「芸術作品は物的対象である」|リチャード・ウォルハイム『芸術とその対象』書評

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リチャード・ウォルハイム『芸術とその対象』(松尾大訳、慶應義塾大学出版会)をご恵贈いただきました。ありがとうございます。

リチャード・ウォルハイム(Richard Wollheim)はイギリスの美学者・哲学者。絵画をはじめとする視覚芸術について傑出した書き物をしているほか、美術史的には1965年の論文で「ミニマル・アート」の名付け親となった批評家としても有名。*1

 

Wollheim, Richard (1980). Art and its Objects: With Six Supplementary Essays. Cambridge University Press.

『芸術とその対象』は主著のひとつであり、1968年に初版が出たあと、1980年には六本の補足論文を追加した2ndエディションが出版されている。このたび出版されたのは、後者の全訳です。

正直、ウォルハイムの英語は僕には難しく、これまで「別の人の整理+該当箇所の確認」ぐらいで引くのが精一杯だったので、このたび邦訳で読めるのはたいへんうれしい。助かります。翻訳は偉大な仕事だ。

一通りたのしく読ませていただきましたので、以下かんたんな紹介です。ただし、なにを論じているのかというwhat部分だけをかいつまんで紹介しています。本書において重要なのは、それらがいかにして論証・反駁されているのかに関わるhow部分であり、こちらは実際にお手にとって確かめていただきたい。

ところで、「芸術とその対象」の要約についてはセオドア・グレイシック(Theodore Gracyk)による講義ノートが簡潔なので、そちらもおすすめ。

 芸術とその対象はなにを論じているのか

主要な問いとなるのは「芸術とはなにか」であり、より厳密には「芸術は、どのような存在論的カテゴリーに属するのか」が問題となる。そして、この幹から枝分かれするかたちで、表象(representation)の本性、情動の表出(expression)、性質(property)の帰属、意図、様式、公共性……といった話題が論じられる。*2

物的対象仮説

さて、「芸術とはなにか」に対するウォルハイムの仮説は、次のようなものである。「芸術作品は物的対象である」。これを物的対象仮説(physical object hypothesis)と呼ぶ。

グレイシックの例→物的対象仮説に従えば、《モナ・リザ》がなんなのかと言うと、「絵の具で塗られたキャンバスであり、パリ(のルーブル美術館)にあるあの物体」というのが答えとなる。

アートになんらかの超越性や神性を見出したい人であれば、この時点で本を閉じ、4,200円+税を返せと憤慨しかねないほど、色気がなく、無味乾燥とした答えだ。本書の大部分は、この物的対象仮説というワンアイデアでどこまでいけるのかという検証に費やされている。

しかし、物的対象仮説はものの数ページで反駁され、誤りであることが明らかになる。絵画や彫刻はともかく、音楽や文学はそれに対応する物的対象を(少なくとも明確な仕方では)持たないからだ。

物的対象仮説は以下の仕方でねばろうとするかもしれないが、いずれもうまく行かない。

  • 我が家にある新潮文庫の『老人と海』は物的対象なので、文学も物的対象と言えるのでは?
  • 世界中にある『老人と海』の本(ぜんぶ物的対象)を集めたクラス(class)なり集合(set)を、芸術作品だとみなせばよいのでは?

いずれも、いくつかの理由によって無理がある。

ということで、「物的対象仮説は間違っていました」となるのだが、ここで話は終わらない。音楽や文学といった時間芸術はひとまず置いといて、「絵画や彫刻であれば物的対象仮説は成り立つのではないか」という話に移る。

この辺、仮説の正誤だけに関心のある読者にはピンとこない展開をしているのだが、なんとも分析哲学らしいやり口である。結局のところ、ウォルハイムは「芸術作品は物的対象である」というテーゼの正しさを主張したいわけではなく(補論でも自身は「中立だ」と言っている)、この仮説の厳密な射程を知りたがっている。こういった態度に同調できるかどうかは、読者を分ける点なのかもしれない。

 

先ほどの《モナ・リザ》の例で、絵画を物的対象だと考えるのはそこまで問題がなさげなのを確認した。しかし、絵画や彫刻に限定した物的対象仮説においても、大きくふたつの反論が想定される。いずれも、「芸術作品《モナ・リザ》は○○だが、物的対象であるあのキャンバスは○○じゃない」という形式をとる反論であり、芸術作品には物的対象が持たない性質がある、と考える。

  • 物的対象は芸術作品の表象的性質を持たない:《モナ・リザ》は[微笑み、こちらを見ている]わけだが、あのキャンバスが[微笑み、こちらを見ている]わけではない。
  • 物的対象は芸術作品の表出的性質を持たない:《モナ・リザ》は[高貴である]が、あのキャンバスが[高貴である]わけではない。*3

これらの想定反論に対する応答がしばらく続く。とりわけ前者で絵画的な表象が扱われているくだりが、描写の哲学にとっては重要だ。

 

反論を退け、物的対象仮説がおおむね擁護されることが明らかになったとしても、「もっとよい説がある」という仕方でライバル説が展開されうる。こちらもふたつ検討されている。

  • 観念説:芸術作品とは、作者が表現する精神性みたいな、心的存在である。
  • 直観説:芸術作品が持つのは、観者によって知覚される感性的性質のみである。

後者では、知覚の哲学さながらの議論が展開されており、本書においてもっとも熱量のある(ゆえに付いていくのが大変な)パートのひとつである。作品の知覚や解釈における様式・カテゴリー・文脈の役割も論じられており、幅広いトピックを提供している。

 

タイプとトークン、音楽作品の存在論

ということで、想定反論とライバル説をやっつけたところで、再び時間芸術(文学や音楽)の問題に戻ってくる。

冒頭で明らかになったように、文学や音楽は物的対象仮説に当てはまらない。言い換えれば、芸術作品は物的対象であるもの(絵画や彫刻)と、そうでないもの(文学や音楽)の二種類に分かれる。では、物的対象ではない後者は、どういう存在論的カテゴリーに属するのか。

文学や音楽といった芸術形式を説明するために持ち出されるのが、「タイプ(type)」という概念だ。本書中盤では、タイプおよび対概念であるトークン(token)」について定式化され、「文学や音楽は(物的対象ではなく)タイプである」と論じられていく。

「タイプ/トークン」の区別はウォルハイムのオリジナルではなく、パースがだいぶ昔から使っている区別だ。サールの例によれば、いま「犬」という単語を「犬 犬 犬」と書き記した場合、ここにあるのはひとつのタイプと三つのトークンである。トークンとは「具体的で特定の対象や出来事」であり、タイプとは「抽象的で一般的な存在物」である。

文学作品についても同様だ。「我が家にある新潮文庫の『老人と海』」は、『老人と海』という抽象的なタイプに属する具体的なトークンのひとつである。音楽作品の場合、それぞれの演奏や再生がトークンとなり、作品それ自体がタイプとなっている。

このように述べると、先程のクラスや集合、あるいは性質のような普遍(universal)概念となにが違うのかが問題になるため、それぞれの違いについても説明されている。今日の分析美学で(パースではなく)もっぱらウォルハイムの議論が引かれているのは、これらの定式化が(あとがきで言われているように)きわめて「卓越」なゆえだろう。実際、このアイデアを使わんでどうすると思わせるほどの魅力がある。

 

ということで、ウォルハイムによれば、文学や音楽はタイプとして位置づけられる。ここで脱線するならば、今日の「音楽作品の存在論において、ウォルハイムのタイプ説は議論の大前提になっている。

詳細は不明だが、多分Wollheimらが提出していた初期のタイプ説が持つ特徴をまとめる。間違ってたらごめん、Wollheim。

間違ってなかったよ、二年前のobakeweb。*4 

音楽作品の存在論における「タイプ/トークン」を押し進めたのは、ニコラス・ウォルターストルフ(Nicholas Wolterstorff)ジェラルド・レヴィンソン(Jerrold Levinson)だろう。

Wolterstorff, Nicholas (1975). Toward an ontology of art works. Noûs 9 (2):115-142.

Levinson, Jerrold (1980). What a Musical Work is. Journal of Philosophy 77 (1):5-28.

ウォルターストルフはタイプの規範性を指摘することで、トークンの多様性をカバーしており、レヴィンソンはタイプを時点および作者に相対的なものとして複雑化させることで、タイプの創造という事態をカバーしている。

 

以上が「芸術とその対象」前半部のまとめである。第40節以降の後半部は、物的対象仮説から導かれる「公共性」が芸術作品にとっては重要であることが主張され、ウィトゲンシュタインの「生活形式」概念が召喚される。この先は議論のムードも転調しており、個人的にはもうひとつ理解できていないため、割愛としよう。

 

うちに見る説と描写の哲学

「芸術とその対象」第11節〜第14節および補論Ⅴ「〈として見ること〉、〈の内に見ること〉、および絵画的再現」こそが、今日の描写の哲学における「うちに見る(seeing-in)」説の元ネタだ。

つい先日、このあたりのまとめを書いた。そちらを参照していただければよいので、説明は割愛。

邦訳を読んで再確認したことを、いくつかメモしておく。

  1. 「芸術とその対象」本文には、seeing-inの話は出てこない:描写の問題は、本文では「再現的な〈見ること〉」として言及されており、ここではseeing-asによる説明にとどまっている。これを訂正し、seeing-inを持ち出すのは、補論Ⅴにおいてだ。ゆえにseeing-inの厳密な元ネタは、補論が収録されていないWollheim 1968ではなく、2ndエディションにあたるWollheim 1980。
  2. 「芸術とその対象」本文にも、作者の意図に関する話は出てくるが、「正しさの基準(standard of correctness)」は出てこない:同じく、意図の問題が定式化されているのは補論Ⅴ。また、意図の役割についても、思っていたよりも細かい規定がなされていた。とりわけ、意図とうちに見る内容が齟齬するケースについては、「正しい知覚がなく、端的に描写対象を持たない」と論じているのが興味深い。再検討すべき主張だと思う。
  3. 写真は、「写真として見る」と「表象として見る」というふたつの見方を許す:写真には意図ベースの正しさの基準が成り立たない、というくだり。写真が持つ因果ベースの基準を認めつつ、「写真を(写真としてではなく)表象として見る」という経験においては意図ベースの基準が成り立つとする。*5
  4. seeing-inのメリットは三つ挙げられている:「①個物だけでなく事態を目的語に取れる」「②画像のどの部分が描写対象のどの部分に対応するのか、みたいな局地化問題に答えなくてもいい」「③二重性の経験を説明する(ゴンブリッチdis)」。③ばかり議論されおり、①はおおむね言葉上の問題だろうと思われている。②について論じているのもあまり見たことがないが、面白い論点かもしれない。
  5. 二重性の経験を説明する理由をふたつ挙げている:「①画像経験の知覚的恒常性(観者が移動しても、描写対象が変化しないのは、表面知覚がベースとなっているから)」「②芸術鑑賞において表面に注目することの規範性(内容だけに注目する鑑賞は適切じゃない)。①の知覚的恒常性が二重性の論拠になっているのは知らなかったので、個人的には最大の収穫。
  6. seeing-in説は、あとで修正されている:本書(Wollheim 1980)に出てくるseeing-inは、後のPainting as an Art (1987)において修正されている。「構図的側面configurational aspect」と「再認的側面recognitional aspect」の話は、本書には出てこない。上述の記事を参照。
  7. トロンプ・ルイユは出てこない:seeing-in説に対する典型的な反例だが、Wollheim 1980には出てこない。Wollheim 1987に出てくるのだろうが、未確認。補論Ⅴにおいてseeing-inへの反例として挙げられているのは、ジャスパー・ジョーンズによる旗の絵。
  8. seeing-inの特徴づけとして、非実在性の話はちゃんと出てくる:ロバート・ステッカー『分析美学入門』の第9章原注3の話。補論Ⅴでは、seeing-inにおいては不在の対象や非実在の対象が知覚的に経験される、と述べている。

 

✂ 感想とコメント

主題の魅力もさることながら、方法論的な魅力に満ちた書物であった。

『芸術とその対象』は65の節に分かれた断章形式を取っている。冒頭にウォルハイム自身によるマップと、あとがきに訳者の松尾大さんによるマップがあるので、そこまで迷うことはない。

断章に対する個人的な偏愛はいたるところで披露しているのだが、この形式のよいところは、後続する議論にとっての引きやすさと叩きやすさだ。いわば名誉ある無防備であり、叩かれる全体の形式である。本書の意義について、松尾さんが「論争のお手本」と書いている通り、なにか一方的な美学理論を宣言するそれとは対極にあるのが本書だ。この手の伝統に則ってなにかを論じようと思う読者であれば、多くの学びが得られるに違いない。

 

議論の進め方としても、レトリックに頼るところがなく、非常に明快である(議論の内容が易しいわけではないが)。対抗する見解へのコメントも痛快であり、「もちろんここには本当の論法はない。なぜならそのようなケースがいくつかあるという以上のことは主張されていないからである(p.10)」など、コピペしてそのまま使いたくなるようなパンチラインがたくさん見られる。

 

余談。ミニマル・アートに関するウォルハイムの論考は寡聞にして未読なのだが、本書で論じられている物的対象仮説となんらかの並行性があるのだろうかと思い、調べてみたところ、ウォルハイムが論じていたのは今日言われるような60年代「ミニマル・アート」とはややズレ、デュシャンラウシェンバーグあたりらしい。*6

しかしながら、今日の「ミニマル・アート」を結果的に定式化したと言えるドナルド・ジャッドの「特種な物体」(1965)や、この潮流に対するいらだちを隠そうともしなかったマイケル・フリードの「芸術と客体性」(1967)において、60年代アートのモノ性をめぐる思索を見て取ることはむずかしくない。このような大きな時代的文脈のなかに位置づけられるのだとしたら、『芸術とその対象』はいったいどう読めばいいのか。この辺は、現代美術史プロパーの意見を聞きたいところ。表象文化論のフレンズにもぜひチェックしてほしい一冊だ。

 

 

*1:あと、フロイト精神分析についてもなにやら書いているそう。そちらの一面はよく知らないので、どなたか紹介してほしい。

*2:本書では、representationは「再現」、expressionは「表現」、propertyは「属性」と訳されており、当ブログでのことばづかいとことごとく相違している。個人的には「表象」「表出」「性質」でやっていきたいため、当記事では後者で統一した。

*3:ところで、「気高く高貴である」がexpressiveな性質の典型例として挙げているのにもピンと来ない。

*4:しかしながら、その直後に書いてあるタイプ=音構造説に関して、該当箇所を「芸術とその対象」では見つけられなかったので、これをウォルハイムに帰属するのはまずいかもしれない。要調査。いずれにしても若書きについては眉唾で読んでいただいたほうがトラブルが少ないし、インターネットなんぞよりも田邉健太郎さん(@tanaberou)の一連の論文を読んでいただいたほうが身になります。

*5:僕が修論で強調した、ケンダル・ウォルトンの立場とかなり似ている。というか、写真画像についてなにかを言おうとするときの、もっとも穏当かつ妥当な立場なのだが。

*6:翻訳があることを、『芸術とその対象』のバイオグラフィーではじめて知った。(藤枝晃雄訳、『現代の芸術 別巻 現代芸術の思想』 講談社、1972年所収)