン」は同時には意識されない、という立場。ただし、「画像表面のデザイン」は、見る距離を近づければ「描写内容」になるという意味で、ミクロな構造には二重性があると言う。
この時点で、ウォルハイムのtwofoldnessからは、だいぶ離れた議論になっている気もする。ミクロな構造のあり方を指して"二重性"と呼ぶのは、ややミスリーディングではないだろうか。
用語まわりの整備不足はともかく、遠くからは「デザイン」である要素が、近くでは「描写内容」になる、という視点は有用なもの。画像による描写を整理しようとすればするほど、静的な図式のなかに「デザイン」と「描写内容」を記述したくなるが、近づいたり離れたりする鑑賞者、という項はきわめて重要ですね。描写は奥深い。
美術館、めちゃめちゃ行くタイプではないんですが、こういう論文を読むと、やはり実物を見ないことには、少なくともアンドレアス・グルスキーのような作家の作品は「見たことにならない」という危機感を抱きますね。次に日本で個展をやるのは、何年後だろう……?