Book Review:ノエル・キャロル『批評について──芸術批評の哲学』

 分析美学のフィールドで話題になっている新刊。(新刊といっても発売は去年の11月。読書ペースを上げねば……)

 分析哲学の論文を思わせるクリアな議論から、「批評とはなにか」を考える。キャロルは一貫して「理由にもとづいた価値付け」こそが批評行為であるとする。一方で分析や解釈などといった(しばしば批評の本質とみなされがちな)手法は、価値付けをサポートするための補助的な作業にとどまる。
 仮想敵となるのは文体論や物語論といった、形式主義的な批評理論だろうか。「客観的な批評は不可能」だとするそれらの立場に対し、キャロルはあくまでも「客観性の担保は可能」だとする。ただし、「その作品特有のカテゴリーにおいて」は。ではカテゴライズの客観性はどのように担保されるのか、という反論に関しては、本書終盤で再反論を行っている。しかし、この例にかぎらず、全体的にキャロルの行う再反論には「日常的」「直感的」な経験を拠り所とするものが多く、共感できないわけではないが、納得はしづらい。例えば、先述のような客観の不可能性を強調する論者に対しては、ノエルは大意として次のように答える。「我々は日常的な対人コミュニケーションにおいて、相手の気持ちを考え、それでおおむね上手く暮らしている。現に相手の気持ちを考えることが”出来ている”のだとすれば、芸術批評についても同じことが言えるはずだ」と。しかし、これではあまりにも楽観的かつ反知性的な見方ではないか。客観的批評を可能とする素朴な立場に回帰しているだけで、不可能論者からすれば「それってあなたの感想ですよね」で終わりだ。浅学なもので、この議論に切り込むだけの材料はないものの、改めて問題の根深さを実感させられる。

 また、価値付けを支える「根拠」として、作者の”意図”を過度に重視している点も気になる。目的によって行為が生じ、行為には結果が生じる。そこまでは分かるが、一連のプロセスがあたかも直線的に、濾過されることなく実現されるというのは無理があるだろう。キャロルは創作の基本様式として、一作者対一作品の構図を念頭に置いているだろうが、現代的な状況(たとえばロザリンド・クラウス以降の「ポスト・メディウム」的状況)において、そのような構図は更新されつつある。
 ついでに、古典的価値への盲信には辟易させられた。ミケランジェロはすごい、シェイクスピアはすごい、他の作品よりもすごい、みんなもそう思うでしょ??と言われたところで、「そうか?」としか思えない。各所で吐露してきた通り、ぼくなんかは『老人と海』を噴飯ものの駄作だと思ってるクチなので、このような古典至上主義にはまるで共感できなかった。キャロルは、特定のカテゴリーにおける、特定の目標に照らし合わせれば、作品の優劣は判断可能であるとする。だが、問題はそんなに単純だろうか? 例えばSF映画の名シーンといえば、キューブリック『2001年:宇宙の旅』のスターゲイト突入シーンがある。しかし「あの無限のように続く陶酔的サイケデリズムが、SF的価値を高めている」からといって、誰かがあの場面を拡張させ、+1分追加しただけの作品『2001年:宇宙の旅+1』を発表すれば、キューブリックの『2001年:宇宙の旅』”よりも優れている”作品を作れる、というのは直観的にいって誤りだろう。カテゴリーだとか、意図だとか、目的だとかいったところで、作品の優劣をつけるのはやはり難しいように思える。そうではなく「『2001年:宇宙の旅』は天才キューブリックの手による古典的傑作であり、あの上映時間、あのコンポジションこそが最適なのだ」というのなら、それこそ古典至上主義的な思考停止だ。

 しかし、反論への再反論をベースとする論述は整理されていて、わかりやすい。こういう文章を書きたいものだ。分析哲学系の本は初めて手に取ったが、議論の現在地がはっきりしていて、つけようと思えばケチもつけやすい。なるほど、原則からいって論争的なフィールドだと思う。もっと色々見てみたい。