芸術終焉論について調べているついでに、ジャン・ボードリヤール「芸術の陰謀」を読み返した。
「芸術の陰謀」は1996年にパリの日刊紙『リベラシオン』に掲載された短い論考であり、後期ボードリヤールの有名な論考のひとつだ。原書の編集者注記によれば、「世界中で数多くの言語に翻訳され」「当時フランスでは、相当激烈な反応を引き起こした」そう。まぁ、ボードリヤールの書き物はだいたい激烈な反応を引き起こしているのだが。*1
最大限ラフにまとめるなら、「現代アートって、根っからしょーもないのに、『そうそう、ウチらってしょーもないんすよ😉!w』などと開き直り、無知な観客を混乱させ、一周回ってしょうもなくなさそうに見せてるあたり、マジでしょうもない😤」という具合だ。たいへん面白おかしいのは、ここでdisられている同時代(80〜90年代)の現代アートには、ボードリヤールの諸理論に影響されたネオ・ジオやシミュレーショニズムが該当しており、理論的支柱からいきなり刺される、という体を成している点だ。*2
本稿は、「芸術の陰謀」がなにを根拠に/なにを主張しているのかを整理しつつ、この議論の射程をゆるく考える。
80〜90年代の米国アートシーン
ボードリヤールを苛立たせている、同時代の現代アートを概観しておこう。とりわけ念頭に置かれているのはアメリカのアートシーンだ。
Artsyのまとめが手っ取り早い。
以下、いくつかピックアップ。
Jeff Koons, New Hoover Convertibles, 1984.
新品未使用の掃除機
Richard Prince, Cowboys, 1989.
広告写真を撮影した写真
Peter Halley, Prison with Conduit, 1981.
SIMカード??
Jeff Koons, Michael Jackson and Bubbles, 1988.
サルを抱いたMJの置き物(金ピカ)
Damien Hirst, Mother and Child (Divided), 1993.
ぶった切られた牛の親子
そして、これらの物品に億単位の売り値が付けられると知ったら、ボードリヤールでなくとも「どうかしてる」と思うだろう。
一方で、これらの作品にはなんらかの秘められた真意があり、その価値が分からない自分は無教養なのだという後ろめたさもある。この鑑賞者の後ろめたさを利用したアート・ビジネスのインチキこそ、ボードリヤールの語る「芸術の陰謀」にほかならない。
「芸術の陰謀」レジュメ
「芸術の陰謀」は、現代社会におけるひとつの状況を記述するところからはじまる。
私たちはトランス・セックスの段階に移行した。セックスが記号と虚像の中で透きとおった存在となり、セックスの秘密やあらゆる曖昧さを消し去ってしまった(p.5)
ポルノは潜在的には、いたるところに存在しており、ポルノ的なものの本質は、視覚的でテレビ的なあらゆる技術の中に移行してしまったのだ。(p.6)
ポルノが「いたるところに氾濫」したせいで、「欲望への幻想」が失われる。これはポルノグラフィやポルノグラフィに準ずる性的イメージが、公然かつ広範囲に渡って流通している状況を指している。CMなどの商業広告は言うまでもなく、生活のあらゆる場所にポルノ的なものが介在しているという事実は、よく燃えた一連の案件を確認すれば明らかであろう。
さて、ポルノの氾濫はわれわれ消費者の欲望を無際限に刺激しつづけるのだろうか。ボードリヤールは否定的な解答を与える。過剰さがもたらすのは一種の飽和状態であり、そこでは欲望が(少なくとも、それがかつて担っていた意味合いにおいて)失われる。あとに残るのは、表面的なシミュレーションに基づくハイパーリアル(超現実)である。
- セックスの「秘密」や「曖昧さ」が徹底的な可視化によって消し去られ、それによって駆動していた「欲望」が失われる、というあらすじは、かなり断定的な仕方で語られており、なんらかの仕方で実証可能なものではない。それは、価値判断におけるシフトなのか心理学的なシフトなのかも、よく分からない。いずれにしても、ここでボードリヤールが述べていることは、社会学的な問題提起として理解するのが最善だと思われる。*3
- 『透きとおった悪』(1990)では、政治におけるトランス・ポリティクス(超政治)も話題に挙がっている。一連の議論において通底しているのは、公的私的を問わず、生活のあらゆる領域がある種の飽和を迎え、空虚化しているという見込みだ。ボードリヤールは、80年代以前から同様の見解を示しており、より知られている概念としては「シミュラークル」がある(『象徴交換と死』(1976)、『シミュラークルとシミュレーション』(1981))。かつて、実在的なオリジナルと結びついていたコピーが、その対応関係から解放され、互いの差異に基づいて循環し、やがてオリジナルを塗り替える。このような性格を持った事物をボードリヤールはシミュラークルと呼び、その典型例としてディズニーランドを挙げている。ディズニーランドは、もはや現実のアメリカの写しではなく、どこにも実在しない、記号の継ぎ接ぎというわけだ。*4
さて、ボードリヤールはこのような全面的トランス化/ハイパーリアル化の果てにおいて、現代アートを問いただす。
あらかじめハイパーリアルになった、クールで透明でコマーシャル・メディア的な世界で、芸術はいったい何を意味することができるだろうか?(p.9)
ボードリヤールの答えはこうだ。
それ(現代アートの実践)は「私は無価値・無内容(ニュル)だ!無価値・無内容だ!」と叫んで、無価値・無内容を気取ることにすぎないが、じつは、ほんとうに無価値・無内容なのだ。(p.11)
辛辣である。曰く、近代芸術はバタイユ的な「呪われた部分」となることで意味を持っていたのに対し、現代アートはいまや「価値やイデオロギーとしてはとるにたらない、凡庸で、ゴミのような現実を横取り(p.10)」しているだけだ。「現実の横取り」というのは、前述のシミュラークルが持つ、現実を塗り替える作用を踏まえている。
現代アートの実践は「ものごとの現状との妥協、それと同時に、過去の美術史のあらゆる形態との妥協というゲームにすぎない(p.11)」という一節に、椹木野衣の『シミュレーショニズム』を思い出さずにはいられない。ネオ表現主義やネオ・ポップと呼ばれる一連のトレンドや、アプロプリエーションといった手法は、既存の様式や作品を愚直なまでになぞり、一種の逆張りを演じて見せたわけだ。上に挙げたような作品たちは、このような世紀末の戯れを存分に堪能しているようだが、ボードリヤールにはそれが気に入らないらしい。
それは、凡庸で無価値なことがオリジナリティだという価値観と、倒錯的な美的快楽の享受の告白なのだ。(p.11)
では、現代アートが無価値どころか、天文学的な金額でやりとりされている事実についてはどう理解すればいいのか。ボードリヤールは、これを「インサイダー取引」と呼んで揶揄する。「現代アートが無価値・無内容であるはずはないので、そこには何かが隠されているにちがいない(p.15)」という人びとの思い込みを利用し、現代アートを理解できないことへの「後ろめたさ」に付け入ることで、「存在理由をでっちあげ〔る〕(p.14)」のだ、と。
ただし、ボードリヤールはアンディ・ウォーホルをかなり肯定的に評価している。
アンディ・ウォーホルは、イメージの中心部に虚無を再導入したという意味で無内容なのであり、彼は無内容と無意味をひとつの出来事にして、その出来事をイメージの宿命的な戦略に変貌させたのだった。(p.13)
Andy Warhol, Mao, 1972-74.
- ここで前提となっている芸術観、すなわち、芸術にとって根源的な出来事とは「記号をつうじて無が姿を見せ、記号のシステムの中心に虚無が出現すること(p.12)」だという見解が、正確に言ってどういう立場なのかいまいち判然としない。(1)シミュラークルではない、モノホンの芸術であるための必要条件・十分条件なのか、(2)仮にそうだとして、「無が姿を見せ」「記号のシステムの中心に虚無が出現する」というのはどういう事態なのか(どうも、否定神学的な図式しか想像できない)。また、(3)ウォーホルの作品がこれを正しく実現しており、後続するシミュレーショニズムはしょうもない二番煎じであるという判断の根拠はなにか。*5
- ウォーホルの登場とともに、芸術はひとつの終焉を迎えた、というのがボードリヤール流の芸術史だ。しかし、それは芸術が文字通りの意味で終わったことを意味するのではない。「芸術は、死なない。もはや存在しないのだから。芸術は、死にはしない。ありすぎて困るほどなのだから。(p.50)」。ここには、Artの終焉とartの永続という、きわめてポストモダンな現代アート観が示されていると言えよう。このような「芸術の終焉」論は、ほぼ同時代におけるアーサー・C・ダントーの議論とも響き合う*6。
- ダントーもまた、ポップアートを終着駅として芸術の終焉を語った哲学者であったが、彼とボードリヤールの目立った相違点は、終焉以後の「多元主義」を肯定的に評価している点にある。「あなたが何をしようともそれは問題ではない」という原則は、ダントーにとっては(こういってよければ)民主的なものであり、ボードリヤールにとっては悪趣味なものだった、ということだろうか。状況の記述はかなり似通っているにもかかわらず、それに対する評価が真逆なのはなぜだろう。この辺は、ダントーも読んでから考えたい。
「芸術の陰謀」にどう反論するか
ボードリヤールによる論述は、そこまで込み入っていない。以下にその要点をまとめよう。
- 現代社会は、価値の飽和したハイパーリアルである。
- ハイパーリアルにおける現代アートは、内在的な美的価値を持たない。
- ハイパーリアルにおける現代アートは、無価値・無内容であることを公言することで、その存在理由をでっち上げる。
- 存在理由をでっち上げる類のアートは、わるい。
結論における現代アートのわるさは、単に「無価値・無内容」であるがゆえのわるさではなく、それ以上の倫理的・美的わるさであろう。「無価値・無内容」であること自体がわるいことではないという見解は、二番煎じではない仕方で「無価値・無内容」を徹底したウォーホルへの賛美にうかがえる。
ただし、ボードリヤールは前提においてすでに倫理的価値・美的価値の飽和を主張しているため、当のわるさへの糾弾がなにゆえ可能なのか、という問題もある。少なくともこの矛盾に注目すればボードリヤールの批判は空転しており、感情的に揶揄しているだけではないかという印象を与える。ジェフ・クーンズのような、キッチュであることを隠そうともしないビジネス・アーティストらに対し、「芸術の陰謀」は実質的な批判にはならない。彼らは公然とインサイダー取引をしており、それを公認する体制が現に整っているからだ。彼らは、(1)(2)(3)を認めた上での(4)を否定することができる。すなわち、「存在理由をでっち上げて、なにがわるい!」。
また、より素朴な仕方での反論も予想される。ボードリヤールは、現代がすでに価値の飽和したハイパーリアルだと語るが、そのようなディストピアを前提とするのは論点先取ではないか。そもそも美的価値は飽和しておらず、いまだ誰も見たことのない新しさがあり、芸術は日々進歩し続けているのだ、と。より穏健なものとしては、ボードリヤールが「芸術の陰謀」を書いた当時はそうだったかもしれないが、21世紀の現代アートは新たな価値への追求を再開したのだ、という反論も考えられる。いずれの場合、反論者は(1)を否定することで素朴な/伝統的な芸術観を維持する。ボードリヤールの揶揄は、端的に無視されるわけだ。
個人的に、反論するとしたらひとつ目の「開き直る」ルートのほうが適切だと思う。とはいえ、僕自身は”実作者”ではないので、現代アートに関しては直接的な利害関係を持たない。もし自分が作り手で、外野からこんなこと言われたらふつうにやだなとは想像する。*7
余談。なんだかずいぶん久々に(20世紀以降の)現代アートについて考えた。分析美学全体の傾向と言うのははばかられるが、少なくともdepiction関連で例示されがちなのはブリューゲルやルーベンスやフェルメールの無難な具象画であり、ダリやポロックやシンディ・シャーマンを積極的に使いたがる論者は少ない*8。もちろん、理論の一般化を志向する上で無難な事例を選ぶのは理にかなっているが、権威主義すぎるのも問題だろう。その辺の塩梅について、ほかの美学者がどうされているのかは気になるところ。
*1:傍目に見てもそれはひどいだろうという書評と、書評への批判は以下を参照。
*2:これは今回はじめて知ったことだが、アメリカの美術界においてボードリヤールを紹介したのは、1983年に出版された『Simulations』という小冊子らしい。『象徴交換と死』および『シミュラークルとシミュレーション』から、おいしいところをつまんできた160ページぐらいの冊子らしく、ことによると表面的な受容の一因になったのではないかと想像する。
*3:ジュディス・バトラーが「(先天的・生物学的だとされている)セックスは、(後天的・社会的だとされている)ジェンダーから構築される」みたいなテーゼを掲げるとき、その実証可能性が問題となることは少なくない。僕は、ここに見られる「社会学のわびしさ」論争にたいへん興味がある。言うまでもなく、「ボードリヤールやバトラーの著作は実証不可能なので無価値・無意義だ」と言いたいないわけではぜんぜんまったくこれっぽっちもないし、「実証可能性という概念自体が胡散臭いのでは?」という議論にも興味がある。(こういうのは逐一述べておいたほうがいい、というのに最近気づいた)
*4:「記号」というややこしい概念について補足。ポストモダニズムやいわゆる消費社会論において「記号」と言われるとき、多かれ少なかれ、このようなシミュラークル的ニュアンスが含まれていると考えるべきだろう。このような用法は、「なにかを指し示したり、提示したり、表象するもの」という素朴な意味での記号signからは大きく逸脱している。こういう用法、よしゃあいいのにと思うのだが、すでに手遅れであろう。ex.「服は記号である」「東京オリンピックはただの記号だ」
*5:論考発表後のインタビュー(邦訳『芸術の陰謀』収録)でも、これらの明示を促されている場面があるが、いずれもさらに抽象的な言葉で煙に巻いていて、これはあんまりだと思う。
*6:小田部さんの論文と書籍を参照。
*7:「美学をやっているのだから利害関係はあるだろう」と言われそうだが、美学をやることと芸術になんらかの価値を認めることはまったく独立しているので、誤解である。マインドとしては「芸術最高!大好き!」より「芸術ってなんなん?実はしょうもないんじゃね?」寄りだし、美学は多かれ少なかれ後者のマインドで駆動しているんじゃないかとすら思う。
*8:観測範囲内での話。ドミニク・ロペス『Four Arts of Photography』みたいに前衛的な芸術写真も扱った本もあるし、長期的には議論が整備されていくと思う。
コンセプチュアル・アートの美学については、村山さんのサーベイも面白い。