ケンダル・ウォルトン「画像とおもちゃの馬」(2008)

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昨年の夏に碑文谷公園で見かけた猫

Walton, Kendall L. (2008).Pictures and Hobby Horses: Make-Believe beyond Childhood. In Kendall Walton, Marvelous Images: On Values and the Arts. Oxford University Press.*1

はじめに|ウォルトンによる描写の哲学

今回はケンダル・ウォルトン(Kendall Waltonによる描写の哲学。ウォルトンが描写について書いている論文はいくつかある。参照文献を兼ねて、以下にまとめておこう。

  • Walton, Kendall L. (1973). Pictures and Make-believe. Philosophical Review 82 (3):283-319.

描写論に限らず、後にウォルトンの中心的なテーゼとなる「ごっこ遊び理論(Make-Believe Theory)」が提出された最初期の論文。

虚構的命題の真偽にまつわる形式的な議論など、わりかし硬派な論述をしている。

 

  • Walton, Kendall (1992). Seeing-In and Seeing Fictionally. In J. Hopkins & A. Savile (eds.), Psychoanalysis Mind and Art. Blackwell. 281-291.
  • Walton, Kendall (2002). Depiction, Perception, and Imagination: Responses to Richard Wollheim. Journal of Aesthetics and Art Criticism 60 (1):27–35.

ともにリチャード・ウォルハイムの描写論に対するコメンタリー。

ちなみにウォルハイムからウォルトンへのコメンタリーもある。両者の論争(?)については清塚さんによる以下の論文がくわしい。

 

ウォルトンの主著。描写に関する話は第8章で扱われている。既発表論文を元にした節が多め。右も左もわからないころに翻訳をペラ読みしたが、あまり覚えていない。

 

  • Walton, Kendall L. (1976). Points of View in Narrative and Depictive Representation. Noûs 10 (1):49-61.

画像に小説のような「語り手(narrator)」はいるのか、という問題。未読。

 

  • Walton, Kendall L. (1984). Transparent Pictures: On the Nature of Photographic Realism. Critical Inquiry 11 (2):246-277.

obakeweb内で無限に言及しているWalton 1984。写真の「透明性」を訴えた論文。

ウォルトン理論を俯瞰したとき、「透明な画像」の写真論はいわば「スピンオフ作品」だというのが僕の見解だ。実際、ウォルトンが写真経験に対して認めている性格は、彼が包括的な表象論として意図しているであろう「ごっこ遊び理論」から見ると、分かりやすく例外としての位置を占めている。さしあたり、本記事に写真の特殊性についての話は含まれない。

 

本記事で紹介する論文および上に挙げたいくつかは、論集『Marvelous Images: On Values and the Arts』に収録されている*2。美的価値に関する論文や、かの有名な「Categories of Art」(1970)も入っているので、一冊を手に入れて間違いない書籍である。

 

「画像とおもちゃの馬」(2008)は、自身が提唱するごっこ遊び理論のまとめと、それによる画像経験の説明を試みた論文である。

個人的な反省として、写真論を除くウォルトン理論については、かなりざっくりと理解してしまっている部分があったので、復習を兼ねて読んでみた次第。割と丁寧めにまとめたので長いです(1卍超え)。

レジュメ

扱われる問いは以下。

  • Q1.画像(pictures)とはなにか?
  • Q2.男の画像(a picture of a man)と、「男」という単語(the word “man”)はなにが違うのか?

あらかじめウォルトンの答えを書いちゃうと、こうなる。

  • A1.画像とは、視覚的なごっこ遊びのための小道具である。
  • A2.言語もごっこ遊びに使われることがあるが、それは視覚的なごっこ遊びではない。

 

1.ゴンブリッチの代用品説

エルンスト・ゴンブリッチ(Ernst Gombrich)は「Meditations on a Hobby Horse」(1963)で次のように書いている。

  • 子供がまたがって遊ぶ木馬(あるいはただの棒でもいい)は、第一に、〈馬〉の見た目を模したものではない。すなわち、木馬は必ずしも馬と類似しているわけではない。第二に、単なる〈馬〉の記号でもない。すなわち、馬や馬概念をsignifiesしたりstands forしたりreferしたりするようなものではない。
  • 同様に馬の画像も、馬の模造でもなければ馬の記号でもない。
  • 馬の画像や木馬ないし棒は、馬の代用品(substitutes)である。いずれも、馬の代わりとなるようなものである。

この議論は有名だが、しばしば無視されている。実際、描写の哲学におけるふたつの主流の立場は、いずれもゴンブリッチに反するものである。

  • 洗練された類似説(sophisticatedなresemblance theories of representation):画像は対象と似てる。
  • 記号説(semiotic theories):ネルソン・グッドマン「指示(denotation)こそが表象のコアなのじゃ」

また、ゴンブリッチの主著である『Art and Illusion』は、なぜか類似説としても記号説としても解釈されている*3

しかし、right trackであったのは、画像を代用品とみなし、おもちゃの馬と類否的に考える方のゴンブリッチ説である、とウォルトンは言う。

 

ゴンブリッチによる代用品説の中心となるのは以下ふたつの主張。

  1. 芸術は模倣(imitation)ではなく創造(creation)である:子供がブロックを組み合わせたり紙に絵を書くとき、〈電車〉をimitateしたりreferしているのではなく、〈電車〉をcreateしている。あらゆる芸術およびイメージ製作は、代用品の創造に根ざしている。
  2. 重要なのは形式(form)ではなく機能(function)である:棒はまたがって乗ることができる点で、馬の機能を果たしている。赤ん坊にとって親指はおっぱいの機能(咥えられる)を果たし、猫にとってボールはネズミの機能(捕まえられる)を果たす。

しかし、画像は対象の見た目(appearance)を捉えつつも、ふつう対象の持つ機能は果たさない、とウォルトンは言う。馬の絵に乗ることはできない。

とはいえ、対象の果たす機能は色々ある。画像が果たすのは、対象が持つ「見られる(to be looked at)」という機能であろう。

また、「馬の機能を果たしている棒は文字通り馬である」とか「人の写真は文字通り人である」というゴンブリッチの議論は、明らかに間違っている。*4

とはいえ、人の写真を指して「これは人だよ」と言ったり、またがっている棒を指して「これは馬だよ」と言うことには、なんらかの正しさが含まれているような気もするウォルトンはこのような発言の実質を明らかにしたい。

 

いずれも、「これは人の代用品だよ」「これは馬の代用品だよ」というのを短縮していると考えれば解決するだろうか。

しかし、おもちゃの馬はほとんどの点において現実の馬の代用品足り得ていない、とウォルトンは言う。もしポール・リビアの馬がイギリス軍の攻撃を受けた夜に病気だったとして、近所の子供から借りてきたおもちゃの馬ではどうにもならなかっただろう。この場合、超精巧に作られた馬の模型であっても役に立たない。

おもちゃの馬は、(現実の馬が可能にするような)本当の意味(really)では、乗ることはできない

同様に、馬の画像を見ることは、本当の意味で馬を見ることにはならない。画像は平面なので、本物の馬と取り違えるケースもほとんどありえない。

 

 2.ごっこ遊びが生み出す虚構世界

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Jonathan Eastman Johnson (American, 1824–1906), The Old Stagecoach, 1871. Oil on canvas, 36 1/4" × 60 1/9". Milwaukee Art Museum, Layton Art Collection, Gift of Frederick Layton, L1888.22.

イーストマン・ジョンソンによる《古い駅馬車》という絵を例に考える。(ここでは描写としてではなく、単に描かれている内容に注目している)

  • 何人かの子供が、馬の役割を演じている(play)=ごっこ遊び(make-believe)をしている。しかし、棒が馬でないのと同様に、子供らも馬ではない。困ったポール・リビアは、近所の子供に乗ってもしょうがない。
  • しかし、絵の中の子どもたちは、彼らによるごっこ遊び世界(the world of their game of make-believe)であるところの虚構世界(fictional world)を作り出している。この虚構世界内において(within this world)、彼らは本当に馬なのであり、馬の代用品ではない。虚構世界内の彼らは本当に駅馬車を引っ張っている。

このように、虚構世界内において真に成り立っているということを指して、ウォルトン「虚構的である(fictional)」と呼ぶ。*5

  • 現実世界にいる私から見て言えるのは、「馬は、遊びの世界内において本物(real-in-the-world-of-the-game)である」ということと、「それらは虚構的にのみ本物である」ということだけだ。
  • しかし、虚構世界内に入り込めば、次のように言うことができる。すなわち、「馬は本物である」と。
  • 「これは馬だ」という発言は、虚構世界内の内側から子どもたちが発言した場合のみ正しい。脇で見ている(すなわちごっこ遊びに参加していない)親が「それは馬だ」というのは間違っている。
  • ポール・リビアにとって、おもちゃの馬が役に立たないのは、英国の攻撃が現実世界におけるものだから。もし、ごっこ遊び世界で敵が攻めてきたならば、子どもたちは別の子供や棒に乗っかることを通して、「馬で出動する」ことができる。

 

3.ごっこ遊び世界と画像世界

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Clarkson Stanfield (English, 1793–1867), On the Dogger Bank, 1846. Oil on canvas. Reproduced by permission of V&A Images/Victoria and Albert Museum.

Stanfield Clarksonによる《On the Dogger Bank》という絵を例に考える。(今回は描写として考える)

  • ごっこ遊びにおいて生じるのと同じような虚構世界を、画像もそれ自体として持っている。上の絵の世界内には、代用品ではない本物の船がある*6
  • 現実世界にいる私から見れば、目の前にあるのは「平らな表面上を色のしるしで構成された画像(a picture consisting of colored marks on a flat surface)」あるいは「船の絵」にすぎない。
  • 「ここに本物の船がある」というのは、fictionalにのみ正しい。ただし、画像世界内に入り込むことができれば、「本物の船である」は端的に正しいことになる。そんなことはできるのか。

 

この辺でぼちぼち、おもちゃの馬と馬の画像に関するゴンブリッチのアナロジーは、危うくなってくる。というのも、馬にまたがって遊ぶ子供は当の虚構世界内に入り込んでいるが、画像を見る観者は画像世界内には入り込んでいないからだ。

make-believe worldsには入り込めるが、picture worldsについては外側から眺めるしかない(子供のごっこ遊びを脇で見ていた親の立場)。*7

 

すなわち、ごっこ遊び世界と画像世界にはいくらか差異がある。

  • 画像世界内に存在するものは、画像次第、すなわち表面上の形状や色のパターン次第だが、ごっこ遊び世界に存在するものは、棒などの小道具に加えて子ども次第である。
  • 子供は棒にまたがり、飛び回ることによって、実際にごっこ遊び世界に参入している
  • また、画像世界の場合、外から眺めている私はその内容を取り違える可能性がある。描かれている人物が自分かと思ったら、違ったということは十分にありうる。ゆえに、画像の歴史的出自やタイトルを参考にすることになる。
  • これに対し、ごっこ遊びをしている子どもたちは、当の虚構世界内で馬に乗っているのが自分であるということを、取り違えることはない。

 

4.画像世界の拡張

これに続いて、画像世界が絵の外まで拡張されることで、鑑賞者を含める可能性(絵の太陽が現実世界に影を作るとか)について触れている。

さすがに、絵の太陽が現実世界に影を作るのはファンタジーでしか無いが、次のような事例がある。 

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Michelangelo Merisi da Caravaggio, Bacchus. Scala/Art Resource, New York.

カラヴァッジオによる《バッカス》という絵は、虚構世界を拡張することで鑑賞者を含めうるとのこと。

  • あなたがこの絵の前に立つとき、「バッカスはあなたにワインを勧めている」というのはfictionalである。すなわち、ある虚構世界内においては正しい。
  • このことは、あなたが実際に絵を見ている、という事実によって成り立っている。

このような拡張された虚構世界は、画像を小道具(prop)としたごっこ遊び世界にほかならない。

  • 棒を馬に見立てたごっこ遊びも、拡張された虚構世界を起動させるのは棒を小道具としてそれににまたがるという子供の行為である。使われておらず、部屋の隅に置かれている棒は、それ自体として虚構世界を持っているとみなされうるが、これは画像世界の外から画像を眺めるケースと同じ。
  • 画像を小道具の場合、またがるといった身体的行為はいらず、見る(look)ことがごっこ遊びへの参与となる*8

 

いま、《バッカス》は「バッカスはあなたにワインを勧めている」がfictionalになる特別なケースである。

しかし、それだけではない。《バッカス》は「あなたはバッカスを見ている」「あなたはバッカスの目を覗き込む」「あなたはバッカスから目をそらす」「あなたはバッカスの手元にあるフルーツを数える」「あなたはフルーツを見落とす」といった事柄もfictionalにする。これらはいずれも画像を用いたごっこの世界内に含まれる。このように考えれば、《バッカス》以外の画像一般についても同じことが言える。

  • Stanfield Clarksonによる《On the Dogger Bank》も、ごっこ遊びの小道具として用い、拡張された虚構世界においては、「我々は船を見ている」がfictionalに成り立つ。
  • すなわち、ごっこ遊びにおいて絵を見ているとするならば、「私は船を見ている」「ここに船がある」といった事柄がfictionalに成り立ち、この場合の私はごっこ遊び世界内から発言している。絵を見ること(looking)が、虚構世界を作り出している。

 

ゆえに、画像や棒を指して言われる代用品(substitutes)は、ゴンブリッチと異なる仕方で理解したほうがいい。

  • 結局のところ、現実の棒は現実の馬の代わりにならないという意味で、(ゴンブリッチが期待したような)代用品たりえない。
  • しかし、棒は「それは本当に馬であり、本当に乗れる」というごっこ遊びに用いられるという点で、(ウォルトンが言う意味での)代用品なのだ。
  • 画像も、「船を見ている」ということをfictionalにするようなごっこ遊びに用いられる点で、代用品と言える。

 

5.想像の役割と心理的な参与

ごっこ遊びは想像的(imaginative)な活動である。

  • ごっこ遊びに参与している子どもたちは、「自分たちは馬車に乗っている」「馬車は高速で走っている」といった事柄が真(true)であることを想像する。

ここで、ウォルトンはふたつの仕方でなされる想像を区別している。(*名前は僕が便宜的に付けたもの)

  • 動名詞想像(imagining doing something or experiencing something)
  • that節想像(imagining that one is doing or experiencing something)

ごっこ遊びをしているロドニー君が想像しているのは、「僕=ロドニーは馬車に乗っている(imagine that Rodney is driving a stage)」だけでなく、「馬車に乗ること(imagine driving a stage)」が含まれる。*9

おもちゃの馬でごっこ遊びをしている子供は、that節想像(imagine that he is riding a horse)だけでなく、動名詞想像(imagine riding a horse)をしている。

 

ごっこ遊びは、身体的(physical)な参与だけではない。

  • 言語的(verbally)な参与:前者は実際に声を張り上げることで「馬に向かって命令する」をfictionalにするケース。後者は
  • 心理的(psychologically)な参与ごっこ遊びにおいて、ロドニー君が現実にそうでなくとも、fictionalに「thrilled」「a little nervous」「tense」「excited」といった感情を味わう。チームのリーダーであることにfictionalな責任を感じつつも、現実においてはなんのリーダーでもないことを知っている。

とりわけ後者が大事。ロドニー君は、責任感について動名詞想像することで、それに伴う感覚(sensation)を本当に味わっている。

翻って、このような感覚の発生が「彼は責任感を感じている」をfictionalにする。

感覚や感じ(feelings)はどこから生じるのか。これについて、ウォルトンは現実における感覚ないし感じと、想像の間にある複雑な相互作用(interplay)に訴える。それらはfeed each otherなのだと。*10

 

画像の観者も、ごっこ遊びによってwatchingすることで、心理的な参与をしうる

《On the Dogger Bank》はただの絵なので、非ごっこ遊び的に見ている分にはなんの感情も抱かない。

ごっこ遊びによって「私は船を見ている」がfictionalであるとき、ごっこ遊び世界内の私は船が難破しそうであることに気づいて、心配しうる。この場合、「私が船の難破を心配している」という感情もfictionalである。

 

6.ごっこ遊び説の理論的メリット

結果として、ウォルトンの主張は以下のようになる。

👉画像とは、視覚的なごっこ遊びのための小道具である(Pictures are props in visual games of make-believe)

  • 「亀の絵」は、当の絵を見る経験が「亀を見る経験」として想像されうる、すなわちごっこの世界において「亀を見ている」がfictionalになりうる限りにおいて、亀の絵であると言える。

描写に関する別の理論のダメなところは以下。

  • たいていの理論は、画像世界のみを想定しており、そのようなモデルにおいて観者はつねに画像を外から眺めているものだと想定される。
  • 画像世界を構成する命題がいかにして得られるかについて、さまざまな説がある(類似とか規約とか)が、いずれにおいても観者には画像の内容を確認する(ascertain)役割しか与えられていない
  • 結局のところ、「画像における真(true in the picture)を確認する」問題として画像知覚を理解する説は、いずれも片手落ちなのだとウォルトンは言う。*11

 

言語的な表象(テキストや単語)と画像の違いについては、以下のように説明される。

  • 言語は、必ずしもごっこ遊びに用いることができなくてよい。言語でなされたたんなる報告は、なんの想像も喚起しない。
  • もちろん、視覚的な想像(visual imaginings)を喚起するようなテキストもある。しかし、テキストそのものが視覚的なごっこ遊びの小道具となっているわけではない。すなわち、「テキストを見る」という現実の行為が、それがdescribeする風景について「風景を見る」行為として想像されるわけではない。この点が、言語によるテキストと画像を区別する。

テキストは、画像が担うそれとは異なるごっこ遊びの小道具となる

  • 文学的なフィクションを考える(たとえば『ガリバー旅行記』)。実際になされているのは「ジョナサン・スウィフトによって書かれた嘘のテキストを読む」という行為だが、ごっこ遊びにおいては「ガリバーによって書かれた事実のテキストを読む」行為として想像される。
  • 文学的フィクションによるごっこ遊びにも、心理的な参与が可能である。『アンナ・カリーナ』の読者が抱くアンナに対して抱く同情は、fictionalである。
  • フィクションの認識論的価値?:悲劇を読み、ごっこ遊びにおいてfictionalな感情を抱くことは、シミュレーションを通した洞察(insight)を与えてくれる、みたいな話にも触れている。

 

画像に対する心理的な参与は、画像世界がごっこ遊び世界へと拡張されており、その中に観者が含まれていることを示す。

  • 画像は、おもちゃの馬と同じくごっこ遊びの小道具として用いられるがゆえに、心理的な参与が可能となる。
  • 画像が、対象の単なる模倣であったり、対象を指し示す単なる記号であった場合、このような心理的な参与については説明できない。ゆえに、これはごっこ遊び理論が説明力として持つメリットである。

 

✂ コメント

「そうなのか」と思う部分が多く、勉強になった。

僕はWaltonianというほどではないが、ウォルトンの立場にシンパシーを感じている。その理由が見えてきたのだが、ウォルトンは「画像とはなにか」といった問いを基本的に観者サイドから説明しようとしているのだ。

この点に関しては、心的表象を消費者(consumer)ベースで説明したルース・ミリカンのやりかたに近いとも思うのだが、両者の接点について扱った議論はないものか。

もちろん、ウォルトンは反意図主義者ではない。有名な「芸術のカテゴリー」は、作者の意図が持つ役割を擁護することが、ひとつの主要な目的であるし、ごっこ遊びが「なんでもあり」であることをウォルトンは決して認めないだろう。そういえば、ごっこ遊びについてウォルトン「公式(official)」「非公式(unofficial)」を区別しており、前者に関しては作者の意図を召喚していたはずだが、本論文では出てきていないな。

ともあれ、画像を作者パワーではなく観者パワーで説明する、という方針は全体としてリベラルであり、このような論者がいることは頼もしい。

 

また、ごっこ遊び説のメリットについても、心理的な参与を説明できる」という点に置かれているのが印象的だった。というか、はじめて知った。

類似説や記号説にとって、画像の与える情動的経験は二の次であり、まずは「画像を画像たらしめるもの」という存在論的アイテムが主題とされる。これに対し、ウォルトンはあくまでも現象学を中心に据えており、ゆえにトリッキーな立場だと言える。本人はごく妥当な出発点だと主張するかもしれないが。

しかしながら、記号説はともかく、画像の現象学について類似説はあと一步踏み込めば説明できなくもない気がする。「対象O1と似ている対象O2に対し、対象O1に対して抱くそれに準じた情動を抱く」というのは、むしろ説明しやすいようにも思われる。などなど*12

 

それにしても、「虚構世界」「ごっこ遊び」「想像」と、そんじょそこらの人たちが使わにようなアイテムを次々に召喚していく議論は、良く言えばオリジナルであり、悪く言えばギョッとする。

実際、類似説や記号説のようなクリアカットな主張と比べて、ごっこ遊び説は「どこをどう叩けばいいのか」いまいちよく分からない。実際、この立場を一刀両断できるような切り口が見当たらず、成功している反論もそんなに見かけない。「ごっこ遊び的な活動は、行われていない」ことを示せばいいのか、どうやって示せばいいのか。

おそらく、議論の穴を突くというより、これが画像の概念分析ではなく概念工学であることを踏まえて、もっと説明力のある枠組みを提示するべきなのだろう*13。まずは、ごっこ遊び説で説明できない事柄を探すところから、かな。

 

ひとつ、明らかな切り口だと思うのは、「画像とは、視覚的なごっこ遊びのための小道具である」と主張されるとき、「視覚的なごっこ遊びのための小道具である」ことをもたらすような性質がなんであるのか、というソモソモ論だ。

「小道具であると言えるためには類似やoutline shapeや再認能力に訴えないといけない」、あるいは「観者にとって使えればなんでもあり」みたいな落とし穴はすぐそこにある。これに対するウォルトンの説明は、取り急ぎ確認したい。

 

*1:論文の出自については注1に書かれている。元となったのは1991年のレクチャー(ゆえに、語り口はやわらかめ)。その後、1992年にArt Issues誌に5ページの短い研究ノートが載り、1994年に長いバージョンがPhilosophic Exchange誌に載っている。Susan FeaginとPatrick Maynard編の『Aesthetics』にはひとつを残して図を省略したバージョンが載っている。

*2:姉妹本である『In Other Shoes: Music, Metaphor, Empathy, Existence』には音楽の哲学、メタファー論、フィクションの情動などが収録されている。

*3:この箇所で『Art and Illusion』がlater workとあるが、発表は1960年なので、1963年の論文に先立つのでは? ウォルトンの記憶違いなのか、別の版を念頭に置いているのかは不明。

*4:やや唐突な印象も受けるが、おそらく描写の「錯覚説」についての話だと思われる。ゴンブリッチは、「対象Oの画像Pを見るとき、観者はPをOと取り違えており、ゆえにOを見ている」といったことを主張するが、これが無理筋だというのはウォルトンに限らず描写の哲学における数少ないコンセンサスとしてある。

*5:この辺のウォルトン語はだいぶ煩雑で、もしかしたら僕も間違えているかもしれない。少なくとも、~ is fictionalという表現でウォルトンが意図しているのは、~ is true-in-the-world-of-the-gameという真偽を含む事柄だろうと読んだ。

*6:なかなか油断がならないが、ウォルトンが言うpictorial worldは、ごっこ遊びに先立つ内容が含まれた虚構世界らしい。すなわち、「虚構世界」という大きなカテゴリーの下位区分として、「ごっこ遊び世界」と「画像世界」があり、かつ、後述するような「画像を用いたごっこ遊び世界」がある、という風に読める。しかし、「ごっこ遊び世界」はともかく、「画像世界」がなに由来なのかとくに述べてはいない。普通に考えたら、ここで類似説なり規約説にコミットしなければならないような気もするが。

*7:これに続いて、絵のキャラクターが作品内の絵のなかに入り込むといった漫画のシーンを参照したり、ウォルトンウォルトンの息子がカヌーを漕いでいる写真を上の絵にコラージュしたケースを扱っているが、箸休めぐらいの話題だろうと思われる。

*8:もっと積極的な参与としては、例えば嫌いな政治家のポスターにダーツを投げる、といった行為が考えられるとのこと。

*9:上の注に出てきた、自分の写真を絵に合成したケースでは、「私=ウォルトンは船の隣でカヌーを漕いでいる(that I paddle)」がthat節想像されているが、「カヌーを漕ぐこと(paddling)」が動名詞想像されているわけではない。このケースにおいて動名詞想像されているのは「私が船を漕いでいることを見ている(watching)」という事柄である。

ところで、動名詞想像とthat説想像の区分がなんのためにあるのかはいまいち分かっていない。予想だが、that節想像にはない、なんらかの“臨場感”的なものが動名詞想像には含まれると、ウォルトンは考えているのだろう。動名詞想像がFPSで、that節想像がTPSかな、とも思っているがどうだろうか。少なくとも、「私は、〈カヌーを漕いでいること〉を想像する」と、「私は、〈私はカヌーを漕いでいること〉を想像する」が、日本語においてなんらかの差異を持つようには思えないが……。

*10:ここまでの議論は、いずれも「フィクションを怖がる」(1978)で提唱されたもの。以下に論文ノートがあるが、若書きなのでななめ読みしてほしい。

sansationどうのこうのはいわゆる「準情動(Quasi‐Emotions)」の話だと思われるが、虚構的情動のメカニズムや順序や起源について、ウォルトンの説明はいまいちクリアカットでないと個人的には思っている。「複雑な相互作用」はずるいのでは?

*11:ここでウォルトンが出している例は以下。ジェットコースターに取り付けられたビデオカメラについて考える。ひとつは普通に固定し、ひとつは特殊な器具によって水平線から決してブレないように設定する。ジェットコースターを走らせて撮影した映像は、いずれも「走るジェットコースターを起点とした風景」の映像だが、それぞれの映像が鑑賞者に与える経験は言うまでもなく全然違う。固定されたほう(ゆえにグワングワンと画面が動く方)はスリリングであり、ごっこ的な情動的参与を可能にするが、地平線を写しつづける方はそうでない。すなわち、両者はそれが用いられるごっこ遊びにおいて相違する。

*12:例えば写真論として、スコット・ウォールデンなんかは類似が情動的特権をもたらすことを前提にしている(ゆえに透明性みたいな道具はいらないとする)。以下の論文ノートを参照。

*13:余談だが、今年の9月に英美学会主催で開かれるカンファレンス「概念工学と美学」にウォルトンも登壇するそう。Herman CappelenにAnne Eatonも登壇するので、だいぶ豪華な会だ。