客観的な批評のひとつのやり方|ノエル・キャロル『批評について』

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ノエル・キャロル『批評について』は、分析美学の事実上のルーツであり、現在ではサブ分野とみなされている「批評の哲学[philosophy of criticism]」の優れた入門書である。

この本については、勉強したての頃にすでにレビューを書いたことがあるのだが、いま読むとかなり不満が多いため、改めてちゃんと書いてみたい。

とりあえず、本書におけるキャロルの主張の構造をまとめよう。キャロルの言っていることはかなりすっきりしているのだが、本の単位だとなかなか全体像が見えないかもしれない。逆に、議論の大筋さえ掴めれば、細部でなんの話をしているのかもすっきり理解しやすい。

キャロルの主張の構造

【主張1】批評とは、作品に対する理由づけられた評価である。

第一章では、批評という営みの中心に、「評価=価値づけ[evaluation]」を位置づけている。これは、解釈[interpretation]を批評の中心とする批評観と対立するものであり、しょっぱなからエキサイティングなところだ。

キャロルにおいて、明示的にせよ暗黙的にせよ、批評は作品の良し悪しを語ることと切り離せない。あるいは、もっと穏当な主張として読むならば、少なくとも作品の良し悪しに関わる「批評」が存在し、キャロルによればそれは批評と呼ばれている営みの大部分を占め、とりわけ重要なものなので、本書ではそういった「批評」しか扱うつもりがない。こうして、本書の焦点は「批評の哲学」から、実質的に「評価の哲学」へと絞られる。

さて、作品評価の話ということでただちに飛んでくる批判であり、キャロルが本書を通して立ち向かおうとしている見解とは、「評価なんて人それぞれ、主観、趣味だろ!」という見解である。蓼食う虫も好き好きで、趣味については議論できないのであれば、評価を試みる限り批評はしょうもない、ということになる。こういった見解に対し、キャロルは次のように主張する。

【主張2】理由づけられた評価は、客観的なものになりうる。

もちろん、キャロルはあらゆる批評が客観的だと言いたいのではなく、ちゃんとした手続きさえ踏めば、客観的な批評はありうるといいたいのだ。これは包括的な主観主義に対する応答になる。

キャロルによれば、客観的な批評とは、正当な理由に基づいた批評である。すなわち、「作品Xは、理由Rゆえに価値Vを持つ」のような形式をもち、かつ理由付けがちゃんとしている言明は、作品の価値に関して客観的に正しい言明なのだ。

客観的な批評があることは、キャロルにおいて、規範的な批評があることをも意味する。評価的言明の一部は正しいものなので、われわれもそう評価すべきなのであって、とんちんかんな評価はすべきでない。たとえば、『プラン9・フロム・アウタースペース』みたいなダメダメな作品を、深読みしてやたらと褒めるのは、キャロルによれば不適切な批評である。私の考えでは、これは実は見た目ほど権威主義的な主張ではないのだが、それでも「自由な鑑賞」の規範と衝突するものだろう。本書を読む上では、考えてみる価値のあるトピックだし、近年盛り上がっている「美的義務」の問題にも繋がる重要トピックだ。

ともあれ、客観的な批評はありうる、という主張に戻ろう。すると、続いてぶつけられるのは、「評価の一般的な原理なんてないだろ!」という批判である。「ある性質Fを持っているから作品Xは良い/悪い」みたいな、価値に関する一般的公式は存在しない。これは、理由に基づいた評価にとって気がかりである。

歴史的な話をするなら、批評的理由の一般性は、50〜60年代の初期分析美学においてとりわけ重要視されていたトピックであり、一般性を擁護する立場としてモンロー・ビアズリーが出てきたりしている。ビアズリーは、三つの特別な性質(統一性、強度、複雑性)のある作品は一般的に言ってより良い作品だ、という立場を突き通すのだが、キャロルはもう少しひねった応答を試みている。

【主張3】客観的な理由づけられた評価とは、作品作者の客観的な目的と達成を踏まえた評価である。

これは批評の対象に関する制限であり、主に第二章で論じられる。キャロルによれば、批評の対象とは、作品を通して作者が成し遂げたこと(成功)であり、作品を用いて鑑賞者が自由に受容できるような価値ではない。形式的には、「作品Xは、作者の目的Pを手段Wによって達成している」ならば「作品Xは価値づけられる理由Rを持つ」と言えるし、ここから「作品Xは、理由Rゆえに価値Vを持つ」というのがスムーズに繋がるわけだ。

「目的」概念は、どの本や論文を読んでも、キャロル的な批評観において中心となる概念である。作品は、なんらかの手段を通して、なんらかの目的を体現したものである。その試みの成否は、そのまま作品の価値だとされる。そして、常識的に考えれば、作品の目的とは作者の目的である。

私の考えでは、ここにひとつ反論の余地がある。キャロルが切り落とそうとしている受容価値評価には、鑑賞者ごとのいい加減な快楽を引数としたものだけでなく、ある種の「場の目的」を踏まえた価値評価も含まれているはずだ。具体的には、芸術史的に重要だったり、時代地域文化的に重要だとされる芸術の「目的」が、芸術家の意図とは独立に存在しており、それを作者が意図しなかったにせよおおきく達成していることは、作品の価値だと言いたいはずだ。実際、次に出てくる重要概念の「カテゴリー」とは、このような場の目的を結晶化したものとしても考えられるはずだ。いずれにせよ、これはもう少し練りたい話なので、論点として示唆するにとどめておこう。

さて、作品には目的があり、適切な手段においてこれを達成した作品は、価値の高い、いい作品である。しかしそうなると、「作品の目的がなんなのかはっきりしないだろ!」という反論が出てくる。作品を通して作者がやりたいことなんて、読心術でもできなければ知りようがない。こういった反意図主義に対し、キャロルが取る立場は楽観的なものだ。われわれは日常的に他人の意図を察している。芸術になると事情が異なるなどとどうして考える必要があるのか。とりわけ、キャロルは次の道筋において、作品の目的を特定できると主張する。

【主張4】作品の客観的な目的は、作品の客観的なカテゴリーによって知りうる。

これが第四章の主な主張になる。

作品のカテゴリーが特定できるならば、作品の目的もはっきりするかもしれない。ジャンルや運動や伝統といったカテゴリーは、しばしば特定の目的と結びついているからだ。すなわち、「作品Xは、カテゴリーCに属する」ならば「作品Xは、目的Pを持つ」と言えるかもしれないのだ。例えば、作品がホラーならば、常識的に考えて「鑑賞者を怖がらせること」がその目的であり、より効果的に怖がらせることに成功している作品は、よりよい作品なのだ。

そうだとしても反意図主義は、「カテゴリーがなんなのかはっきりしないだろ!」と反論するはずだ。ある人が作品をC1としてカテゴライズし、目的P(C1)を達成しているから傑作だと述べても、別の人は作品をC2としてカテゴライズし、目的P(C2)を達成できていないから駄作だと述べるかもしれない。キャロルは次のように主張する。

【主張5】作品の客観的なカテゴリーは、客観的な諸要因(構造、文脈、意図)によって知りうる。

これは、芸術のカテゴリー問題について先鞭をつけたケンダル・ウォルトンの論文にならうものだ。作品のカテゴリーに関しては、さまざまな客観的ヒントがある。多くのケースにおいて、「作品Xは、構造Sを持ち、文脈Tに置かれ、意図Iされている」ならば「作品Xは、カテゴリーCに属する」と言えるのだ*1。関連する周辺情報を調査し、作品の位置づけがはっきりすれば、どのカテゴリーのメンバーなのかもはっきりする。この点で、キャロルの枠組みは少なからず文脈主義的な性格を持つ。これは前述のビアズリーとは対照的なところだろう。

ちなみに、Carroll (2016)では、【主張4】と【主張5】がもっとミニマルにまとめられており、「客観的な諸要因(構造、文脈、意図)を踏まえれば、作品の目的が分かる」という仕方で、カテゴリーの問題がスキップされている。『批評について』はかなりカテゴリーを重視した枠組みだったが、これが後に修正されていることは知っておいてもいいだろう。

最後に、前述の諸要因も、ほんとうのところ客観的なのかという反論があるだろう。しかし、作品がほんとうにある構造を持つのか、ある文脈に置かれているのか、ある仕方で意図されていたのかといった事柄は、おおむね歴史的な調査によって決着が付けられる事柄であり、ゆえに論争の余地があるとしても客観的な事柄だ。ゆえに、反論はひとまずせき止められることになる。

客観的な批評の手順

こうして、キャロルは客観的な批評の可能性を擁護したわけだが、そのやり方は、五つの主張を遡る仕方で次のようにマニュアル化できる。(第三章)

  1. 記述&文脈づけ&解明:作品の構造、文脈、意図を踏まえる。
  2. 分類:作品のカテゴリーを特定する。
  3. 解釈:カテゴリーを踏まえ、作者の目的を特定する。
  4. 分析:作者の目的を踏まえ、その手段と達成度を測定する。
  5. 評価:達成度に従って、価値を定める。

実際には、かっちりとこの手順をとる必要はなく、反省的均衡のなかで達成されればよい。例えば、記述できなければ分類できないし分類できなければ記述できないといった問題は、記述と分類が相互調整によって、トライアルアンドエラーで進行することを認めれば問題にならない(p.142)。これは私が気に入っている主張のひとつだ。

✂ コメント

ここまで見てきた通り、かなり慎重で強固な主張をしている本だ。テーマも馴染み深いものなので、いま出ている分析美学系の本でどれかひとつと言われたら、これから始めるのがかなりオススメである。修士入りたての私みたいに反意図主義的な傾向の強い読み手であれば、各所でむかつき、いらだち、反論したくなるはずだが、それも含めて分析美学のなんたるかを教えてくれる、よいガイドとなるだろう。

キャロルの枠組みに対する現在の私の見解は、前述した「場の目的」の論点も含め、「その手続きは客観的で気の利いた批評のひとつにほかならないが、それだけとは言えない」というものだ。すなわち、キャロルは、意図を踏まえたり、目的を特定したり、手段を評価したり、といったある批評ゲームについて、その正当性をかなりの精度で擁護できているわけだが、その他のゲームを不当なものとして切り落とすことには十分成功していない、というのが私の評価だ。もちろん、そんなことをする必要はなく、たいていいつもそうであるように、アプローチの多元主義こそが穏当かつ妥当なものであると思われる。また、キャロル的な批評ゲームをもっとやるべきだ、という規範的な主張があるとしても、私としては反対する理由がないように思われる。それは、初学者にも参入しやすく、円滑な批評的コミュニケーションをもたらす程度には、クリアカットな枠組みだと思われるからだ。もっとも、そのやり方だけを制度的に中心化するべきだ(他のやり方は控えるべきだ)とまで主張されるならば、もう少し慎重な検討が必要だろうとは思う。

*1:私は作品の「正しいカテゴリー」に関して、ウォルトン=キャロルとはやや違うことを考えている。前にやった発表の資料と、今度出る予定の論文を参照。