美的なものと芸術的なもの

  • 1 美学は芸術の哲学なのか?
  • 2 芸術抜きの美学?
  • 3 美学抜きの芸術?
  • 4 ビアズリー、ディッキー、シブリー
  • 5 美的なものと芸術的なもの、その後
    • 参考文献

1 美学は芸術の哲学なのか?

博士論文(80,000 words)をあらかた仕上げて予備審査に出したので、ゴキゲンのブログ更新。

博論でも取り上げている話だが、私の専門である美学/芸術哲学への入門的な話題としてよさそうだったので、一部ネタを抜粋して再構成してみた。なにかというと、美学と芸術哲学の関係性についての話だ。*1

美学[aesthetics]は、なんの専門家でもない人にとっては「男の美学」「仕事の美学」とか言われるときの流儀やこだわりを指す日常語であり、もうちょっと詳しい人にとっては、芸術哲学[philosophy of art]の同義語だ。英語でも事情は同じらしく、aestheticsが専門だと言えば、artについてなんか研究している人だと思われがちらしい。

日本美学会の大会プログラムなんかを覗けば、美学というラベルのもとで個別の芸術作品や芸術家や芸術運動について研究している方がたくさん見つかるだろう。ややこしいことに、日本の「美学」は芸術哲学ですらなく、芸術学(science of artとかart studies)というディシプリンに近いのだが、なぜこんなことになっているのか私には分からないので、日本の事情は脇に置く。*2

とにかく、美的[aesthetic]というラベルは、芸術的[artistic]というラベルと、かなり密接なものとして理解されてきたし、理解されているわけだ。カジュアルには、芸術の持つなんか特別な価値のことを、美的価値と言ったりする人もいるだろう。あるいは、美しい風景の美しさを褒めるのに「芸術的だ」と言うことも多い。

しかし、専門家にとって美学とは、襟を正して「感性的認識の学」と紹介されるアレのことであり、18世紀に二十歳そこそこのバウムガルテンというドイツ人が創始し、カントが『判断力批判』で盛り上げた特定の学問分野を指す。おそらくあまりミスリーディングでない訳語としてaestheticsとは感性学であり、感性という特定の知覚・認知モードを主題とした学問のことである。標準的には、頭を使って考え結論することとは対照的に、ぱっと見たり聞いたりすることで即時的になにかを把握するという点から、感性的認識は特徴づけられる。「考えるな、感じろ」というわけだ。こういった性格から、現代ではベンス・ナナイ[Bence Nanay]源河亨さんのように、知覚の哲学と密接に結びつけて美学を論じる人たちもいる。

ややこしいことに、伝統的に美学者たちは、感性的認識のパラダイムケースとして美しいもの、とりわけ美しい芸術作品を熱心に取り上げてきたのだ。優美な絵画を見て、考えるよりも先にグッと来る経験こそがプロパーな美的経験だとされ、作品経験の外にある実生活まで忘れて没入してしまうのが美的態度であり、そういった経験を与える作品には美的価値=芸術的価値がある、などなど。このようにして①感性、②美、③芸術の三位一体からなる学問分野として、美学は発展してきた。*3

実際には、芸術作品以外にも、感性的認識の対象となりうるアイテムはいろいろある(e.g., 壮大な風景、きれいな人)のだが、なぜか芸術作品ばかりフォーカスされてきた。ヘーゲルは自然美より芸術美ほうがえらいと考えていたようだし、ウォルハイムやサヴィルに至ってはまず芸術への美的経験があって、それが派生することではじめて自然物への美的経験があるとされる。歴史的にいろいろと事情はあるようなのだが、正直あれこれ読んでも私にはそこを結びつける必然性がほとんど理解できていない。美的なもの(美的経験、美的態度、美的価値、美的性質などなど)の概念と、芸術の概念は、どちらも他方に依存しているようには思われない。

ということで、私は切り離し派だ。美学と芸術哲学は、もちろん無縁ではないのだが、どちらも他方を含意したり要請するものではない。美的なものの領域と芸術的なものの領域は、部分的にオーバーラップするだけなのだ。この見解は、博論のなかで擁護するつもりだが、本エントリーでは関連する議論の背景だけまとめておこう。

*1:タイトルはシブリーの「美的なものと非美的なもの」のパロディを意図していたが、調べてみたらDavid Bestなる人が1982年にその名も「The Aesthetic and the Artistic」という論文を書いていた。読んでみたいが、図書館の購読対象外なので手に入らない……。

*2:ちょっとだけこの話をすると、日本における「美学」は、経緯はともかくガラパゴス化していると言うべきだろう。まず、文学部という訳わからんdepartmentの下に哲学科がある時点で結構きびしいと思うのだが、たいていの場合、美学研究者は哲学科ではなく美術史や芸術学とセットの別の科に振り分けられている。美学がまずもって哲学であることが、そもそもほとんど認識されていないように思う。学振の区分でも、美学は哲学ではなく芸術学の下位にある。

それは別にいいとして、部分的に「美学」を冠した学科に入っても、プロパーな意味での(つまり、バウムガルテンやカントと同じタイプの仕事をしているという意味での)美学者がいるとは限らない。しばしば、構成員は美学研究者か、なんなら美術史研究者であり、JAACやBJAに載るようなタイプの論文を読み書きしているわけではない。例えば、現在の慶應美美には(ひとつ目のビに反して)専門に美学を掲げる教員が一人もいない。

ある意味では、「美学」のラベルで私の認識する美学の仕事とはかなり異なる仕事をしている人たちにこそ、本エントリーへの意見を伺ってみたいところだ。歴史に関しては、私なんかよりもはるかに詳しいはずなので。(『なぜ美』WSで美学会に登壇したときにこの話を振ってみてもよかったかもしれない。)

*3:私は美学の専門家ではないので、この辺りの話は手癖でざっと書いている。詳しくは『美学』『西洋美学史』『美学辞典』を読むべし。

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どの活動がなにゆえ「芸術」なのか?

芸術哲学の(根幹とまでは言わずとも、)代表的なトピックのひとつは芸術の定義である。芸術とはなにか。どこのどれがなにゆえ芸術作品であり、その他のアイテムはなぜ芸術作品ではないのか。

分析美学における芸術の定義史は教科書[1][2]やStanford Encyclopedia of Philosophyのエントリーを読んでいただければ結構なので、ここでは新しめの話を紹介する。*1

*1:ざっくり流れだけ紹介すると、芸術作品の本質はこれだ!いやあれだ!といった議論が一通りなされた後、「芸術の本質たる特徴はない」とする立場(ワイツ)によって50年代なかばには一旦議論が下火となる。その後、「作品の内的性質じゃなくて、人や歴史や制度との関係的性質に訴えればいいんじゃないか?」という考え(マンデルバウム)とともに制度説(ディッキー)や歴史説(レヴィンソン)が現れ、定義論リバイバルとなる(70年代〜80年代)。

〈芸術作品を芸術作品たらしめているのは社会的要因であり、芸術という身分は制度や歴史と絡んでいる〉という考えはあまりにももっともらしかったので、もうそれでいいじゃんという雰囲気になった。その後現在に至るまで、ブランニューなオルタナティブは現れていない。その後の数十年は、これら社会的アプローチの洗練、曖昧な点の払拭、似たような立場の間の小競り合いによって費やされた感がある。

芸術の定議論が安定したのは、コンセプチュアル・アート以降、存在論的にブランニューな芸術形式がそもそも現れていないことにも原因があるのだろう。ある意味でやはり芸術は終焉したので、定義論が終焉するのも当然だ。

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美しいものは喜びに適合している?:美的価値についての適合態度分析

美的価値とはなんぞやをめぐる、最新の研究です。*1

「美しい」「崇高である」「パワフルである」といった美的価値については、しばしばそれによって引き起こされる反応の観点から説明されてきた。すなわち、美しかったり優美だったりして美的に良いものとは、私たちに特別な快楽やら満足やら喜びを与えるものにほかならない。ここでは、ある特別な情動的反応をもたらす能力の観点から、美的価値を持つことが分析されている

いわゆる美的快楽主義はこの筆頭なわけだが、能力による価値の分析にはいろいろとしんどい点がある。とりわけ、どうやって価値の客観性を担保するのかが問題となる。ワーグナーの美しい楽曲は快楽を与えるとは言うが、クラシックに親しんでいない私にはあんなのちんぷんかんぷんなだけで、特別な快楽は感じられない。私だけでなく多くの人がそうなのだとしたら、なぜワーグナーの楽曲には美的価値があるなどと言えるのか。

快楽主義者はだいたいここで理想化をかまして、美的価値があるものとは、理想的な状況にある理想的主体に快楽などを与える能力があるもののことだ、というムーヴをとる。こうすれば、理想的主体に該当しない私がワーグナーを楽しめなくても、それによってワーグナーの価値が脅かされることはない。しかし、これはこれでさまざまな問題を巻き込むことになる。美的エリートたる「理想的主体」とはなんぞや、なぜそんなものを認めなければならないのか、なぜ私たち凡人はエリートを目標としなければならないのか。

近年、別のアプローチとして、倫理学における価値の適合態度分析[fitting attitude analysis](以下FA)を援用して、美的価値を説明する論者たちが現れてきた。その代表はGorodeisky (2021) "On Liking Aesthetic Value"だが、ゴロデイスキーはFAに加えて細々としたコミットメントをたくさんしているので、門外漢にはちょっとレベルの高い議論をしている。一方、つい最近のBJAに載ったKriegel (2023) "A Fitting-Attitude Approach to Aesthetic Value?"はかなり分かりやすくて、立場も中立的だし論文としても短い。以下ではこの2本を手がかりとして、適合態度から美的価値を分析するアプローチを紹介する。

  • 適合態度分析
  • 美的価値についての適合態度分析
  • 「適合している」とはどういうことか
  • 📌まとめ
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