「映画を倍速で見ることのなにがわるいのか」ROUND2

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noteに「映画を倍速で見ることのなにがわるいのか」という記事を載せたら地味に伸びたうえ、森さん、松永さん、ネットユーザーの皆さんからそれぞれコメントを頂いたので、いくつか応答しておく。

 

1.「人それぞれ論法」「たとえ論法」はやめましょう

noteでは、倍速肯定派の「人それぞれ論法:どう見ようが自由でしょ」および倍速否定派の「たとえ論法:映画を倍速で見るとか、アレと同じようなもんだぞ」に関して、「こういう論法は議論にならないので、やめましょうね」と指摘している。私の指摘があまり説得的ではなかったのか、はなから読んでいないのか、Twitterはてブにおける反応の多くはこういった「人それぞれ論法」「たとえ論法」を焼き増したようなものであった。おかげで、肯定派にも否定派にもこっぴどくマウントされたわけだが、この手の反応は「議論なんてしたくない」というのが実態だろうから、特に言えることはない。(「美学ぎらい」に関しては、そのうち誰か書いてください。)

とくにひどかったのは、倍速肯定派だった(ちなみに、数で言えば肯定派のほうが相対的に目立っていた)。私のnoteは肯定派を擁護するものであり、タイトルが反語だというのも書いたはずなのだが、一体なにが気に入らないのか*1

 

2.倍速鑑賞が取りこぼしてしまうもの

2.1.「失礼な鑑賞」について

森さんからのリプライ、論点は三つある。第一に、「作者の意図に反する」ことはただちには「失礼である」とは限らない、とのこと。

ひとつはっきり言えるのは、解釈レベルでは、作者の意図に反する(もしくは作者の意図を考慮しない)解釈をすることが、失礼にはならないケースが多々ある、という点だ。作品をきちんと作品として十全に味わおうとしているのであれば、そうした自由さはおおむね許容される。深読みによって編み出された、作者の意図していなかった解釈が、主流の解釈になることはあるし、それが作者によって事後的に許容されたりもする。

映像作品の倍速視聴は何を取りこぼすのか、銭さんへのリプライ - 昆虫亀

私も、この補足には同意すべきだと思う。noteでは「①鑑賞xが作者の意図を踏まえていないならば、xは失礼であるかつまたは真正ではない」を前提として立ててみたが、これは単純化しすぎだったかもしれない。

とはいえ、「失礼である」見込みが高い状況として「作者の意図に反している」があり、「作者の意図に反している」見込みが高い状況として「倍速で鑑賞する」があることぐらいは言えるはずだ。であれば、①の前提をもう少しゆるい仕方で立てる限り、その後の議論ができなくなるほどの欠陥は生じないだろうと思う。いずれにせよ、「失礼な観賞」の実態については、森さんの今後のお仕事に期待。

 

2.2.回復可能性について

森さんによる第二の論点は、「倍速視聴はほんとうに回復可能なのか」というものだ。

倍速視聴がとりわけ取りこぼしそうなのが、その「反応の落ち着き」の効果である。ゆったりとしたカメラワークや、会話の中であえて設けられる間。こうした技法は、そこまでの反応を落ち着かせるために使われることも多い。また、スローなテンポの音楽がアップテンポになってしまって、テンションが上ってしまったら、演出は台無しだろう。銭さんも音楽は倍速で聴かないと書いていたが、映画の音楽が倍速化されることはなぜ許容されるのだろうか(逆に映画音楽の効果が想像・追体験可能なのであれば、なぜ音楽鑑賞も倍速でやらないのだろうか。)。

映像作品の倍速視聴は何を取りこぼすのか、銭さんへのリプライ - 昆虫亀

森さんはとりわけ、映画鑑賞において重要な「身体反応」について指摘し、このような反応は倍速鑑賞によって奪われ、また回復可能でもないと主張されている。

第一の応答として、「回復可能である」に関する私の定式化には、我ながら姑息なところが含まれている。まずはこれを強調しておきたい。

回復可能かどうかは鑑賞者相対的である:特定の仕方での逸脱的鑑賞が、回復=意図された鑑賞の正確な想像・追体験を妨げるかどうかは、鑑賞者の認知的能力に依存するがゆえに、鑑賞者相対的である。

これを踏まえ、私が擁護しているのは、「各々の認知能力によって回復可能な範疇でなされる倍速鑑賞」に過ぎない。そして、この能力は身体反応の想像・追体験に関しても当てはまるものだと考えている。

例えば、ホラー映画に対しては「怖がる(発汗、震え、動悸など)」という身体反応がある。このような身体反応がホラー映画鑑賞においては重要なのだが、倍速鑑賞だと失われてしまうかもしれない、ということについて私はまったく同意である。ゆえに、だからこそ、私はホラー映画(とりわけ、状況がおどろおどろしくなってきたあたり)を倍速で見ることはほとんどない。それは、私にとって回復可能ではないからだ。一般的にいって、ホラー映画が倍速鑑賞向きじゃないのはそのとおりだろう。しかし、私が思うに、身体反応を含め想像・追体験する能力は原理的に不可能ではないし、経験を積んだ鑑賞者には多かれ少なかれ備わっているかもしれない。

極端なケースとして、次のような状況を考えよう。認知能力を拡張するチップを脳に埋め込んだおかげで、4倍速までなら、適切に筋を追えるだけでなく、身体反応を想像・追体験することもできるような改造人間がいたとしよう。彼に対して「倍速鑑賞したら、真正な鑑賞になりませんよ」と述べるのは馬鹿げている。彼はまさに、その拡張された認知能力によって、4倍速までならいかなる場合でも「ふつうの鑑賞を想像・追体験可能」なのだ。*2

私がnoteで示唆しているのは、彼みたいな改造人間でなくとも、われわれ現実の人間には各々これに準ずる「回復」能力が先天的・後天的に備わっており、このことは「各々の能力に応じた範疇でなされる倍速鑑賞」を正当化しうる、という主張だ。すなわち、物語の筋といった情報だけでなく、森さんの懸念する「身体反応」についても、その範囲内では回復可能だし、回復不可能だと判断できる場合には倍速鑑賞をすべきではない、というのが私の立場になる。*3

「反省的思考をさせるため」ような頭脳のための間であれば、想像や思考によって補うこともできるだろう。だが、頭がいい人でも身体反応を倍速化することは(ふつうは)できない。ふつうの人は、その効果を取りこぼすだけだろう。(もっとも倍速視聴のために苦しい修行を積めば、倍速視聴に適応した倍速身体を獲得することもできるのかもしれないが)。

映像作品の倍速視聴は何を取りこぼすのか、銭さんへのリプライ - 昆虫亀

倍速身体の獲得に、苦しい修行は必要ない。映画にまったく親しんでいない子供は0.5倍速で見ないとなにがなんだか分からない、ということもありうるだろう。この子にとって、等倍速で見れることはすでにひとつの上位能力である。

もっとも、回復可能性に関して、認知科学的にどのようなことが言えるのかはまったく定かではない。実証的な研究によって、回復可能性がでっち上げだと否定されるならば、私もそれを甘んじて受け入れようと思うのだが、むしろこれを肯定するような実験結果が出るのではないかと期待している。

 

2.3.回復可能かどうかの判断について

倍速視聴で見てしまったけど実は間をすごく上手に使う作品だった、という場合、ネタバレ情報を先に読んでしまったケースと同じく、もはや取り返しはつかない。銭さんは「音楽のある場面や緊張感のあるシーンやクライマックスでは等倍にすればよい。」と書いていたが、その判断はいつやるのか。

大事そうな場面だけ巻き戻して見直したとしても、初見時に味わえていたはずの驚きやサスペンスといった効果を、二度目の普通速視聴で十全に味わうことはできないだろう。ここでも結局、「観賞前にネタバレ情報を読みに行くことは悪い」と主張するときと、ほぼ同様の論点が当てはまる。倍速視聴はリスクであり、そのリスクを犯す点で作品を適切に扱っていない。「とりあえず倍速で見て、ちゃんと味わったほうが良さそうだったらちゃんと見るわ」と作者に伝えたら、多くの作者はガッカリするだろう。

映像作品の倍速視聴は何を取りこぼすのか、銭さんへのリプライ - 昆虫亀

 もっともな懸念であるが、そんなに心配すべき事柄でもないと思う。われわれは映画を見ながら、ある程度正確な期待をしうるだろう。ホラー映画において夜が来たら、恋愛映画において男女の会話が始まったら、コメディ映画においてひょうきんなやつが出てきたら等倍速にすればいいのだ。

このような期待を次々と破るような作品も存在する。そういった映画に関して、倍速鑑賞を仕掛けることは、森さんの言う通り「リスクを犯す」行為だろう。よって、私としても、このような作品に倍速鑑賞を仕掛けることは回避したい。この点、私は鑑賞に先立ち、それが典型的な筋の映画などではなく、思いもよらぬ展開を含み、目が離せないような作品であることをある程度ネタバレ接触した上で、鑑賞することを推奨する。というより、われわれは多かれ少なかれ予告編やポスターや前評判によってこのようなカテゴリーに関する受動的ネタバレ接触をしており、このことは鑑賞に際して慎重になることを動機付けている。

実際、「倍速でも大丈夫だろう」という誤った期待によって(等倍速で見るのが望ましい)肝心の部分を倍速で流してしまい、後悔することはある。が、そのような頻度は高くないし、適切な期待能力が上がれば上がるほどその頻度は下がるだろう。つまるところ、私にとって倍速鑑賞を擁護するとっかかりとは、「私は認知能力/期待能力が高いので、倍速でも大丈夫」という鑑賞者の自信にあり、あとは各々の能力および鑑賞目的と照らし合わせて、リスクを取るだけのメリットがあるのかどうか判断すればいい、という考えだ。

 

3.倍速鑑賞が付け加えてしまうもの

単純な例を出せば、一定以上の倍速にすると動きやしゃべりがコミカルに見える傾向があるというのは比較的共有されている感覚だろう。このコミカルさという質は、感動やサスペンスやホラーような質との両立が一般に難しい。この手のケースにおける回復は、コミカルさを除去したうえで感動やホラーを想像・追体験することだということになるだろうが、それをやるのは相当奇妙な能力を持ってないと困難なのではないか(たとえばコミカルさに対して極度に鈍感であるというような)。

倍速の美学 - 9bit

松永さんの懸念は、倍速鑑賞によって取りこぼされてしまう性質よりは、付け加えられてしまう性質、すなわち倍速鑑賞上のノイズにある。実際は「緊張する」べき場面が、1.5倍速だと「笑える」場面に見えてしまう場合、コミカルさを取り払いながら緊張感を取り戻すような回復は難しいのではないか、という見解だ。

もっともな見解である。つまるところ「回復」というのがどのような認知的プロセスなのか私には詳説できないので、松永さんの指摘はそれを疑うだけの根拠を付け加えたことになる。

現段階でできる応答としては、以下ぐらいだろうか。

  1. ノイズがノイズであることには、ほとんどの場合気がつける。1.5倍速において笑える映画が、実際に「笑える映画だ」と判断する鑑賞者はほとんどいないだろう。不適切な性質帰属は、鑑賞中になされる(速くて思わず笑ってしまう)としても、鑑賞後に反省的に除外できる(あそこは、実際には笑う場面ではない)限りで、そんなに問題はない。
  2. ノイズの裏に適切な情報や反応を読み解くのは、一般的な認知的課題である。映画鑑賞に限られず、広義のコミュニケーションにおいて、我々は不適切な環境/体調/信念/etc.のもとで適切な情報や反応を取り出さなければならない場面があり、そして、そのような課題はしばしば達成されている(でなければそもそもコミュニケーションなど無理だろう)。このような能力は、ノイズを取り払うだけでなく、適切な情報や反応を取り出す能力をも搭載しているはずだ*4。私が考えている「回復」のための認知能力は、このような一般的認知能力の延長であり、なんら超人的でもなければミステリアスなものでもない。

上のふたつで松永さんに対して有効な応答ができたかは定かでない。どうも、私には「回復はありまぁす」以上の主張ができないようだ。つまるところ、決着をつけるのは実証研究だ、というのは松永さんも同意してくださるだろうか。

 

4.倍速鑑賞者は作品について語る資格なし?

Twitterはてブで目立っていた見解として、「倍速鑑賞するのは自由だが、そんなんで作品を語らないで欲しい」というものがある(「人それぞれ論法」の亜種)。是非はともかく、このような意見が目立っていたという事実は興味深い。当の見解からは「にわかは作品を語るな」と同型のマウントが感じられないでもないが、そういった邪推は一旦脇に置こう。

気になるのは、ここで禁止されている「語る」とはいかなる語りなのか、という点だ。第一に、作品に関する語りはプロフェッショナルな批評から、SNSでのユーザーレビューまで幅広い実践として存在する。その全部において、倍速鑑賞したものが「語る」資格を剥奪される、というのは厳しすぎるだろう。第二に、「語り」の内実は価値付けなのか解釈なのか文脈付けなのか定かではない。そのなかには、倍速鑑賞を踏まえた上でなされることが規範的に禁止されるような種類の語りもあれば、そうでないような語りもあるだろう。「倍速で見たけど、駄作だったな」という価値付けが不当であるとしても、「倍速で見たけど、あの場面は全体主義への風刺だろうな」という解釈や、「倍速で見たけど、あれはマジックリアリズムだね」といった文脈付けが不当になるのはおかしいだろう。

さしあたり、「倍速鑑賞をした上で、作品の良し悪しを語るのは不当だ」という主張に限定してみよう。残念だが、これでもまだ一般的にはなりたたない。「倍速で見たけど、意外などんでん返しがあって面白かったよ」と述べるのは明らかに正当であり、「倍速で見たけど、みんな早口でキモかったな」と述べるのは明らかに不当である。「意外などんでん返しがある」のは倍速鑑賞と無関係だが、「早口でキモい」のは倍速鑑賞のせいである。すなわち、倍速鑑賞に基づく理由付けのもとでなされる価値評価は不当だが、そうでない価値付けは正当なのだ。

よって、「倍速鑑賞するのは自由だが、そんなんで作品を語らないで欲しい」は、価値付けに関する限り、「倍速鑑賞しておいて、倍速鑑賞に基づいた理由付けのもとで作品の良し悪しを語るのは不当だ」という主張として展開されるのがせいぜいのところだ。これはそんなに強い主張ではないし、私もまったくの同意である。

理由付けは、より慎重な鑑賞を踏まえてなされるべきである。シリアスな批評家は作品を何回も鑑賞することで良し悪しの理由を精査するだろうし、精査するべきだ。*5

結局、倍速で見ても、多くの解釈や価値付けは正当なものとしてなされうる。「倍速鑑賞者は作品について語る資格なし」という見解は、不毛なマウントでないとしても、一部の「語り」にしか当てはまらない。倍速で見ようが、作品に関して正当な仕方で語れる事柄はたくさんあるのだ。*6

 

 

*1:匿名なのをいいことに汚い言葉を使う有象無象は、長期的にはひどい目に遭います。どうかおもいやりインターネットを。

*2:埋め込みたいかと言われれば私は埋め込みたい。反感があるのならそれもまた美学だ。

*3:回復された身体反応は、つまるところ想像・追体験であり、文字通りの身体反応ではない、というのをおそらく森さんは気にしている。ここには鑑賞の目標に関する相違がありそうだ。森さんは、怖がるべきところで文字通り怖がらなければならない(「身体を切り捨てた観賞はあまりしたくはない」)、と考えているようだが、この鑑賞観に同意すべきかどうかは現段階ではよく分からないのが正直なところだ。

*4:具体的に考えているのは、グライスの「会話の含み」みたいな推論能力だ。これに準じた能力が倍速鑑賞の回復においてどう機能しているのかは、私には説明できないが。ところで、グライスの「会話の含み」はノイズ除去には使えるが、適切な情報を取り出すのには無力である、という見解もある(デイヴィスだったかな)。私の「回復」に関しても、同様の反論は可能だろう。

*5:ネタバレ接触と同じく、倍速によって損なわれる鑑賞経験は極めて肝心なので、初回の鑑賞でネタバレ接触したり倍速鑑賞した鑑賞者には、もうその作品についてシリアスな批評ができない、という立場も考えられる。私は、このような立場がまったく直観的でもなければ魅力的でもないと考えている。「緊張感あふれる傑作だ」と語る上で批評家がすべきことは、作品に緊張感を与える能力が備わっていることを示すことであり、当人が実際に緊張する必要はない。ネタバレ接触や倍速鑑賞は、後者を妨げるかもしれないが(精査する限りで)前者を妨げることはない。少なくとも、それが私の批評観だ。

*6:ところで、褒めるのはいいけど、倍速で見ておいて貶すのはNG、という見解も見受けられた。自分の好きな作品を不当に貶されたくない、という感情的な側面は理解できるが、残念ながらこれも一般的な規範にはなりえない。私は『死霊の盆踊り』を4倍速で見たが、これが駄作であることを正確に理解したし、「倍速で見たけど、とんでもない駄作だった」という私の発言は、『死霊の盆踊り』に関して正当なものである。