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インターネットと美学研究

「画像表象とリアリズム」#2:Kendall Walton "Transparent Pictures: On the Nature of Photographic Realism"(1984)

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写真論の研究ノート、第二弾。

今回は初心に返って、ケンダル・ウォルトンの「透明な画像」(1984)を読み直しました。

 

分析美学における写真論としては古典中の古典。論文としては2003年に山形大学清塚邦彦さんが紹介されているが、翻訳はまだ出ていない。……誰かやりませんか?

 

本論文は「写真は透明である」と宣言し、予想される反論に対し応答しつつ、写真のメディウム・スペシフィシティを論じていくもの。

メディウム・スペシフィシティとは言っても、ウォルトンの議論はクレメント・グリーンバーグロザリンド・クラウスらがやっていたような、いわゆる「モダニズム」「ポスト・モダニズム」に与するものではない。あくまでも日常的な直観によりそった、実践の分析を通して、写真というメディアのありかたについて語る。The「分析美学」といった感じで、このフィールドにおける議論の仕方についても、大変勉強になった。それから英語が易しい(重要)。

 

どんなもんか、見てみましょう。

 

 

はじめに

まずはいくつか確認事項。

ウォルトンの写真論は、主に3つの論文から成っている。

  • Transparent Pictures: On the Nature of Photographic Realism - Critical inquiry, 1984
  • Looking Again through Photographs: A Response to Edwin Martin - Critical Inquiry, 198
  • On Pictures and Photographs: Objections Answered - Marvelous Images: On Values and the Arts, 1997 収録

主要な論点は1つ目で表明されており、後の2つは寄せられた反論への応答を通して、修正・補強を試みるもの。以下では「透明な画像」に限らず、2つ目3つ目の論文に出てくる議論も適時引用しながら、ウォルトンの写真論を全体像として俯瞰する。

 

②「picture」の訳語

以下では「画像」を採用している。ここでいう画像には「絵画」と「写真」、その中間的な事例までの全てが含まれる。*1

 

③扱われている描写内容について

ウォルトンの議論では首尾一貫、描写されている対象(subject)が焦点となっている。すなわち、写真にとっての被写体、(いたりいなかったりするが)絵画にとってのモデルが扱われているのであって、それ以外の描写内容(寓意的内容、表出的内容など)は扱わない。例えば、うなだれた人の写真が「悲しみを表出している」みたいな話は出てこない。

 

④本稿の表記

ウォルトンによる主要な論点は赤字、反論者ないしウォルトンの主張とズレる見解は青字で表記しています。(こういう色分けができると、誤解が一気に減るので、学術論文でもできるようにすればいいのに……)

 

 

 1.写真的リアリズムについて

写真は従来、特別に現実的なメディアだと考えられてきた。

  • 実践において、写真は絵画よりも証拠として信頼される。
  • 法定における証拠写真、脅迫に使われる写真など。絵画にこういうパワーはなさげ。

 

◯「写真のリアリズムは特別ではない」とする反対する者もいる。

  • Joel Snyder & Neil Walsh Allen "Photography, Vision, and Representation" (1975)など。

  • 反対者は写真の「歪み(distortions)」に注目する。
  • 曰く、写真の本質とは撮影者の関心や解釈、態度や偏見によって不可避的に着色されている点である。(詳しくは次章以下で扱われている)

 

◯一方で写真が特別だと考える論者も、それを単に絵画的な写実主義の延長線上に位置づけようとしてきた。

  • 曰く、写真はポスト・ルネサンス写実主義への要求を、究極的に満たすもの
  • 遠近法その他の技術によって、リアリズムは蓄積されてきた。写真はその頂点である、と考える。(写真は当初から遠近法を習得している)
  • しかし、これでは写真に特有のリアリズムを説明できない。カラーで写実的な絵画は、モノクロでぼやけた写真よりも「現実的」だということになってしまう。

 

アンドレ・バザンの写真論。

  • バザンはそうではなく、かなり強い言葉でもって写真に特有のリアリズムを論じている。曰く、「写真とは対象それ自体である」。
  • アンドレ・バザン写真映像の存在論」(1945)。詳しくは以下。

  • このような考えは後のクリスチャン・メッツらにも引き継がれていく。
  • しかし、これを字義通りに受け取ってはならない。ハーフドーム(カリフォルニアにある山)の写真が「ハーフドームである」というのは、明らかに間違っている。*2

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この写真は対象そのものではない……。
  • 人はめったに、写真と実物を取り違えたりはしない。写真は平面で、フレームで区切られており、壁にかけられているので、バレバレ。

 

◯では、写真に特有のものとはなにか。

  • バザンは写真が「機械的に」制作される点に注目している。ウォルトンも、おおむねこれに追随する。
  • 写真は常に被写体を必要とするが、絵画は必ずしもモデルを必要としない(純粋にフィクションな内容を描ける)。ただし、以下ではこのケースは扱わず、実在物を描写した絵画と写真とを比較する。
  • ウォルトンの主張では、写真には固有のリアリズムがある。詳しくは以下の章で考える。

 

2.写真は透明である

ウォルトン写真は透明である

  • 「写真は透明であり、我々は写真を通して、対象/世界を見ることができる」というのがウォルトンの主張
  • 遠い昔の先祖の写真を見ることは、すなわち先祖たちを見ることである。

 

◯鏡や望遠鏡は視覚の補助(aids of vision)。

  • 補助なしでは見られないような状況での事物を見せてくれる。(曲がり角の先とか)
  • 写真もまた、視覚の補助の一種である
  • 「写真を通して見る」という経験が、通常の「見る(see)」の外延に含まれているかは定かではない。しかし、含まれていないのなら、それを拡張すればいい、というのがウォルトンのスタンス。

 

滑り坂(slippery slope)論法

  • 「写真が視覚の補助である」ということを根拠付ける論法。*3
  • レベル①:メガネ、鏡、望遠鏡を通して「見ている」ことを否定する者はいない。
  • レベル②:防犯カメラ越しに泥棒を「見ている」ケースや、生放送のTV番組越しにスポーツの試合を「見ている」ケースも、否定しづらい。
  • レベル③:後日放送されたスポーツ番組や、映画を通して「見ている」というケースも、否定することはできない。
  • よって、最初のメガネや鏡のケースを「見ている」と認めるならば、写真を通して「見ている」ことも認めざるを得ない、というのが滑り坂論法。
  • ここで、録画放送や写真のケースを指して、過去を「見ている」ことは不自然だから「見ている」ことにはならない、という反論が想定できる。しかし、爆発した天体を見るなど、過去を見ていることは決して不自然ではない。

 

◯写真は透明であるが、不可視(invisible)である必要はない

  • 物質としての写真は確かに見ることができるし、それと同時に、間接的に対象を見ている。
  • バザンが見逃しているのは、我々が「写真と対象の両方を見ることができる」という点。
  • 写真を見る経験は間接的だが、我々は普段から間接的に事物を見ている。なんなら、網膜上の像を通して全てを間接的に見ている。しかし、この場合も「網膜上の像"だけ"を見ている」ということにはならない。

 

3.「写真を通して見る」と「虚構的に見る」の区別

絵画は透明ではない

  • 絵画によって見ているのは、対象の表象=再現(representation)である。*4
  • 絵画を通して対象を"見ている"という言い方もできるが、この場合の"見ている"は「虚構的に見る」行為である。
  • ユニコーンの絵画を通して「ユニコーンを"見ている"」というのと同じく、「虚構的に(fictionally)見ている」のであって、写真を通して「真に(really)見ている」のとは区別される。

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ネッシーが実在しないと知っている人は、これを「虚構的に見る」

 

写真もまた、ごっこ遊びの小道具として使われる*5

  • 「写真を通して見ている」ことと、写真を用いて「虚構的に見る」ことは両立可能。
  • セットやきぐるみを通して「虚構的に怪物を見る」。

 

「虚構的に見る」が成り立つのは、フィクションを描こうとする写真に限らない。

  • 家族の集合写真、しかめっ面をしたメイベルおばさんの例。
  • 「今、目の前でしかめっ面をしているメイベルおばさんを、直接見る」というのは、「虚構的に見る」行為である。
  • 一方で、「かつて、そこでしかめっ面をしていたメイベルおばさんを、間接的に見る」というのは透明性によって可能となる特別な知覚

 

◯重要なのは、「現実に行われている特殊なseeing」と「虚構的にのみ行われている通常のseeing」の区別。

  • すなわち、「写真を通して、現実に、なにかを見る(really seeing something through photograph)」ことと「直接、虚構的に、なにかを見る(fictionally seeing something directly)」ことの区別。
  • (まとめると、「透明」である写真は両方のseeingが可能であるのに対し、絵画は後者のseeingしかできない。)

 

 

4.「透明性テーゼ」への反論と応答

◯この章では「透明性テーゼ」*6への反論を見ていく。

 

◯反論「写真を見る経験と、実際に見る経験は異なる」。

  • 写真は実際の場面(scene)に似ていない」、「写真を見るという経験は、通常の状況下で場面を観察する経験と似ていない」という反論。
  • 応答:これはそのとおりだが、全然問題にならない。「直に見る」のと、「写真の補助を通して見る」のは、異なる知覚のモード(modes of perception)である。
  • 顕微鏡や歪んだ鏡、水中からの視覚も、通常のものとは異なっているが、「見ている」ことに変わりはない。
  • そもそも見え方が同じなのであれば、望遠鏡や写真を用いる意義がない。

 

◯イリュージョンと動揺。*7

  • 絵画は事実上、写真と区別不可能な写実性を持ちうる。(ex.チャック・クロースのスーパーリアリズム絵画)

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これは写真ではなく絵画!
  • 写真かと思ったら絵画だった、というときには動揺(jolt)が生じる。これは、「写真を通して現実に見ている」かと思いきや、実は「虚構的に見ている」のが判明することから生じる。
  • 逆に、人物の写真だと思っていたら、実は写実的な彫刻の写真だったと判明したときも、この種の動揺が生じる。

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ドゥエイン・ハンソンの彫刻作品など。
  • しかし、判明したあとでも、「現実に見ている」のか「虚構的に見ている」のか判然としない気分になる。このような宙吊り状態にするのが、写真のイリュージョン
  • 典型的には映画でこのようなイリュージョンが用いられる。
  • 「一人の俳優が別の二人に近づき、モデルガンを取り出し、引き金を引く」という一連の動作を、「探偵が二人の凶悪犯をびっくりさせ、銃を取り出し、発砲し、二人は倒れる」場面として見せる。例えば、最後の「倒れる」瞬間はブラックアウトで描かなかったり。

 

◯反論「写真は正確ではない」。

  • 「写真は色が欠けたり、空間が歪んだり、動いているものを凍結したり、また暗室での修正可能性もあるので、現実を正確に切り取ったものではない」
  • 応答:普段の視知覚も、決して正確ではない。カメラが嘘をつくのであれば、我々の目も嘘をつく。
  • 歪んだ鏡、霧、着色されたフロントガラス、ピントの合っていない顕微鏡であっても、我々はそれを通して「見ている」。不正確であることは、写真の透明性を否定するものではない
  • 正確性と透明性は別の議論である。逆に、正確であっても透明ではないケースも想定できる(ex.法廷での犯行再現)

 

◯写真を特別なものにしているのはなにか。

  • 知覚の定義に関して、ウォルトン因果理論にコミットする。すなわち、「何かを見る」こととは、「純粋に機械的な仕方で対象と因果的に結びついた視覚経験を持つこと」であると考える。
  • このような因果関係を写真は持っている。よって、写真を通して対象を見ることが可能となる。
  • 絵画にも対象との因果関係がないわけではないが、それは人為的であり、画家が関与する。

 

◯反論「写真とは作者による信念の表明であり、特定の見方を押し付けるものである

  • 写真と絵画は、用いているツール(筆かカメラか)が異なるに過ぎない」「写真もまた作者によって作られるものであり、撮影者の信念や解釈による産物である」。
  • H. Gene Blocker "Pictures and Photographs” (1977) など。
  • 応答:我々は普段から特定の見方を押し付けられている。他人はしばしば、特定の見方をするよう、指し示してくる(show)。
  • 電気をつけたり消したり、煙で目潰しをしたり、メガネや鏡や望遠鏡を使わせたり、人為はいたるところに有る。
  • 「他人の目を通して見る」という表現も、あながち不適切ではない。
  • いずれにしても、その上で「自分の目で見ている」ことに変わりはない。
  • 写真の透明性は、写真が表現的なメディウムになりうることを否定するものではない*8。(ex.アンドレ・ケルテスの歪んだ写真など)

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出典:https://www.filmsnotdead.com/andre-kertesz-truth-and-distortion-atlas-gallery/

 

◯反論「写真とは記号であり、慣習的に読まれるだけのものである

  • 観者と撮影された対象の間に慣習が割り込む」「写真を見ることとはすなわち記号を読むことであり、対象を見ていることにはならないのでは
  • 応答:そうだとしても問題はない。鏡だって、慣習的に見られている(=記号の読解を行っている)が、同時に鏡を通して対象を見ている。
  • (そもそもウォルトンがグッドマン的な「表象=記号」説に与していないという話は、高田さんの書かれた以下の記事が面白い。)

 

 

5.反事実的な依存関係

◯改めて「写真を透明にしているものとは何か」を考える。

  • ジャングル探検家が持ち帰ってきた「恐竜の写真」と「恐竜のスケッチ」。どう考えても信憑性があるのは前者。
  • なぜなら、「恐竜のスケッチ」は、「そこに恐竜がいたということに対する画家の信念」を表明したものに過ぎないから。
  • 写真は撮影者の判断とは無関係に、恐竜がいたのならば恐竜を写す。
  • ただし、写真を信用するには「カメラが特定の種類のものであること」「いたずらが介入していないこと」などの前提が必要。

 

◯モデル/被写体への依存関係。

  • モデル/被写体が異なれば、生成される絵画や写真も異なる。ウォルトンはこれを「反事実的な依存関係(counterfactual dependence)」と呼ぶ。
  • 絵画も、モデルが異なれば最終的な絵画が異なりうるように、対象と反事実的な依存関係を持つ。
  • しかし、これは写真が持つ反事実的な依存関係とは異なる
  • 絵画は「モデルが恐竜だと見間違えて」いれば、「恐竜のスケッチ」を描いてしまうのに対し、写真は「被写体が恐竜だと見間違えて」いようとも、そこにあるものだけをストレートに写す。
  • 本論文では使われない表現だが、後にグレゴリー・カリーの議論(1995)も踏まえて、写真的な依存関係=「自然的な反事実的依存関係」、絵画的な依存関係=「志向的な反事実的依存関係」という名称を採用している。(ウォルトン1997)
  • 要は「絵画は究極的には画家の信念に依存しているから、透明ではない」という話。

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16世紀、アルブレヒト・デューラーによるサイの木版画。他人によるスケッチとキャプション説明を元に想像で作られたもの。デューラー本人はサイを見たことがなかった。

 

◯人工眼の思考実験。*9

  • 外科手術によって、人為的な人工眼を備え付けられたケース。医者が入力した刺激にそって、患者は視知覚を行う。この際、善良な医者は、(人工眼なしの)通常の視知覚と全く同じような視知覚を得られるよう、刺激したとする。*10
  • ウォルトンの見解では、この場合であっても患者は世界を「見ている」ことにはならない。 患者の視知覚は医者に依存しており、医者が患者の代わりに見ている。これが絵画のありかた。
  • 通常の人工眼を移植されたケース。たしかにこちらも、最初の一歩は手術や装置などの外的な要因に依存している。
  • しかし、こちらは世界を「見ている」ことになる。ひとたび移植が済めば、あとは患者の視知覚に沿って機能する(=透明になる)。これが写真のありかた。*11

 

 

6.自然的意味と非自然的意味

ポール・グライスによる「自然的意味」と「非自然的意味」の区別。

  • 別の角度から、写真と絵画の違いを強調する章。
  • グライスによれば、「自然的意味(natural meaning)」と「非自然的意味(non-natural meaning)」がある。
  • ぽつぽつした斑点は「麻疹」を自然に意味する(meanN)のに対し、ベルが鳴ることは「バスが満員であること」を非自然に意味する(meanNN)。
  • グライス的に考えれば、探検家が現実に恐竜をフィルムで撮影した場合、彼の写真は「恐竜がいること」を自然に意味する、ということになる。
  • 自然的意味を特徴づけるのはその事実性何かがPであることを自然的に意味するのは、実際にPであるという事実を伴う。(黒い雲が「雨」を自然的に意味するのは、雨が降るという事実成り立つ場合のみ)

 

写真は被写体の存在を「自然的に意味する」

  • もし恐竜がそこにいないのであれば、写真は決してそこにいるかのように「自然的に意味する」ことはない。
  • 恐竜を描いた絵画は、たとえ本当に恐竜が目の前にいたとしても、それを自然的に意味することはない。

 

◯写真は誤解されうる。

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こちらのツイッギーは痩せているが……
  • 変形した鏡を用いてデブっぽく写したツイッギーの写真。一見すると、「ツイッギーは太っている」ことを意味するもののように思われる。
  • しかしこのケースにおいても、写真は「ツイッギーは太っている」ということを自然的に意味するものではない。
  • 鏡の構造を知っていれば逆算できる内容「ツイッギーは痩せている」というのが自然的に意味されている。
  • この誤解は「写真が自然的に意味するもの」と「現実」のズレから生じているのではなく、「"その写真が自然的に意味する"と観者が考えているもの」と「写真が(真に)自然的に意味するもの」のズレから生じる。
  • 写真を適切に解釈すること(interpret)が、すなわち真実を知覚することである。

 

◯一方、「ツイッギーは太っている」というのは虚構的には正しい。

  • 我々はその写真を「ツイッギーは太っている」だと"みなして"(take)もいい。それは、「ツイッギーは太っている」と自然的に意味している"かのように見える"(look)かもしれない。
  • しかし、「写真が、ツィッギーは太っている、ということを"自然的に意味している"」というのは虚構的なものである。虚構においてのみ真。
  • すなわち、非自然的に意味されている。何かがPであることを非自然的に意味するのは、実際にPであるという事実を伴うとは限らない

 

 

7.「写真的な構築物」の問題

◯透明か不透明かは、容易には決定できないケースもある。

  • 機械的な方法で書かれた絵画(窓に透明な紙を貼り付けて、外の風景をトレースする、写真の上から描く、など)は、透明たりうるかもしれない。
  • 前述のチャック・クロースによるスーパーリアリズム絵画も、キャンパスにプロジェクションで投影した写真を元に描いているから、透明だと言えなくもない。

 

◯このことから生じる反論「加工された写真は、加工者の信念に依存している意味で、もはや絵画である

  • 「ネガを組み合わせたり、加工したり、不必要な部分を焼き落としたり、露光やコントラストを操作したり、フィルターをかけたり、手を加えた写真はもはや透明ではない」。
  • ウォルトンはこのような加工写真を「写真的な構築物(photographic constructions)」と呼んでいる。
  • 応答:写真的な構築物は、確かに(無加工の)スナップ写真とは重要な点で異なるが、それを絵画とみなすのは大きな間違いである。
  • 二人の人物を合成した写真を通して「二人が同じ空間にいる」という状況(state of affairs)を見て取ることはできない。*12
  • しかし、それぞれの顔を見て取ることは依然として可能。すなわち、写真的な構築物は部分的に透明である

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Pulp『Different Class』(1995)のジャケ。合成されているpulpメンバーが「その場にいた」というのは正しくないが、各々の姿などの部分部分に関しては透明である。

 

◯合成された写真は、不透明な部分を持つが、それでも写真的リアリズムを持っている。

  • バレないうちは、透明でない点についても透明なものとして見られる。
  • (ここの議論も相当面白そうだが、いまいちどういうことかわからない。認識論的な話?)

 

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Jerry Uelsmann 'Symbolic Mutation' 1961 出典:https://www.moma.org/collection/works/57346

◯加工や合成がバレると、「写真を通して見ている感」=写真的リアリズムは弱まる。

  • ジェリー・ユルズマンの作品なんかは合成であることがバレバレで、「顔と手が合体した生物がいる」とは誰も考えない。
  • だからこそ、映画監督はイリュージョン(手持ちカメラ、意図的なブレ)を駆使して、メディウムを覆い隠す。(ex.カサヴィテスの『シャドウズ』(1960))。こういった技術は、虚構的なイリュージョンを犠牲にするかわりに、写真を通して「キャラクターを実際に見ている」ようなイリュージョンをより説得的なものにする。
  • メディウムの強調は、それが「描写される世界そのもの」として鑑賞されることを妨げる
  • (これもさらりと書いているが、メディア論的にはかなり重要なところ。僕の論文ではもう少しズームしたい)

 

 

8.知覚の構造と世界の構造におけるアナロジー

◯最後に、話は知覚一般に移る。

  • いまのところ、写真の知覚に関して必要条件しかわかっていない。
  • 知覚の本性について、ウォルトンは「対象と特定の仕方で接点(contact)を持つこと」だと考える。
  • 以下ではこれをもとに、写真知覚の十分条件を考える。

 

◯光に反応して、それれを言語情報に変換して書き出す機械があるとする。

  • この機械は、まさに機械的にアウトプットを行っており、風景と自然的な反事実的依存関係を持っている。
  • しかし、このアウトプットを読んで、我々は風景を「見ている」気にはなれない。すなわち、透明ではない。
  • であれば、このような機械を「透明性」からはじくような条件が追加されなければならない。なぜ、非画像は「透明」になれないのか。

 

見間違えやすさの対応関係

  • 文字においては「35フィートの木」と「85フィートの木」は見間違えやすい(3と8の形が似ているから)が、現実の見えにおいては「85.00001フィートの木」と「85フィートの木」が見間違えやすい。写真においても「85.00001フィートの木」と「85フィートの木」が見間違えやすいので、写真の見間違えやすさは現実の世界の見間違えやすさと対応している
  • これは程度の差(照明や感光の具合など)もあるが、全体として対応しているのは間違いない。
  • 同様に、文字において「house」は「horse」や「hearse」と見間違えやすいが、現実において「家house」と「馬horse」を見間違えることはありえない。つまり、文字情報のみ間違えやすさは現実世界の見間違えやすさに対応していない
  • まとめると、我々が知覚において間違えやすいセットは、現実の世界において類似性を持っているセットと対応している*13

 

◯反論「類似性は世界に独立して存在するもののではなく、観者の概念的スキームである

  • 「類似性」というもの自体が、「見間違えやすさ」を元に構築された概念なので、「見間違えやすさと類似性が対応している」というのは同語反復的だ、という反論。(おそらくこういう意味だろう、と僕が再構成したものです。)
  • 応答:これで問題ない。現に我々の概念的スキームは「家」と「小屋」の間に視覚的類似性を見て取るが、「家house」と「馬horse」の間には類似性を見て取らない。
  • 実践や概念的スキームが異なる世界においては、変換された文字情報が現実の世界に対して「透明」であることもありうる。しかし、我々の日常的な直観から「写真は透明」だと言うことには関わらない。

 

 

9.余談とまとめ

写真的リアリズムとはなにか。「透明性」はその一面でしかない。

  • 証言的性格などが重要である。写真は現実を暴露する
  • これは(写真の機械的出自というよりも)実践が標準化されていることに由来する写真的リアリズムである。

 

◯ただし、標準化されていない要素もある。

  • シャッタースピード、フィルムスピード、レンズ口径など、写真家が選択できる要素もある。(「芸術のカテゴリー」(1970)における「標準的性質、可変的性質、反標準的性質」っぽい話)
  • 写真家の才能や技術はこの標準化されていない要素の選択にあるが、だからといって写真本性の「透明性」をないがしろにしてはならない。

 

◯結論:写真の「透明性」こそが、最も重要な意味で、「写真的リアリズム」を正当化するものなのである!

 

 

 

主要な反論の紹介

絵画と違って、写真は透明なんじゃ」というという実にストレートな宣言に対し、またたくまに反論が寄せられたのは想像に難くない。前もどこかで書いた気がするが、こういう「殴りやすさ」も含めて、分析美学は面白い。

 

「絵画とは異なり、写真は透明なので特別だ」というテーゼへの反論なのだから、これは2種類のものに分かれる。以下はどちらも、「写真は特別だ」という点を脅かそうとする。

 

①「写真は絵画と同じで、透明ではない」

以下、代表的なもの。(まだ目を通してないので、概略は他人の受け売りです)

Edwin Martin, "On Seeing Walton's Great-Grandfather" - Critical Inquiry 1986

  • ウォルトンの定義でいくと、「恐竜の足跡を見ることは恐竜の足を見ることになる」のでは?という反論。
  • なぜなら、恐竜の足跡は恐竜の足に対して「自然的な反事実的依存関係」も満たしているし、「見間違えやすさ」も対応しているから。
  • (これに対してウォルトン(1986)は「確かに……」といって「恐竜の足跡を見ることは恐竜の足を見ることになる」ことを認めているとかいないとか。未読なので、また今度。)

 

Nigel Warburton, “Seeing Through‘Seeing Through Photographs’” - Ratio 1988

  • ウォルトンは「過去を見るのは不自然じゃない」と言うが、写真を通して過去を見れるとしたら「任意の過去が見れる」ということになって、流石におかしくないか?という反論。
  • 他にも、「滑り坂論法」の各段階について詳細に分析している(らしい)。

 

Gregory Currie, Image and Mind: Film, Philosophy and Cognitive Science - 1995

  • 第2章で写真の透明性を扱っている。
  • 主要な反論をまとめつつ、新たな反例(温度計など、アナログな測定器)も用意している。
  • 他にも、「自己中心的な情報(egocentric information)」の欠如を元に、ウォルトンの「滑り坂論法」をせき止めようとしている。
  • 直接視や望遠鏡は「見られた対象と私たち自身との間の空間的・時間的関係についての情報」が含まれているが、写真には含まれていないとのこと(内野2009)。よって、写真は直接視や望遠鏡から区別される。

 

もう一つの反論は、こうなる。

②「写真は透明だが、絵画も透明だ」

こちらは、ほぼロペスの議論に尽きる。

Dominic Lopes, Understanding Pictures1996

  • 写真に限らず、depiction関連の議論を整理した名著。第9章でウォルトンの写真論を扱っている。
  • 写真家や画家が対象に対し「概念を持つ」かどうかという点に着目:「概念を持つ」=「対象に関する命題が真であるとはどういうことかを知っている」こと。
  • ①画家は、概念を持たなくても、非概念的な知覚のみによって、対象を描くことができる。②「信念を抱くためには概念が不可欠」である。この場合、画家は信念を持たない。③よって、絵画は(概念を持たない)画家の信念とは独立しており、自然的な反事実的依存関係を持っている。➡絵画は透明である!
  • という議論。「概念を持つ」の内実がテクニカルでいまいちわからないので、近い内に読んでみたい。

 

 

コメント

ということで(毎度のことながら長くなってしまったが)、以上がウォルトンによる「透明性」の議論でした。

気になる点をいくつか。

 

①反論に対して、直観に訴えるだけいいのか

  • ウォルトンによる応答の多くは、「日常的に我々はこうしているんだから、こうじゃん?」というスタンスをとっている。
  • もっとも、分析美学は「日常の実践と齟齬のない理論」を重視する分野なので、ウォルトンの論述自体に問題があるわけではない。直観に訴える議論に対する、僕の好き嫌いです。
  • 最近であれば、心の哲学や心理学の分野における研究成果を援用して、もっと説得的な議論ができそう。最近の人だと(ノーチェックだが)Bence Nanayとか。

 

②「時間」の問題について

  • 「過去を見る」ことは、ウォルトン的に「普通じゃね?」らしいが、個人的な直観としてはやはり抵抗感がある。
  • 「メイベルおばさんが今しかめっ面をしているのを、今見る」というのが虚構的なのと同じように、「メイベルおばさんがかつてしかめっ面をしていたのを、今見る」というのも虚構的なのでは?
  • この辺は、上述のウォーバートン(1988)にも目を通して、改めて考えたい。
  • 被写体の持続に関する問題など、時空の哲学とも接点があるように思える。先日もツイートしたが、Jiri Benovskyという人がこういう観点から、ルイスやサイダーやイワーゲンを援用して写真を論じている。イロモノ感が強いが……。

 

③我々は"何を"見ているのか

  • 前回、Geert Gooskens論文の最後に書いたコメントの繰り返しだが、「写真を通して対象を見る」というときの「対象」が、存在論的になんなのかは、もう少し突き詰めて考えてもよさそう。
  • 僕の区別では、次のようになる。
  • 実在的対象」:もの自体。本質的にアクセス不可能。
  • 志向的対象」:動詞の目的語になる*14。全体として統一された対象。対象が持つ全ての性質を持っている。
  • 現前」:物理的な目の前に見えている対象。正面のみであったり、特定の性質を付与されている。
  • 写真」:特定の性質でもって表象された対象。物理的にはただの紙。
  • ここでウォルトンは、「写真」を通して見ているのは「現前」ではない、と考えている。すなわち、写真ごしに見ているのは、「その日その場所にいたら、裸眼で見ていたであろう対象」ではない。(直視か写真ごしかで「見え」が異なる、という議論より)
  • ここで、「現前」と「写真」は同じ「志向的対象」を見せる、ということができそう。
  • すなわち、人物Aが居て、正面から見ている「僕にとっての現前」と、背後から見ている「あなたにとっての現前」は、見えが異なるとしても、同じ「志向的対象」を見ていると考えて問題ない。
  • 同様に、その日その場に居たら見ていたであろう「現前」と、後日見ている「写真」では、見えが異なるとしても、同じ「志向的対象」を見ていると考えていいのでは。
  • しかし、この論述には明らかに不十分で、「絵画」もまた「現前」と同じ「志向的対象」を見せることができるのだ。
  • 新たに「虚構的対象」のレベルも用意して、記述し直す必要アリ。

 

④加工写真についての議論

  • 個人的に一番関心があるのが第7章。デジタル絡みの議論も、ここが出発点になりそう。
  • 「加工や合成があっても、部分的には透明であり続ける」という議論は、一見すると程度の問題のように思われる。加工しすぎると、もはや透明じゃない?
  • しかし、ここで効いてくるのが第6章の「自然的意味↔非自然的意味」の議論。加工されたり合成されている「不透明な部分」は、自然的意味を持たない。
  • やや強引に読み替えるかたちで、「逆算可能性」についてなんか言えるのではないか。すなわち、技術的に「加工/合成前の状態」を逆算できるのであれば、どれだけ加工/合成を施された写真であっても、「加工/合成前の対象」を「自然的に意味する」と言えるのでは?

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アスガー・カールセン(Asger Carlsen)の合成写真作品。原理的には逆算可能なので、これも透明!? 出典:http://weart.co/asger-carlsen/
  • ウォルトンの議論では、鏡という道具の機械的な「逆算可能性」を想定しているが、加工/合成などの人為的操作も逆算可能なのでは? ただし、このためには「加工/合成における人為」と「絵画製作における人為」を区別しないといけない。(「絵画制作における人為」は逆算できない、ということを言うため)
  • 迷走してきたので、また別稿で考えます。

 

 

 

参考文献

清塚邦彦(2003)「写真を通して物を見ることー透明性テーゼをめぐって」

清塚邦彦(2008)「写真のリアリティと演技的な態度」

内野博子(2009)「アンドレ・バザンからケンドール・ウォルトンヘー写真的リアリズムの系譜」『写真空間3』青弓社

 

 

 

 

*1:picturesを「絵」と訳している方もいるが、「絵」だとどうしても手製の絵画っぽさがあって面倒だ。

*2:このあたり、大陸的な言葉遣いを一刀両断していて、実に痛快だ。

*3:滑り坂論法自体はウォルトンの用語ではなく、例えば「脳死を人の死と認めてしまえば、植物状態精神障害も人の死になる」みたいな文脈で使われるらしい。清塚(2003)の注16より

*4:この点に関して、「写真は表象じゃないの?」というつっこみもあるが、ウォルトンは「写真は透明な表象である」と応答している。もっとも、ウォルトン語での「representation」は、「表象体」と訳されるだけあって、特殊な含みがある。

*5:本論文でウォルトンは明確に「make-believe」という用語は用いていないが、注で「フィクションを怖がる」(1978)にも言及している通り、明らかにこの種の虚構的行為を想定している。

「フィクションを怖がる」については前に書いたノートがあるので、よければ。

240日分未熟だったころに書いたものなので、とんちんかんなコメントをしているあたりはご愛嬌。

*6:さらりと書いてしまったが、「透明性テーゼ」という言い方も、清塚さんによるもの。

*7:この節の議論、やや唐突にぶっこまれるのもあって、いまいち理解できていないかも。

*8:以下の論考では、「写真の本質は表現的性格だ」という点から、写真の透明性に反対しているが、ウォルトンによるこの主張を見落としているように思われる。

*9:こちらはD.ルイスを参照した思考実験らしいが、ルイスは以下の2ケースが「同じだ」といっているので、ウォルトンとは立場が真逆らしい。

*10:個人的にこの例はいまいち納得できていない。医者が全能であり、間違いなく外の世界を入力し続けられるのであれば、患者の視知覚は外の世界と「自然的な反事実的依存関係」を持っている、ってことにならない?

*11:このアナロジーによって、「写真も存在論的には、撮影しようという撮影者の信念に依存している」という反論がひとまずははじけるので、効果的だと思う。

*12:あるいは、暗室でフラッシュライトを使って、点描画的に書かれた肖像画は、写真的な技術を用いているが「透明」ではない、とウォルトンは考える。

*13:ウォルトンの論証には規範的な含みがあり、このような対応関係の上でのみ「知覚」を位置づけようとしている。詳しくは清塚(2003)の第5節。

*14:厳密には異なるかもしれないが、ぼんやりとしたイメージとして。